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2025年4月の4件の記事

2025年4月27日 (日)

らもん…27歳の青年が、ふと自費でつくった作品集の、直木賞とのつながり。

 人は誰しも若いころには、文章を書いたり絵を描いたりして自分で本をつくったことがあるものです。

 勝手なこと言うな、そんな経験おれにはないぞ、という方もいるでしょう。ないならないで、それは平和なことですが、ハナシが続かなくなるので、多くの人はそういうことをやっている、として許してもらいたいと思います。

 まあ相変わらず、だんだん直木賞とは関係のない領域に入ってきましたけど、今週取り上げる例も、ほとんど直木賞とは接点がありません。第106回(平成3年/1991年・下半期)、いまから30年以上前に『人体模型の夜』ではじめて直木賞の候補に挙げられると、第109回『ガダラの豚』、第112回『永遠も半ばを過ぎて』がちょうど1年半ごとに予選を通過。しかし直木賞はいつだって時の運で、受賞させることはかなわなかったものの、それでもメディアで大人気の書き手だったので、数多くの仕事と伝説を残し、「直木賞があげることのできなかった人気作家」の一角を占めるに至り、没後なお人々の心をひきつけている……というのが今週の主役です。

 本名は本名で〈裕之〉(ゆうし)という名前を持ちながら、一般的には、かなり印象的なペンネームのほうで知られています。知られていますというか、ワタクシだって、そのペンネームでのお仕事しか知りません。

 で、ものの本によれば、平仮名二文字の、そのペンネームの名前のほうは、もともとは最後に〈ん〉の文字が付いていたそうです。元に別のペンネームがあった、ということでは、「別の名前で活動した人」リストに加えてもいいんじゃないかと思い、取り上げてみることにしました。

 昭和50年/1975年、大阪芸術大学に通っていたときに学生結婚、翌年、働き手でもあった妻が妊娠して、大学を卒業した〈裕之〉さんは印刷会社の「大津屋」で働きはじめます。そこで働いたのは昭和55年/1980年までだったようなので、都合4年ほどに過ぎませんが、そこからコピーライター養成講座に通って広告の世界に目標を向けると、昭和56年/1981年に広告代理店の「日広エージェンシー」に入社、昭和57年/1982年には『宝島』誌に掲載のかねてつ食品の広告ページを担当するようになって「啓蒙かまぼこ新聞」なる誌面を展開。このときペンネームを、本名の苗字と、〈らもん〉から〈ん〉をとったものを組み合わせて使い始めた、ということでそこから数々の伝説が生まれていきます。

 ということで、〈裕之〉さんが〈らもん〉という名前を使ったのは、期間にして2、3年ほどだったみたいです。この名前の由来は、無声映画時代の剣戟スタア〈羅門光三郎〉からとったと言われていますが、よほど本人がこの役者に思い入れがあったのか、あるいは単なる思いつきだったのか。おそらく後者だと思いますけど、その辺はよくわかりません。

 何といっても羅門光三郎といえば、直木三十五さんの代表作『南国太平記』が映画化されたときに、主役の一人に立てられ、大ヒットを飛ばした人物です。当時の大衆文芸は映画という大衆娯楽のおかげでさらに活字文化として勢いを増した、という面は否定できません。そう考えると羅門さんは直木さんにとっても縁があるどころか恩人には違いなく、そこから名前を拝借するとは、なかなかの慧眼だと言えなくもありません。まあ、〈裕之〉さんがそんなことまで意識していたとは思えませんけど。

 〈らもん〉名義でどんな活動をしていたのか。おそらく唯一といっていい発表物が、昭和54年/1979年に自費出版の態で100部ほどつくられた『全ての聖夜の鎖』です。平成26年/2014年7月に復刊ドットコムから新装版として復刊されたおかげで、ワタクシみたいな一般人でも手軽に(?)手にすることができるようになりました。ありがとう、復刊ドットコム。

 中身を読んでみると、三つの短編(掌編)が収められています。いずれも詩的で、幻想的で、それでいて現実の世界が基盤になっていて、どこかの同人雑誌とかではよく載っているような、あるいは文学フリマとかに行けばいまでも売っている人がいそうな、イタイタしさと才能をまぜこぜにしたような作品集です。のちのこの作家の業績を見る上では、間違いなく必読の処女作と言っていいでしょう。

 この〈らもん〉による『全ての聖夜の鎖』は、いまから見ると奇跡的な出版物です。別に自分でもの書きになろうとも何とも思っていなかった神戸の27歳の青年が、ぱっと思いついて書き上げた作品を、自分で印刷物に仕立てようと思ったところも、奇跡といえば奇跡ですし、平成26年/2014年、没後10年して復刊ドットコムが本にしても奇跡。そして、平成12年/2000年に、作者がまだ存命中に、文藝春秋から復刻版を出したのもまた、裏の事情がよくわかりませんが、奇跡だったと言っておきたいと思います。

 このときのあとがきである「二十年たって」から引いておきます。

「その頃おれは印刷屋の営業マンをして、先ゆき自分が文筆でメシをということは考えもしなかった。

野心がない。

その分、ピュアな一冊だといえる。」(平成12年/2000年12月・文藝春秋刊『全ての聖夜の鎖』「二十年たって」より)

 いいですね、ピュア。文学賞をとったとか落ちたとか、そんな世俗的な汚らしさがなくて、すがすがしいです。

 〈らもん〉さんが最後に直木賞の候補になったのが平成6年/1994年・下半期ですから、それから約6年。直木賞とはついに離れた頃のときが経って、直木賞の勧進元・文藝春秋から、直木三十五と縁のふかい羅門光三郎にあやかったペンネームの〈らもん〉名義で、ピュアな処女作が復刊される。一般的には、まあたまたまの偶然だよね、といった感じでしょうけど、直木賞を中心にしてみれば、奇跡的な出来事でした。

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2025年4月20日 (日)

幸田みや子…文章を書いてお金を稼ぐことを選んだ女性たちの、ささやかで希望に満ちた共同名義。

 出版業界に生きている人は、だいたいいくつかの名前を持っています。

 いや、出版業界に限ったことじゃありません。他の世界でも、屋号やら、雅号やら、ペンネームやら、場面や状況に合わせて一人でいくつもの名前を使い分けている人は、たくさんいます。直木賞に関わった人たちも、もちろんそうです。どんな名前で活躍していたのか。こういうものを調べ出すとキリがないんですけど、毎週毎週、直木賞のことに触れていたい人間にとっては、キリがないのは幸せなことです。何といっても時間がつぶせます。

 それはそれとして、直木賞の候補になったり受賞したりする人は、小説だけ書いている人もいますが、そうじゃない人もけっこうまじっています。今週取り上げようと思う人もまたその例にもれず、作家として著名なだけじゃなく、エッセイストとして、あるいはドラマの脚本家として、とにかく仰ぎ見るほどの有名人です。亡くなって40年以上も経ちますが、いまだに関連書籍がたくさん出ています。

 そういう本をチラチラと覗いてみると、この方もまた、本名で売れる前に、いくつか別の名前で活動していたんだ、ということが書かれていました。

 昭和4年/1929年、一家の長女として生まれ、子供のころは父親の仕事の関係で日本各地を転々とします。戦後、昭和25年/1950年に実践女子専門学校を卒業、本人はまだまだ学び足りずに大学に行って学びたがったようですが、親から反対されて、財政文化社に入社したものの、うーん、わたしのやりたい仕事はこれじゃない、と思い悩んだ末に、すっぱり転職して昭和27年/1952年に出版社の雄鶏社に入社します。

 うんうん、これこれ、文章を書いて表現したり、ものをつくったりするのがわたしの水には合っているのよ、と言わんばかりに仕事に張り合いが出て、編集者として働きますが、やがて自分でも組織のなかで働くのではなく、自由な身分でものを書いてみたいと思うようになり、昭和32年/1957年、28歳ぐらいのときに内職で他の会社の雑誌記事なども手がけるようになります。

 本職がありながら、また別のところで仕事もする。……といったところで登場するのが別の名前です。よその仕事を本名でやるわけにはいかない、というところから彼女が考えたのが〈幸田邦子〉という名前だった、ということです。

 〈幸田〉というと、すでに明治以来から有名な作家がいて、またその娘も随筆家として活躍中でした。珍名というわけではありませんが、そう大量にいる苗字でもないからか、〈幸田邦子〉と名乗って名刺を渡すと、幸田文さんのお嬢さんですね、と言われてこともあったと「モンロー・安保・スーダラ節」(『女の人差し指』所収、初出『人間・平凡出版35年史』昭和55年/1980年10月刊)に書いてあります。

 この名前で1年半ほど、『週刊平凡』のアンカー・ライターの仕事をしたそうで、年譜でいうとだいたい昭和35年/1960年ごろのことでしょう。会社勤めでありながら、ライターとして別に収入を持ち、そういったアルバイト代を家族のために使ったりしていたことが、妹・和子さんの回想録にも出てきます。頼りがいのある姉さんです。

 それが昭和36年/1961年に『新婦人』で「映画と生活」というコラムを書く段階では本名を使うようになるんですが、これはおそらく前年に雄鶏社を退社したことが理由なんでしょう。もはや別名を名乗る必要もなく、女一匹、堂々と本名をさらして書いていくぞ、という決意の現われ……と言っていいのかどうなのか、単に本名で書くほうが自然だと思っただけかもしれません。短い〈幸田邦子〉時代はこうして終わりを迎えました。

 そしてもう一つ、その時期に彼女が名乗った(?)別名といって挙げておきたいのが〈幸田みや子〉です。同じ女性ライター仲間と共同で原稿を書くときに使ったもの、だということです。

 その女性ライター仲間、福島英子さん(のち加藤英子)が振り返っています。

「私も向田さんも、そのころは本業は雑誌の編集者で、同時にフリーのライターでもある二足のワラジ組だった。ひと足先にライターになっていた宮坂幸子さん(現・甘糟幸子さん)の紹介で、三人で西銀座デパートの地下にある有料待合室「ブリッジ」で顔を合わせたことだけは確かだが、何を話したのか全く覚えていない。

(引用者中略)

宮坂さんと私は、「ガリーナ・クラブ」という名のグループをつくっていた。あとから向田さんも迎え入れて、三人になった。命名は露文出の宮坂さん。めんどり三羽で、おおいに金の卵を産むつもりだったが、やがて私と宮坂さんはこども(引用者注:こどもに傍点)を産んで、金の卵は向田さんだけのものになった。」(平成11年/1999年8月・文藝春秋/文春文庫『桃から生まれた桃太郎』所収、加藤英子「解説 私が触れた向田さん」より)

 おそらく当時のことは、福島=加藤さんだけじゃなく甘糟さんも回想の原稿を書いていると思います。出版業界に多少なりともおカネや未来があった1960年代。フリーの女性3人がどのように夢をもち、どのように壁にぶつかり、乗り越えていったのか。と、そういうふうに想像するだけで胸が熱くなるところです。

 そもそも三人が仕事のうえで協力して、〈幸田みや子〉という名前を生み出したことが胸アツの青春です。果たして三人で書いたのか、あるいは〈幸田〉さん+宮坂=〈みや〉子さんの二人で書いたのか。このあたり、共同執筆の分担をあとから分析するのは難しいですが、金の卵というか、直木賞の卵が、そんなところにもひそんでいたんだと考えると、読み捨てられる運命にあった雑誌に載っている一本一本のナニゲない記事が、愛おしくなってきます。

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2025年4月13日 (日)

奥村五十嵐…ペンネームを使って小説を書いたりして、少し背のびしすぎじゃないか、と言われる。

 直木賞の候補作家のことを調べていると、たびたび見かける周辺人物、みたいな人がいます。村島健一さんとか。山田静郎さんとか。あるいは今週取り上げる〈奥村五十嵐〉さんなんかもその一人です。

 まず何といっても名前が個性的です。

 オクムラはいいとして、イガラシなる名前。親か親戚か、いったい誰が名づけたのか。どんな由来があって付けられたのか。〈奥村〉さん自身、生前たくさんの原稿を書きましたので、どこかで自分の名前についても書いている気はします。ただ、こちらが不勉強のせいで、いまもまだそういった文章には出会っていません。

 それはともかく〈奥村〉さんです。かなりの苦労人だったと言われています。

 明治33年/1900年、熊本県玉名郡天水町に生まれ、熊本高等工業に進んだものの、学問らしい学問を修めたというよりは、早くに手に職をつけなきゃいけない境遇だったんでしょう、若い頃には紡績工、あるいは機械技術員として汗水垂らしながら暮らしました。勤務先としては八幡製鉄にいた、と『大衆文学大系29 短篇上』(昭和48年/1973年・講談社刊)の略歴には書かれています。

 それから大阪に移り、泥水をすする労働生活を送るうちに、こんなんじゃ駄目だと人生大きく舵を切ろうとしたか、上京したのが大正7年/1918年のこと。すでに齢18歳を迎えていた頃合いです。〈奥村〉さんが目指した人生の道とは何だったか。文学に携わることでした。

 大正後期、詩誌『未踏路』の同人として活動していたことは、のちに有名になる北川冬彦さんがこの雑誌にいたことで、何とか動向として残っています。他にも同人雑誌にはいくつか参加していたっぽいんですが、全貌は明らかになっていません。もはや〈奥村〉さんに興味を持つ人が現れる気配もありませんので、おそらくこのまま埋もれていくんだと思います。

 〈奥村〉さんの名前が文学(の裏面)史にちょくちょく出てくるのは、もう一つ、職場が新潮社だったことが大きいです。何のツテか上京した〈奥村〉青年は新潮社に入社すると、佐左木俊郎さんなどといっしょに雑誌編集に勤しみます。『文学時代』とか『日の出』とかの編集部で働いたこともあり、後輩社員だった和田芳恵さんが、これもまたあとになって著名な書き手になったおかげで、先輩・奥村五十嵐の編集部での行状の一端が後世に残されることになります。

 当時流行作家だった三上於莵吉さんに原稿をもらうことになったんですが、まあ三上さんといえば、家にいることが少なくて待合を転々とする放蕩児です。しかも機嫌が一定しておらず、正直扱いづらい作家だったそうで、原稿をとりにくる来る編集者には酒を飲ませ、少しでも気に入らないことがあると、せっかく書いた原稿を編集者に渡さず破いちゃったとか何だとか。

 さすがに〈奥村〉さんもなかなか原稿ができない三上さんの日常に我慢ができず、何かの拍子で三上さんの胸ぐらをつかんで一触即発の場面を引き起こします。こういうときに分が悪いのは、どうしたって編集者のほうなのは、文壇ゲンカのあるあるです。〈奥村〉さんは会社にいづらくなり、和田さんによればそれがきっかけで新潮社を去ることになったと言われています。昭和10年/1935年ごろ、ちょうど直木賞が始まるかどうかという時代のことでした。

 〈奥村〉さんはそれからはフリーになって、いわゆる一介のライターとして身すぎ世すぎを送ることになるんですけど、在社中から創作、評論、批評などけっこう原稿を売っていたみたいです。自身で書く小説も、徐々に大衆向けのほうにシフトしていきますが、生活のため、と考えればその方向性も他人が否定するべきものじゃありません。

 となれば、ツルむ仲間もやはり大衆文壇に近いほうに固まっていきます。昭和14年/1939年、海音寺潮五郎さんたちが創刊した大衆文芸方面の同人雑誌『文学建設』という一誌があって、前にもうちのブログで触れた気がしますが、〈奥村〉さんもその中心人物の一人として参加。大衆小説の作家としての道を歩み出しました。ときに39歳。いい年齢です。

 新しくペンネームもつけました。そちらの名前で戦中にはバリバリと小説、読み物を発表し、中の一作『日の出島』(昭和17年/1942年7月・春陽堂書店/海洋小説叢書)という時代モノの長編が、第16回(昭和17年/1942年・下半期)直木賞のときに、予選担当の小島政二郎さんの目に触れて、作品名だけ選評のなかで言及されています。これを「直木賞候補作」と呼ぶのは、さすがに無理があるので、うちのサイトでは「推薦候補」とかテキトーな名称をつけましたが、〈奥村〉さんが作家として直木賞と交錯したのはこの一回きりです。

 直木賞はとりあえず措いておきましょう。名前の件です。ペンネームのことです。

 どうして〈奥村五十嵐〉を捨てて違う名前にしたのか。理由は定かではありません。ただ、のちに交流のあった森本忠さんが、こんな回想を残しています。

「私は奥村五十嵐を想ひ出す。彼は炭坑の町荒尾の貧しい家に生れて、学校も小学校位しか出てなかったが、講談社お抱への大衆作家になった時、何と納言恭平といふ勿体ぶったペンネームを名乗ったものだ。

大分久しい以前のことだが或る正月、永福町の福田清人君の新居で、皆と酒を飲んで歌ったり議論したりしてゐた時、何かの拍子に僕はちょっと奥村に、

「君はすこし背のびしすぎやしないか。人間はありのままの自分をさらけ出しとればいいので、何も爪先立って自分を自分以上に見せかける必要はない」

といふ意味のことをいったのがいけなかったらしく彼は急に怒り出して

「森本ッ! 表へ出ろ」といきり立ち、皆がなだめるのに大騒ぎしたことがあった。あとで伊藤整が

「君が独逸語の歌なんか歌ったのもいけなかったな。外国語を知らぬことで彼はひどくひけめを感じてるんだよ」

といったことがあった。(引用者中略)戦後亡くなって、或る雑誌に田村泰次郎が小説に書いてゐたが、奥村の性格の中にあるコンプレックスを見事に描き出している。」(昭和43年/1968年・日本談義社『僕の詩と真実』より)

 田村さんが書いたという小説の中の〈奥村〉像は、ワタクシ自身は未読です。

 ただ、森本さんが〈奥村〉さんに学歴や生い立ちに対するコンプレックスがあった、と見ているのが面白いです。九州でろくに学校も通わず、それでも何とか生活を築き、同時に文学のほうにも野心を抱いて、がんばってきたんですもの。コンプレックスもあったでしょう。

 そうか、別の名前はコンプレックスから生まれることもあるのか。……〈奥村〉さん自身が、ほんとうに背伸びして本名で書くのをやめたのか、最初に書いたとおり詳細は不明ですが、それでもまあ、何らかの思いで付けられたペンネームが、直木賞の選評のなかに一回でも刻まれて、直木賞ファンとしてうれしく思います。

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2025年4月 6日 (日)

木村外吉…小説を書いて評価された直後に、脳出血で人事不省に陥る。

 今週は本屋大賞ウイークです。

 とはいえ、本屋大賞メインでブログを書けるほど、ワタクシも深く知っているわけじゃありません。それはそれ、これはこれと割り切って、今週も、この時期になるとほとんど話題にあがらない直木賞のハナシで押し切ろうと思います。

 今回取り上げるのは〈木村外吉〉さんです。誰でしょうか。本名です。有名なのか無名なのか、そんなことは知ったこっちゃありませんが、第44回(昭和35年/1960年・下半期)といいますからいまから半世紀以上も前に、一回こっきり直木賞の候補に挙がりました。

 そのときはペンネームを使って小説を書いていました。うちのブログもこれまで長くやってきましたが、あまり〈木村〉さんのことに触れたことはありません。古い人について書こうとすると、不勉強モノにはハードルが高く、何を書くにしてもわからないことだらけです。〈木村〉さんについても、その作家的な履歴はまだまだ研究の余地が残っています。

 とか何とか言い訳しながら、ざっと生涯をなぞってみます。生まれは大正2年/1913年4月20日。石川県金沢市の出身です。富山師範学校に通って卒業したのが昭和9年/1934年のこと。富山県で教員の職に従事します。

 何に対してどういう興味を持ちながら20代の日々を送っていたのか。それはもう、詳しいことは不明なんですが、昭和14年/1939年に発表された朝日新聞社主催、大蔵省後援の国民貯蓄奨励脚本募集という、劇化・映像化を前提とした懸賞に、西礪波郡醍醐村尋常小学校に勤めるかたわら応募してみたところ、見事に入選を勝ち取ります。「恩愛遮断機」という作品で、じっさい映画化もされたみたいです。

 日本の戦時下、富山の土地の学校の先生としてどんなふうに日々を送っていたのか、それもまた詳細はわかりません。ともかく日本はドカンと攻め込み、ドカンとやられ、昭和20年/1945年8月には降伏を受諾。〈木村外吉〉32歳、まだまだ人生はこれからだ、と空を仰いだか涙に暮れたか、その年の9月にはさっぱりと教職の道を捨て、まるで違う種類の職場に転職を果たします。北日本新聞社という地方新聞社でした。すでに愛妻〈かの〉さんと二人の女児を抱える身の上で、生活のためもあったかもしれません。わかりません。

 ともかく新聞記者となってあわただしい戦後の日本を生き抜くうちに、さらに二人の子供が生まれ、一家六人、愛する家族たちを養うために、お父さんは働きます。北日本新聞のなかでも順調に出世して、西礪波支局長に就任。

 その間、かつて脚本募集で入選してから文学に対する情熱もからだのなかに充満させ、小説なんてものを書いているうちに、当時、大衆読み物の懸賞ではまあまあ知名度もあった講談倶楽部賞に応募を重ねると、昭和31年/1956年「遠火の馬子唄」が入選作に選ばれます。同時に受賞した〈福田定一〉さんは奇しくも関西の産経新聞で働く同業者で、新聞記者が小説を書くのも珍しくないこの時代を象徴するかのような受賞風景でした。

 人生の歯車がうまく回りはじめた。と思われたちょうどその直後、〈木村〉さんの身に想定外の不運が襲います。ある冬の日、突然、脳出血に見舞われて入院さわぎ。その影響でいっとき、生死をさまよい、言葉も出ず、ものもわからず、休職しなければならなくなったのです。

 のちに書かれた〈木村〉さんの経歴紹介文にこうあります。

(引用者注:昭和)三十六年一月、同人雑誌「小説会議」に発表した「妖盗蟇」が第四十四回直木賞候補に指名された。各紙記者が予定稿出稿のためインタビューを申し入れてくるほどの有力候補であったが、ギリギリのところで選にもれた。これを機に闘志をかきたて創作に専念した。二年後に小説集「天平のむらさき」を東方社から出版し、高い評価を受けた。東京へ出て本格的に作家活動を展開しようともくろんだ矢先、過労から脳卒中で倒れた。以後、創作活動にブレーキがかかった。」(昭和59年/1984年10月・北日本新聞社刊『富山県民とともに 北日本新聞百年史』より)

 第44回直木賞は寺内大吉さんと黒岩重吾さんが受賞した回ですが、たしかに〈木村〉さんの候補作を源氏鶏太さんは推奨したものの、有力候補だったという形跡はなく、また当落ギリギリだったかどうかも眉ツバです。

 と、それはそれとして、気にかかるのは出来事を並べる順番です。この紹介文だと、いかにも脳卒中で倒れたのは、直木賞候補になったり『天平のむらさき』(昭和39年/1964年1月・東方社刊)を出したりしたあと、と読めますが、〈木村〉さんが本名で出した『ノイローゼを脱け出て』(昭和53年/1978年6月・柏樹社刊)の記述などをたどっていくと、どうやら〈木村〉さんが倒れたのは昭和32年/1957年冬。つまりは直木賞の候補になる前のことだったはずです。

 どうしてこんなことになったのか。〈木村〉さんの小説がその後、全国的に注目される機会がなかったことを、病気で倒れたせいにしたかったのか、書いた人の感情はわかりません。

 むしろ、講談倶楽部賞をとってさあこれからだ、というときに病に倒れ、強いノイローゼにかかり、不安や自己憐憫などから一時は自殺も考えたほどだったのに、そこから再起して小説に戻った結果、直木賞の候補に挙がるまでになった……としたほうが、ぐっと感動する人も多そうな気がします。少なくとも、〈木村〉さんが直木賞候補になった前後のことを調べていて、ワタクシ自身は、ぐっと来ました。よくぞ人生あきらめずに立ち直ったなと。

 直木賞をとる、とらない以前に、やっぱ人間は生きていてこそのものです。

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