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2024年11月17日 (日)

康伸吉…三浦哲郎のアドバイスで筆名を女性ウケしそうな名前に変える。

 直木賞の候補に一回なるだけでも大変だ、と言われます。作家の世界のことはよくわかりませんが、広く言われているぐらいなので、おそらく大変なんだと思います。

 それが二度も候補に挙げられた。しかも、一度目と二度目、それぞれ違うペンネームを使っていた。……ということになると、これは相当に特殊な例です。大変どころか、よっぽどめぐり合わせがよくないと、まずそんな事態にはなりません。

 さらにいうと「二つの名前で二回の候補」という、直木賞史上けっこう珍しいケースの主役になったのに、その後いまいち波に乗れないまま、作家としての活躍は先細り、もはやほとんど知られていない人。それが本名・西村茂さんです。

 生れは大正11年/1922年ですから、いまから100年ぐらい前になります。佐賀県武雄市の生まれで、昭和16年/1941年、佐賀工業の機械科を卒業。技術者の卵として就職したのが地下資源開発の会社だったらしくて、となると当時、彼らのような人たちが求められたのは狭苦しい日本本土ではなくて、大陸のほうということになります。満洲に派遣されて、新京や東辺道のあたりで働いているうちに召集になります。世は戦争の時代です。

 肺結核と診断されて除隊となったあとは、もう軍隊なんて行きたくないや、と逃げ出すように北京に移り、そこの映画会社にもぐり込みます。具体的にはどんな仕事をしていたのか、うかがい知れませんけど、戦中のこれらの経験がのちに小説を書き出すときのいくつかの材料となるのですから、人生、いろんな経験をするのは大切です。

 戦後、日本に引き揚げてくると、山口県下関で新しい仕事にありつきます。勤務先は神戸製鋼所の長府工場というところです。これもまた、日本の復興期には多くの人材が求められた産業に身を投じることになったわけですが、そこでコツコツと働くこと20年。

 家庭ももち、定給もある、およそ安定的な人生を歩んでいたそのさなか、40歳をすぎるころにハッタと西村さんは決断します。だめだだめだ、このまま会社勤めを続けたってしかたない、といきなり退職してしまうのです。奥さんには猛烈に怒られたそうです。

 まあ、何とかなるだろうと腹をくくって、西村さんが手をつけたのが小説を書くことだった……というんですが、どうしてそこで小説なのか。資本もなく、コネがなくても、これならお金が得られるかもしれない、というのが動機だったと言っています。ほんとうにそれだけが理由だったのかはわからないんですが、ときは昭和40年代なかば。商業雑誌がボロボロと出版され、書き手を求める仕組みも整備されつつあったこの時代背景が大きくものを言ったのは間違いありません。

 『オール讀物』は推理小説を含めて年に3度も新人賞をやっているし、『小説現代』は年2回。昭和48年/1973年からは『小説新潮』も重い腰をあげて新人賞の世界にカムバックするし、『小説サンデー毎日』もある、昭和49年/1974年からは『週刊小説』も始める、とその他にもくわしく調べていけば、中間小説の新人賞はまだまだありそうな気がします。ひまな人は調べてみてください。

 ともかく、同人雑誌に参加しなくても運と実力さえ揃えば、新人賞にひっかかるかもしれない、と思った西村さんも、当節の新人賞チャレンジャーと同様、応募生活を始めます。このとき筆名をつけたのは、西村さん自身、勤めもせずに小説を書いてやろうなんて、世間じゃ白い目を見られるだろう、親が生きていたらきっとイイ顔はしないはずだ、という後ろめたさがあったからだと言っています。

 それで、家の近くに庚申塚があったところから拝借し、「庚」を「康」に、「申」を「伸」にして最後に「吉」をつけたペンネームに決めました。すると、応募したオール讀物推理小説新人賞ではいきなり最終候補に残ってしまう幸運が舞い込みます。むむっ、これはいけるかもしれない、と〈康伸吉〉さんは俄然やる気になり、その名前を使いつづけた挙句、ほんの1、2年で第12回オール讀物推理小説新人賞を受賞してしまいました。力があったんでしょう。

 力だけじゃなく、『オール』の編集部からの期待も熱かったと思われます。受賞一作目として書いた「闇の重さ」が、いま読めばまあどうということのない暗いおハナシですけど、文春社員による予選審査を通過して第70回直木賞(昭和48年/1973年・下半期)の候補に挙げられたからです。あまりにハナシとしてつまらないからか、その後単行本に収められることもなく、初出の『オール讀物』を読む以外接することができない、という悲しい直木賞候補作になっています。

 せっかく付けたペンネームです。直木賞候補にもなりました。そのまま同じ名前で行く道もあったと思います。しかし西村さんはまもなく第二のペンネームに変えることになります。

 本人によると、理由はこうです。

「ゲラの著者校正で東京のホテルにかんづめになった時、「忍ぶ川」の三浦哲郎と飲みに出ましてね、康 伸吉は中国とか朝鮮の大陸系みたいな名前でよくない、君のファンはご婦人が多いんだからご婦人好みの名前にしろ、と忠告をうけて、じゃ易しい名前でいこうと壱岐光生にしたんです。

(引用者中略)

どうですか、壱岐光生てあんまりいい名前じゃないですね、しまりのないような気がしませんか。司馬遼太郎とか、堂々たる名前つけたらよかったなと思っていますけど。」(昭和56年/1981年2月・積文館刊、片桐武男・編『おとこの詩・佐賀工業47人の証言』所収「私の作家修業」より)

 えっ、〈康伸吉〉さんって女性のファンが多かったのか。はじめて知りました。

 三浦哲郎さんのアドバイスで、新しいペンネームに変えたところ、そちらでも第75回(昭和51年/1976年・上半期)で二度目の直木賞候補に挙がります。きっと女性の読者ファンたちも大喜び……したのかどうかはよくわかりませんが、その新しい筆名でバリバリ活躍したというハナシはほとんど聞こえてきません。いったいその後、どうしたんでしょう。下関在住の作家としては古川薫さんの影に隠れてしまい、一度目の名前も二度目のほうも、直木賞候補リストにそっと残るにとどまっています。

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