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2025年1月 5日 (日)

村田春樹…乗りに乗った流行作家になったあと、なぜか変名で時局に即した小説を書く。

 新年一発目ということで、今年もまたこの作家のことから始めたいと思います。

 直木賞とめちゃくちゃ関係がありそうで、でも賞が始まる頃にはすでに死んでいたので、本人そのものとは別に関係なんかない……でおなじみの、昭和9年/1934年2月にあの世に旅立っちゃった大衆文芸作家です。

 昨年5月から、うちのブログでは、直木賞の候補に挙がったときの名前とは別の名でも知られているような、そんな人たちの例をさぐっています。一つの名前で小説を書きつづける人も多くいるなかで、あれやこれや、そのときの事情で名前を変えて活動した人は、けっこういます。いったい「名前」って何なのか……。よくわかりませんけど、とにかく不思議で面白い世界なのはたしかです。

 で、直木賞の候補になった人たちより何より、何といっても「直木賞」の賞名に冠された人物こそ、筆名をたくさん変えたことで有名です。とりあげないわけにはいきません。

 最も知られているのは、〈三十一〉から始めて年が変わるごとに〈三十二〉〈三十三〉、一個とばして〈三十五〉と自分の数え年に応じてコロコロ筆名を変えたエピソードです。名前なんて何だっていいじゃん、と世の中を舐め腐っているこの人の性格がよく出ています。

 そのほかにも、本名の〈植村宗一〉でものを書いていた時期がありますし、〈竹林賢七〉〈閑養軒〉〈香西織恵〉といったペンネームを使ったこともあります。どれもこれも、まだ彼が大衆作家として有名になる前のことですから、名前を変えて遊んでも、別に問題はありませんでした。

 そんな彼が筆名を固定したのが大正15年/1926年1月からで、佐佐木茂索さんあたりに、年齢ごとに名前を変えるなんてつまんねえこともうやめろよ、と助言を受けたのがきっかけだったらしいです。つまらないことをつまらない、とはっきり言ってくれる友人は大切ですね。

 筆名をひとつに決めてからは、なぜか運もツイてきたかぞくぞくと原稿が売れはじめ、時代長篇を書けば大評判。『週刊朝日』に連載した「由比根元大殺記」(昭和4年/1929年)とか『サンデー毎日』の「風流殺法陣」(同年)あたりで勢いよく波に乗り、昭和5年/1930年から始めた『東京日日』『大阪毎日』連載小説「南国太平記」で完全に名前が売れて大衆文壇であばれまわる流行作家、っていう地位を手に入れました。貧乏からも脱出しました。

 そう考えると、筆名をひとつに決めたことも彼にとっては重要だったのかもしれません。これで物書きとしても土台が安定して、各メディアで言いたい放題、書き放題。有名作家の仲間入りです。よかったよかった。

 ……と、その後はたしかに「直木賞」に名を残す一つのペンネームで活躍をつづけたんですけど、まるで違う名前を名乗って『文藝春秋』に長篇を連載したことがあります。いったいなぜに魔がさしたのか。いや、魔がさしたというより、このテキトーさ、自由な風合いが彼の本領だったとも言えるでしょう。昭和6年/1931年2月号から8月号まで「太平洋戦争」という現代の国際情勢に根ざした仮想政治小説を連載します。使ったペンネームは〈村田春樹〉といいます。

 〈村田春樹〉というのが、何を由来にした名前なのか。わかりませんけど、『文藝春秋』連載中から実はその正体は、例のイケイケ大衆作家だと公然とバレていたそうです。何のための変名なのか。この人のやることには、なかなかついていけないものがあります。

 小説を始める前の冒頭に「現在の出来事に就て」なる、作者自身による解説めいたものが付いているのも、ギョッとします。自信家でならした彼の、やたらと高い調子の文章が続くんですが、その一端だけ引いておきたいと思います。

「自分は、現在の日本の、国勢及び、国情を基礎としてその延長線の上に、一つの事件を構成し、これを、小説的形式として描き「太平洋戦争」と、題した。

(引用者中略)

この多方面の、情勢を描くに当り、諸君は、必ずしも、その全部に、通じては居られまいと思うから、簡単に、今日の日本が、何ういう状態に在るか、ということを、次に、説明しておきたい。これは、この小説に於て、重要なる役目を務めるばかりでなく、これ自らのみでも、猶、相当の価値と、興味とが、あるとおもう。」(『文藝春秋』昭和6年/1936年2月号「太平洋戦争 第一回」より ―引用原文は『直木三十五全集 第18巻』)

 と大きく振りかぶって、「一、経済に就て」「二、支那に就て」「三、満洲に就て」「四、アメリカの対満野心」「五、軍備に就て」「六、科学」「七、太平洋戦争」と、作者が考える現状ってやつを書いています。

 彼が死んだのはそれから3年後、43歳のときでしたが、年齢からいってもっと生き延びてもおかしくはなく、40代、50代、60代と年を重ねていれば、きっと彼自身、興味と関心をそそぎ込んだ日本の中国進出、あるいは満州国の行く末もその目で確認できたはずです。負けん気の強い人だったみたいなので、日本の敗戦を見ても、別に自分が好戦的だったことも忘れて責任逃れの文章を書きまくっていたでしょう。

 とうてい文学賞の賞名に付けられるような人物ではなかった、と思ういっぽうで、日本の戦争の行方を知らずに昭和9年/1934年で死んだからこそ、「直木賞」なんてものがつくられたことを思えば、やっぱり運のいい人だったんだな、と言えなくもありません。

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