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2025年1月の5件の記事

2025年1月26日 (日)

球磨川淡…戦前、謎のまま直木賞界隈に現われ、すぐに謎のまま去っていった人。

 直木賞の歴史を調べていると、謎めいた人物にしょっちゅう出会います。

 いや、しょっちゅう、っていうのは言いすぎかもしれません。「たまに」と、無難な表現に修正しておきますが、ともかく直木賞であれ、もうひとつの兄弟賞であれ、受賞した人や候補になった人が、何十年も有名人でありつづける例はそんなに多くありません。あとから生まれてきたワタクシたちにとっては、いったい、あなたは誰なんだ、と正体すらわからない候補者がけっこういます。

 その「正体不明な候補者」のうち、最大の謎と言われたのは、数年まではこの人でした。第9回(昭和14年/1939年・上半期)の直木賞選考会で、どうやら候補作家として議論の俎上には乗せられたっぽい、けれどそれがどういう内容の小説で、だれが書いたものなのか、皆目手がかりが残っていない、という事例の件です。

 なぜ、乗せられたっぽいことがわかるのか、というと、選考委員のひとりで、選考事務の責任者(?)でもあった佐佐木茂索さんが選評で触れているからです。

「わざわざ各委員宛に「陸軍大将」といふのが送られて来た。これは芥川賞を目指した自己推薦であつたが、寧ろ直木賞にどうだらうと各委員の説が出たが、もう一息といふ訳で決定を見ず、結局今回は直木賞は授賞者なしといふことになつた。」(『文藝春秋』昭和14年/1939年9月号より)

 これを読むかぎり、送ってきた本人は、もうひとつの兄弟賞のほうを狙っていたらしいんですけど、最終的には直木賞のほうで議論された、ということで、うちのサイトでは直木賞のほうの候補作一覧に入れてあります。

 しかし、何といっても謎は謎です。「陸軍大将」なる作品は何者が書いたのか。直木賞を調べはじめてン十年。ずっとわからなかったのですが、いまから4年ほど前、令和3年/2021年になってようやく判明しました。

 それで、「陸軍大将」の作者は、そのあと戦後になってしばらくした頃、長谷川伸さんたちの新鷹会にも参加し、新しい筆名でいくつかの小説や随筆を残していることもわかりました。その名を〈球磨川淡〉(くまがわ・たん)といいます。本名は〈熊川正紹〉さんです。

 ……といっても、〈球磨川淡〉も〈熊川正紹〉も、そんじょそこらの文学辞典などではまずお目にかかれません。新鷹会に所属したことのある人は山ほどいますし、そのなかでも〈球磨川〉さんは決して多作なほうではなく、商業的な本という本は一冊も残していません。そりゃあ、なかなかたどりつけないはずだ、とため息をつくしかないわけです。

 〈球磨川〉さんについては、春日部の奇人・盛厚三さんがやっている同人雑誌『北方人』に一編、その生涯の記録を書いたことがあります(36号[令和3年/2021年3月])。

 それでも『北方人』も『北方人』で、盛さん自身が頑固な人ですから、まず一般的にお目にかかれる類いの冊子じゃありません。とりあえず〈球磨川〉さんのことをネットの上にも刻印しておこうと、ここに書き残しておきます。

 生まれは大正4年/1915年11月8日。父親は、福岡・筑後出身の熊川千代喜さんという方です。主に関西を中心に仕事をしていた新聞人だったそうで、政界ともけっこう結びつきがあった、とも言われています。

 〈球磨川〉さんも、この世に誕生したのは東京の地でしたが、やはり関西方面に縁があり、進んだ大学は京都の同志社です。いったいどんな青春時代を過ごしたのか、まるでうかがい知れませんけど、少なくとも大学の頃に文学に関心を抱いたという回想が残っています。当時の文藝春秋社に、自作を送りつけるくらいには、文学熱をもった人だったのはたしかです。

 先に挙げた佐佐木さんの選評が書かれたのは昭和14年/1939年ですから、〈球磨川〉さんは23歳。鈴木結生さんとだいたい同じくらいの年ですね。

 〈球磨川〉さんの場合、直木賞ももうひとつの兄弟賞も、受賞までは行きませんでしたが、その原稿は消え失せることなく、まもなく雑誌掲載のかたちで成就します。『オール讀物』昭和15年/1940年12月号に「陸軍大将」という作品名のままで掲載されたのです。

 それから10数年を経て、彼は私家版で『小説 豎子傳』という長編小説の本をつくります。その巻末に本人による「略歴」が書かれているので、挙げておきましょう。

「大夫就房(ルビ:タイフナリフサ) 大正四年十一月 東京生れ。福岡県柳川出身。父は新聞記者。同志社大学予科中途退学、のち同校英語科卒業。昭和十四年「陸軍大将」直木賞候補。(翌十五年十二月号「オール讀物」に掲載) 以後、兵隊、満州放浪、引揚等を経て、作品も亦発表せず、今日に至る。」(昭和28年/1953年12月・私家版、大夫就房・著『小説 豎子傳』)

 これによると「陸軍大将」を発表してからは、戦争の影響もあってかまったく創設を離れた、とのこと。『小説 豎子傳』は久しぶりの小説だったようですが、しかしこれ以降、『オール讀物』掲載時にも使ったこの筆名は完全に封印してしまいます。

 まったく新しい名前の〈球磨川淡〉として『大衆文芸』に登場するのは、昭和37年/1962年になってから。〈球磨川〉さんは40代なかばを超えていました。

 息子さんから聞いたハナシだと、定職という定職には就かず、家計はほとんど奥さんの働きによって成り立っていたそうです。いまであれば、たとえばそういう境遇でも数ある新人賞のために売れない原稿を次々と書いては応募し、撃沈を繰り返す、といった作家志望者はけっこういるでしょうが、〈球磨川〉さんはそういった動きはまったく見せず、ただただ歴史を調べたり、読書をしたりで、売文の世界には行きませんでした。

 いまとなっては、彼が何を思って、何を考えて小説と向き合っていたのか。知ることはできません。戦前、たった一度だけ直木賞の選評に登場し、『オール讀物』という商業誌に掲載されたその名前を、わざわざ捨てたところに、俗な小説世界への未練を断とうとしたのかもしれないな、と想像するばかりです。

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2025年1月19日 (日)

三ノ瀬溪男…大衆読み物誌の懸賞に送るときに別名を名乗ったものが、そのまま直木賞候補になる。

 先日、新しい直木賞が決まりました。

 直木賞発表の騒ぎは、基本的には一過性です。ほかにあまたある時事ニュースの例にもれません。ひと晩経てば、もう7~8割の人が興味をうしなっているとも言われ、そのまま時の流れに逆らえず忘れられていきます。

 そのとおりです。直木賞のことなんて別に覚えている必要はありません。小説なんて、読みたい人が読めばいいし、読まなくたって大丈夫という、その程度のもんでしょう。直木賞の受賞作だからといって、読まなきゃいけない度合いが上がるわけじゃありません。

 で、何が言いたいかというと、直木賞のことに関心を失う人が多かろうがどうだろうが、うちのブログには何の関係もないっす、っていうことです。ワタクシ自身が直木賞についてもっと知りたい、という気持ちは、他人の動向で変わる手合いのものでもありません。今週以降も、ただただ、この無駄に長い歴史をもつ文学賞に、何かしら関係のあるハナシを、ブログに書きつづけていきたいと思います。

 さて、今週注目するのは、昭和37年/1962年といいますからいまから63年も前に第46回直木賞(昭和36年/1961年・下半期)を受賞した昔の作家です。

 生まれたのは大正6年/1917年ですから、もうじき生誕110周年を迎えようかという人です。昭和のはじめ、少年から青年へと成長していく頃には、もう詩をつくることに夢中で、原稿用紙を埋めては投書雑誌に送りつづけます。その頃、彼にとっては毎月、どこかに自分の作品が載ることのみが生きがいで、それ以外に何の楽しみもなかった、と言っています。いまでも、そういう人はよく見かけます。

 ちなみに投書先としてわかっているのは『日本詩壇』とか『蝋人形』とか『若草』とか『文藝首都』とかです。『文藝首都』には昭和10年/1935年4月号の「短篇欄」に「祖父一家」という作品が採用されました。これは、のちに使いつづけることになる本名名義で載っています。

 しかし投書ばかりしていても食えるはずはありません。とくに戦争化に向かって社会全体がうめうめと揺れ動いた時期です。昭和13年/1938年、20歳をちょうど越えた頃に軍隊に拾われることになり、そこから断続的に戦地生活を送ることになります。その間、文学への情熱は持ちつづけますが、なにせ発表舞台がどんどんなくなってしまい、こつこつと手帳に歌や句、文章を書き留めて心を癒していたんだとか何だとか。

 そんな彼の文学への風向きが変わり出すのは、終戦を迎え、日本が再出発をはかったことが大きかった、と断言しておきましょう。出版界も息を吹き返し、少しずつではありましたが、少しずつ活字の舞台も復活。彼自身も、一兵卒として軍隊生活を長く経験した、ということが生み出す作品にも如実に現われ、その力量が徐々に知られることになります。

 このとき、彼の前にあったのが原稿を募集する懸賞制度です。またぞろ昔の投書癖を取り戻すと、書いては送り、名前が雑誌に載っては喜ぶ日々を繰り返します。

 以前のように本名で送ったものもあったとは思いますが、この時期に入選、佳作など彼の受賞歴と知られるものの多くは、ペンネームでした。

 〈伊勢夏之助〉の名前で応募したのが、昭和24年/1949年『群像』小説・評論募集や、昭和25年/1950年『宝石』百万円懸賞コンクールC級(短篇)など。

 〈春桂多〉の名前で応募したのが、昭和27年/1952年『講談倶楽部』の公募新人賞、講談倶楽部賞。

 それから同年、伝統ある『サンデー毎日』大衆文芸のほうにも入選を果たし、入選作のなかから選ばれる年間最優秀賞の意味合いがあった「千葉賞」を受賞しますが、そのときは〈伊藤恵一〉の筆名を使いました。

 以降、同人雑誌に発表した作品で第27回(昭和27年/1952年・上半期)と第29回(昭和28年/1953年・上半期)の二度、芥川賞候補に挙げられ、おお、大衆文芸だけじゃなくて純文学でもいいもん書くやつがいるぞ、と一部で名を知られるんですけど、彼がはじめて直木賞候補になったのはそのあとです。

 昭和29年/1954年、第5回オール新人杯で「最後の戦闘機」が候補に残り、これが佳作に選ばれて『オール讀物』に掲載されると、そのまま第33回(昭和30年/1955年・上半期)直木賞の予選を通過してしまうのです。

 ちなみにそのとき、彼は本名ではなくペンネームを使いました。〈三ノ瀬溪男〉といいます。名前の由来はよくわかりません。

 応募する先に応じて、とっかえひっかえペンネームを変える。それぐらいのことは多くの人がやっていると思いますが、芥川賞候補入りの経験があるとはいえ、まだ世に出たとは言いがたいこの時期に、まるで本名とは結びつかない名前で直木賞の候補に挙がった。これはかなり稀少な出来事です。

 そのことについて、本人はどんなふうに振り返っているのか。ズバリの回想をまだ目にしたことがありません。ワタクシの調査もまだまだ甘っちょろいな、とうなだれるしかしないんですけど、代わりに、当時のことを書いた文章を引いておきたいと思います。昭和28年/1953年ごろ、『文學界』の座談会が終わったあとの場面です。

「同席していた吉行淳之介が私に、

「あんたは純文学と大衆文学を両方書きわけているが、純文学と大衆文学は、発想と文体がどう違うのか、発想は同じで文体が違うのか、よくわからない。どうなんだ?」

と、きかれた。

吉行淳之介が、なぜ私にそんな質問をしたかというと、私は「雲と植物の世界」のほかに「アリラン国境線」という小説が「講談倶楽部賞」に入選、「夏の鶯」が「サンデー毎日大衆文芸」に入選していたからである。

(引用者中略)

私にも、明確な解答は出なかった。(引用者中略)上手には答えられなかった。

「同人雑誌に書く時は、純文学として作品を書くし、『講談倶楽部』に書く場合は、大衆文学として書く。むろん、発想も文体も違う。しかし、断定はできない。」」(平成9年/1997年4月・講談社刊、伊藤桂一・著『文章作法 小説の書き方』より)

 これは純文学と大衆文学の書き分けの話題です。ひょっとしてペンネームも、同人雑誌では本名を使い続けていることを見れば、大衆文芸の懸賞に応募するときには、そのままじゃ気分がしっくりしないので、あえて変名をつけていたのか……とも思うんですが、『群像』にも〈伊勢夏之助〉名で出していますし、はっきりとはわかりません。

 ただ、同人雑誌に書いた作品で、芥川賞の候補になり、また直木賞も受賞しながら、大衆読み物誌の『オール讀物』には別の名義で書いてそれが直木賞の候補に挙がった、というのは、両者の垣根のそばをいつも歩いていた彼自身の作家的履歴を象徴しているのは、あきらかです。

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2025年1月15日 (水)

第172回直木賞(令和6年/2024年下半期)決定の夜に

 人生、楽しいことばかりじゃありません。むしろつらいことのほうが多いんじゃないか、と思います。何でこんな毎日を生きなくちゃいけないのか。だれか教えてほしいです。

 しかし、そうこうするうちに、イヤでも時間は流れます。まだかまだかと待ちに待って、ようやく半年が経ちました。1月15日(水)、第172回(令和6年/2024年・下半期) 直木賞が決まる日です。つらい毎日を忘れさせくれる唯一つのお楽しみです。

 まあ、こんなものしか楽しみがないとか、はたから見ると、ほとんど人生終わってますよね。ただ、いまさら生き方を変えることもできません。

 半年待てば直木賞がくる。候補作が発表されるのでそれを読む。まるでパッとしない生活も一作一作の小説を読んでいると、俄然、彩りが豊かになります。

 ええい、もう現実なんてどうでもいいや!……と、完全に人生を終わらせるわけにはいかないんですが、直木賞から得られる幸せな時間がたしかにある。それだけで明日を生きる気力も沸いてきます。

 今回も5つの候補作のおかげで、どうにかワタクシも命をつなげることができました。命の恩人とも言うべき5人の方々には、こんなチンケなブログでお礼を書いたところで、何ほどの感謝も伝わらないと思いますが、何も書かないよりましかと思い、万感の感謝を捧げます。

 荻堂顕さんって、まだ作品数は多くないけど、どれをとっても濃密にして熱く、クールにして肉厚な、圧倒的な筆力にしびれます。『飽くなき地景』もまた、読み進めながらビリビリきました。どうしてこんな発想が出てくるのか、この才能の前にワタクシはひれ伏します。これからも荻堂さんの小説を読める人生。それはもはや、極楽です。

 『秘色の契り 阿波宝暦明和の変 顚末譚』を読んで思わずうなりました。さすがだなあ、木下昌輝さんのうまさは。歴史モノでありながら堅苦しさをまるで感じさせない親しみやすさ。箸で蝿をつかむ場面などは、思わず本を置いて拍手してしまいました。木下さんなら、そのうち直木賞ぐらいとれるっしょ。

 いまさら月村了衛さんみたいな実力者に、直木賞が何か評価をつけるというのもおかしな話です。いや、直木賞がどうのこうのより、こんなブログでおためごかしな感想を書くのもためらわれます。『虚の伽藍』が放つ黒々とした鈍い光に、もはや言葉もありません。恐ろしい作家だ、月村了衛。

 朝倉かすみさんの『よむよむかたる』が、読書好きの人間に与えてくれた希望は計り知れません。本を読んで何かを思う。それが日常にある幸せを、物語にしてくれてありがとうございました。人さまの小説を偉そうに論評するより、作中の読書会の人たちのように年をとりたいものだと、しみじみ思います。

          ○

 直木賞の受賞予想をする人に言わせれば、きっとこの結果に対しても、うまい一言がいえるんでしょうけど、こちとら、ただ直木賞が好きなだけで生きています。何が落選したって何が受賞したって、それが直木賞というものなんだ、としか言いようがありません。

 伊与原新さんが、他の候補者に比べて賞に値するのか、あるいはしないのか。そんなことはわかりませんが、ともかく伊与原さんの作品は、読むといつもグッときます。とくに、うまく生きることのできない不器用な人物が出てくると、もうたまりません。『藍を継ぐ海』も、グッとくる短編ぞろいで、個人的に救われました。助かりました。

          ○

 せっかくの直木賞の日なんだから、全身全霊、楽しまなきゃ損だ。と思って、今回は、候補作に描かれた舞台の土地で結果発表を見届けるために、『よむよむかたる』の舞台、北海道小樽市で過ごしました。

 そりゃ、小樽の小説が受賞すればよかったでしょうけど、ただ、直木賞は受賞に関することだけで成り立っているわけではない、と身にしみて知るのにいい機会になりました。とれなくって残念だと思う気持ち。それでも読んで面白かったという掛け値なしの読書体験。とれなかった候補作やそれをとりまく事柄だってすべて、直木賞を構成する重要なピースです。歴史的にずっと。

 小樽まで行かなきゃそんなこともわからなかったのか、ポンコツめ、とツッコまれそうですけど、どうやれば直木賞と楽しく接することができるか、を生涯学んでいきたいワタクシにとっては、小樽で地元の人たちがひっそりと開いた「結果発表を待つ会」に参加できたのが、何よりです。うん、こういう直木賞選考会の夜の過ごし方も、全然ありだなと実感できました。

  • ニコニコ生放送……芥:18時14分(前期比+16分) 直:19時06分(前期比+26分)

 ニコ生の解説も、受賞者記者会見も、ゆっくり観れていないんですけど、あとでタイムシフトで楽しみます。直木賞の発表は、一過性で盛り上がるだけじゃなく、何度でも繰り返して楽しめるからいいですよね。……って、そんな楽しみ方してるの、おれだけか。

 何といっても、直木賞の歴史は無駄に長いので、決定発表がこれまで172回分もあります。それぞれの回を繰り返し繰り返し味わっていれば、6か月という長い時間もすぐに経ってくれるでしょう。第173回(令和7年/2025年・上半期)の候補と出会えるのは、6月なかば。それまでに人生終わっちまわないように気をつけて、次の出会いを待ちたいと思います。

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2025年1月12日 (日)

第172回(令和6年/2024年下半期)の候補作のなかで最も地域に密着した小説はどれか。

 直木賞の選考会は1年に2回ひらかれます。暑い夏の7月と、寒くて凍えそうな冬まっただなかの1月です。

 思い返せば半年前の夏の選考では、とくにどの地方のおハナシといった地域性を感じさせない短篇を多く収録した『ツミデミック』が受賞しました。

その前の冬の選考では、北海道東部の白糠付近と、京都を舞台にした『ともぐい』『八月の御所グラウンド』が受賞に選ばれ、さらに一回さかのぼった夏の選考は、京都や鎌倉その他、描かれる地域のばらけた『極楽征夷大将軍』と、物語は江戸で展開するものの、そもそも主人公がどこの地域の人なのかボンヤリしている『木挽町のあだ討ち』が受賞しました。

 その前は冬の選考で、満洲の『地図と拳』と石見地方の『しろがねの葉』、とどちらも地域性ぬきでは語れない小説が選ばれましたが、それより一回前の夏の選考では、どこのハナシと指し示すことの難しい短編集『夜に星を放つ』がとっています。

 ……と、どんどん時代を巻き戻しながら直木賞のことを考えるのは楽しんですけど、そればっかりやっていると夜が明けちまいそうです。ともかく最近の冬の選考では、特定の地域が前面に押し出された作品が、より多く受賞している、ということが言いたかったわけです。

 で、今回の第172回(令和6年/2024年・下半期)は今週の水曜日、1月15日に選考会がひらかれます。いわずもがな真冬の回です。

 候補作には5つが選ばれています。どれがとるかは、いまの段階ではまったくわかりませんが、5つの作品に共通していることといえば何でしょうか。どれも、それぞれ豊かな地域性をもった小説だ、ということです。

 ネットで直木賞の動向を見てみても、小樽出身の人が小樽を舞台にして候補になった!とか、今回は徳島を舞台にした歴史小説が候補になった!とか、京都の闇社会をあますところなく描き切った小説が候補になった!とか、そんなハナシがたくさん目につきますよね。おそらくみなさん、冬の直木賞は地方色が強ければ強いほど受賞しやすいんだ、ということが共通認識としてあるんだと思います。

 となると、やはり気になるのは、5つの候補作のなかでどれが一番、地域に密着しているのか、ということです。

 そんなもん、目に見えて比べられるもんじゃないだろ。とは思うんですけど、そんな正論に従っていては面白くありません。せっかくなので、うちのブログでは無理やりな手法をとることで、小説の地域密着度を計ってみることにしました。

 『よむよむかたる』は「小樽」、『藍を継ぐ海』は「見島」「東吉野」「長与」「野知内」「姫ケ浦」、『飽くなき地景』は「東京」、『秘色の契り』は「徳島」、『虚の伽藍』は「京都」。……それぞれ作品で何回、この地名が登場するか、その回数を数えてみます。

          ○

250112

 月村了衛さんの『虚の伽藍』が長篇小説のなかに249回も「京都」という文字を出現させて、見事トップに輝きました。おめでとうございます。

 京都がつく地名には府もあれば市もありますし、京都駅、京都弁など、なじみのある単語も数々あります。歴史的に長く日本の中心だった伝統の厚みもあいまって、納得の1位といったところでしょう。

 2番目につけた伊与原新さんの『藍を継ぐ海』は、今回の候補作中ただひとつの短編集です。収録された5つの短編それぞれが、その土地でなければ話が成り立たない、というぐらいに地域に密着していて、「夢化けの島」の「見島」(78回)、「狼犬ダイアリー」の「東吉野」(13回)、「祈りの破片」の「長与」(16回)、「星隕つ駅逓」の「野知内」(33回)、「藍を継ぐ海」の「姫ケ浦」(47回)、全部合わせて187回となりました。

 しかも5つの作品がすべて、それぞれの土地にピンポイントに焦点を合わせていて、好感をいだかせる点でもバツグンです。直木賞に極めて近い、と評価する人がいるのもよくわかります。

 3番目、木下昌輝さんの『秘色の契り 阿波宝暦明和の変 顚末譚』では、対象の地名を「徳島」にするか「阿波」にするか悩みましたが、藩の名前を優先することにして「徳島」で数えました。出現回数は169回。ちなみに「阿波」の回数を数えてみるとそちらは168回と、ほぼ同数という結果です。

 ただ、まあタイトルの副題に「阿波」と地名が入っていることからも、この作品が対象の地方に相当みっちりくっついているのはたしかです。「徳島」と「阿波」でちょっと分散しちゃいましたが、その内容は実質1位だった、と言えないこともありません。

 4番目になると、がくっと回数が減ります。荻堂顕さんの『飽くなき地景』は、「東京」という地域の街並みについて、歴史的な変遷が物語の骨組みを支えている小説ですが、「東京」という単語が出てくるのは87回でした。

 なかには「東京大学」とか「東京国立博物館」とか、そういった単語も出てきて、出現回数を押し上げていますが、いくら東京のことを書いた小説だからといって、いちいち東京、東京と書くのも不自然です。ことさら言うまでもない地名だったがために、無念、4番に甘んじた、と見るのが適切かと思います。

 そして、5作品中、最少回数となったのが朝倉かすみさんの『よむよむかたる』でした。意外や意外、作中に「小樽」の二文字が出てくるのは18回しかありません。

 だけど、この本の宣伝展開から見ると、あるいはあらすじを読むと、まず目に入る地名が「小樽」です。どこの街でこんな読書会が行われていても不自然じゃないとは思うんですが、しかし『よむよむかたる』で、読者の印象に残る土地は小樽です。最少の回数で、そのように読者に思わせるところが、書き手に熟練の技が備わっているあかしです。

          ○

 相変わらず「だから何なんだ」というハナシをだらだら書いていますが、こんなふうに直木賞の選考会まで待つのが、個人的に楽しいんだから仕方ありません。

 直木賞は、東京に会社がある文藝春秋が、東京の料亭で選考会を運営し、受賞者の記者会見も翌月おこなわれる授賞式もみんな東京でやってしまう、という狭い世界のイベントです。だけど、候補者や候補作それぞれに地域性があるおかげで、全国各地で盛り上がることができる、というすばらしい特徴があります。

 1月は外にもあまり出たくないような寒い季節ですが、作品が舞台にしている地域に思いを馳せながら選考会の結果発表を聞く。これを至極の幸福と言わずして何と言う、という感じです。

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2025年1月 5日 (日)

村田春樹…乗りに乗った流行作家になったあと、なぜか変名で時局に即した小説を書く。

 新年一発目ということで、今年もまたこの作家のことから始めたいと思います。

 直木賞とめちゃくちゃ関係がありそうで、でも賞が始まる頃にはすでに死んでいたので、本人そのものとは別に関係なんかない……でおなじみの、昭和9年/1934年2月にあの世に旅立っちゃった大衆文芸作家です。

 昨年5月から、うちのブログでは、直木賞の候補に挙がったときの名前とは別の名でも知られているような、そんな人たちの例をさぐっています。一つの名前で小説を書きつづける人も多くいるなかで、あれやこれや、そのときの事情で名前を変えて活動した人は、けっこういます。いったい「名前」って何なのか……。よくわかりませんけど、とにかく不思議で面白い世界なのはたしかです。

 で、直木賞の候補になった人たちより何より、何といっても「直木賞」の賞名に冠された人物こそ、筆名をたくさん変えたことで有名です。とりあげないわけにはいきません。

 最も知られているのは、〈三十一〉から始めて年が変わるごとに〈三十二〉〈三十三〉、一個とばして〈三十五〉と自分の数え年に応じてコロコロ筆名を変えたエピソードです。名前なんて何だっていいじゃん、と世の中を舐め腐っているこの人の性格がよく出ています。

 そのほかにも、本名の〈植村宗一〉でものを書いていた時期がありますし、〈竹林賢七〉〈閑養軒〉〈香西織恵〉といったペンネームを使ったこともあります。どれもこれも、まだ彼が大衆作家として有名になる前のことですから、名前を変えて遊んでも、別に問題はありませんでした。

 そんな彼が筆名を固定したのが大正15年/1926年1月からで、佐佐木茂索さんあたりに、年齢ごとに名前を変えるなんてつまんねえこともうやめろよ、と助言を受けたのがきっかけだったらしいです。つまらないことをつまらない、とはっきり言ってくれる友人は大切ですね。

 筆名をひとつに決めてからは、なぜか運もツイてきたかぞくぞくと原稿が売れはじめ、時代長篇を書けば大評判。『週刊朝日』に連載した「由比根元大殺記」(昭和4年/1929年)とか『サンデー毎日』の「風流殺法陣」(同年)あたりで勢いよく波に乗り、昭和5年/1930年から始めた『東京日日』『大阪毎日』連載小説「南国太平記」で完全に名前が売れて大衆文壇であばれまわる流行作家、っていう地位を手に入れました。貧乏からも脱出しました。

 そう考えると、筆名をひとつに決めたことも彼にとっては重要だったのかもしれません。これで物書きとしても土台が安定して、各メディアで言いたい放題、書き放題。有名作家の仲間入りです。よかったよかった。

 ……と、その後はたしかに「直木賞」に名を残す一つのペンネームで活躍をつづけたんですけど、まるで違う名前を名乗って『文藝春秋』に長篇を連載したことがあります。いったいなぜに魔がさしたのか。いや、魔がさしたというより、このテキトーさ、自由な風合いが彼の本領だったとも言えるでしょう。昭和6年/1931年2月号から8月号まで「太平洋戦争」という現代の国際情勢に根ざした仮想政治小説を連載します。使ったペンネームは〈村田春樹〉といいます。

 〈村田春樹〉というのが、何を由来にした名前なのか。わかりませんけど、『文藝春秋』連載中から実はその正体は、例のイケイケ大衆作家だと公然とバレていたそうです。何のための変名なのか。この人のやることには、なかなかついていけないものがあります。

 小説を始める前の冒頭に「現在の出来事に就て」なる、作者自身による解説めいたものが付いているのも、ギョッとします。自信家でならした彼の、やたらと高い調子の文章が続くんですが、その一端だけ引いておきたいと思います。

「自分は、現在の日本の、国勢及び、国情を基礎としてその延長線の上に、一つの事件を構成し、これを、小説的形式として描き「太平洋戦争」と、題した。

(引用者中略)

この多方面の、情勢を描くに当り、諸君は、必ずしも、その全部に、通じては居られまいと思うから、簡単に、今日の日本が、何ういう状態に在るか、ということを、次に、説明しておきたい。これは、この小説に於て、重要なる役目を務めるばかりでなく、これ自らのみでも、猶、相当の価値と、興味とが、あるとおもう。」(『文藝春秋』昭和6年/1936年2月号「太平洋戦争 第一回」より ―引用原文は『直木三十五全集 第18巻』)

 と大きく振りかぶって、「一、経済に就て」「二、支那に就て」「三、満洲に就て」「四、アメリカの対満野心」「五、軍備に就て」「六、科学」「七、太平洋戦争」と、作者が考える現状ってやつを書いています。

 彼が死んだのはそれから3年後、43歳のときでしたが、年齢からいってもっと生き延びてもおかしくはなく、40代、50代、60代と年を重ねていれば、きっと彼自身、興味と関心をそそぎ込んだ日本の中国進出、あるいは満州国の行く末もその目で確認できたはずです。負けん気の強い人だったみたいなので、日本の敗戦を見ても、別に自分が好戦的だったことも忘れて責任逃れの文章を書きまくっていたでしょう。

 とうてい文学賞の賞名に付けられるような人物ではなかった、と思ういっぽうで、日本の戦争の行方を知らずに昭和9年/1934年で死んだからこそ、「直木賞」なんてものがつくられたことを思えば、やっぱり運のいい人だったんだな、と言えなくもありません。

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