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2024年11月10日 (日)

オオガスチン…現役の直木賞選考委員、死の前日に自ら懇願して洗礼を受ける。

 人を表わす名前にはいろんな種類があります。

 本名、別号、ペンネーム、芸名、あだな、通り名に、幼名、旧姓、ハンドルネーム、それから僧名とか戒名みたいな、宗教的に使われる名前なんてのもあります。

 そのなかのひとつが、洗礼名です。

 小説家のなかにもクリスチャンはたくさんいます。自ら望んで信仰の道に進んだ人とか、周囲の意向で勝手に仲間に入れられたとか、事情は人それぞれでしょうが、きっと直木賞の関連者のなかにも何人かいるんでしょう。ということで今週は、自分で洗礼を受けることを懇願したという、往年の直木賞の選考委員のことを取り上げたいと思います。

 明治33年/1900年10月5日、福島県岩瀬郡大屋村の生まれ。水車業を営む竹蔵さんと、その妻スイさんの第三子として生まれた中山家の三男坊(といっても次男は夭折していたので、実質には次男格)、名前は〈議秀〉と付けられました。

 彼の文学的な歩みは、まったく直木賞とか大衆文芸とか、そういう道の外れた側道とはまるで違うところで進みました。懸命に文学ってやつに打ち込み、37歳のときに「厚物咲」で第7回(昭和13年/1938年・上半期)芥川賞を受賞します。

 戦前・戦中と、そこまで派手な作風でもなく、クロウト好みの作品をひたひたと書く、正直、地味な作家だったはずなんですが、戦後になって歴史小説を書きはじめると、骨のある文体や思想がその世界にぴったりマッチ。とくに剣豪モノは結構多くの人に好んで読まれ、職業作家としてイブシ銀の活躍を見せます。そんなとき、舞い込んできたのが直木賞の選考委員をやってくれないか、というハナシでした。

 委員になったのは第39回(昭和33年/1958年・上半期)からです。このときは山崎豊子さん、榛葉英治さんが受賞しましたが、以来、第61回(昭和44年/1969年・上半期)まで11年半、みずから実作に打ち込むそばで、大衆文芸の選考という、どう考えてもお門ちがいな役割を粛々とこなすうち、弟子筋にあたる安西篤子さんがアッとびっくり受賞を射止めちゃったりしましたが、まだ委員の任にあった昭和44年/1969年8月、癌疾患後の悪性貧血でブッツリとその生涯に終わりが訪れます。68歳のときでした。

 最後の選考会となったのは第61回のときで、すでに虎の門病院に入院中の身です。さすがにこのときは出席はかないません。律儀に書面で自身の見解を表明したんですけど、いつもだいたい人とは違う候補者ばかり推してしまう独特の選球眼はこのときも健在で、選評上はだれひとり褒めてもいない黒部亨さんの「島のファンタジア」を推しました。結果受賞した佐藤愛子さんの『戦いすんで日が暮れて』にまったく触れなかったのは、「孤高の文士」の称号にぴったりとも言える姿勢です。

 そもそも、自分の体調がそろそろ危ないというのに、そして自分の一票が受賞につながる確信など何にもないのに、おのれの信念を貫き通したところがカッチョいい。と言えなくもありません。

 いかにも自分ひとりを恃みと決めて、周囲の声など何も聞かない、といった傲然たるイメージすら感じさせますが、どうやらそうとばかりも決めつけるにはいかなそうです。というのも、名前の件があるからです。

 文学に目覚めた少年時代から、小説も評論もオモテに出す文章は、すべて本名で発表していました。しかし、きみ、名前の言偏は取ったほうがいいよ、そっちのほうが姓名判断で見るとうまく行きそうだよ、と横光利一さんに言われて、うん、そうか、とあっさり筆名を変えたのは何だったのか。「私の文壇風月」によると、もともと「議」の字をヨシと読ませることに違和感を持っていて「私はちゅうちょなく横光の勧めにしたがった」とあります。ともかく自分で自分の筆名を決めなかったのはたしかです。

 けっきょくそれで文運もひらけていくんですから、人まかせのその判断は、意外と当たっていたと言えるでしょう。

 そして人生の最後の最後、またも親しい人にお願いすることになります。親しく付き合っていた『朝日新聞』の文芸記者、門馬義久さんに、かなりしつこくお願いしたようです。

 門馬さんが昭和49年/1974年、長谷川伸賞を受賞した直後の『週刊朝日』の記事を引いてみます。

「死の前日の四十四年八月十八日午後三時ごろ、門馬記者が東京・虎の門病院の病室に行くと、酸素テントに入っていた中山さんは、

「君の来るのを心待ちにしてたんだ。おれは、もうダメなんだ。間もなくお別れだ。洗礼をやってくれないか。ほかの人にはやってもらいたくない。君への最後の頼みだから、きいてくれよ」

と、門馬記者の手をにぎりしめるのだ。」(『週刊朝日』昭和49年/1974年7月19日号「中山義秀氏に洗礼授けた新聞記者…長谷川伸賞に輝く門馬義久氏」より ―署名:「本誌・横山政男」)

 それで付けられた洗礼名が「オオガスチン(オーガスティン)」です。

 提案したのは、洗礼を施したのは門馬さんだったそうです。そんな立派な名前じゃ困るな、とはじめは渋った相手を説き伏せて、いやいやオオガスチンは若い頃には悪いこともして女もさんざん泣かせて、それでも信仰に出会ったことで救われた人ですよ、だとか何だとか。

 なるほど、文学者だからって、あるいはホニャララ賞をとったからって、本人は自分の生きざまに相当な後悔と悩みがあったんですね。まあ、どんな作家でも、こんなブログをだらだら書いている奴よりかは何ぼか偉いんですが、あまり作家を持ち上げるのも考えものかもしれません。

 昭和44年/1969年に没し、それから24年ほどたって故郷の福島県大信村(元・白河市)に記念館が設立され、同時に彼の名前を冠した文学賞が始まりました。それからさらに32年ほどを経過して、文学賞も今年で30回。今日、令和6年/2024年11月10日、その賞の30周年記念事業が白河市でありました。

 冠された作家がどれだけ偉かったのかはワタクシもよくわかりません。ただ、こういう文学賞を30回も続けてやってきた人たちが、よっぽど偉いことは、よくわかります。

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