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2025年2月の4件の記事

2025年2月23日 (日)

両国踏四股…僕はペンネームを一作ごとに変えていっても全然構わない、と南国忌で語る。

 毎年2月下旬のこの時期は、直木賞ファンにとってのお楽しみがあります。『オール讀物』の直木賞発表号が発売されることです。

 ……と、それももちろんそうなんですけど、もう一つリアルに体感できる楽しみもあります。直木賞の贈呈式があることです。

 いやいや、そんなのは一般読者にとってはどうでもいい、よその世界の出来事にすぎません。一般読者であろうがなかろうが何の資格もいらずに参加できる直木賞関連のイベントといえば、やっぱりこれでしょう。

 「南国忌」。横浜市富岡にある長昌寺で毎年ひらかれている行事です。

 今年もまた休むことなく2月23日(日)、つまりは今日の昼さがり、南国忌のイベントが行われました。参加者はだいたい100名超。コロナ禍前の水準に戻ったようだ、と実行委員の人も言っていて、ずいぶんの盛況でした。

 集まった人たちの、いったいどれだけの人が直木賞のことが好きなのか。正直よくわかりませんけど、ただ毎年、直木賞(あるいは直木三十五さん)に何かしらでつながりのある人が講演をするので、それを楽しみにしている人は少なくないかと思われます。

 今年の講演の登壇者は、第130回(平成15年/2003年・下半期)の直木賞受賞者にして、第169回(令和5年/2023年・上半期)から同賞の選考委員もしている人気の作家でした。

 で、この人も一般に知られているペンネームとは別に、他の名前を使って(?)小説を発表したことがあります。せっかくなので今週はそのハナシを書いておきたいと思います。

 平成6年/1994年、講談社ノベルスから衝撃のデビュー。出す作品、出す作品、主にミステリー好きの界隈から派手ハデしい絶賛を受け、またたく間に人気作家におどり出るうち、日本推理作家協会賞を受賞したあと、山周賞とか吉川新人賞とか、そこら辺の直木賞っぽい文学賞でも候補にあがっていた頃のことです。

 ちょっと妖しく、しかし論理を大事にした独特の世界観を築き上げて、ミステリー、ホラー、怪談と、そちらのほうに主戦場を決めたのかと思われていた、まだまだデビュー2、3年めにして、集英社の小説誌『小説すばる』に初登場を果たしたこの作家は、何とびっくり、そうとうぶっとんだナンセンスギャグ小説を発表して、その作風の手広さを文壇、読書界に知らしめます。

 『小説すばる』平成8年/1996年1月号、目次ではいつもの見慣れたペンネームだったものの、本文をひらくと、そこにはペンネームの上に「新」の文字が付けられ、タイトルは当時のベストセラー小説をもじった「四十七人の力士」となっていました。

 目次の惹句は「不条理な笑い。本誌初登場!」、本文に編集部が書いたコピーはこんな感じです。

「元禄十四年十二月。四十七人の力士が行進する。目指すは、吉良邸!

本誌初登場!京極夏彦が挑む、不条理な笑いの世界!」

 その後、同誌の平成8年/1996年6月号では〈南極夏彦〉名義で「パラサイト・デブ」を発表。「どすこい」小説シリーズは翌年以降もつづき、平成9年/1997年1月号「すべてがデブになる(前編)」=N極夏彦、同年2月号「すべてがデブになる(中編)」=N極改め月極夏彦、同年3月号「すべてがデブになる(解決編)」=月極夏彦、平成10年/1998年3月号「土俵(リング)・でぶせん」=京塚昌彦、平成11年/1999年3月号「脂鬼」=京極夏場所のあと、同年7月号「理油(意味不明)」だけはいつものペンネームをつけて脇に「名前ネタに困った訳ではありません」との一文が付いています。

 これらの連作が平成12年/2000年2月に『どすこい(仮)』と単行本になるときには、書下ろしの「ウロボロスの基礎代謝」が併載され、その作者名は〈両国踏四股〉と、雑誌連載時のペンネームギャグを踏襲します。

 それぞれの作者には、とりあえず設定があるらしく、集英社文庫に載った記載を引いておくと〈両国踏四股〉の場合は、こうです。

「両国踏四股(りょうごくふみしこ)一九七〇年本所生まれ。ノンフィクションライター。十二代続いた生粋の江戸っ子である。先祖の日記を元にした『本所宇兵衛日記』で脚光を浴びる。その後ミステリ作家に転身し、活躍中。」

 こういうお遊びを楽しめるかどうかは、受け取り手おのおのの感性によるので、どうでもいい気がします。たた、一編一編、よくもまあ手をかえ品をかえながら、こんなおかしな世界をつくり上げたな、という面では、この作者がデビュー以来見せてきた凝り性なところがよく出ていて、面白いです。

 凝って凝って、凝りまくったところに山周賞や直木賞、その後のいくつかの賞の受賞と続いていくのですから、まあ『どすこい(仮)』も直木賞に一脈通じる一作だった、と強弁しておきましょう。

 もう一つ、この連作で見せたペンネームの多発と直木賞(というか直木三十五さん)の関連性は、今日、南国忌の講演のなかでも少し触れられていました。

 直木さんはペンネームを三十一から始めて、年をとるごとに三十二、三十三と増やしていった。僕もペンネームにはあまり執着がなく一作ごとに秋彦、冬彦と、変えていったっていいと思っているたちなので、うんぬん、と。

 まじめなツラして辛気くさいハナシばっかり書いてもつまらない、というのが直木三十五さんの一貫した創作姿勢だった。と見れば、案外この人も直木さんと相当似通った作家なのかもしれません。

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2025年2月16日 (日)

岩田豊雄…たった一度きり、ペンネームではなく本名で直木賞を選考したら、受賞を拒否られる。

 一人の人が違う名前を使って直木賞の候補に挙がった。そんな例は何度かあります。

 だけど、一人の作家がよく知られている名前とはまた別の名を使って直木賞の選考委員をやった、という例はそんなに多くはありません。

 いや、多くないどころか、そんな奇妙な事例を歴史に刻んだのは、無駄に長い直木賞の歩みのなかでも、たった一人しかいません。

 直木賞は昭和9年/1934年に創設が発表されてから5年ほど、選考委員8人体制で行われました。しかし、これはうちのブログでも何度かコスッっているネタですけど、あまりに委員たちのやる気のなさに業を煮やした小島政二郎さんとか佐佐木茂索さんが、当時、芥川賞の委員だった人たちにも頭を下げて、申し訳ないけど、腐れ切った大衆文芸の発展のために、純で高貴なあなたたちの文学観で直木賞を助けてくれませんか、と言って(ほんとに、そんなことを言ったのかはさておいて)、数回、直木賞委員会と芥川賞委員会の合同で直木賞を決める、という荒治療を敢行します。

 しかしこれもなかなかうまくいかず、やる気がありそうで、文春にも快く協力してくれそうな、人柄のいい文士を物色した結果、第13回(昭和16年/1941年・上半期)から片岡鉄兵さんに選考を委嘱。これでうまくいけばよかったんですけど、直木賞ってイマイチだよね、の世間一般、文壇内部の評判を覆すまでにはいたらず、そのうち世のなかは戦争まっただなかに突入しました。

 いつまでもこのメンバーで直木賞をやってたってラチが明かないな、と菊池寛さんが思ったか、あるいは文藝春秋社内部の権力闘争のすえに、国策迎合グループが勝利をおさめた結果なのか、第17回(昭和18年/1943年・上半期)から選考委員を大幅に入れ替えることになります。残留したのは大佛次郎さんと吉川英治さんの二人だけで、新任として4人の作家に、選考委員をお願いすることになりました。

 このとき選考会に加わったのは、井伏鱒二さん一人を除いて、ほか3人は過去の直木賞で授賞が議論されながらけっきょく賞を贈られなかった落選組です。戦局が加熱する時代、いかに大衆文芸の世界に、重鎮・中堅作家が不足していたか、というのを表わしている人選でもあったんですけど、その3人のうちの一人が今週の主役となります。岩田豊雄さんです。

 〈岩田豊雄〉といっても、そんな名前は過去の直木賞の候補者リストのどこにもありません。また、〈岩田豊雄〉の名で直木賞の選考に当たったのも第17回の1回きりで、次の第18回からは、一般に大衆作家として知られているペンネームのほうで、直木賞選考委員を継続することになりました。このあたりの経緯も妙といえば妙で、直木賞の歴史のなかにちょくちょく出てくる、細かいことは気にしない鷹揚でテキトーな風合いが、この事例にもはっきりと表われている、と言っていいでしょう。

 直木賞はだいたいいつもテキトーな(っつうか真意がよくわからない)顔を見せる文学賞ですけど、〈岩田〉名義を1回きりで辞めたのは、どう見ても本人の希望に違いありません。

 選考委員を始めることになった昭和18年/1943年夏当時、〈岩田〉さんはふだんユーモア小説を書くときに使っている有名なペンネームだけじゃなく、そちらの本名のほうでも小説家として一気に知られていました。前年に『朝日新聞』に「海軍」という小説を連載、昭和18年/1943年には単行本化されますが、いずれも〈岩田豊雄〉の名前で発表したからです。

 〈岩田〉さんのこの二つの名前の使い分けについては、おれは文学に詳しいんだぞと威張っている変人ないし異常者たちのあいだでは有名なことらしいので、ワタクシもあまり突っ込んで書くのは控えたいと思います。要は、劇作とか翻訳とか、マジメでフォーマルな仕事のときは本名の〈岩田豊雄〉を使い、生活のお金を稼ぐためについつい筆をとってしまったユーモア小説、読み物小説を書くときには、ちょっとこじゃれた由来の別のペンネームを使う……ということだったらしいです。

 十返肇さんの表現を引くと、こういうことです。

「獅子文六がユーモア小説界に占めている位置は、時代小説で大仏次郎の占めている位置によく似ているように思われる。即ち、両名とも、たんなるユーモア作家または単なる時代小説家ではなく、西欧芸術の教養を身につけ、多分にディレッタンチズムを持ち合わせており、一脈の知性が作品の底に在ることである。

(引用者中略)

彼は戦争中『海軍』を書いて時局に便乗した。それも獅子文六というペン・ネームでは、帝国海軍を描くのに恐れ多いとでも思つてか、本名の岩田豊雄で書いた」(昭和30年/1955年7月・大日本雄弁会講談社/ミリオン・ブックス、十返肇・著『五十人の作家』より)

 戦時中、かしこまって書いた新聞小説に、劇作者名ではなく本名を使ったのは、やはり本人の意思がそこにあったからでしょう。しかし、それで売れた名前を、最初の直木賞選考のときに使ったのは、本人の意思だったのか、あるいは文春側が「いま話題の書き手だから、そっちの名前のほうが据わりがいい」と思って選んだのか、そこら辺はわかりません。

 まあ、直木賞の選考なんてものに、自分のマジメモードのときの名前を使うのは憚られる、と〈岩田〉さんが思ったのはたしかなんだと思います。2回目から選考委員名をペンネームに変えたのは、きっとそんな気持ちの表われです。

 ちなみに、一回きりの〈岩田〉名義の選考では、授賞と決めた相手の作家が、そんなもん要らねえよと受賞を拒否した直木賞史でも特殊な回にもなりました。せっかく、大衆文芸の舞台で珍しく本名を使って選考したのに、「辞退」という名のNOを付きつけられて、冴えない歴史を刻んでいた直木賞に、またも大きな泥を塗られてしまうという……。〈岩田豊雄〉名義が、よくよく直木賞とは相性がよくなかったのかもしれません。

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2025年2月 9日 (日)

梟森南溟…身元を明かさずパートナーと共同で執筆し、パートナーと別れたあとに覆面を脱いで単行本化。

 直木賞とタヒチ、といえばこの人です。

 と、何の前置きもなく、唐突な始まりですけど、直木賞を楽しむのに、別に決まりや資格は必要ありません。どう楽しもうがたいがい自由です。

 今週取り上げる第116回(平成8年/1996年・下半期)直木賞の受賞者も、はたから見ると自由というか奔放というか、そんな人だと思います。

 ライター業から童話・児童文学の賞をとって作家業の歩みをスタートさせ、そこから妙にオドロオドロしい怨念情念あたり前の小説を書き出すと、文学賞の神様から放っておかれるはずもなく、山本周五郎賞の候補になるわ、直木賞の候補になるわと、にわかに身辺騒がしくなったと思ったら、いよいよ第116回、並みいる強敵をおさえて直木賞に選ばれます。

 で、この回の他の候補者はどんな人たちだったのか。『不夜城』の馳星周さんとか、『蒲生邸事件』の宮部みゆきさんとか、『ゴサインタン』の篠田節子さんとか、『カウント・プラン』の黒川博行とか、ミステリー界隈に嵐を巻き起こす(すでに巻き起こしていた)30代から40代の、イキのいい新星たちがきらめいていました。もう30年近くも前のハナシです。

 このとき直木賞を受賞したのが、いまとなってはもう新作を読むことができない今週の主役の方なんですが、直木賞をとれば、とりあえず執筆舞台は広がります。受賞当時は38歳で、仕事の量もたくさんこなせるお年頃です。飛び込む執筆依頼を順調にこなして、エンタメ小説界の一角で元気に活躍するにつれ、徐々に奔放な作家のイメージが増幅されていきました。

 いや、増幅されていった、というのはワタクシ個人の感覚にすぎません。ほんとうのところはどうだったのか。ただ一つ言えることがあるとすれば、住む場所も一つのところに縛られず、日本から海外から、さまざまな場所に住まいを移した、というところが自由な人、というイメージのひとつにあったものと思います。

 何つったって、直木賞を受賞した平成9年/1997年1月当時も、日本ではなくイタリア・パドヴァに住んでいた、というぐらいの放浪者(?)です。

 受賞の翌年、平成10年/1998年3月にはタヒチに移住。平成19年/2007年にイタリア・リド島に移ったりしながら、平成20年/2008年12月に帰国するまで外国で暮らしますが、そのあいだには、いわゆる「子猫殺し」騒動ってやつを巻き起こし、ああだのこうだの叩かれて、ネット炎上の歴史のなかに、たしかな足跡を残しました。

 と、まあ炎上のハナシはともかくとして、彼女がタヒチ時代に残した作品はさまざまあります。そのなかには、いつも使っている名前とは別の名義で発表した二冊の小説もまじっています。

 それが〈梟森南溟〉さんの『欲情』(平成20年/2008年2月・角川書店刊)と『恍惚』(平成20年/2008年2月・講談社刊)です。

 前者は『野性時代』平成16年/2004年1月号から、後者は『小説現代』平成17年/2005年3月号から、〈梟森南溟〉の名前で掲載が始まったもので、そのときは匿名作家として正体を明かさず、単行本化されたときに、それが直木賞を受賞した女性と、執筆当時にパートナーとしてタヒチでいっしょに暮らしていたジャンクロード・ミッシェルさんとの共作であることが明かされました。

 共作ということで、一人の作家がこれまでの名前とは違う別の筆名を使った、という例とはちょっと事情が違います。

 あの直木賞作家が別の名前で新作を出した! といったような宣伝文句は、この当時、二冊に付いてまわったコピーですけど、さらにいえば、〈梟森南溟〉という名前の本は、この二冊も同時発売が最初で最後、とはっきり打ち出されたことも、またインパクトを感じさせました。

 新聞の紹介記事に、こんなふうに表現されています。

「梟森南溟(ふくもりなんめい)なる謎めいた筆名の著者が、二つの出版社から同時に小説を刊行した。(引用者中略)いずれもエロスをテーマとし、版元は違うのに装丁も対になっている。

何かと思えば、直木賞作家の坂東眞砂子さんとその元パートナー、ジャンクロード・ミッシェルさんの共同執筆作。雑誌掲載時は覆面だったが、本の刊行にあたって初めて真相が明かされた。執筆は話し合いで大まかな筋を決め、ミッシェルさんのフランス語を2人で翻訳、坂東さんが全体的な構成や推敲を担当した。官能を極めた2冊だが、2人は既に別れ、この筆名の本も最後になるという。」(『読売新聞』平成20年/2008年3月25日「極めたエロス 覆面作家「梟森南溟」が同時出版」より)

 まじか。〈梟森南溟〉の小説、もう読めないの? と号泣する読者が続出した……かどうかは寡聞にして知りませんが、生まれたと思ったらさっさと幕を閉じてしまった〈梟森南溟〉。さすが自由人、やることが他の作家とは一味もふた味も違っています。

 パートナーと別れても、その後、作家活動は途切れることなく続きました。しかし、平成26年/2014年に高知市で病死。享年55。わ、若いです。

 まじか。もう新しい小説、読めないの? と号泣する読者が、さすがにこのときは全国に何百人、何千人かはいた、という証拠はどこにもありません。だけど、そう思っておきたい気持ちが、ワタクシは拭いきれません。

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2025年2月 2日 (日)

三上天洞…10代の頃に投書家として名前が知られ、長じて直木賞の選考委員になる。

 昨日、令和7年/2025年2月1日、埼玉県春日部市のはずれのはずれにある大凧文化交流センター「ハルカイト」で、湯浅篤志さんによる『百万両秘聞』関連の講演会がありました。

 『百万両秘聞』の作者が、春日部市(もとの庄和町)出身の人だったことが縁で、そういうことになったんですけど、そんな作家の名前を聞いたところで、おおかたの現代人は首をかしげるに違いありません。

 たとえば、直木賞っていうけど直木賞の直木ってだれだそりゃ。といったようなことを、何十年も前から数多くの人たちが飽きもせずに語ってきた(いまも語っている)のを、ワタクシ自身、体感的によく知っています。昔の作家の名前はほとんどが忘れ去られる。どうあっても、しゃーないことです。

 ただ、直木三十五さんが心を許した(?)無二の親友、しかも直木さんが死んで1年足らずでできた文学賞に、しょっぱなから深く関わったといわれる人のことを、直木賞ファンであれば、ないがしろにするわけにはいきません。今回、別に誰から頼まれたわけでもないのに、春日部とは何の関係もない一介の直木賞オタクが、刻々と進行する老眼に悩まされながら、『百万両秘聞』をテキストに起こして復刊したのも、直木賞の関係者でもあったこの作者に対する感謝の気持ちが根本にあったからです。これからも機会があれば、顕彰していきたいと思います。

 と、それはそれとして、直木三十五さんは生前、いくつかの名前を使い、いまとなっては作品よりも、その筆名エピソードがよく知られている手合いの作家です。対して『百万両秘聞』の作者にあたる直木さんの友人も、本名のほか、いくつかの筆名・号を使っていたことが知られています。いずれも売れっ子になる前に付けられた名前です。

 一つに〈水上藻花〉というのがあります。本名でつくった自費出版の『春光の下に』を献本したことがきっかけで、長谷川時雨さんと恋仲になり、大正8年/1919年春ごろには東京・矢来町で二人は所帯をもつことになりますが、全然売れない文士の卵だった新しい旦那に、どうにか仕事を与えたいと思った時雨さんが、相談相手にしたひとりが博文館『講談雑誌』の編集長だった生田蝶介さんです。

 生田さんが、いったいこの鼻持ちならない(?)若い旦那の、何を見て才能を見出したのか。ともかく、うちの雑誌で時代物を書いてみたらいいよ、と声をかけてもらい、書き上げたのが「呉羽之介の絵姿」の一編です。これを『講談雑誌』に載せるときに〈水上藻花〉のペンネームを使いました。その後、翌大正9年/1920年にも『講談雑誌』に「入浪春太郎英明」をその名前を使って発表しますが、長くは使いつづけられなかった模様です。

 〈智恵保夫〉というペンネームもあります。こちらは関東大震災を経て徐々に、本名での文名が上がっていく過程のなかで、大正13年/1924年ごろに創作とは別に、『新潮』や『時事新報』などに評論を書くときに名乗った別名です。その頃、年齢は33歳。時雨さんとの生活のなかで、いよいよ通俗物でやっていくという腹が決まったものか、小説を書きまくるちょうど初めの頃で、その後は本名のほうが一気に世間に有名になりますので、〈智恵保夫〉という名前もすぐに使われなくなってしまいます。

 牧逸馬さんじゃあるまいし、そうそういくつもの名前で活躍しつづけられるわけがありません。ちょっこと使って、すぐ捨てる。それがペンネームってやつの、一般的な運命なのかもしれません。

 それで、もうひとつ、〈水上藻花〉=〈智恵保夫〉には若かりし頃に使ったペンネームがありました。ひょっとしたら、別名のなかではこれがいちばん世のなかに知られたものだった、という説もあります。〈三上天洞〉という名前です。

 これはまだ〈天洞〉さんが旧制中学に通っていた頃、当時、文学に興味のある青年たちがこぞって購読していた投書雑誌『文章世界』に原稿を送るときに、よく使われていた名前です。

 たかが、ガキの投書じゃねーか、そんなものが有名になるわけないだろ。と馬鹿にしたものでもありません。木村毅さんとか宇野浩二さんとか、同じころに中学に通って雑誌をよく読んでいた若者に言わせれば、〈三上天洞〉の名は投書家のなかで毎月のように誌面で見かける、いわば有名人だったそうですし、菊池寛さんなんかも、こんなふうに言っています。

「(引用者注:明治43年/1910年)四月になると、私は、徴兵猶予のために、どうしてもある学校に席を置かねばならなかつた。そして、もし一高が駄目だった場合に、その学校を続けてもよいためにと思つて、私の選んだのは早稲田の文科であつた。

私が、文科に入学してゐたことなどは、誰にも話さなかつたから、恐らく誰も知らないだらう。明治四十三年度入学の文科に私はゐたのである。

その組に、三上天洞と云ふ学生がゐたことだけ、私はハツキリ覚えてゐる、この天洞と云ふ男は、「文章世界」でも、相当文名があつたので、同級の人にも直ぐ知られたらしい。私もその意味で覚えてゐるのである。もし、此の天洞が三上於菟吉であつたとしたら、私は三上君と同級だつたのである。いな、三上君ばかりでなく、広津(引用者注:和郎)君、宇野(引用者注:浩二)君、澤田正二郎君などこの人達が四十三年度の入学なら、同級だつたのであらう。私がもし一高の試験に落第して、早稲田に止まつたら、広津君や三上君などと一緒に文壇に出られたゞらうかなどと、時々思つて見るのである。」(菊池寛「半自叙伝」より)

 年譜によれば菊池さんが早稲田の高等師範部に入学したのが明治43年/1910年3月。5月に高等予科に転入学して、7月には退学していますので、ほんの2か月間だけ、宇野さんたちと同級だったようです。

 しかし、そんなわずかな在学中に、はっきり覚えている同級生として名指しされているのが〈天洞〉さんなわけです。投書で毎月のように採用されていた、という経歴が、十代後半の青年たちに、どんだけ憧れの目で見られていたことか、よくわかります。

 まあでも、そういうのは明治時代だけに限ったことじゃないだろうとも思います。大正、昭和、平成と、ある狭いコミュニティにだけ有名人扱いされる人というのは、絶えてなくなったことはありません。

 いまでいうと、文学フリマでは大人気作家とか、Xやインスタ、TikTokでは超人気のアカウント、というのと近い気がします。そういう人たちが、何年か何十年かたって、また別の名前(ないしは本名で)小説家としてデビューし、人気者へとおどり出て、直木賞の選考委員もやってしまう。……〈天洞〉さんみたいな人は、これからもたくさん出てくるでしょうし、そういう人たちに、未来の直木賞を盛り上げていってもらえたら直木賞ファンとしてもうれしいな、と思います。

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