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2025年2月16日 (日)

岩田豊雄…たった一度きり、ペンネームではなく本名で直木賞を選考したら、受賞を拒否られる。

 一人の人が違う名前を使って直木賞の候補に挙がった。そんな例は何度かあります。

 だけど、一人の作家がよく知られている名前とはまた別の名を使って直木賞の選考委員をやった、という例はそんなに多くはありません。

 いや、多くないどころか、そんな奇妙な事例を歴史に刻んだのは、無駄に長い直木賞の歩みのなかでも、たった一人しかいません。

 直木賞は昭和9年/1934年に創設が発表されてから5年ほど、選考委員8人体制で行われました。しかし、これはうちのブログでも何度かコスッっているネタですけど、あまりに委員たちのやる気のなさに業を煮やした小島政二郎さんとか佐佐木茂索さんが、当時、芥川賞の委員だった人たちにも頭を下げて、申し訳ないけど、腐れ切った大衆文芸の発展のために、純で高貴なあなたたちの文学観で直木賞を助けてくれませんか、と言って(ほんとに、そんなことを言ったのかはさておいて)、数回、直木賞委員会と芥川賞委員会の合同で直木賞を決める、という荒治療を敢行します。

 しかしこれもなかなかうまくいかず、やる気がありそうで、文春にも快く協力してくれそうな、人柄のいい文士を物色した結果、第13回(昭和16年/1941年・上半期)から片岡鉄兵さんに選考を委嘱。これでうまくいけばよかったんですけど、直木賞ってイマイチだよね、の世間一般、文壇内部の評判を覆すまでにはいたらず、そのうち世のなかは戦争まっただなかに突入しました。

 いつまでもこのメンバーで直木賞をやってたってラチが明かないな、と菊池寛さんが思ったか、あるいは文藝春秋社内部の権力闘争のすえに、国策迎合グループが勝利をおさめた結果なのか、第17回(昭和18年/1943年・上半期)から選考委員を大幅に入れ替えることになります。残留したのは大佛次郎さんと吉川英治さんの二人だけで、新任として4人の作家に、選考委員をお願いすることになりました。

 このとき選考会に加わったのは、井伏鱒二さん一人を除いて、ほか3人は過去の直木賞で授賞が議論されながらけっきょく賞を贈られなかった落選組です。戦局が加熱する時代、いかに大衆文芸の世界に、重鎮・中堅作家が不足していたか、というのを表わしている人選でもあったんですけど、その3人のうちの一人が今週の主役となります。岩田豊雄さんです。

 〈岩田豊雄〉といっても、そんな名前は過去の直木賞の候補者リストのどこにもありません。また、〈岩田豊雄〉の名で直木賞の選考に当たったのも第17回の1回きりで、次の第18回からは、一般に大衆作家として知られているペンネームのほうで、直木賞選考委員を継続することになりました。このあたりの経緯も妙といえば妙で、直木賞の歴史のなかにちょくちょく出てくる、細かいことは気にしない鷹揚でテキトーな風合いが、この事例にもはっきりと表われている、と言っていいでしょう。

 直木賞はだいたいいつもテキトーな(っつうか真意がよくわからない)顔を見せる文学賞ですけど、〈岩田〉名義を1回きりで辞めたのは、どう見ても本人の希望に違いありません。

 選考委員を始めることになった昭和18年/1943年夏当時、〈岩田〉さんはふだんユーモア小説を書くときに使っている有名なペンネームだけじゃなく、そちらの本名のほうでも小説家として一気に知られていました。前年に『朝日新聞』に「海軍」という小説を連載、昭和18年/1943年には単行本化されますが、いずれも〈岩田豊雄〉の名前で発表したからです。

 〈岩田〉さんのこの二つの名前の使い分けについては、おれは文学に詳しいんだぞと威張っている変人ないし異常者たちのあいだでは有名なことらしいので、ワタクシもあまり突っ込んで書くのは控えたいと思います。要は、劇作とか翻訳とか、マジメでフォーマルな仕事のときは本名の〈岩田豊雄〉を使い、生活のお金を稼ぐためについつい筆をとってしまったユーモア小説、読み物小説を書くときには、ちょっとこじゃれた由来の別のペンネームを使う……ということだったらしいです。

 十返肇さんの表現を引くと、こういうことです。

「獅子文六がユーモア小説界に占めている位置は、時代小説で大仏次郎の占めている位置によく似ているように思われる。即ち、両名とも、たんなるユーモア作家または単なる時代小説家ではなく、西欧芸術の教養を身につけ、多分にディレッタンチズムを持ち合わせており、一脈の知性が作品の底に在ることである。

(引用者中略)

彼は戦争中『海軍』を書いて時局に便乗した。それも獅子文六というペン・ネームでは、帝国海軍を描くのに恐れ多いとでも思つてか、本名の岩田豊雄で書いた」(昭和30年/1955年7月・大日本雄弁会講談社/ミリオン・ブックス、十返肇・著『五十人の作家』より)

 戦時中、かしこまって書いた新聞小説に、劇作者名ではなく本名を使ったのは、やはり本人の意思がそこにあったからでしょう。しかし、それで売れた名前を、最初の直木賞選考のときに使ったのは、本人の意思だったのか、あるいは文春側が「いま話題の書き手だから、そっちの名前のほうが据わりがいい」と思って選んだのか、そこら辺はわかりません。

 まあ、直木賞の選考なんてものに、自分のマジメモードのときの名前を使うのは憚られる、と〈岩田〉さんが思ったのはたしかなんだと思います。2回目から選考委員名をペンネームに変えたのは、きっとそんな気持ちの表われです。

 ちなみに、一回きりの〈岩田〉名義の選考では、授賞と決めた相手の作家が、そんなもん要らねえよと受賞を拒否した直木賞史でも特殊な回にもなりました。せっかく、大衆文芸の舞台で珍しく本名を使って選考したのに、「辞退」という名のNOを付きつけられて、冴えない歴史を刻んでいた直木賞に、またも大きな泥を塗られてしまうという……。〈岩田豊雄〉名義が、よくよく直木賞とは相性がよくなかったのかもしれません。

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