北小路幻…直木賞をとったあとでも宮沢賢治について語ることを生涯の仕事と心得る。
こないだ岩手県の北上・花巻・盛岡を旅行してきました。
同行者は、春日部の奇人こと盛厚三さんと、自意識まるだし文学ジジイこと、荒川佳洋さんです。ワタクシも含めて、三者三様、興味も関心も全然ちがうので、それぞれに交わす会話がほんとに成り立っているのか、はたから見ると奇妙な旅行客だったでしょうが、いつものように楽しい旅でした。
荒川さんは自分のブログを持っているので、当人の目から見た旅のハナシはきっとそちらで書かれると思います。ワタクシはワタクシで、基本的には直木賞にしか興味がありません。なのでここでは、岩手で出会った直木賞の受賞者のことを書いて、旅の記録(?)としておきます。
本名・森佐一、岩手の作家として初めて直木賞を受賞した人です。
受賞したのは第18回(昭和18年/1943年・下半期)と、いまから80年もまえの出来事です。いまや東京にいると、この作家のことを語る人もほとんどいなくなり、何をした人か、どんな作品を書いてどんな発言をした人なのかは、なかなかうかがい知れません。だけど岩手に行けば、さすが地元だ、誰にきいても彼のことを知っている!……というわけでもなく、そこら辺は東京とどっこいどっこいかもしれません。
いやでも、佐一さんの名前はいくつかの文学館では大きめに取り上げられ、岩手で出ている関連の書籍もいくつか入手することができます。それが知れただけでも、直木賞ファンとしては岩手に足を運んだ甲斐があったと思います。
佐一さんの名がいまにまで残っているのは、直木賞受賞者としてというよりも、完全に宮沢賢治さんのおかげです。昔、直木賞受賞作のアンソロジーをつくったときにも、佐一さんと賢治さんの結びつきの強さには驚きましたが、これはもう相当なものです。
佐一さんには森三紗さんという娘さんがいて、アンソロジー刊行の際にもお世話になりました。その三紗さんが平成29年/2017年4月にコールサック社から出した『宮沢賢治と森荘已池の絆』などは、タイトルのとおり、二人の結びつきを紹介した文章が、本の中核になっています。
賢治さんが生まれたのは明治29年/1896年8月、佐一さんは明治40年/1907年5月です。それぞれ成長するうちに、賢治さんは花巻で、佐一さんは盛岡で詩を書き始めますが、いちばん最初に二人が出会ったのは、活字の上でのことでした。早熟の天才、佐一さんは旧制中学校に通うティーンエイジの頃から新聞や詩歌誌にぞくぞくと作品を投稿。そのときに、取っかえひっかえペンネームを変更して〈北小路幻〉〈北光路幻〉〈杜艸一〉〈畑幻人〉〈青木凶次〉などの名前を使います。
〈幻〉という字がけっこう入っているのは、大正の頃の若者のなかにも、微妙にカッコよくて、よくよく考えるとダッセえ漢字を使いたがる中二病的な感性があったものかもしれません。まあそれはともかく、なかでも〈北小路幻〉の名前で『岩手日報』に発表した詩の評論は、バッサバッサと他人の作品を切り刻む辛辣な筆で知られたそうです。若さっていうのは頼もしく、また怖ろしいです。
賢治さんは、新聞紙上で勢いよく昨今の詩をぶった斬る〈北小路幻〉さんに、かなりの敬意をもちながら、その記事を読んでいたと言われます。〈北小路〉=佐一さんはこの頃、仲間たちといっしょに岩手詩人協会というのをつくろうと画策、また新たな詩誌『貌』の刊行を準備していましたが、そこに参加してくれないかと手紙で賢治さんに依頼を送ります。大正13年/1924年4月に出た賢治さんの『春と修羅』を読んで、ううむ、こいつはどえらい書き手だ、と惚れ込んでいたからです。
大正14年/1925年、このときから賢治さんが亡くなる昭和8年/1933年まで、二人の交流が続くんですが、まだ二人が実際に顔を合わせるまえの文通段階で、賢治さんからこんな手紙が佐一さんに送られてきた、と娘の三紗さんは力をこめて強調します。
「賢治は大正十四年二月九日あての手紙では、あなたにお会いしたいと思うと佐一に手紙を送り、二月十九日青色五厘方眼罫紙を八つ切りにした紙に、たった三行の次の内容を含む手紙を佐一に送って来ている。
あなたがもし北小路幻氏であればわたしは前からあなたを尊敬してゐます
しかもいまMisanthropyが氷のやうにわたくしを襲つてゐます
この頃にあのぱぶりしゃあに会ひますからすこし待ってください (書簡202)」(『宮沢賢治と森荘已池の絆』所収「森荘已池展・賢治研究の先駆者たち②・企画展資料集より」より)
人からこういう手紙をもらって、うれしがらない人など、よほどのあまのじゃくでないかぎり、いないでしょう。まだまだ当時の賢治さんは、全国的には無名の存在で、これからどうなるかもわからない詩人の卵でしたが、〈北小路〉の佐一さんのほうもまた、岩手のなかでは多少は知られていても、将来どんな人生を歩むことになるのか霧の中。お互い、まだまだこれからの時期に交わした書簡、あるいは思い出が、佐一さんの生涯でも最も大きいものになっていきます。
娘の三紗さんの書くところによれば、佐一さんは生涯「この世の中で一番大切なものは命であるが、次に大切なのは宮沢賢治からもらった手紙である」と言っていたそうです。直木賞をもらったことなんざ、それに比べれば、ずっと下の位にあったんでしょう。ああ、青春っていいですね。若いときの思い出や、出会った友人は、大事にしていくのが一番です。
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