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2024年10月の4件の記事

2024年10月27日 (日)

北小路幻…直木賞をとったあとでも宮沢賢治について語ることを生涯の仕事と心得る。

 こないだ岩手県の北上・花巻・盛岡を旅行してきました。

 同行者は、春日部の奇人こと盛厚三さんと、自意識まるだし文学ジジイこと、荒川佳洋さんです。ワタクシも含めて、三者三様、興味も関心も全然ちがうので、それぞれに交わす会話がほんとに成り立っているのか、はたから見ると奇妙な旅行客だったでしょうが、いつものように楽しい旅でした。

 荒川さんは自分のブログを持っているので、当人の目から見た旅のハナシはきっとそちらで書かれると思います。ワタクシはワタクシで、基本的には直木賞にしか興味がありません。なのでここでは、岩手で出会った直木賞の受賞者のことを書いて、旅の記録(?)としておきます。

 本名・森佐一、岩手の作家として初めて直木賞を受賞した人です。

 受賞したのは第18回(昭和18年/1943年・下半期)と、いまから80年もまえの出来事です。いまや東京にいると、この作家のことを語る人もほとんどいなくなり、何をした人か、どんな作品を書いてどんな発言をした人なのかは、なかなかうかがい知れません。だけど岩手に行けば、さすが地元だ、誰にきいても彼のことを知っている!……というわけでもなく、そこら辺は東京とどっこいどっこいかもしれません。

 いやでも、佐一さんの名前はいくつかの文学館では大きめに取り上げられ、岩手で出ている関連の書籍もいくつか入手することができます。それが知れただけでも、直木賞ファンとしては岩手に足を運んだ甲斐があったと思います。

 佐一さんの名がいまにまで残っているのは、直木賞受賞者としてというよりも、完全に宮沢賢治さんのおかげです。昔、直木賞受賞作のアンソロジーをつくったときにも、佐一さんと賢治さんの結びつきの強さには驚きましたが、これはもう相当なものです。

 佐一さんには森三紗さんという娘さんがいて、アンソロジー刊行の際にもお世話になりました。その三紗さんが平成29年/2017年4月にコールサック社から出した『宮沢賢治と森荘已池の絆』などは、タイトルのとおり、二人の結びつきを紹介した文章が、本の中核になっています。

 賢治さんが生まれたのは明治29年/1896年8月、佐一さんは明治40年/1907年5月です。それぞれ成長するうちに、賢治さんは花巻で、佐一さんは盛岡で詩を書き始めますが、いちばん最初に二人が出会ったのは、活字の上でのことでした。早熟の天才、佐一さんは旧制中学校に通うティーンエイジの頃から新聞や詩歌誌にぞくぞくと作品を投稿。そのときに、取っかえひっかえペンネームを変更して〈北小路幻〉〈北光路幻〉〈杜艸一〉〈畑幻人〉〈青木凶次〉などの名前を使います。

 〈幻〉という字がけっこう入っているのは、大正の頃の若者のなかにも、微妙にカッコよくて、よくよく考えるとダッセえ漢字を使いたがる中二病的な感性があったものかもしれません。まあそれはともかく、なかでも〈北小路幻〉の名前で『岩手日報』に発表した詩の評論は、バッサバッサと他人の作品を切り刻む辛辣な筆で知られたそうです。若さっていうのは頼もしく、また怖ろしいです。

 賢治さんは、新聞紙上で勢いよく昨今の詩をぶった斬る〈北小路幻〉さんに、かなりの敬意をもちながら、その記事を読んでいたと言われます。〈北小路〉=佐一さんはこの頃、仲間たちといっしょに岩手詩人協会というのをつくろうと画策、また新たな詩誌『貌』の刊行を準備していましたが、そこに参加してくれないかと手紙で賢治さんに依頼を送ります。大正13年/1924年4月に出た賢治さんの『春と修羅』を読んで、ううむ、こいつはどえらい書き手だ、と惚れ込んでいたからです。

 大正14年/1925年、このときから賢治さんが亡くなる昭和8年/1933年まで、二人の交流が続くんですが、まだ二人が実際に顔を合わせるまえの文通段階で、賢治さんからこんな手紙が佐一さんに送られてきた、と娘の三紗さんは力をこめて強調します。

「賢治は大正十四年二月九日あての手紙では、あなたにお会いしたいと思うと佐一に手紙を送り、二月十九日青色五厘方眼罫紙を八つ切りにした紙に、たった三行の次の内容を含む手紙を佐一に送って来ている。

あなたがもし北小路幻氏であればわたしは前からあなたを尊敬してゐます

しかもいまMisanthropyが氷のやうにわたくしを襲つてゐます

  この頃にあのぱぶりしゃあに会ひますからすこし待ってください (書簡202)」(『宮沢賢治と森荘已池の絆』所収「森荘已池展・賢治研究の先駆者たち②・企画展資料集より」より)

 人からこういう手紙をもらって、うれしがらない人など、よほどのあまのじゃくでないかぎり、いないでしょう。まだまだ当時の賢治さんは、全国的には無名の存在で、これからどうなるかもわからない詩人の卵でしたが、〈北小路〉の佐一さんのほうもまた、岩手のなかでは多少は知られていても、将来どんな人生を歩むことになるのか霧の中。お互い、まだまだこれからの時期に交わした書簡、あるいは思い出が、佐一さんの生涯でも最も大きいものになっていきます。

 娘の三紗さんの書くところによれば、佐一さんは生涯「この世の中で一番大切なものは命であるが、次に大切なのは宮沢賢治からもらった手紙である」と言っていたそうです。直木賞をもらったことなんざ、それに比べれば、ずっと下の位にあったんでしょう。ああ、青春っていいですね。若いときの思い出や、出会った友人は、大事にしていくのが一番です。

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2024年10月20日 (日)

久慈康裕…医科大学の校友会誌を編集しながら、なぜかいっとき変名を使う。

 今年の夏は暑かったですね。

 いやいや、日本の夏は暑苦しくて当たり前、いまさら振り返って暑い暑いといって何の意味があるんでしょう。ともかく、あまりに東京で過ごすのに耐えきれず、8月の半ば、少し気温の低いところを求めて北海道に旅行に行ってきた……ということが言いたかったんです。

 ただ、旅行ったって、何をするわけでもありません。だいたいワタクシの興味は直木賞に関することに限られていて、よその土地に行ってもまず直木賞を優先する変なクセがついています。

 ということで、北海道と直木賞といったら、まず外すことのできない一人の作家を顕彰した文学館が、札幌市の中島公園わきにある、という情報を頼りに、ふらふらと立ち寄ってみました。

 訪れたのは8月半ばの観光シーズンです。なのに、名を冠された作家の資料が展示されているフロアには、人っ子ひとりいません。女優だの何だのといっしょに写っているニタニタした男性作家の笑顔の写真がパネルになって掲げられていて、妙にものの哀れを感じさせていましたが、それはそれとして、彼が直木賞をとる前の、学生時代の資料がガラスケースのなかに飾られているのを見て、思わず身を乗り出してしまいました。

 というのも、彼もまた、本名で小説を書いて有名になる前に、ペンネームを使って文章を書いていたことがある、と知ったからです。へえ、そうなんだ。

 この作家もいちおう超有名人です。年譜の類いは数多くあり、自伝、評伝もたくさんあります。北海道から帰ってきて、そういったものを改めて見てみると、デビュー前の作品もすでにいろいろと掘り起こされています。中学生の頃から短歌などの文学に親しみ出し、高校、大学と進むあいだに医学の勉強とともに文学方面にも食指をのばして、はじめて小説を発表したのが昭和30年/1955年、22歳のとき。札幌医科大学に在籍中に、校友会雑誌『アルテリア』11号に寄せた「イタンキ浜で」という作品だったそうです。

 昭和32年/1957年には、川辺為三さんや椎野哲さんなどが始めた同人雑誌『凍檣』に加わりますが、同誌はまもなく『くりま』と改称。ここに精力的に小説を発表することになるのですが、と同時に『アルテリア』のほうにも引き続き作品を書いています。そのうち、14号の「白い顔」と15号の「グラビクラ」は、なぜか本名ではなく、別のペンネームを使いました。〈久慈康裕〉という名前です。

 のちに書かれた自伝的要素まんさいの小説『白夜』には、こんなふうに書かれています。

「本を読むのは好きで、高校時代は図書部に入って図書館の本を片っ端から読んだことがある。その前の中学時代には、国語のN先生にすすめられて、その先生が主宰している短歌同人誌に投稿したこともある。ときには俳誌を買ってきて自分で俳句をつくったこともある。

医学部の学生のときには校友会誌の編集をし、文芸色を出しすぎると批判され、仕方なく他の仲間と同人誌をつくって習作程度の小説を発表したこともあった。」(渡辺淳一・著『白夜 緑陰の章』より)

 「N先生」は歌人の中山周三さん、短歌同人誌とは『原始林』のことで、校友会誌は『アルテリア』、仲間とつくった同人誌とは『凍檣』→『くりま』がモデルでしょう。

 『アルテリア』の編集に携わったときに、あまりに文芸色を出しすぎると批判された、とあります。実際にそうだったのか。よくわかりませんが、そうであってもとくにおかしくありません。医科大学の校友会誌なのに、小説特集とか何とか、一般の文芸同人雑誌っぽい編集をしたそうですから、そういうものに難癖をつけたがる人がいたんでしょう。おそらく。

 そういえば、後年にいたるまで、彼の特徴といえば、何だったか。あれこれと周囲に物議をかもすことでした。日本初の心臓移植を小説化したり、『日経』紙面でエロ小説まがいの小説を連載したり、あるいは直木賞の選考委員として放言をかましたり……。

 人から難癖をつけられて生きていく彼の道ゆきは、『アルテリア』を編集していた時代から、もう始まっていたということです。本名を隠して〈久慈康裕〉なる名前に変えたところに、どんな理由があったのか。はっきりとはわかりませんけど、あまりに批判を浴びたことに影響を受けて、本名を使いづらくなったのかも。

 もしそうだとしたら、後年、厚顔であることをウリにした(?)あの性格も、若いときには、多少まわりの目を気にする小心な感覚があったのだろうと思います。しかしまあ、けっきょく、人がどんな思いで別の名前を使うかは、周囲からはうかがい知れません。〈久慈〉さんがどうだったのかは、もう藪の中です。

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2024年10月13日 (日)

花村奨…いっとき使った小説家としてのペンネームは忘れられても、それを蹴散らすほどの仕事を成し遂げる。

 約100年も前の大正15年/1926年に始まった『サンデー毎日』大衆文芸懸賞という企画があります。うちのブログでは、さんざん取り上げてきましたが、作家の名前というテーマで見たときにもやはり、この企画のことは外せません。

 当時、ペンネームで懸賞に当選したり選外佳作になったりした人が、のちに別の名前で有名になった、なんちゅう例がゴロゴロしているからです。最も有名なのは〈沢木信乃〉を名乗った井上靖さんかと思いますが、それ以外にもたくさんいます。今週はそのなかの一人、昭和14年/1939年度上期で選外佳作になった花村奨さんを取り上げてみようと思います。

 花村奨……というこの名前がのちに有名になったかどうかは、ちょっと疑わしい気もしますけど、大衆文芸の世界では見過ごせない偉業をなした人と言って、おそらく異論は出ないものと思います。それは実作者というより、宝文館の、そして新鷹会『大衆文芸』の、有能な編集者だったからです。

 これは前に書いたハナシかもしれませんが、あらためて言いますと、戦後第22回(昭和24年/1949年・下半期)の受賞者に、山田克郎さんがいます。受賞作の「海の廃園」は『文藝讀物』に載った短篇で、受賞したのはいいものの、雑誌を読んでなけりゃだれもその受賞作は読めません。

 しかも、『文藝讀物』を出していた日比谷出版社は、直木賞の運営母体(いまでいえば文藝春秋)の一翼を担っていながら、あっさりと戦後経済の荒波にもまれてハジけ飛んでしまい、雲散霧消。せっかくの受賞作を本にしてくれるはずの後ろ盾を失って、山田克郎さん、困ったことになりますが(ほんとうに困ったかどうかは知りませんけど)、そこに手を差し伸べたのが宝文館の編集者だった花村さんだ、と言われています。『海の廃園』はどうにか宝文館から書籍され、多少のお金が山田さんのもとにも入った……はずです。

 花村さんは直木賞の候補になった戦前からずっと大衆文壇でやってきましたので、山田さんとも友人の仲。困った人を見ると見逃せない花村さんの男気が、宝文館唯一の「直木賞受賞作本」に結びついたというわけです。

 編集者としての花村さんの足跡は、没後に編まれた『行路 花村奨文集』(平成5年/1993年10月・朝日書林刊、山本和夫・編)の一冊からも感じ取れるところです。ネットでは、皓星社の河原努さんが「趣味の近代日本出版史」のなかできっちりと取り上げてくれています

 あるいはその人柄は、これもまた友人の真鍋元之さんが『ある日、赤紙が来て 応召兵の見た帝国陸軍の最後』(昭和56年/1981年8月・光人社刊)で、花村さんのことをこう評しています。

(引用者注:真鍋の住む)板橋にはまた、詩人の江口榛一も住んでいたが、この江口を、わたしに紹介したのも、花村である。かれらふたりは、おそらく詩を介して知り合ったのであったろう。

(引用者中略)

われわれ三名のうち、もっとも冷静に、事務的な頭がはたらくのは、花村であった。」(真鍋元之・著『ある日、赤紙が来て 応召兵の見た帝国陸軍の最後』より)

 ほかにも「万事に気のまわる花村奨」との表現も出てきます。戦後、宝文館の社長だった大葉久治さんは、疎開中だった花村さんをいち早く東京に呼び寄せて、出版事業の再建に乗り出したそうで、よほど編集者として信頼されていたことがうかがえます。

 ちなみに宝文館では、『令女界』や『若草』の編集もしていましたが、同じ職場には山崎恵津子さんがいました。昭和22年/1947年、梅崎春生さんと結婚する女性ですけど、こんなところでも花村さんは直木賞と縁があったんですね(すみません、ちょっと縁というには遠すぎました)。

 花村さんがペンネームで書いた「首途」という直木賞候補作は、発表された時期も時期で、要するに日本が軍国化を推し進めるその土壌の上に書かれた作品です。いまとなっては顧みる人がいるとは思われない、なかなか不幸な時代背景を負った候補作なんですが、しかし戦後、花村さんが本名で書き続けた数々の小説や読み物はさることながら、宝文館で数々の雑誌、書籍の編集稼業のなかから生み出した作品群や、『大衆文芸』に拠って仲間や後輩たちに叱咤激励をかけながら、長谷川伸さん亡きあともこの雑誌を長らくつくりつづけた功績は、もうひれ伏すしかありません。

 直木賞の候補者だった、ということより、そちらのほうの業績を、もっと掘り起こすべき人でしょう。ワタクシなんぞが出る幕ではありません。

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2024年10月 6日 (日)

江夏美子…直木賞の候補になったあとに、心機一転、名前を変えたらまたも直木賞の候補に。

 先週取り上げたのは、一つの名前を二人の作家が使った、という珍しい例でしたが、今週はもう少し一般的です。一人の作家が二つ(以上)の名前で小説を発表した、というおハナシです。

 そんなものは、別に珍しいことじゃありません。ただ、直木賞という狭い舞台に限っていうと、一人のひとが違う名前で複数回、候補に挙がったというのは、そんなに当たり前でもありません。あまりない、と言ってもいいと思います。

 第50回(昭和38年/1963年・下半期)候補になった『脱走記』と、第52回(昭和39年/1964年・下半期)候補の「流離の記」。それぞれの作者は、最後の一文字が違うだけの似通った名前の持ち主ですけど、正真正銘、同一人物です。本名は中野美与志さんと言います。女性です。

 うちのブログもだらだら長くやっているので、中野さんについては、すでに以前に触れたことがあります。中野さんが主宰する同人雑誌『東海文学』にスポットを見ててみたときです。

 果たして中野美与志とは何者か。ワタクシだってそこまで詳しく知っているわけじゃないんですけど、ざっと履歴をおさらいしてみますと、中野さんが初めに創作をスタートさせたのは、戯曲やドラマの分野だったと言われています。

 昭和18年/1943年、大阪商工会議所主催の戯曲募集に投じた「母ぐるま」が入選、というのが最も古い受賞歴です。当時、旧姓・吉山美与志さんは大阪で中野茂さんと結婚し、その地で暮らしていたので、大阪商工会議所の企画に名を止めたものだと思われます。20歳のころです。

 以来、ペンネームは〈江夏美子〉と決めて、戦後NHKラジオ脚本でも入選を果たします。やがて視線は小説のほうに向いていき、次々生まれる子供を育てながら、家事のかたわら原稿用紙に張りつきますが、そこでも名前は〈江夏美子〉を使いつづけ、『文芸首都』に投稿したり、新潮文学賞や『文學界』の懸賞に応募したりするうちに、次第にその名が知られるようになります。

 当時、女性の作家は、まったくいなかったわけではありません。だけど男性と比べて比率は少なく、中野さんの作品が高く評判を呼んでいるのを見て、こんなことを言う人がいたそうです。

 女の作家は希少価値があるからね、だから優遇されているだけだろ、とか何だとか。

 〈美子〉という名前がいかにも女性っぽい。……というわけでもなかったでしょうが、いつの時代も口さがない輩というのはいるものです。女性だから得している、などとまわりから雑音が聞こえて、中野さんもそりゃあムッとしただろうと思います。

 ワタクシは、中野さんとじかに接したこともなく、勝手に想像することしかできませんが、その後めげずに小説を書きつづけ、それだけじゃ飽き足らずに自ら同人雑誌まで主宰して、ぐいぐい、ずんずんと歩みつづけたぐらいの人です。しおらしさや、かよわさとは縁のない骨の太い人柄だったことでしょう。

 じっさいに中野さんと何度も語り合ったことのある岩倉政治さんは、彼女についてこんなふうに回想しました。

「時として自信過剰を思わせる無邪気さで、ひとをめんくらわせることもあったし、作家として思想の重要性を口にしていた彼女自身、もっと歴史観、社会観について自分に課していたものもあったに違いない。もし彼女がさらに生きのびて、それらの課題を深めた暁には、例えば宮本百合子や野上弥生子らと肩を並べるような大成を果たしたかもしれぬとぼくは思うのである。

(引用者中略)

彼女はやはり彼女らしい負けん気を、みずからのいのちを断つ仕方で、つらぬいた。つまりガンが持ち込もうとしていた死についての主導権を自分が取りガンに死刑を与えたのだ。」(『民主文学』昭和58年/1983年1月号、岩倉政治「江夏美好さんを悼む」より)

 「自信過剰を思わせる無邪気さ」という表現が印象的です。うん、そんな人、世のなかにはけっこういるもんなあ。

 それで筆名のことなんですけど、おそらく中野さんほどの思慮深い人ですから、その付け方にはきっと重い理由があったものと思います。

 そもそもなぜ〈江夏美子〉という名前を付けたのか。長く使いつづけたその名前を、『東海文学』での「脱走記」の連載が終わって単行本化されたのを機に、いったん脱ぎ捨て、昭和38年/1963年に改名しますが、そのとき付けた〈古賀由子〉という名の由来は何なのか。

 よしこ、という読みに何か思い入れでもあるのかと思いきや、〈古賀由子〉の名前はあっさり撤回し、ふたたび〈江夏〉の姓に戻して、再々度、別の筆名を名乗りはじめます。名前をあれだこれだと変えたこの時期に、二度も直木賞の候補になったのですから、直木賞ファンとしても、知らない顔はできません。

 ううむ、これら命名の変遷には、中野さんのどんな心境が反映されていたんでしょうか。くわしい人の解説を待ちたいと思います(と、けっきょく人まかせ)。

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