木元正二…直木賞の候補になったことで、物書きの道に光明を見出して改名する。
今年も一年を振り返る季節になりました。
直木賞のほうでは第170回(令和5年/2023年下半期)と第171回(令和6年/2024年上半期)、きっちりと2回、新しい選考会が行われて、これまでと変わりない楽しい姿を見せてくれたのが何よりの収穫です。出版業界は、いつつぶれたっておかしくありません。こんなオワコンでも粛々と続いていく様子をこの目で見られるのは幸せなことだ、と思います。
個人的なことでは、今年も変わらず続けたことでいえば、盛厚三さんがつくっている同人雑誌の『北方人』に、休むことなく原稿を載せてもらえたことが最大のニュースです。
43号、44号、45号と、今年『北方人』は3号出ました。それぞれワタクシの原稿は、まったく代わり映えもせずに昔の直木賞候補者のことを調べて書いたものなんですが、あらためて振り返ってみると、3人とも、広く(?)知られる筆名とは別に、違った名前でも原稿を書いていたことがある人たちです。2024年回顧の週なので、今週はそのうち一人の作家のことを取り上げて、一年をしめくくりたいと思います。
第43回(昭和35年/1960年・上半期)の直木賞で一度だけ候補になりました。大正元年/1912年生まれなので、候補になったときには47歳。『大阪毎日新聞』の記者として、あるいはその系列の夕刊紙『新大阪』の幹部社員として、社会人としてけっこうさまざまな経験を経てからの直木賞候補入りです。
小説を書き始めたのも、イイ大人になってからだった、と言われます。同じ大阪の『毎日新聞』で同僚でもあった井上靖さんが昭和25年/1950年に芥川賞を受賞、その様子を見て、くそーっ、おれだってあいつぐらいの小説は書けるはずだ、負けてられるか、と対抗心に火がついたのがきっかけだったとか、何だとか。不純な動機といいますか、いや、人に負けたくないと思うことが原動力になるんですから意外と純真な性格だったのかもしれません。
それで小説を書いてみて、自分でもイケると思ったものか、六興出版社の中間小説誌『小説公園』に託したところ、さらっと採用されてすんなりデビューを果たします。ううむ、あまりにうまく行きすぎている。しかし、ここで彼が偉かったのは、自分をたのんでそのまま職業作家になろうとしなかったことで、まだまだ小説の勉強をしなけりゃいけないと殊勝に考えた結果、長谷川伸さんたちの新鷹会に参加します。
おれは書きたいんだ、書きたいことはたくさんあるんだ。とばかりに、新聞社に務める忙しい身でありながら、積極的に小説を執筆すると、その勢いに応えて新鷹会の『大衆文芸』誌もぞくぞくと掲載。「弁慶像」(昭和34年/1959年11月号)を皮切りに、「霧の夜の基督」(同年12月号)、「れせ・ふえーる」(昭和35年/1960年1月号)、「刀塚」(同年3月号)、「絵筆」(同年5月号)……と発表が続きました。そのうち直木賞候補に挙げられたのが「刀塚」です。
「刀塚」の題材は、まさに自身が経験した戦後夕刊紙の風雲児『新大阪』の経営の裏話です。瀬戸保太郎さんをモデルにした〈玄海壮太郎〉なる男の、豪放な経営手法が描かれたもので、著者が後年得意としたノンフィクション+フィクションの経済読み物にも通じる小説世界といっていいでしょう。
直木賞のほうでは最終選考に残ったものの、あっさり落とされます。しかし、おれは直木賞の候補にまでなったんだ、と本人はどうやら発奮したらしく、これからもっともっと小説を書いていきたい、と意欲を固めます。
そのときに彼が向かったのが「改名」です。
本名で発表することをやめて、別の名前を名乗りはじめます。読みは本名と同じ、でも漢字を変えて〈木元正二〉としました。
「(引用者注:『大衆文芸』に発表した)当時は本名(木本正次)を使つていましたが、今年から文字を変えて新しく筆名を用いていますので、本書はそれに従いました。ご諒承を願います。
第一集のあとがきにも書いたことですが、私は一種の社会小説を念願しております。大げさにいうと、社会的リアリズムの基盤の上に、ロマンチシズムの花を開かせたいのです。その意味からいつて(引用者注:本書『泣き女』の収録した)三作ともフィクションであり、特定の人物や事件をモデルにしたものでないのはもちろんですが、しかし、それぞれの時代の社会については、あくまでも『真実』を描こうと、作者は努めたつもりです。」(昭和36年/1961年6月・大和出版刊、木元正二・著『泣女(なきめ)』「あとがき」より)
「刀塚」の背景や登場人物なども、ことごとくフィクションだと言い張っています。ふうむ、木元さん本人の意識はそうだったのかもしれません。でも、ここにモデルがない、というのはさすがに嘘だろうと思います。
……嘘かまことか、そんなことは本人にしかわからないので、勝手に決めつけてはいけませんね。すみません。
ともかく、社会的リアリズムってやつをもとにして、おれはフィクションを、創作をやっていくのだ。と40歳をすぎた社会的地位もあるおじさんが、やる気を出して前のめりになったその界隈に、直木賞と改名の二つがあったのはたしかなことです。
残念ながら、その後、木元さんはガチガチのフィクションの方面ではあまり評価されず、より事実に近い、新聞報道の延長線のようなノンフィクションもので名を上げることになって、すぐに名前も本名のほうに戻してしまいました。直木賞と改名、この二つは本人にとっては(たぶん)いい思い出として、過ぎ去った記憶のあくたのなかに埋もれていくことになった、と思われます。
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