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2024年12月の5件の記事

2024年12月29日 (日)

木元正二…直木賞の候補になったことで、物書きの道に光明を見出して改名する。

 今年も一年を振り返る季節になりました。

 直木賞のほうでは第170回(令和5年/2023年下半期)と第171回(令和6年/2024年上半期)、きっちりと2回、新しい選考会が行われて、これまでと変わりない楽しい姿を見せてくれたのが何よりの収穫です。出版業界は、いつつぶれたっておかしくありません。こんなオワコンでも粛々と続いていく様子をこの目で見られるのは幸せなことだ、と思います。

 個人的なことでは、今年も変わらず続けたことでいえば、盛厚三さんがつくっている同人雑誌の『北方人』に、休むことなく原稿を載せてもらえたことが最大のニュースです。

 43号、44号、45号と、今年『北方人』は3号出ました。それぞれワタクシの原稿は、まったく代わり映えもせずに昔の直木賞候補者のことを調べて書いたものなんですが、あらためて振り返ってみると、3人とも、広く(?)知られる筆名とは別に、違った名前でも原稿を書いていたことがある人たちです。2024年回顧の週なので、今週はそのうち一人の作家のことを取り上げて、一年をしめくくりたいと思います。

 第43回(昭和35年/1960年・上半期)の直木賞で一度だけ候補になりました。大正元年/1912年生まれなので、候補になったときには47歳。『大阪毎日新聞』の記者として、あるいはその系列の夕刊紙『新大阪』の幹部社員として、社会人としてけっこうさまざまな経験を経てからの直木賞候補入りです。

 小説を書き始めたのも、イイ大人になってからだった、と言われます。同じ大阪の『毎日新聞』で同僚でもあった井上靖さんが昭和25年/1950年に芥川賞を受賞、その様子を見て、くそーっ、おれだってあいつぐらいの小説は書けるはずだ、負けてられるか、と対抗心に火がついたのがきっかけだったとか、何だとか。不純な動機といいますか、いや、人に負けたくないと思うことが原動力になるんですから意外と純真な性格だったのかもしれません。

 それで小説を書いてみて、自分でもイケると思ったものか、六興出版社の中間小説誌『小説公園』に託したところ、さらっと採用されてすんなりデビューを果たします。ううむ、あまりにうまく行きすぎている。しかし、ここで彼が偉かったのは、自分をたのんでそのまま職業作家になろうとしなかったことで、まだまだ小説の勉強をしなけりゃいけないと殊勝に考えた結果、長谷川伸さんたちの新鷹会に参加します。

 おれは書きたいんだ、書きたいことはたくさんあるんだ。とばかりに、新聞社に務める忙しい身でありながら、積極的に小説を執筆すると、その勢いに応えて新鷹会の『大衆文芸』誌もぞくぞくと掲載。「弁慶像」(昭和34年/1959年11月号)を皮切りに、「霧の夜の基督」(同年12月号)、「れせ・ふえーる」(昭和35年/1960年1月号)、「刀塚」(同年3月号)、「絵筆」(同年5月号)……と発表が続きました。そのうち直木賞候補に挙げられたのが「刀塚」です。

 「刀塚」の題材は、まさに自身が経験した戦後夕刊紙の風雲児『新大阪』の経営の裏話です。瀬戸保太郎さんをモデルにした〈玄海壮太郎〉なる男の、豪放な経営手法が描かれたもので、著者が後年得意としたノンフィクション+フィクションの経済読み物にも通じる小説世界といっていいでしょう。

 直木賞のほうでは最終選考に残ったものの、あっさり落とされます。しかし、おれは直木賞の候補にまでなったんだ、と本人はどうやら発奮したらしく、これからもっともっと小説を書いていきたい、と意欲を固めます。

 そのときに彼が向かったのが「改名」です。

 本名で発表することをやめて、別の名前を名乗りはじめます。読みは本名と同じ、でも漢字を変えて〈木元正二〉としました。

(引用者注:『大衆文芸』に発表した)当時は本名(木本正次)を使つていましたが、今年から文字を変えて新しく筆名を用いていますので、本書はそれに従いました。ご諒承を願います。

第一集のあとがきにも書いたことですが、私は一種の社会小説を念願しております。大げさにいうと、社会的リアリズムの基盤の上に、ロマンチシズムの花を開かせたいのです。その意味からいつて(引用者注:本書『泣き女』の収録した)三作ともフィクションであり、特定の人物や事件をモデルにしたものでないのはもちろんですが、しかし、それぞれの時代の社会については、あくまでも『真実』を描こうと、作者は努めたつもりです。」(昭和36年/1961年6月・大和出版刊、木元正二・著『泣女(なきめ)』「あとがき」より)

 「刀塚」の背景や登場人物なども、ことごとくフィクションだと言い張っています。ふうむ、木元さん本人の意識はそうだったのかもしれません。でも、ここにモデルがない、というのはさすがに嘘だろうと思います。

 ……嘘かまことか、そんなことは本人にしかわからないので、勝手に決めつけてはいけませんね。すみません。

 ともかく、社会的リアリズムってやつをもとにして、おれはフィクションを、創作をやっていくのだ。と40歳をすぎた社会的地位もあるおじさんが、やる気を出して前のめりになったその界隈に、直木賞と改名の二つがあったのはたしかなことです。

 残念ながら、その後、木元さんはガチガチのフィクションの方面ではあまり評価されず、より事実に近い、新聞報道の延長線のようなノンフィクションもので名を上げることになって、すぐに名前も本名のほうに戻してしまいました。直木賞と改名、この二つは本人にとっては(たぶん)いい思い出として、過ぎ去った記憶のあくたのなかに埋もれていくことになった、と思われます。

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2024年12月22日 (日)

彩河杏…自分の書きたいことを小説に書くまでに、ペンネームをとっかえひっかえ。

 作家デビューにもいろいろあります。見出されるまでの経緯もそうですし、何をもって「デビュー」とするのか、定義のしかたもいくつかあります。

 というのも、小説には(いや、小説以外もそうですけど)「習作」期間と呼ばれる、線引きの難しいやつが昔っから存在しているからです。

 はじめて小説を書いたからって、それが処女作にはならない。何なら、書いた小説がだれかに評価されて、商業ベースに乗ったとしても、それをデビューと呼ばない場合だってある。……なんだか文学の世界は難しいです。あんまり入り込みたくありません。

 で、直木賞の候補者や受賞者のなかでも、「作家デビューはいつなんだ」問題を抱えている人がちらほらいます。何人か、いや何十人ぐらいいるかもしれません。わかりません。

 とくに厄介なのは、彼ら作家の履歴のなかに、はじめて「一般小説」を書いた、みたいな表現がゴロゴロ転がっているからです。なんだよ一般小説って。という感じですけど、たとえば、戦前でいうと堤千代さんとか、戦後でいうと新章文子さんとか瀬戸内晴美さんとか、それからぐっと時代がくだって桐野夏生さんとか山本文緒さんとか唯川恵さんとか姫野カオルコさんとか、そういう人たちのデビュー作は何なのか。

 見る人によってさまざま分かれるでしょう。何なら本人が何と言っているのか、という問題もあります。難しいです。

 ということで、今週取り上げるこの人も、代表的な「作家デビュー作を複数もつ」直木賞候補者のひとりです。芥川賞の候補に何度かなったあと、第128回(平成14年/2002年・下半期)に『空中庭園』で直木賞の候補になり、第132回(平成16年/2004年・下半期)『対岸の彼女』で受賞しました。いまでは選考委員もやっています。

 大学在学中にいったん作家デビューしました。昭和63年/1988年、第11回コバルト・ノベル大賞を〈彩河杏〉名義「お子様ランチ・ロックソース」で受賞したのがきっかけです。

 なぜペンネームが〈彩河杏〉なのか。すでにこのときから、少女向けの小説は自分の書いていきたいものとはちょっと違う、という感覚があったのかもしれません。編集者がつけたかもしれませんし、子供時代から使っていた名前なのかもしれません。しれません、しれません、ばっかり言っていて気持ちわるいですが、彩河杏がその後、コバルトを牽引するような人気作家になったのなら、逸話ももっと伝説化したでしょうけど、『胸にほおばる、蛍草』『彼の地図 四年遅れのティーンエイジ・ブルース』『憂鬱の、おいしいいただき方』『あなたの名をいく度も』『三日月背にして眠りたい』『満月のうえで踊ろう』『メランコリー・ベイビー』と、昭和63年/1988年10月から平成2年/1990年4月の1年半のあいだに7作を出したところで、担当編集者に呼ばれ、もう原稿を書かなくていいです、とバッサリ打ち切りの憂き目に遭いました。

 ただ、コバルトシリーズで書いているあいだい、本人のなかではずいぶん悩みがあった、とのちにいろんなインタビューやエッセイで回想しています。子供の頃から憧れていた「もの書き」になれたのに、人間、幸せに生きるのは難しいもんですね。

 回想のうちのひとつ、『文藝』で特集されたときの「自筆年譜」にこうあります。

「一九八八年――実家を出て中野区野方でひとり暮らしをはじめる。少女小説は売れず、しかし休みはなく、卒論も重なり、チョコレート中毒になる。少女小説というものの目指す方向性と、私の書きたいことは、どうも相容れないのではないかとこの頃になってようやく気づき、脱出をはかるべく他の文芸誌に応募する。これも最終選考で落ちる。」(『文藝』平成17年/2005年春季号[2月]「自筆年譜&アルバム」より)

 順番でいうと、そもそも最初に『すばる』のすばる文学賞に応募したのが、昭和62年/1987年4月30日締め切りの第11回。そのときは本名で最終選考にまで残り、受賞はできなかったものの、集英社の編集者に声をかけられて、コバルト・ノベル大賞応募のために書いたのが昭和63年/1988年1月10日締め切りの回です。

 それで作家ビューを果たしながら、自分の書きたいこととの溝を感じ、別の文芸誌に応募したのは、だいたい1年ほど経った頃かと思われます。自筆年譜などを参考にすれば、大学を卒業した平成元年/1989年の春先にはコバルトの編集者から〈解雇〉通告を受けたらしいので、その応募作はちょうどその頃から少し後に書かれたもののようです。応募先はいまはなき『季刊フェミナ』が発表媒体となっていた第2回フェミナ賞です。締め切りは平成元年/1989年10月31日。ちなみに、実際に最終候補になって受賞を果たし、「文壇デビュー」と呼ばれる第9回海燕新人文学賞は、締め切りが平成2年/1990年6月30日で、このあたりの1、2年はギュッと詰まっています。

 『海燕』のほうは、いまも使い続ける本名名義で受賞したんですけど、ギュっと詰まったこの時期は、本人によればいろいろとペンネームを使って書いていたんだとか。その頃、仕事で書いた雑誌の記事や、テレビ番組のノベライズ本などは、ペンネームで発表したらしいです。

 フェミナ賞のほうも最終候補に残ったものは、本名名義での応募ではありませんでした。第2回の記録を見ると、受賞者は田村総さんと加藤博子さんの二人。ほかに候補は4人いて、江藤あさひさん、津田美幸さん、菊野美惠子さんは、他に別の作品を書いているので、何となくわかります。たった一人、正体のわからないのが「純粋家族」という作品で応募した〈椎橋りん〉さんです。

 椎橋りん……。ほんとうにそれが、フェミナ賞に応募したときの別名義なのか、正直定かではありません。のちに『海燕』というしっかりした(?)雑誌でデビューしたので、もうそれはどうでもいいことなんでしょう。自分の進む道にもまだ先の見えなかった苦しい時代、ペンネームをとっかえひっかえすることは、どんな作家にもある……のかどうなのか、ともかく彩河杏さんはそうだった、ということのようです。

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2024年12月15日 (日)

伊達歩…小説家になんかなるよりも、作詞の世界でたくさん稼げたヒットメーカー。

 名前というのは、軽い気持ちで踏み込んじゃいけない、ちょっと腰が引ける問題をはらんでいます。

 まあ、イイ年こいて腰を引いている場合じゃないんですけど、歴史的に見ると、やっぱり名前というのはナイーブです。直木賞の場でも、あまり無遠慮に扱うのに躊躇するような例はあるような気がします。たとえば、国家や民族のことがからんでくるハナシなどは、その一例です。

 いかにも日本で使われそうな姓、付けられそうな名前をしたペンネームの作家が、ほかの民族にルーツを持つ人だ、ということはけっこうあります。

 直木賞の受賞者でいえば、立原正秋さん、つかこうへいさん、東山彰良さんなどがそのなかに含まれるでしょうし、候補者にまで範囲を広げるともっといます。

 どうして本名で活動をしないのか。本名だとどんな支障が出かねないのか。そういうことを考えていくと、「日本人っぽくない名前」に対してとやかく言い出す奴がかならず現われるという、我々が暮らしている社会の、イヤーな部分に直面しなきゃいけなくなります。まったく腰の引ける話題です。

 と、そういうなかで昭和25年/1950年に山口県で生まれた趙忠來さんは、朝鮮半島にルーツを持つ方ですが、名前に関してもなかなか他では見ない道のりを刻んできた人です。

 趙さんはのちに日本に帰化して〈西山忠来〉という別の名前をもつことになります。別の名前というか、そっちが本名ですから、〈趙忠來〉というのは生まれてからしばらく使っていたという意味で、こちらのほうが別の名前と言えなくもありません。人生、ひとすじ縄ではいきません。

 大学卒業後、広告代理店に勤め、そちらの業界で働きます。そのときには〈趙忠來〉の名前で仕事をしていたので、趙さん趙さんと呼ばれていたそうです。また人付き合いもよく、俳句の会合にも参加しますが、そこでは〈昆陽面〉という俳号を使いました。相当ユニークな句を詠んでいたそうです。

 広告の世界ではプロデュースにするにしろ何にしろ、言葉づかいの感覚が大事だということかもしれません。まったく広告にはうといので、わかりません。しかし趙忠來、なかなかデキる奴だと評判はうなぎのぼりに広がり、そのうち歌謡界でも頭角を表して、歌の詞を書く仕事も舞い込んできます。作詞家〈趙忠來〉……でもよかった気もしますけど、そこで付けたか、付けられたかした名前が〈伊達歩〉です。

 いまでは天下のWikipediaに「伊達歩が制作した楽曲」というカテゴリーがつくられるほど、多くの歌を書き、またなかには爆発的にヒットする曲も出て、作詞家として成功した人物のひとりと言っていいでしょう。本人はこんなふうに言っています。

「誰かが調べてくれたんだけど、私は作詞家として、いわゆるヒット曲が三十八曲あるんだって。

(引用者中略)

じつは小説家になっても作詞家の収入を越えてない。「小説は儲かるでしょう」と妙なことを言われるんだけど、作詞家のほうがはるかに良かった。筒美京平さんからは最後まで「伊達さんをこっちに取り返さなきゃ」と言ってもらった。ありがたいことです。」(平成26年/2014年11月・扶桑社刊、重松清・著『この人たちについての14万字ちょっと』所収「伊集院静 狂気の流儀」より)

 カネになることも、成功のひとつに数えて間違いありません。しかし、趙さんは、西山さんは、伊達さんは、どうにもそれでは満足できずに小説を書き始めました。

 小説を書くときのペンネームについては、それで何よりも有名になりましたし、直木賞もとりましたし、生涯のペンネームとして使われつづけたので割愛します。そこに大して意味はなく、ほとんど字面と雰囲気だけで付けられたような逸話が残っていて、その由来は由来で有名(?)なのだろうとも思います。妻となった夏目雅子さんに、そんな名前やめなよ、趙忠來のほうがいいよ、とさんざん言われた、というエピソードも含めて。

 けっきょくは名前なんかどうでもよかった、と考えるべきか。それとも、さすが広告業界は言葉の世界だ、名前の字面と響きのおかげで小説家としても大成できたのだ、と見るべきか。何をいっても結果論なので、いずれにしてもどっちもどっちです。

 いくつもの名前を変遷しながら、しかし何より大切なのは、どんな作品を残し、どんな生き方をしてきたのか。その一点に尽きる。ということを、最後の最後まで貫いた人だろうと思います。

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2024年12月 8日 (日)

南條道之介、有馬範夫…適当につけたペンネームかと思いきや、直木賞候補になったことで、それらを組み合わせた名前が固定化する。

 直木賞の候補になったのはすべて歴史もの。受賞した小説も主人公は遣唐使です。

 だけど、歴史・時代小説家なのかといえば、まあその一面は多分にあるんですけど、現代ミステリーや風変わりな伝奇小説もあって、とうてい一つのジャンルではくくれません。しかも本業は、まるで小説とは関係がない経済・金融を研究する学究の人だった、というんですから恐れ入ります。本名は古賀英正さん。第35回(昭和31年/1956年・上半期)の直木賞を受賞した人です。

 なぜ大学のまじめな先生が、面白ければそれでいいさの大衆小説などを書きはじめたのか。動機は本人が書き残しているのでよく知られています。

 昭和19年/1944年に町田波津子さんと結婚し、昭和20年/1945年に長女の正子さん、昭和22年/1947年には次女の良子さんが生まれて、一家を支えるお父さんになりますが、なにしろ私学の教員は給料が安くて、家計をまわすのに四苦八苦。何とか家計の足しにできる副業はないものかと、思いながら生活していたところ、たまたま見かけた懸賞小説の広告にぴぴんと反応し、昭和25年/1950年、『サンデー毎日』の戦後第2回千葉賞に応募して選外佳作。『週刊朝日』の朝日文芸「百万人の小説」百万円懸賞に応募してユーモア小説として入選。前者は選外なので賞金は出なかったでしょうが、後者は入選者として10万円を受け取りました。要するに金を稼ぐために小説を書き始めたというわけです。

 そのとき付けた筆名が〈南條道之介〉というものです。由来はよくわかりませんけど、別に長く使うつもりもなく、適当につけたんじゃないかと思います。

 味をしめて、昭和26年/1951年には『サンデー毎日』創刊三十年記念百万円懸賞小説に筆名〈有馬範夫〉として現代小説を応募すると、それも二席入選を果たして賞金10万円を獲得。、このときは諷刺小説のほうでも〈南條道之介〉名義で応募して、そちらは選外佳作になりました。

 さらには昭和30年/1955年、『サンデー毎日』大衆文芸三十周年記念百万円懸賞に時代小説を投じて入選となって30万円をゲットします。そちらの筆名は〈町田波津夫〉、これはもう明らかに奥さんの旧姓の名前が由来でしょう。

 ともかく、でかい大衆文芸系の懸賞があればたいてい名前が残る、という賞金あらしとして名を馳せたわけですが、先週取り上げた戦前デビューの女性作家の場合とは違って、〈南條道之介〉=〈有馬範夫〉さんは懸賞小説から出てきても、さして屈託はありません。

 別にこれで生きていく必要もない大学の先生です。小説に本腰を入れようという気がどこまであったのか。よくわかりません。

 しかし、昭和27年/1952年に『オール讀物』の始めた公募型新人賞「オール新人杯」の第1回に応募して受賞してしまったのが運命の分岐点だったでしょう。大衆文芸の場合、懸賞から出てきた作家だからといって馬鹿にするというような、狭い心の文壇意識みたいなものは存在せず、大正の末期に大衆文芸という用語が生まれた当時から、懸賞からデビューした人はその後、大きく活躍しましたし、その系列に属する直木賞も、海音寺潮五郎さんとか大池唯雄さんとか村上元三さんとか、懸賞出の人に賞を贈ってぐいっと背中を押してあげる伝統がありました。

 しかも、今度は直木賞のおひざ元『オール讀物』が運営する懸賞です。そこから出てきた人を手厚く助け、直木賞をとらせて大きな作家に育てたい……といった文藝春秋新社の編集者たちの期待を受けて、〈南條道之介〉=〈有馬範夫〉さんもぞくぞくと同誌掲載のチャンスを与えられ、直木賞の候補に挙げられます。

 運命の分岐点というのは、その「オール新人杯」のときに使った、また別の筆名を終生変えずに固定化することになるからです。

 昭和63年/1988年に書かれた年譜には、こうあります。

「昭和二十八年(一九五三) 四十五歳

三月、「子守の殿」が第一回「オール讀物」新人杯を受賞。

五月、「不運功名譚」を「オール讀物」に発表、両作とも第二十九回直木賞候補となる。このときの筆名が南條範夫。〈模範的な夫〉という意味。」(昭和63年/1988年8月・講談社刊『日本歴史文学館7 室町抄/覇権への道』所収「年譜」より)

 オール新人杯をとったこともさることながら、受賞第一作とともにいきなり直木賞候補作に挙げられたことが、この筆名に落ち着くきっかけとなった、と言うこともできそうです。

 にしても、奥さんの名前を筆名にしてみたり、〈模範的な夫〉を生涯の筆名にしたり、ほとほと家庭的だったんでしょう。まあ、小説を書きはじめた動機が、家族に苦労をさせずになるべく豊かに生活するためのお金稼ぎだったわけですからね。そのあたり、古賀先生の小説に向かう姿勢は一貫しています。

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2024年12月 1日 (日)

岬洋子…夫の帰ってこない家で娘二人を育てながら、こらえ切れずに創作に立ち向かう。

 人の人生はさまざまです。「直木賞研究家」などと珍妙な肩書をかかげながら、別に体系だった調査をするわけでもなく、ただ自分の気になった事象や人物の表面だけをすくっているような野郎には、あまたいる直木賞候補者の人生の、何ほどもわかるはずがありません。

 いま同じ時代を生きている作家はもちろんですし、昔の人となればなおさらです。いったいどこで生まれ、何を考え、どういう生活信条で小説を書き、そして死んでいったのか。正直ほとんどわかりません。

 戦前の直木賞候補者であるこの人も、その一人です。第10回(昭和14年/1939年・下半期)で「妻と戦争」が、第14回(昭和16年/1941年・下半期)で「花開くグライダー」が直木賞の候補になりました。生まれは明治37年/1904年6月、本名を片桐君子さん、といいます。

 ただ、いったい両親はどんな人だったのか。まずそれが不明です。本人が語るところによると、「片桐」姓を名乗って君子さんを育ててくれた両親は、血を引いた実の親ではなく、自分にタネを残した男、腹をいためて産んだ女は、ほかにいたそうです。しかし、実の母親は東京・烏森で芸者か何かをしていた人、と聞いたことがある程度で、君子さん本人も、生みの親が何者だったのかよくわからないと語っています。

 それで、何の縁でか京都に住む牧場経営者の片桐治郎吉さんとその妻に引き取られて、戸籍上は「片桐君子」となった。というわけですが、本名での活動のほか、彼女もいくつかの筆名をつけ、そのなかの一つで世に知られるようになります。

 結婚したのは昭和3年/1928年、24歳のときでした。まだそのころは本名で女学校の英語教師をしていた頃で、文壇的には木村毅さんとか大宅壮一さんなどとは知り合っていたそうですけど、小説家としては無名も無名です。結婚したとはいっても、相手が片桐家に婿入りしたようで、君子さんの本名は変わらず、そのまま名乗りつづけます。

 しかし、娘を二人生むなかで、夫との生活は苦労の連続です。なにしろ夫の武さんは稼いだ給料は家には入れず、自分の交際費にほとんど使って、家にもあまり帰ってこなかったというんですから、君子さんじゃなくても、そりゃムカつきます。ムカつくなかで君子さんが手をつけたのが、小説の執筆。吐き出したいもの、叩きつけたいものは、鬱憤としてたまっていたことでしょう。

 君子さんは振り返っています。

「父はまもなく自分の仕事に失敗して、財産どころか、借金を背負わされるし、良人は殆んどもって帰らないし、子供は生れるしで、それから(引用者注:結婚してから)の十何年間を、私は毎日の新聞さえろくに読むひまもない貧乏世帯のやりくり生活をつづけた。少々の才能なんか、きれいにすりへらして、愚痴っぽい糠味噌女房になってしまったが、それでも子供たちが小学校へ通い出してやっと僅かなひまをみつけると、私は家計の赤字を埋めるために、家事のかたわら原稿でも書いてみようという気になった。

(引用者中略)

大衆小説、詩、短歌、歌謡曲、しまいには標語や告白もの類まで手あたりしだいに送った。こまかいものの当選は、大方忘れてしまったし、没となって陽の目を見ずにしまったのも数多かったが、三百円という当時としては大金の懸賞金を貰って、今に忘れられないのは、昭和十一年の週刊朝日に「ラーゲルの人々」が一席に、つづいて翌年「タイモリカル」が二席に当選したことである。五つばかりの筆名を使っていたが、大庭さち子は「ラーゲルの人々」に初めて使ったものである。」(『出版ニュース』昭和28年/1953年6月中旬号 大庭さち子「私の処女作と自信作 自信作など一つもなし」より)

 ちなみに、長女を生んだのが昭和3年/1928年、次女が昭和5年/1930年です。〈岬洋子〉の筆名で「光、闇を貫いて」が『サンデー毎日』大衆文芸懸賞の選外佳作になったのは昭和8年/1933年なので、ほんとうに子供が学校に通うようになってから書き始めたのか、ちょっとつじつまが合わない気がします。

 さらにいえば、それより前、昭和6年/1931年には『主婦之友』4月号に「読者の実験談 恋愛結婚と媒酌結婚と果して何方がよかつたか?」に、兵庫県在住の〈大庭さち子〉名の体験談が載っていて、内容からして、うーん、これも君子さんの書いたものじゃなかろうか、だとすると「ラーゲルの人々」で初めてその筆名を使ったという証言も信じがたいんだが……と疑おうと思えば、果てしなく疑いは増すばかり。ぐるぐる目まいがしてきます。まあ小説家の回想ですから、事実関係にウソが交じっていても、目くじら立てちゃいけないよ、ということかもしれません。

 それはそれとして、デビュー前に筆名を五つほど使っていた、と回想にあります。〈岬洋子〉はわかっているんですが、その他、いったいどんな名前で応募していたのか。子供の世話をしながら、君子さんはどういう気持ちで別の名前を自分につけ、原稿用紙に向かっていたのか。きっと心のうちに渦巻くモヤモヤと戦っていたんじゃないかと想像しますが、それはもう本人にしかわかりません。直木賞の周辺は、いくら調べたところでわからないことだらけです。

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