両国踏四股…僕はペンネームを一作ごとに変えていっても全然構わない、と南国忌で語る。
毎年2月下旬のこの時期は、直木賞ファンにとってのお楽しみがあります。『オール讀物』の直木賞発表号が発売されることです。
……と、それももちろんそうなんですけど、もう一つリアルに体感できる楽しみもあります。直木賞の贈呈式があることです。
いやいや、そんなのは一般読者にとってはどうでもいい、よその世界の出来事にすぎません。一般読者であろうがなかろうが何の資格もいらずに参加できる直木賞関連のイベントといえば、やっぱりこれでしょう。
「南国忌」。横浜市富岡にある長昌寺で毎年ひらかれている行事です。
今年もまた休むことなく2月23日(日)、つまりは今日の昼さがり、南国忌のイベントが行われました。参加者はだいたい100名超。コロナ禍前の水準に戻ったようだ、と実行委員の人も言っていて、ずいぶんの盛況でした。
集まった人たちの、いったいどれだけの人が直木賞のことが好きなのか。正直よくわかりませんけど、ただ毎年、直木賞(あるいは直木三十五さん)に何かしらでつながりのある人が講演をするので、それを楽しみにしている人は少なくないかと思われます。
今年の講演の登壇者は、第130回(平成15年/2003年・下半期)の直木賞受賞者にして、第169回(令和5年/2023年・上半期)から同賞の選考委員もしている人気の作家でした。
で、この人も一般に知られているペンネームとは別に、他の名前を使って(?)小説を発表したことがあります。せっかくなので今週はそのハナシを書いておきたいと思います。
平成6年/1994年、講談社ノベルスから衝撃のデビュー。出す作品、出す作品、主にミステリー好きの界隈から派手ハデしい絶賛を受け、またたく間に人気作家におどり出るうち、日本推理作家協会賞を受賞したあと、山周賞とか吉川新人賞とか、そこら辺の直木賞っぽい文学賞でも候補にあがっていた頃のことです。
ちょっと妖しく、しかし論理を大事にした独特の世界観を築き上げて、ミステリー、ホラー、怪談と、そちらのほうに主戦場を決めたのかと思われていた、まだまだデビュー2、3年めにして、集英社の小説誌『小説すばる』に初登場を果たしたこの作家は、何とびっくり、そうとうぶっとんだナンセンスギャグ小説を発表して、その作風の手広さを文壇、読書界に知らしめます。
『小説すばる』平成8年/1996年1月号、目次ではいつもの見慣れたペンネームだったものの、本文をひらくと、そこにはペンネームの上に「新」の文字が付けられ、タイトルは当時のベストセラー小説をもじった「四十七人の力士」となっていました。
目次の惹句は「不条理な笑い。本誌初登場!」、本文に編集部が書いたコピーはこんな感じです。
「元禄十四年十二月。四十七人の力士が行進する。目指すは、吉良邸!
本誌初登場!京極夏彦が挑む、不条理な笑いの世界!」
その後、同誌の平成8年/1996年6月号では〈南極夏彦〉名義で「パラサイト・デブ」を発表。「どすこい」小説シリーズは翌年以降もつづき、平成9年/1997年1月号「すべてがデブになる(前編)」=N極夏彦、同年2月号「すべてがデブになる(中編)」=N極改め月極夏彦、同年3月号「すべてがデブになる(解決編)」=月極夏彦、平成10年/1998年3月号「土俵(リング)・でぶせん」=京塚昌彦、平成11年/1999年3月号「脂鬼」=京極夏場所のあと、同年7月号「理油(意味不明)」だけはいつものペンネームをつけて脇に「名前ネタに困った訳ではありません」との一文が付いています。
これらの連作が平成12年/2000年2月に『どすこい(仮)』と単行本になるときには、書下ろしの「ウロボロスの基礎代謝」が併載され、その作者名は〈両国踏四股〉と、雑誌連載時のペンネームギャグを踏襲します。
それぞれの作者には、とりあえず設定があるらしく、集英社文庫に載った記載を引いておくと〈両国踏四股〉の場合は、こうです。
「両国踏四股(りょうごくふみしこ)一九七〇年本所生まれ。ノンフィクションライター。十二代続いた生粋の江戸っ子である。先祖の日記を元にした『本所宇兵衛日記』で脚光を浴びる。その後ミステリ作家に転身し、活躍中。」
こういうお遊びを楽しめるかどうかは、受け取り手おのおのの感性によるので、どうでもいい気がします。たた、一編一編、よくもまあ手をかえ品をかえながら、こんなおかしな世界をつくり上げたな、という面では、この作者がデビュー以来見せてきた凝り性なところがよく出ていて、面白いです。
凝って凝って、凝りまくったところに山周賞や直木賞、その後のいくつかの賞の受賞と続いていくのですから、まあ『どすこい(仮)』も直木賞に一脈通じる一作だった、と強弁しておきましょう。
もう一つ、この連作で見せたペンネームの多発と直木賞(というか直木三十五さん)の関連性は、今日、南国忌の講演のなかでも少し触れられていました。
直木さんはペンネームを三十一から始めて、年をとるごとに三十二、三十三と増やしていった。僕もペンネームにはあまり執着がなく一作ごとに秋彦、冬彦と、変えていったっていいと思っているたちなので、うんぬん、と。
まじめなツラして辛気くさいハナシばっかり書いてもつまらない、というのが直木三十五さんの一貫した創作姿勢だった。と見れば、案外この人も直木さんと相当似通った作家なのかもしれません。
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