三上天洞…10代の頃に投書家として名前が知られ、長じて直木賞の選考委員になる。
昨日、令和7年/2025年2月1日、埼玉県春日部市のはずれのはずれにある大凧文化交流センター「ハルカイト」で、湯浅篤志さんによる『百万両秘聞』関連の講演会がありました。
『百万両秘聞』の作者が、春日部市(もとの庄和町)出身の人だったことが縁で、そういうことになったんですけど、そんな作家の名前を聞いたところで、おおかたの現代人は首をかしげるに違いありません。
たとえば、直木賞っていうけど直木賞の直木ってだれだそりゃ。といったようなことを、何十年も前から数多くの人たちが飽きもせずに語ってきた(いまも語っている)のを、ワタクシ自身、体感的によく知っています。昔の作家の名前はほとんどが忘れ去られる。どうあっても、しゃーないことです。
ただ、直木三十五さんが心を許した(?)無二の親友、しかも直木さんが死んで1年足らずでできた文学賞に、しょっぱなから深く関わったといわれる人のことを、直木賞ファンであれば、ないがしろにするわけにはいきません。今回、別に誰から頼まれたわけでもないのに、春日部とは何の関係もない一介の直木賞オタクが、刻々と進行する老眼に悩まされながら、『百万両秘聞』をテキストに起こして復刊したのも、直木賞の関係者でもあったこの作者に対する感謝の気持ちが根本にあったからです。これからも機会があれば、顕彰していきたいと思います。
と、それはそれとして、直木三十五さんは生前、いくつかの名前を使い、いまとなっては作品よりも、その筆名エピソードがよく知られている手合いの作家です。対して『百万両秘聞』の作者にあたる直木さんの友人も、本名のほか、いくつかの筆名・号を使っていたことが知られています。いずれも売れっ子になる前に付けられた名前です。
一つに〈水上藻花〉というのがあります。本名でつくった自費出版の『春光の下に』を献本したことがきっかけで、長谷川時雨さんと恋仲になり、大正8年/1919年春ごろには東京・矢来町で二人は所帯をもつことになりますが、全然売れない文士の卵だった新しい旦那に、どうにか仕事を与えたいと思った時雨さんが、相談相手にしたひとりが博文館『講談雑誌』の編集長だった生田蝶介さんです。
生田さんが、いったいこの鼻持ちならない(?)若い旦那の、何を見て才能を見出したのか。ともかく、うちの雑誌で時代物を書いてみたらいいよ、と声をかけてもらい、書き上げたのが「呉羽之介の絵姿」の一編です。これを『講談雑誌』に載せるときに〈水上藻花〉のペンネームを使いました。その後、翌大正9年/1920年にも『講談雑誌』に「入浪春太郎英明」をその名前を使って発表しますが、長くは使いつづけられなかった模様です。
〈智恵保夫〉というペンネームもあります。こちらは関東大震災を経て徐々に、本名での文名が上がっていく過程のなかで、大正13年/1924年ごろに創作とは別に、『新潮』や『時事新報』などに評論を書くときに名乗った別名です。その頃、年齢は33歳。時雨さんとの生活のなかで、いよいよ通俗物でやっていくという腹が決まったものか、小説を書きまくるちょうど初めの頃で、その後は本名のほうが一気に世間に有名になりますので、〈智恵保夫〉という名前もすぐに使われなくなってしまいます。
牧逸馬さんじゃあるまいし、そうそういくつもの名前で活躍しつづけられるわけがありません。ちょっこと使って、すぐ捨てる。それがペンネームってやつの、一般的な運命なのかもしれません。
それで、もうひとつ、〈水上藻花〉=〈智恵保夫〉には若かりし頃に使ったペンネームがありました。ひょっとしたら、別名のなかではこれがいちばん世のなかに知られたものだった、という説もあります。〈三上天洞〉という名前です。
これはまだ〈天洞〉さんが旧制中学に通っていた頃、当時、文学に興味のある青年たちがこぞって購読していた投書雑誌『文章世界』に原稿を送るときに、よく使われていた名前です。
たかが、ガキの投書じゃねーか、そんなものが有名になるわけないだろ。と馬鹿にしたものでもありません。木村毅さんとか宇野浩二さんとか、同じころに中学に通って雑誌をよく読んでいた若者に言わせれば、〈三上天洞〉の名は投書家のなかで毎月のように誌面で見かける、いわば有名人だったそうですし、菊池寛さんなんかも、こんなふうに言っています。
「(引用者注:明治43年/1910年)四月になると、私は、徴兵猶予のために、どうしてもある学校に席を置かねばならなかつた。そして、もし一高が駄目だった場合に、その学校を続けてもよいためにと思つて、私の選んだのは早稲田の文科であつた。
私が、文科に入学してゐたことなどは、誰にも話さなかつたから、恐らく誰も知らないだらう。明治四十三年度入学の文科に私はゐたのである。
その組に、三上天洞と云ふ学生がゐたことだけ、私はハツキリ覚えてゐる、この天洞と云ふ男は、「文章世界」でも、相当文名があつたので、同級の人にも直ぐ知られたらしい。私もその意味で覚えてゐるのである。もし、此の天洞が三上於菟吉であつたとしたら、私は三上君と同級だつたのである。いな、三上君ばかりでなく、広津(引用者注:和郎)君、宇野(引用者注:浩二)君、澤田正二郎君などこの人達が四十三年度の入学なら、同級だつたのであらう。私がもし一高の試験に落第して、早稲田に止まつたら、広津君や三上君などと一緒に文壇に出られたゞらうかなどと、時々思つて見るのである。」(菊池寛「半自叙伝」より)
年譜によれば菊池さんが早稲田の高等師範部に入学したのが明治43年/1910年3月。5月に高等予科に転入学して、7月には退学していますので、ほんの2か月間だけ、宇野さんたちと同級だったようです。
しかし、そんなわずかな在学中に、はっきり覚えている同級生として名指しされているのが〈天洞〉さんなわけです。投書で毎月のように採用されていた、という経歴が、十代後半の青年たちに、どんだけ憧れの目で見られていたことか、よくわかります。
まあでも、そういうのは明治時代だけに限ったことじゃないだろうとも思います。大正、昭和、平成と、ある狭いコミュニティにだけ有名人扱いされる人というのは、絶えてなくなったことはありません。
いまでいうと、文学フリマでは大人気作家とか、Xやインスタ、TikTokでは超人気のアカウント、というのと近い気がします。そういう人たちが、何年か何十年かたって、また別の名前(ないしは本名で)小説家としてデビューし、人気者へとおどり出て、直木賞の選考委員もやってしまう。……〈天洞〉さんみたいな人は、これからもたくさん出てくるでしょうし、そういう人たちに、未来の直木賞を盛り上げていってもらえたら直木賞ファンとしてもうれしいな、と思います。
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