彩河杏…自分の書きたいことを小説に書くまでに、ペンネームをとっかえひっかえ。
作家デビューにもいろいろあります。見出されるまでの経緯もそうですし、何をもって「デビュー」とするのか、定義のしかたもいくつかあります。
というのも、小説には(いや、小説以外もそうですけど)「習作」期間と呼ばれる、線引きの難しいやつが昔っから存在しているからです。
はじめて小説を書いたからって、それが処女作にはならない。何なら、書いた小説がだれかに評価されて、商業ベースに乗ったとしても、それをデビューと呼ばない場合だってある。……なんだか文学の世界は難しいです。あんまり入り込みたくありません。
で、直木賞の候補者や受賞者のなかでも、「作家デビューはいつなんだ」問題を抱えている人がちらほらいます。何人か、いや何十人ぐらいいるかもしれません。わかりません。
とくに厄介なのは、彼ら作家の履歴のなかに、はじめて「一般小説」を書いた、みたいな表現がゴロゴロ転がっているからです。なんだよ一般小説って。という感じですけど、たとえば、戦前でいうと堤千代さんとか、戦後でいうと新章文子さんとか瀬戸内晴美さんとか、それからぐっと時代がくだって桐野夏生さんとか山本文緒さんとか唯川恵さんとか姫野カオルコさんとか、そういう人たちのデビュー作は何なのか。
見る人によってさまざま分かれるでしょう。何なら本人が何と言っているのか、という問題もあります。難しいです。
ということで、今週取り上げるこの人も、代表的な「作家デビュー作を複数もつ」直木賞候補者のひとりです。芥川賞の候補に何度かなったあと、第128回(平成14年/2002年・下半期)に『空中庭園』で直木賞の候補になり、第132回(平成16年/2004年・下半期)『対岸の彼女』で受賞しました。いまでは選考委員もやっています。
大学在学中にいったん作家デビューしました。昭和63年/1988年、第11回コバルト・ノベル大賞を〈彩河杏〉名義「お子様ランチ・ロックソース」で受賞したのがきっかけです。
なぜペンネームが〈彩河杏〉なのか。すでにこのときから、少女向けの小説は自分の書いていきたいものとはちょっと違う、という感覚があったのかもしれません。編集者がつけたかもしれませんし、子供時代から使っていた名前なのかもしれません。しれません、しれません、ばっかり言っていて気持ちわるいですが、彩河杏がその後、コバルトを牽引するような人気作家になったのなら、逸話ももっと伝説化したでしょうけど、『胸にほおばる、蛍草』『彼の地図 四年遅れのティーンエイジ・ブルース』『憂鬱の、おいしいいただき方』『あなたの名をいく度も』『三日月背にして眠りたい』『満月のうえで踊ろう』『メランコリー・ベイビー』と、昭和63年/1988年10月から平成2年/1990年4月の1年半のあいだに7作を出したところで、担当編集者に呼ばれ、もう原稿を書かなくていいです、とバッサリ打ち切りの憂き目に遭いました。
ただ、コバルトシリーズで書いているあいだい、本人のなかではずいぶん悩みがあった、とのちにいろんなインタビューやエッセイで回想しています。子供の頃から憧れていた「もの書き」になれたのに、人間、幸せに生きるのは難しいもんですね。
回想のうちのひとつ、『文藝』で特集されたときの「自筆年譜」にこうあります。
「一九八八年――実家を出て中野区野方でひとり暮らしをはじめる。少女小説は売れず、しかし休みはなく、卒論も重なり、チョコレート中毒になる。少女小説というものの目指す方向性と、私の書きたいことは、どうも相容れないのではないかとこの頃になってようやく気づき、脱出をはかるべく他の文芸誌に応募する。これも最終選考で落ちる。」(『文藝』平成17年/2005年春季号[2月]「自筆年譜&アルバム」より)
順番でいうと、そもそも最初に『すばる』のすばる文学賞に応募したのが、昭和62年/1987年4月30日締め切りの第11回。そのときは本名で最終選考にまで残り、受賞はできなかったものの、集英社の編集者に声をかけられて、コバルト・ノベル大賞応募のために書いたのが昭和63年/1988年1月10日締め切りの回です。
それで作家ビューを果たしながら、自分の書きたいこととの溝を感じ、別の文芸誌に応募したのは、だいたい1年ほど経った頃かと思われます。自筆年譜などを参考にすれば、大学を卒業した平成元年/1989年の春先にはコバルトの編集者から〈解雇〉通告を受けたらしいので、その応募作はちょうどその頃から少し後に書かれたもののようです。応募先はいまはなき『季刊フェミナ』が発表媒体となっていた第2回フェミナ賞です。締め切りは平成元年/1989年10月31日。ちなみに、実際に最終候補になって受賞を果たし、「文壇デビュー」と呼ばれる第9回海燕新人文学賞は、締め切りが平成2年/1990年6月30日で、このあたりの1、2年はギュッと詰まっています。
『海燕』のほうは、いまも使い続ける本名名義で受賞したんですけど、ギュっと詰まったこの時期は、本人によればいろいろとペンネームを使って書いていたんだとか。その頃、仕事で書いた雑誌の記事や、テレビ番組のノベライズ本などは、ペンネームで発表したらしいです。
フェミナ賞のほうも最終候補に残ったものは、本名名義での応募ではありませんでした。第2回の記録を見ると、受賞者は田村総さんと加藤博子さんの二人。ほかに候補は4人いて、江藤あさひさん、津田美幸さん、菊野美惠子さんは、他に別の作品を書いているので、何となくわかります。たった一人、正体のわからないのが「純粋家族」という作品で応募した〈椎橋りん〉さんです。
椎橋りん……。ほんとうにそれが、フェミナ賞に応募したときの別名義なのか、正直定かではありません。のちに『海燕』というしっかりした(?)雑誌でデビューしたので、もうそれはどうでもいいことなんでしょう。自分の進む道にもまだ先の見えなかった苦しい時代、ペンネームをとっかえひっかえすることは、どんな作家にもある……のかどうなのか、ともかく彩河杏さんはそうだった、ということのようです。
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