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2025年3月の5件の記事

2025年3月30日 (日)

大岡鉄太郎…本名で書くわけにはいかない、という業界内の慣例か、別の名前でも仕事する。

 どうして人は、自分に別の名前をつけたがるのか。

 ……つけたがる、というと語弊がありますけど、名前なんて一つあればいいところ、二つも三つも別の名前をもつ人がいます。直木賞の界隈にもたくさんいます。

 昭和63年/1988年上半期、第99回のときに直木賞を受賞したこの人も、受賞したときの作家名は本名で、一般的にもその名前でよく知られている人ですが、他にいくつかの名前を使ったと言われています。

 いやまあ、言われていますというか、この人が活躍していた頃の同時代を生きた人は、まだまだこの世にどっさりいます。そういう人たちの思い出や記憶のなかに、彼の姿はくっきり刻まれていることでしょう。うちのブログが知ったかぶって書き記すほどのことではないんですが、昭和終わりの直木賞の歴史を彩ってくれた大恩ある作家なのはたしかです。やっぱり一週分書いておこうと思います。

 よく知られていた最も大きな要因とは何か。といえば、1980年代、90年代、テレビ文化が日本のエンターテインメントの王者に君臨していた頃に、いろいろな場面で画面に登場していたからです。この人がもつ別名のひとつに〈フルハム三浦〉というものがありますが、これなども当時のバラエティ番組の文化が生んだ、世の中の事象や人物を茶化すことが面白いんだという発想から生まれた名前です。

 ちなみに〈フルハム三浦〉という名は、直木賞と縁がないこともありません。

 『遠い海から来たCOO』で直木賞を受賞したとき、『オール讀物』昭和63年/1988年10月号でその決定が発表されましたが、その誌面でもはっきりと、その名前のことが紹介されていたからです。

 以下はグラビアページのキャプションです。

「青島幸男氏にあこがれて、TV界入りした景山氏も、一時期はフルハム・三浦などと称してお茶の間に登場したこともあった。現在、殺到する仕事を氏の所属する事務所の社長でもある夫人と切り回しつつ、間もなく完成する長篇冒険小説の執筆に余念がない。」(『オール讀物』昭和63年/1988年10月号より)

 〈フルハム三浦〉が一躍知れ渡ったのは、バラエティ番組のプロレス企画ですから、それはこのぐらいインパクトがある、ふざけきったパロディ精神全開のネーミングのほうがよかったのは納得できます。本名で出ても、たしかに別に面白くはありません。

 ただ、もう一つ『オール讀物』のこの号に出てくる、受賞者の別名については、ちょっと事情が違います。〈大岡鉄太郎〉という名前です。

 こちらは、受賞者本人がこれまでの人生や歩みを語る受賞記念エッセイのほうに出てきます。

 放送作家として数多くのテレビ局と番組に出入りしていた昭和50年代なかばのこと。最初に結婚した相手と離婚することになったため、その慰謝料を払わなくてはならなくなり、どんどん稼いでどんどん払う、狂騒の仕事生活を送ります。とにかく何でもかんでも手当たり次第といった感じで、仕事があれば次々と受けながら番組の台本を量産する日々。そのなかから〈大岡鉄太郎〉という名前も生まれた、ということです。

「離婚を成立させるためには、慰謝料と養育費の支払い能力のあることを(引用者注:家庭裁判所の)判事に信用してもらわねばならないから、レギュラーの仕事で稼いだ金のほとんどは、アチラの銀行口座行きだ。たまさか、今回みたいな飛込み単発仕事がくると、三業種四業種かけもちで受けて、並の放送作家の倍以上のギャラをふんだくる。それでも食っていけないとなると、NTVの『イレブンPM』の台本を書き終えたその足で、テレビ朝日に駆けつけて、真裏に当たる『23時ショー』の台本を書く。さすがに本名では書けないから、大岡鉄太郎という訳の分らぬペンネームで書く。」(『オール讀物』昭和63年/1988年10月号「怪屋の怪人」より)

 わかったような、わからないようなハナシです。

 別のテレビ局の同じ時間帯の番組それぞれで、台本書きの仕事をする。そのときになぜ同じ名前で書いてはいけないのか。テレビの世界の慣例というか風習というか、そんなところなのかもしれませんが、だれがどういう理由で問題視するのか。見ているわれわれには、さっぱり理解できません。

 どうして人は、別の名前をつけたがるのか。本人にとっては、つけるもつけないも、まわりの状況から判断してそうするのが普通だ、と思っただけかもしれません。しかも、あれだけブイブイ言わせて人気者だった〈大岡鉄太郎〉さんが、直木賞をとったあとに、あんなことして、こんなふうになって、違うところに行っちゃうのですから。人の世はわからないことだらけです。

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2025年3月23日 (日)

のぶ・ひろし…放送業界のデキるクリエイターとして働くうちに疲労がたまる。

 別の名前をもつ直木賞関係者エピソード。ということで去年の5月ごろからやっていますが、だんだんネタに詰まってきました。

 困ったときはどうするか。有名作家のハナシで逃げる。これしかありません。

 いつもいつもこの人に頼ってばかりで、うちのブログも相変わらず芸がないなと思います。昭和7年/1932年9月生まれ、昭和41年/1966年に小説現代新人賞に投じた「さらば、モスクワ愚連隊」が受賞して文壇に登場したのが33歳のとき。すでにこのとき、近いうちに直木賞をとるだろうと囁かれたほどに、バツグンの新鮮さとスター性が現われていたと言われ、実際それから1年も経たないうちに第56回(昭和41年/1966年・下半期)直木賞を「蒼ざめた馬を見よ」で受賞すると、雑誌やらテレビやら、いろんなメディアで顔と名前が一気に売れて、出す本、出す本、ベストセラーに上がってしまったという、約半世紀もまえの伝説の直木賞受賞者です。いや、伝説というか、いまもご存命です。

 で、この人も直木賞をとったあとには、いったい何をしてきた人なんだ、どんな人物なんだ、と直木賞お決まりの報道が山ほど出ました。そのすべてをなかなか追うことはできないんですけど、中に、作家になる前に別の名前でやってきた仕事のことが取り上げられたものを、いくつか見たことがあります。「別の名前」でも多少は知られる人だったようです。

 その名前が〈のぶ・ひろし〉です。

 昭和27年/1952年、早稲田大学露文科に入学したものの、昭和32年/1957年、学費をまったく払えなくなって除籍。大学には6年在籍した、といった記述もけっこうあるんですが、昭和27年/1952年から昭和32年/1957年までということは、どう数えても5年か5年余りなんじゃないか、と思います。ただ、そんな細かいことはどうでもいいです。

 大学にいられなくなってその後は、『運輸広報』編集主任、業界紙編集長、広告代理店勤務、デザイン会社設立などなど、職を転々としながら20代後半を過ごします。そういう渡り鳥の職歴を経るうちに、嫁さんの姉婿という親戚関係にあった加藤磐郎さんが、三木鶏郎さん率いる「冗談工房」にいたもんですから、どうだい君も仲間になれよ、と誘われた結果、「冗談工房」の姉妹集団でもある「テレビ工房」という職人グループに参加。テレビやラジオの台本やコマーシャルソングを量産しました。そのときに使ったペンネームが〈のぶ・ひろし〉だったということです。

 つくったCMソングは100とも200とも言われます。いちおう当時の記事によると、最も知られているのは「日石灯油でホッカホカ~」というものなんだそうですが、いま聞くと、ナンじゃそりゃ、と思わずひざの力が抜けてしまいます。まあCMソングはこのぐらいの軽さが身上なのかもしれません。

 のちに当時のことを振り返った『デビューのころ』(平成7年/1995年10月・集英社刊)が発表されています。加藤さんから「ジングルのヴァースを書いてみませんか」と初めに誘われたときのことも回想されていますが、そのとき加藤さんとのあいだにこんな会話が交わされたそうです。

「じつのところ、当時の私自身はぜんぜん詩とか歌とかには縁のない人間だったのだ。

私がそのことを告げて躊躇していると、彼(引用者注:加藤磐郎)は笑いながら電話のむこうで言った。

「なにもそんなにむずかしく考えなくたっていいんです。商品名をならべて、あとはそれにワンとかニャンとかつけ加えればそれでOKなんですから。大丈夫ですよ」

「わかりました。じゃあ、やりましょう」

と、いうわけで、さっそく私は加藤さんと会って話を聞いた。ワンとかニャンとかいうのは私を安心させるための冗談だったらしい。やはり仕事ともなれば、そう簡単にいくわけはないのである。」(五木寛之・著『デビューのころ』「われは歌へど」より)

 ……商品名をならべて、あとはワンとかニャンとかつければCMソングはできる。冗談だったと回想されているとはいえ、案外、加藤さんも芯を食った表現だったように思います。そのくらいの肩の力の抜け方が、面白いといって評価される世界もあるでしょう。

 CMソング作詞者としてのペンネームが、全部ひらがなで〈のぶ・ひろし〉というのも、肩が抜けていてイイじゃないですか。って、ご本人がほんとうにそんな意図があって付けたかどうかはわかりませんけど。

 そういう軽さや楽しさが大きな文化を生んでいく放送業界に、20代から30代前半に身をおいて、〈のぶ〉さんはだんだんとからだに不調を覚えるようになり、ここからはいったん身をひかないとマズそうだ、と命の危険を感じます。そのまま、アッパラパー、と楽しくやっていける心根の人だったら、おそらく放送業界で活躍して、いっぱしの重鎮になったことだろうと想像しますが、トリロー工房が解散したのを機にドロップ・アウト。〈のぶ・ひろし〉の名前も捨てることになりました。

 直木賞にとっては、もちろん、そのおかげで歴史上の文壇スターを直木賞から生み出せたので、それはそれでよかったです。本人にとって、どちらの人生がよかったか。作家として大成功したので、普通に見ればイイに決まっていますが、人サマの人生をイイだの悪いだの判定しても仕方ありません。〈のぶ・ひろし〉という名前が続けて使われることなく消滅した、と言うにとどめておきたいと思います。

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2025年3月16日 (日)

岡田時彦…有名俳優の作品だと言って『新青年』にズブの素人の小説が載る。

 作家のなかには輝かしいデビューを飾った人が何人もいます。

 何人どころか、何十人、何百人かもしれません。この際、人数はどうでもいいんですけど、何をもって「輝かしい」とするか、見る人によって感覚は違います。結局はどのようにデビューしたところで「これは輝かしかった!」と言っちゃえば、言ったもん勝ちでしょう。

 無駄に長い歴史をもつ直木賞には、候補に挙げられた作家は数々います。もちろん、輝かしいと一般に思われるデビューを果たした人もたくさんいるはずですが、戦時中、第16回(昭和17年/1942年・下半期)のときに「オルドスの鷹」が、第17回(昭和18年/1943年・上半期)に「西北撮影隊」がそれぞれ、選考会で議論されたこの作家も、デビューにまつわる逸話の華々しさは相当なもんだと思います。

 年はおおよそ28歳の頃。とくに作家を志していたということもなく(たぶん)、学校の先生として教壇に立っていたそのときに、仲のよかった弟が東京でとある読み物雑誌の編集部にいた関係で、なぜか兄のところに原稿を書くハナシが舞い込んできます。今度うちの雑誌で、映画俳優が小説を書く、という企画をやるんだけど、兄さん、そのなかの一編を書いてみないかと。

 それが昭和4年/1929年のことです。担当することになった俳優は、当時、文章も書ける俳優として多少は知られていた(のかどうか)岡田時彦さんでした。

 まあ、岡田さん本人が書きゃあよかったとも思うんですけど、代作やゴーストは当たり前の業界ですし、当たり前の時代でもあります。よし、じゃあ〈岡田時彦〉になりきって、ちょっと不思議な話を書いてみようじゃないかと、その辺の執筆にいたった動機はもはやわからないんですが、ともかく一つの小説ができあがります。「偽眼のマドンナ」です。

 有名な俳優、タレント、芸能人が、いちおうその作者や書き手というかたちになっているけど、じっさいに文章を書いたのは別の人、という例は古今東西くさるほどあるかと思います。先週取り上げた〈田村章〉さんなども、いっときはゴーストライターとして相当稼いだとも言いますから、芸能人の名前を使ってものを売る、というのはけっこうなおカネになる(場合もある)ようです。不思議な世界です。

 ちなみに、いまもタレント本といえば基本はゴーストが書いている、というのが一般的に広まっている常識かと思われます。本人が書こうか、別人の作だろうが、そんな些細なことは気にしない、という感覚は健康的で別段批判するような状況でもないでしょうが、『新青年』が昭和4年/1929年6月号で映画俳優執筆小説の企画をやったときにも、やっぱり多くは本人が書いているかわからない、と思われてみたみたいです。

 そのなかでこんな文章があります。

「時彦(引用者注:岡田時彦)は文章をよくする。

俳優で彼ほどの名文家はない。「新青年」や「文藝倶楽部」を読まれる方は御存じの筈。俳優の文章は、代筆が多い世の中に、彼は自分で書いている。

(昭和4年/1929年8月・平凡社刊『映画スター全集2 夏川静江・林長二郎・八雲恵美子・岡田時彦』より)

 ほとんどの俳優の場合、代作の筆のなかで〈岡田時彦〉さんは珍しく自分で書いている、と言っています。

 その前年、〈岡田〉さんが前衛書房から『春秋満保魯志草紙』(昭和3年/1928年12月刊)という随筆集を刊行していること、さらにはその序文を、〈岡田時彦〉なる芸名の名付け親でもあった谷崎潤一郎さんが書いてその文章を推奨していることなども、岡田時彦といえば文章も書く、というイメージに一役買っていたんじゃないかと思います。

 そう考えると、昭和4年/1929年に『新青年』がどうして本人の筆による作品でなく、編集部員の係累であるまったくのズブの素人の作品を代作として載せたのか。「偽眼のマドンナ」を読んで、ううむ、さすが〈岡田時彦〉だ、面白い小説を書くなあ、と感嘆した読者も少なからずいただろうと想像すると、なかなか『新青年』も罪つくりな雑誌です。

 いや。罪をつくったのか、いいことをしたのか。こういうのも、人や場面によって考え方はいろいろです。

 有名俳優の新作だと言い張って読者をだましてまで掲載した小説のその作者は、むむ、こいつ書けるな、と編集部に思われたものか、兄さん、面白いもの書くね、と弟・渡辺温さんに褒められたものか、それとももともと本人が他にもさまざまな筋を思いついていて、小説を書きつづけたいと思っていたものか、〈岡田時彦〉名で発表したその2か月後の『新青年』昭和4年/1929年8月号では、本名名義の〈渡辺圭介〉で「佝僂記」を発表。生粋の『新青年』っ子、といった感じでそれから同誌に欠かせない書き手に育っていきました。

 そうした先に、直木賞のほうでは彼の作品を候補に残すことができたんですからね。直木賞にとっては、『新青年』、ナイス・ジョブだったぜ、と親指を立てて褒め称えなきゃいけないハナシでしょう。だいたいいつも、功と罪は表裏一体です。

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2025年3月 9日 (日)

田村章…直木賞をとる前から業界で名の知られていた売れっ子フリーライター。

 直木賞界きっての「別の名前」の使い手といえば、先週取り上げた阿佐田哲也さんは外せませんが、いやいや、〈田村章〉さんも相当なもんだと思います。

 直木賞の候補になる前から出版業界のなかで堅実な仕事を残していた。ということもさることながら、とにかく自身が〈田村章〉としてのライター業に誇りをもち、並行して本名で小説を書いたら文芸方面で評価されて直木賞もとっちゃったんですけど、それでもなお、自分はライターでもあるんだ、たくさん書いて稼ぎもあるんだ、とそちらの側面をずっと大事にしてきました。「直木賞をとったからエラい作家、小説以外の仕事はみんな雑業」といったような認識とは、大きくかけ離れたところで活躍している人です。

 〈田村章〉という名前だけじゃなく、他にも〈岡田幸四郎〉とか〈恩田礼〉とかの筆名もあります。無署名で書いたものを含めると、もはやこの人の仕事の全貌は、だれにも追えないんじゃないかとも思います。

 ただ、何といっても〈田村〉さんが直木賞を受賞したときに、『週刊SPA!』の誌上でライター田村章が、時の直木賞受賞者(=要は本人)にインタビューする、という微妙に凝った記事を発表したぐらいです。やはりこの人の場合、別の名前での活動も直木賞と無縁とは言えないでしょう。

 〈田村〉さんが早稲田大学を卒業したのは昭和60年/1985年です。すぐさま角川書店に入社して『野性時代』編集部に加わりますが、ほんの1年足らずで退職を決意し、その後は少しの期間、塾の講師を経て、名もなきフリーライターに。雑誌の記者として、アンカーとして、あるいはドラマのノベライズライターとして、ゴーストライターとして、数々の仕事をぶんぶんとこなします。

 無署名のものも多かったそうですが、署名付きで仕事をするにしても、いろんな名前を考えるのが大好きで、本名とは別の人格になりきって文章を書きつづけました。そのうち、最初に思いついたのが〈田村章〉や〈岡田幸四郎〉だったらしいんですが、ご本人によると、この二つは実在の人物の名前です。

 二人とも、自分が生まれるより前にすでに死んでいた自分の祖父たち。〈田村〉は母方の、〈岡田〉は父方の、おじいさんの名前なのだ、ということです。

 しかも、どうやら実際にいた〈田村章〉さんや〈岡田幸四郎〉さんも、本をよく読み、自分でものを書くのが好きな人たちだった、と伝えられています。両者、とくべつ何か文筆家として名を残したわけではありませんけど、それがどういう流れか、めぐりめぐって孫のひとりが名乗りはじめたことで、こうやって知られることになりました。……ううむ、しみじみ、エモいです。

 他のペンネームはほとんど使い捨てのように、その場その場で付けたものが多いのに、会ったことはないけど自分のからだと確実につながっているこの二つの筆名は、捨てるに捨てらずに使いつづけたと。ここら辺がもう、家族というものをたびたび小説のなかで描いているこの作家らしいところです。

 といったことは直木賞とはほとんど関係はありません。無理やり直木賞に引きつけて見てみると、やはり彼が受賞したときの発表号『オール讀物』平成13年/2001年3月号のハナシを挙げなければいけません。

 巻頭のグラビアでは「もうひとつの顔は、売れっ子フリーライター。」といった一文で紹介され、編集部によるインタビューでは「いくつものペンネームをもつライターとして、業界ではつとに有名ですが、」といわれて質問を受ける。ライター、ライター、ライター。直木賞の受賞者でここまでフリーライターであることを前面に打ち出し、打ち出されたのは、かなり珍しいことでした。

 この号には自身が書いた受賞記念エッセイも載っていますが、当然、フリーライターについて筆を費やしています。

「フリーライターとして、商売のための文章をうんざりするほど書いてきた。小説を発表するようになってからも「ぼくはフリーライターです」と広言しつづけた。

ひねくれた衒いは、ある。駄々っ子じみた気負いも、ないとは言わない。

だが、その言葉には、「文学」と「作家」に対する自分なりの畏怖をいつも込めているつもりだ。」

(『オール讀物』平成13年/2001年3月号「「早稲田文学のこと」より)

 フリーライターと文学の作家に横たわる、何か得体の知れない溝。ライターを名乗りつづける身として、そのことには常に敏感に意識してきた、ということなんだと思います。

 〈田村〉さんが〈田村章〉名義で参加した『だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド』(平成7年/1995年2月・太田出版、中森明夫・山崎浩一との共著)という本があります。まだ〈田村〉さんが本名で小説を書きはじめた頃の言葉ですが、こういう経験の積み重ねのなかで山周賞や直木賞の受賞者となっていく、という基礎の基礎がここにあるかと思うので、一部引用しておきます。

「僕は“田村章”とは別のペンネームで小説も書いているんですが、それを知っている某誌――そこではまた違うペンネームを使っています――の編集者から「ウチの仕事はやっぱり作家としての経歴に傷がつきますか?」と冗談交じりではありますが言われました。こっちにはまったくそういうつもりはないんですよ。でも、ヒエラルキーを勝手に作り上げてる人っていうのは確かにいるんですよね。」

(中森明夫との対談「第1章 心構え編 「ライターであり続けることは、運動だ」」より)

 文学も文学賞も、けっきょくのところ、人間たちが勝手に決めつけて成り立っている虚像だ、とは〈田村〉さんは言っていませんが、〈田村〉さんがフリーライターになってからこれまで約40年、ライターと作家のあいだには、書き手がどう思って書くかという意識以上に外から注がれる視線がずっとあったのだろうとは想像できます。直木賞がそういう視線をさらに強固にしたことは想像に難くありませんけど、そのなかで両方の軸を崩さずに書き続ける。〈田村〉さんの闘いの日々を思うだけで、心が震えます。

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2025年3月 2日 (日)

阿佐田哲也…私は〈阿佐田哲也〉に票を入れたんだ、と語る直木賞選考委員がひとり。

 直木賞の歴史のなかで最も有名な「別の名前」は何か。

 ……というような設問は、どう考えても何の意味もありません。だけど、うちのブログはたいがいが無意味の羅列です。そう考えれば、もってこいのテーマと言えないことはありません。

 最も有名なのが何なのか。有名無名を定数的にとらえるのは難しく、人によって感覚はそれぞれでしょう。ただ、そのなかでも〈阿佐田哲也〉さんの名前は相当上位にランクインするかと思います。もしかしたら第1位かもしれません。

 そんな有名な「別の名前」を、いまさら取り上げてどうするんだ。という感じですけど、やっぱり1年間、直木賞に現われた(ような現われてないような)別の名前のハナシを書いているなかで、絶対に素通りはできないだろうと思うので、今週さらっと触れておくことにしました。

 一度、本名で純文学の新人賞を受賞したものの、作品が続かずアングラへ。〈井上志摩夫〉の名前で読み物雑誌にアチャラカな小説を書き飛ばし、しかし雑誌の編集者だった頃から彼のことを面白がって付き合いつづけた文壇作家は数知れず。そのうち、麻雀小説というまったくマジメな文壇からは相手にされないようなジャンルでパッと花開いたという、その展開からしてグッと来ます。

 それと何と言っても〈阿佐田哲也〉という人を食ったようなペンネームそのものが、グッと来る密度を二倍にも三倍にも増やしています。かしこまった(ふうに外からは見える)直木賞の世界なんか、まず相容れないような領域です。

 このペンネームについては、〈阿佐田〉さんの麻雀小説をはじめに書かせた敏腕編集者、双葉社の柳橋史さんの回想が残っています。

「「阿佐田哲也」と色川さんが書いたのは、本当に徹夜明けの朝帰りの日だった。荻窪の藤原審爾さん宅から戻ってきたばかりで、阿佐ヶ谷からの連想もあったのかもしれない。昭和四十三年九月初旬、矢来町の古い机の上である。はじめて麻雀小説を書くにあたって、題名こそ「実録雀豪列伝」と決まり、週刊大衆十月三日号の表紙に印刷手配をしていたが、筆名だけがどうしても決まらず、この日が締切りぎりぎりの朝であった。」(平成4年/1992年1月・福武書店刊『色川武大 阿佐田哲也全集・7』付録月報3 柳橋史「麻雀小説誕生の頃」より)

 新しい筆名にはけっこう難航したものか、いや、そもそも筆が遅い作家だった、といろんなところで言われている人でもあるので、最後の最後に決めるところまでが、いつも遅いだけだったかもしれません。しかし、思いつきのように付けた、本人が回想するところによるとこの一回こっきりで終わると思っていた〈阿佐田哲也〉名義の小説は、またたくうちに大評判となって、本名よりそちらのほうが有名になってしまう、という状況を生み出します。

 柳橋さんの上記の回想文によれば、当時、おれは本名名義のものは認めるが阿佐田のものは認めない、と傲然と公言していた文学関係者がいたそうです。文学っつうのは、ときどきこういう頭の固い、視野の狭い人が跋扈していて、回想を読んでいるだけでもうんざりしますが、世の中いろんな人がいるんだな、と思って、なるべく近づくのを控えたい気分です。

 しかし、本来そのまま行っていれば、麻雀小説を広く何十万人(?)の読者にまで普及させた〈阿佐田〉さんは、そういった分野で生きていく道もあったところ、本名名義での小説も久しぶりに手がけることになって、『怪しい来客簿』(昭和52年/1977年4月・話の特集刊)として刊行。すると、これがあっとびっくり第77回(昭和52年/1977年・上半期)直木賞の候補に選ばれます。

 こんなもの小説じゃなくて随筆じゃないか、とか何とか、頭の固い、視野の狭い選考委員のなにがしは授賞に反対したそうです。まったく世の中いろんな人がいるもんですね。直木賞はとれませんでしたけど、そのあとすぐに第5回泉鏡花文学賞を受賞して、華麗に文芸方面の表舞台にカムバックしました。

 いや、麻雀小説は表舞台じゃないのかよ、と憤慨する人がいたとかいなかったとか。ともかく〈阿佐田〉さんが麻雀を題材に読み物小説で大人気となったことは、それはそれとして、文学賞の世界はまた別のものだ、という印象を抱く人がいたのはたしかです。

 といったところで、あまり日をおかずに第79回(昭和53年/1978年・上半期)には直木賞に選ばれることになるんですけど、ここで五木寛之さんによる伝説的な選評が書かれます。ちなみに五木さんはこの回が選考委員になって初めての選考会でした。並みいる高齢委員たちに囲まれて、かなり肩に力を入れて選考に臨んだことは想像に難くありません。

「この賞の選考委員の末席に連なることをお引き受けした時、私は二つの考えを述べた。一つは、直木賞作品は、芥川賞の作品とくっきりと異った質のものでありたいという考え方である。もう一つは、新人の処女作品であれベテランの力作であれ、いずれにせよその作家に真のプロフェッショナルの資質があるかどうかという点を見たいという考えである。

このプロの資質というのは、秘められた才能と傾向のことで、本人の意識とは関係がない。したがって、芥川賞と直木賞の中間をふらふらしているような小説を私はとらぬつもりでいる。

(引用者中略)

結果は、色川、津本(引用者注:津本陽)両氏の受賞となったが、私は阿佐田哲也、仮の名を色川武大と考えて一票を投じた。」(『オール讀物』昭和53年/1978年10月号より)

 候補者の、別の作家名義をこういったかたちで堂々と、しかもどちらかといえば別名のほうに比重をおいて票を入れた、というケースは、まずなかなかお目にかかりません。

 二つの名前(〈井上志摩夫〉を入れると三つの名前)でそれぞれけっこうな数の作品を残した人でも、作品系統をどうのこうの言うのではなく、プロの資質という点で票を入れる五木さんのような投票行動は、作品本位より作家本位と言われる直木賞の、代表的な選考姿勢だったかと思います。

 〈阿佐田〉さんも、麻雀小説を書いている頃は、直木賞なんてまったく念頭になかったことでしょう。しかし、それもまた評価対象に組み入れてしまうのが直木賞の暴食性。まあ、何でもアリっちゃアリの文学賞です。

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