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2024年11月の4件の記事

2024年11月24日 (日)

今春聽…出家したあと法名も二転三転、しかし小説はもとの名前で書きつづける。

 今年一年、令和6年/2024年もいろんなことがありました。

 ……と、気分はすっかり年末ですけど、今年が終わるまでまだ1か月もあります。その間には、第172回(令和6年/2024年・下半期)の直木賞候補作発表があるはずです。年に二回の大イベントがまだこの先に残っている。それだけを楽しみに令和6年/2024年を生き抜きたいところですが、ふと振り返ると今年の直木賞の世界にも大きな出来事がたくさん(?)ありました。

 そのなかの一つが、矢野隆司さんが一人の直木賞受賞者の年譜を刊行したことです。

 令和6年/2024年3月のこと、全1096ページ+36ページに及ぶ人名索引を二分冊に分けて、手にとるだけでずっしりした重みに思わず涙ぐみそうになる箱入りの年譜が出ました。著者の矢野さんによって耕されてきたン十年にわたる地道な調査・研究の成果を、このようなかたちで目にすることができて、感動、尊敬、歓喜の思いが腹の底から湧いてきます。

 年譜と対象となっているのはいまから半世紀以上もまえの、第36回(昭和31年/1956年・下半期)を受賞した人ですが、それまでの履歴、受賞したあとの言動を含めて世間の人びとの耳目を引く圧倒的な個性に満ちあふれる作家でした。じっさい、この人に授賞したおかげで直木賞のほうもヒト皮フタ皮むけて次のステージに踏み上がった、といっても決して言いすぎではありません。そのくらい直木賞にとっても重要な受賞者だと思います。

 この方も名前は一つだけでなく、別の名前を持ちながら世を渡り歩いた人でした。いまうちのブログがやっているテーマにしっくり来る人なのは間違いありません。

 生れたのは明治31年/1898年3月26日、横浜市伊勢町です。子供の頃から頭がよく、さらには文章を書かせても光るものを持ち、小説、随筆、評論など数多く本名で発表しましたが、矢野さんの年譜によると昭和5年/1930年、32歳のころに出家を決意したとあります。茨城県水海道にあった天台宗の安楽寺住職、弓削俊澄さんに師事して、この年の10月、安楽寺徒弟として得度、法名〈東晃〉を授かります。12月には役所に届け出て、戸籍の名前も〈東晃〉に変えたんだそうです。

 新進の作家が出家した。ということでメディアの上でも話題になり、東晃さんも何かれと文章を発表しつづけましたので、出家したからと言って出版の世界から断絶したわけではない、ということを矢野さんの『全年譜』に教えてもらいました。仏教の界隈は娑婆の社会とも地つづきです。頭をまるめたところで、そうそう日常から消え失せるわけではありません。

 それはともかく名前のハナシです。昭和6年/1931年には新たに〈戒光〉という法名を名乗り出したらしいのですが、その年には再び改名を希望。矢野さんの記述によると、昭和6年/1931年秋以降に〈春聽〉の法名を使いはじめ、天台宗務庁に残る記録では昭和7年/1932年3月に〈春聽〉と正式に改名した、ということのようです。なぜ最初の〈東晃〉のままではイヤだったのか。理由はワタクシなぞの凡人には皆目わかりませんけど、いずれにしても、わざわざ改名を願い出るほどに、法名っつうのは本人にとっても重要なものだったんでしょう。

 『全年譜』から引かせてもらいます。

「加藤大岳の随筆によると、運命学者で五聖閣の熊崎健翁が新たな法名として「春聽」を選び命名。命名の翌日、加藤大岳が「命名書」を西片町の東光宅に届ける。ちなみに加藤大岳は佐藤春夫門下生でもあった。」(令和6年/2024年3月・今東光[全年譜]刊行事務局刊『今東光[全年譜]』1931年(昭和6年)夏の項より)

 よくわかりませんが、霊験あらたかな、ありがたい法名だったようです。

 その後、春聽さんは二つの名前で活動します。その法名=戸籍上の名前と、もとからの旧名と。

 出版物や書かれたものの署名にも二種類があります。おおむね小説の類は旧名を使ったようで、直木賞を受賞したときも名前は旧名、生まれたときに親がつけくれた名前です。

 のちに弟子になる瀬戸内晴美さんは、出家して名づけられた〈寂聴〉のほうを終生使いつづけました。そう考えると春聽さんのような名前の使用例は、けっして当然だったわけではなく、法名が本名となった段階でそちらの名前に切り替える道もあったはずです。直木賞受賞者〈今春聽〉。そんな未来もあったかもしれません。

 生まれたときの名前を、30歳すぎて改名して別の本名になったはずなのに、ものを書くときは旧名を捨てずにその名前で貫いた……ややこしい名前の変遷です。ややこしくはあるんですけど、これはもう、春聽さん自身の生きざまや活動範囲がややこしいことに由来するものだと思うので、それはそれで腑に落ちるややこしさ、のような気がします。

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2024年11月17日 (日)

康伸吉…三浦哲郎のアドバイスで筆名を女性ウケしそうな名前に変える。

 直木賞の候補に一回なるだけでも大変だ、と言われます。作家の世界のことはよくわかりませんが、広く言われているぐらいなので、おそらく大変なんだと思います。

 それが二度も候補に挙げられた。しかも、一度目と二度目、それぞれ違うペンネームを使っていた。……ということになると、これは相当に特殊な例です。大変どころか、よっぽどめぐり合わせがよくないと、まずそんな事態にはなりません。

 さらにいうと「二つの名前で二回の候補」という、直木賞史上けっこう珍しいケースの主役になったのに、その後いまいち波に乗れないまま、作家としての活躍は先細り、もはやほとんど知られていない人。それが本名・西村茂さんです。

 生れは大正11年/1922年ですから、いまから100年ぐらい前になります。佐賀県武雄市の生まれで、昭和16年/1941年、佐賀工業の機械科を卒業。技術者の卵として就職したのが地下資源開発の会社だったらしくて、となると当時、彼らのような人たちが求められたのは狭苦しい日本本土ではなくて、大陸のほうということになります。満洲に派遣されて、新京や東辺道のあたりで働いているうちに召集になります。世は戦争の時代です。

 肺結核と診断されて除隊となったあとは、もう軍隊なんて行きたくないや、と逃げ出すように北京に移り、そこの映画会社にもぐり込みます。具体的にはどんな仕事をしていたのか、うかがい知れませんけど、戦中のこれらの経験がのちに小説を書き出すときのいくつかの材料となるのですから、人生、いろんな経験をするのは大切です。

 戦後、日本に引き揚げてくると、山口県下関で新しい仕事にありつきます。勤務先は神戸製鋼所の長府工場というところです。これもまた、日本の復興期には多くの人材が求められた産業に身を投じることになったわけですが、そこでコツコツと働くこと20年。

 家庭ももち、定給もある、およそ安定的な人生を歩んでいたそのさなか、40歳をすぎるころにハッタと西村さんは決断します。だめだだめだ、このまま会社勤めを続けたってしかたない、といきなり退職してしまうのです。奥さんには猛烈に怒られたそうです。

 まあ、何とかなるだろうと腹をくくって、西村さんが手をつけたのが小説を書くことだった……というんですが、どうしてそこで小説なのか。資本もなく、コネがなくても、これならお金が得られるかもしれない、というのが動機だったと言っています。ほんとうにそれだけが理由だったのかはわからないんですが、ときは昭和40年代なかば。商業雑誌がボロボロと出版され、書き手を求める仕組みも整備されつつあったこの時代背景が大きくものを言ったのは間違いありません。

 『オール讀物』は推理小説を含めて年に3度も新人賞をやっているし、『小説現代』は年2回。昭和48年/1973年からは『小説新潮』も重い腰をあげて新人賞の世界にカムバックするし、『小説サンデー毎日』もある、昭和49年/1974年からは『週刊小説』も始める、とその他にもくわしく調べていけば、中間小説の新人賞はまだまだありそうな気がします。ひまな人は調べてみてください。

 ともかく、同人雑誌に参加しなくても運と実力さえ揃えば、新人賞にひっかかるかもしれない、と思った西村さんも、当節の新人賞チャレンジャーと同様、応募生活を始めます。このとき筆名をつけたのは、西村さん自身、勤めもせずに小説を書いてやろうなんて、世間じゃ白い目を見られるだろう、親が生きていたらきっとイイ顔はしないはずだ、という後ろめたさがあったからだと言っています。

 それで、家の近くに庚申塚があったところから拝借し、「庚」を「康」に、「申」を「伸」にして最後に「吉」をつけたペンネームに決めました。すると、応募したオール讀物推理小説新人賞ではいきなり最終候補に残ってしまう幸運が舞い込みます。むむっ、これはいけるかもしれない、と〈康伸吉〉さんは俄然やる気になり、その名前を使いつづけた挙句、ほんの1、2年で第12回オール讀物推理小説新人賞を受賞してしまいました。力があったんでしょう。

 力だけじゃなく、『オール』の編集部からの期待も熱かったと思われます。受賞一作目として書いた「闇の重さ」が、いま読めばまあどうということのない暗いおハナシですけど、文春社員による予選審査を通過して第70回直木賞(昭和48年/1973年・下半期)の候補に挙げられたからです。あまりにハナシとしてつまらないからか、その後単行本に収められることもなく、初出の『オール讀物』を読む以外接することができない、という悲しい直木賞候補作になっています。

 せっかく付けたペンネームです。直木賞候補にもなりました。そのまま同じ名前で行く道もあったと思います。しかし西村さんはまもなく第二のペンネームに変えることになります。

 本人によると、理由はこうです。

「ゲラの著者校正で東京のホテルにかんづめになった時、「忍ぶ川」の三浦哲郎と飲みに出ましてね、康 伸吉は中国とか朝鮮の大陸系みたいな名前でよくない、君のファンはご婦人が多いんだからご婦人好みの名前にしろ、と忠告をうけて、じゃ易しい名前でいこうと壱岐光生にしたんです。

(引用者中略)

どうですか、壱岐光生てあんまりいい名前じゃないですね、しまりのないような気がしませんか。司馬遼太郎とか、堂々たる名前つけたらよかったなと思っていますけど。」(昭和56年/1981年2月・積文館刊、片桐武男・編『おとこの詩・佐賀工業47人の証言』所収「私の作家修業」より)

 えっ、〈康伸吉〉さんって女性のファンが多かったのか。はじめて知りました。

 三浦哲郎さんのアドバイスで、新しいペンネームに変えたところ、そちらでも第75回(昭和51年/1976年・上半期)で二度目の直木賞候補に挙がります。きっと女性の読者ファンたちも大喜び……したのかどうかはよくわかりませんが、その新しい筆名でバリバリ活躍したというハナシはほとんど聞こえてきません。いったいその後、どうしたんでしょう。下関在住の作家としては古川薫さんの影に隠れてしまい、一度目の名前も二度目のほうも、直木賞候補リストにそっと残るにとどまっています。

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2024年11月10日 (日)

オオガスチン…現役の直木賞選考委員、死の前日に自ら懇願して洗礼を受ける。

 人を表わす名前にはいろんな種類があります。

 本名、別号、ペンネーム、芸名、あだな、通り名に、幼名、旧姓、ハンドルネーム、それから僧名とか戒名みたいな、宗教的に使われる名前なんてのもあります。

 そのなかのひとつが、洗礼名です。

 小説家のなかにもクリスチャンはたくさんいます。自ら望んで信仰の道に進んだ人とか、周囲の意向で勝手に仲間に入れられたとか、事情は人それぞれでしょうが、きっと直木賞の関連者のなかにも何人かいるんでしょう。ということで今週は、自分で洗礼を受けることを懇願したという、往年の直木賞の選考委員のことを取り上げたいと思います。

 明治33年/1900年10月5日、福島県岩瀬郡大屋村の生まれ。水車業を営む竹蔵さんと、その妻スイさんの第三子として生まれた中山家の三男坊(といっても次男は夭折していたので、実質には次男格)、名前は〈議秀〉と付けられました。

 彼の文学的な歩みは、まったく直木賞とか大衆文芸とか、そういう道の外れた側道とはまるで違うところで進みました。懸命に文学ってやつに打ち込み、37歳のときに「厚物咲」で第7回(昭和13年/1938年・上半期)芥川賞を受賞します。

 戦前・戦中と、そこまで派手な作風でもなく、クロウト好みの作品をひたひたと書く、正直、地味な作家だったはずなんですが、戦後になって歴史小説を書きはじめると、骨のある文体や思想がその世界にぴったりマッチ。とくに剣豪モノは結構多くの人に好んで読まれ、職業作家としてイブシ銀の活躍を見せます。そんなとき、舞い込んできたのが直木賞の選考委員をやってくれないか、というハナシでした。

 委員になったのは第39回(昭和33年/1958年・上半期)からです。このときは山崎豊子さん、榛葉英治さんが受賞しましたが、以来、第61回(昭和44年/1969年・上半期)まで11年半、みずから実作に打ち込むそばで、大衆文芸の選考という、どう考えてもお門ちがいな役割を粛々とこなすうち、弟子筋にあたる安西篤子さんがアッとびっくり受賞を射止めちゃったりしましたが、まだ委員の任にあった昭和44年/1969年8月、癌疾患後の悪性貧血でブッツリとその生涯に終わりが訪れます。68歳のときでした。

 最後の選考会となったのは第61回のときで、すでに虎の門病院に入院中の身です。さすがにこのときは出席はかないません。律儀に書面で自身の見解を表明したんですけど、いつもだいたい人とは違う候補者ばかり推してしまう独特の選球眼はこのときも健在で、選評上はだれひとり褒めてもいない黒部亨さんの「島のファンタジア」を推しました。結果受賞した佐藤愛子さんの『戦いすんで日が暮れて』にまったく触れなかったのは、「孤高の文士」の称号にぴったりとも言える姿勢です。

 そもそも、自分の体調がそろそろ危ないというのに、そして自分の一票が受賞につながる確信など何にもないのに、おのれの信念を貫き通したところがカッチョいい。と言えなくもありません。

 いかにも自分ひとりを恃みと決めて、周囲の声など何も聞かない、といった傲然たるイメージすら感じさせますが、どうやらそうとばかりも決めつけるにはいかなそうです。というのも、名前の件があるからです。

 文学に目覚めた少年時代から、小説も評論もオモテに出す文章は、すべて本名で発表していました。しかし、きみ、名前の言偏は取ったほうがいいよ、そっちのほうが姓名判断で見るとうまく行きそうだよ、と横光利一さんに言われて、うん、そうか、とあっさり筆名を変えたのは何だったのか。「私の文壇風月」によると、もともと「議」の字をヨシと読ませることに違和感を持っていて「私はちゅうちょなく横光の勧めにしたがった」とあります。ともかく自分で自分の筆名を決めなかったのはたしかです。

 けっきょくそれで文運もひらけていくんですから、人まかせのその判断は、意外と当たっていたと言えるでしょう。

 そして人生の最後の最後、またも親しい人にお願いすることになります。親しく付き合っていた『朝日新聞』の文芸記者、門馬義久さんに、かなりしつこくお願いしたようです。

 門馬さんが昭和49年/1974年、長谷川伸賞を受賞した直後の『週刊朝日』の記事を引いてみます。

「死の前日の四十四年八月十八日午後三時ごろ、門馬記者が東京・虎の門病院の病室に行くと、酸素テントに入っていた中山さんは、

「君の来るのを心待ちにしてたんだ。おれは、もうダメなんだ。間もなくお別れだ。洗礼をやってくれないか。ほかの人にはやってもらいたくない。君への最後の頼みだから、きいてくれよ」

と、門馬記者の手をにぎりしめるのだ。」(『週刊朝日』昭和49年/1974年7月19日号「中山義秀氏に洗礼授けた新聞記者…長谷川伸賞に輝く門馬義久氏」より ―署名:「本誌・横山政男」)

 それで付けられた洗礼名が「オオガスチン(オーガスティン)」です。

 提案したのは、洗礼を施したのは門馬さんだったそうです。そんな立派な名前じゃ困るな、とはじめは渋った相手を説き伏せて、いやいやオオガスチンは若い頃には悪いこともして女もさんざん泣かせて、それでも信仰に出会ったことで救われた人ですよ、だとか何だとか。

 なるほど、文学者だからって、あるいはホニャララ賞をとったからって、本人は自分の生きざまに相当な後悔と悩みがあったんですね。まあ、どんな作家でも、こんなブログをだらだら書いている奴よりかは何ぼか偉いんですが、あまり作家を持ち上げるのも考えものかもしれません。

 昭和44年/1969年に没し、それから24年ほどたって故郷の福島県大信村(元・白河市)に記念館が設立され、同時に彼の名前を冠した文学賞が始まりました。それからさらに32年ほどを経過して、文学賞も今年で30回。今日、令和6年/2024年11月10日、その賞の30周年記念事業が白河市でありました。

 冠された作家がどれだけ偉かったのかはワタクシもよくわかりません。ただ、こういう文学賞を30回も続けてやってきた人たちが、よっぽど偉いことは、よくわかります。

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2024年11月 3日 (日)

林髞…親切な友人からの熱心な勧めがなければ、直木賞をとる未来もなかったはずの人。

 本名では大ベストセラー作家。筆名では直木賞を受賞。しかしその実態は、単なるゴリゴリの権威主義者……でおなじみの林髞(はやし・たかし)さんです。

 以前、氷川瓏さんのエントリーにも登場しました。権威が好きな人は、おのれをたのむプライドと、他人に対する嫉妬心が異常に盛んに燃えたぎっている……というのがお約束の世界です。林さんが実際にそういう人だったのか、これはまわりの人たちの証言を一つひとつ集めていかないと何とも言えませんけど、直木賞の歴史のなかでは、探偵文壇から初めて受賞したのがこの人だったのが大失敗、謎解きミステリーが直木賞を長いあいだとれなかったのは、そもそもさかのぼればコイツのせいだ、と一部のあいだではとにかく嫌われ、恨まれていた選考委員として知られています。

 と、それはともかく、林さんは、生涯すべての人から嫌われていたわけではありません(そりゃそうだ)。林さんを尊敬する人、愛する人、助けてあげたいと思う人もけっこういて、(たぶん)そのおかげで専門の大脳生理学の分野だけでなく、小説家としても登場できたことと思います。そして、その登場には、「別の名前」=ペンネームが関わっています。

 ミステリーの世界のことなので、これもまた先達たちや、熱心な人たちが根掘り葉掘り調べ尽くしてくれていることです。それらのハナシを今回もお借りして先を進めます。

 新進の医学研究者として、慶應義塾大学の助教授としてソ連に留学した林さんは、師匠パブロフさんの研究をみっちり吸収して、36歳で帰国します。論文だけにとどまらず科学雑誌にも原稿を寄稿し、そんななかで科学知識普及会の『科学知識』でも物を書き出しますが、編集部にいた長島禮さんが紹介してくれて、逓信省電気試験所の工学技師、佐野昌一さんと知り合います。

 林さんと佐野さん、いったいどんなところで意気投合したのでしょう。お互いに文学、あるいは読み物をたくさん読んで育っていたおかげで、二人の息が合ったのかもしれません。昭和9年/1934年半ばのこと、林君、きみなら探偵小説が書けるんじゃないか、と佐野さんにすすめられて、いい気分になった林さんは、よし、いっちょ書いてみるかと短篇を書き上げ、『新青年』に提出したところ、おお、これは新しい探偵小説だ! と水谷準さんも感銘を受け、同誌に掲載される運びになります。

 しかし本名のままで小説を発表するのは、どうにも気が進まなかったらしく、自分で考えればいいものを、大切なその名前も、佐野さんに付けてもらいました。「林」と「髞」の漢字を構成している一部分を分けて、佐野さんが付けてくれた、ということなんですが、当時はまだ直木三十五さんが流行作家として活躍していた頃なので、本名「植村」の「植」を分けて直木としたその発想を、佐野さんも多少は参考にしたかもしれません。

 佐野さん、というよりも、作家としては林さんの先輩です。すでに〈海野十三〉という立派な(?)筆名で活躍していた方ですが、なにしろ自分に小説を書かせてくれた大恩人にして、大友人。林さんは後年まで、佐野=海野さんへの感謝と愛惜は忘れなかった、と言われています。

 あとあと直木賞を受賞することになる『人生の阿呆』の、長い序文にも、律儀にそのハナシが書き留めてられているくらいです。

「昭和九年の秋、初めて、一篇の探偵小説を書いた。彼(引用者注:著者自身のこと)が書いたのではない。友人、海野十三が、寧ろ執拗にすゝめて、彼をして書かしめたと言つた方が、当つてゐるかも知れぬ。それが、「新青年」に紹介せられた、彼の処女作「網膜脈視症」であつた。

ついで翌年、連続して、五つの短篇を書いた。この間に、友人、海野十三、水谷準の二人が、作者に与えて呉れた激励については、作者は常に感銘の心を持つ。」(昭和11年/1936年7月・版画荘刊『人生の阿呆』「自序」より)

 後年、自分は推理文壇の中枢を担っているんだと威張りくさっていた林さんにも、きちんと心を許した友人がいたんだな……と、そんなところに感心している場合じゃありません。

 いやまあ、林さんの人格はさておき、医学研究と創作、二つの道をずっと長くつづけ、創作のときに使ったペンネームのみならず、それ以外のときに名乗った本名のほうも、広く知られつづけたのですから、そのエネルギッシュさにはかないません。二つの名前がそれぞれ相拮抗しながら使われつづけたというのは、直木賞広しといえども、それほど例が多いわけじゃなく、その意味でも林さんは、稀有な存在感を放っています。

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