球磨川淡…戦前、謎のまま直木賞界隈に現われ、すぐに謎のまま去っていった人。
直木賞の歴史を調べていると、謎めいた人物にしょっちゅう出会います。
いや、しょっちゅう、っていうのは言いすぎかもしれません。「たまに」と、無難な表現に修正しておきますが、ともかく直木賞であれ、もうひとつの兄弟賞であれ、受賞した人や候補になった人が、何十年も有名人でありつづける例はそんなに多くありません。あとから生まれてきたワタクシたちにとっては、いったい、あなたは誰なんだ、と正体すらわからない候補者がけっこういます。
その「正体不明な候補者」のうち、最大の謎と言われたのは、数年まではこの人でした。第9回(昭和14年/1939年・上半期)の直木賞選考会で、どうやら候補作家として議論の俎上には乗せられたっぽい、けれどそれがどういう内容の小説で、だれが書いたものなのか、皆目手がかりが残っていない、という事例の件です。
なぜ、乗せられたっぽいことがわかるのか、というと、選考委員のひとりで、選考事務の責任者(?)でもあった佐佐木茂索さんが選評で触れているからです。
「わざわざ各委員宛に「陸軍大将」といふのが送られて来た。これは芥川賞を目指した自己推薦であつたが、寧ろ直木賞にどうだらうと各委員の説が出たが、もう一息といふ訳で決定を見ず、結局今回は直木賞は授賞者なしといふことになつた。」(『文藝春秋』昭和14年/1939年9月号より)
これを読むかぎり、送ってきた本人は、もうひとつの兄弟賞のほうを狙っていたらしいんですけど、最終的には直木賞のほうで議論された、ということで、うちのサイトでは直木賞のほうの候補作一覧に入れてあります。
しかし、何といっても謎は謎です。「陸軍大将」なる作品は何者が書いたのか。直木賞を調べはじめてン十年。ずっとわからなかったのですが、いまから4年ほど前、令和3年/2021年になってようやく判明しました。
それで、「陸軍大将」の作者は、そのあと戦後になってしばらくした頃、長谷川伸さんたちの新鷹会にも参加し、新しい筆名でいくつかの小説や随筆を残していることもわかりました。その名を〈球磨川淡〉(くまがわ・たん)といいます。本名は〈熊川正紹〉さんです。
……といっても、〈球磨川淡〉も〈熊川正紹〉も、そんじょそこらの文学辞典などではまずお目にかかれません。新鷹会に所属したことのある人は山ほどいますし、そのなかでも〈球磨川〉さんは決して多作なほうではなく、商業的な本という本は一冊も残していません。そりゃあ、なかなかたどりつけないはずだ、とため息をつくしかないわけです。
〈球磨川〉さんについては、春日部の奇人・盛厚三さんがやっている同人雑誌『北方人』に一編、その生涯の記録を書いたことがあります(36号[令和3年/2021年3月])。
それでも『北方人』も『北方人』で、盛さん自身が頑固な人ですから、まず一般的にお目にかかれる類いの冊子じゃありません。とりあえず〈球磨川〉さんのことをネットの上にも刻印しておこうと、ここに書き残しておきます。
生まれは大正4年/1915年11月8日。父親は、福岡・筑後出身の熊川千代喜さんという方です。主に関西を中心に仕事をしていた新聞人だったそうで、政界ともけっこう結びつきがあった、とも言われています。
〈球磨川〉さんも、この世に誕生したのは東京の地でしたが、やはり関西方面に縁があり、進んだ大学は京都の同志社です。いったいどんな青春時代を過ごしたのか、まるでうかがい知れませんけど、少なくとも大学の頃に文学に関心を抱いたという回想が残っています。当時の文藝春秋社に、自作を送りつけるくらいには、文学熱をもった人だったのはたしかです。
先に挙げた佐佐木さんの選評が書かれたのは昭和14年/1939年ですから、〈球磨川〉さんは23歳。鈴木結生さんとだいたい同じくらいの年ですね。
〈球磨川〉さんの場合、直木賞ももうひとつの兄弟賞も、受賞までは行きませんでしたが、その原稿は消え失せることなく、まもなく雑誌掲載のかたちで成就します。『オール讀物』昭和15年/1940年12月号に「陸軍大将」という作品名のままで掲載されたのです。
それから10数年を経て、彼は私家版で『小説 豎子傳』という長編小説の本をつくります。その巻末に本人による「略歴」が書かれているので、挙げておきましょう。
「大夫就房(ルビ:タイフナリフサ) 大正四年十一月 東京生れ。福岡県柳川出身。父は新聞記者。同志社大学予科中途退学、のち同校英語科卒業。昭和十四年「陸軍大将」直木賞候補。(翌十五年十二月号「オール讀物」に掲載) 以後、兵隊、満州放浪、引揚等を経て、作品も亦発表せず、今日に至る。」(昭和28年/1953年12月・私家版、大夫就房・著『小説 豎子傳』)
これによると「陸軍大将」を発表してからは、戦争の影響もあってかまったく創設を離れた、とのこと。『小説 豎子傳』は久しぶりの小説だったようですが、しかしこれ以降、『オール讀物』掲載時にも使ったこの筆名は完全に封印してしまいます。
まったく新しい名前の〈球磨川淡〉として『大衆文芸』に登場するのは、昭和37年/1962年になってから。〈球磨川〉さんは40代なかばを超えていました。
息子さんから聞いたハナシだと、定職という定職には就かず、家計はほとんど奥さんの働きによって成り立っていたそうです。いまであれば、たとえばそういう境遇でも数ある新人賞のために売れない原稿を次々と書いては応募し、撃沈を繰り返す、といった作家志望者はけっこういるでしょうが、〈球磨川〉さんはそういった動きはまったく見せず、ただただ歴史を調べたり、読書をしたりで、売文の世界には行きませんでした。
いまとなっては、彼が何を思って、何を考えて小説と向き合っていたのか。知ることはできません。戦前、たった一度だけ直木賞の選評に登場し、『オール讀物』という商業誌に掲載されたその名前を、わざわざ捨てたところに、俗な小説世界への未練を断とうとしたのかもしれないな、と想像するばかりです。
最近のコメント