テディ片岡…軽妙なコラムや読み物で人気を集めた人が、小説を書き始めるとともに名を変える。
日本の大衆文芸、エンターテインメント小説の分野は、だいたいいつの時代も賑やかです。
新しい書き手がどんどん出てくるわ、新しい作品が絶え間なく生まれるわ。そこの土台に乗っかっている直木賞も、一年に二回じゃ足りないぐらいに、受賞にふさわしい作家が次々と出てきます。昔もいまも。
だけど、直木賞の歴史を見ると、授賞なしが連続したり、断続したりしていた時期が、明らかに存在します。直木賞、いったいお前は何をやっていたんだ、とあきれられてもおかしくありません。時代でいうと1970年代、昭和50年なかばの頃です。
そんな時代に候補に挙げられながら、直木賞はとらなかったけど、ずっと商業ベースの小説を書き続け、ファンの心をがっちりつかんできた作家がたくさんいます。今週はそのなかから、第74回(昭和50年/1975年・下半期)に「スローなブギにしてくれ」で候補になった作家のことを少し書いてみることにしました。候補になったときに使っていた作家名とは別に、違う名前でも一世を風靡(?)した人だからです。
昭和43年/1968年、KKベストセラーズから出た『意地悪な本 あなたもやってみませんか!』は、伝えられるところによると12万部も売れたそうです。著者は、しとうきねおさんと、テディ片岡さん。少し発想をひねった物の見方と、軽くてユーモアあふれるマンガないし文体をひっさげて、大いにウケた……と言われています。
このうち、テディ片岡さんのほうが、のちに直木賞の候補になった人なんですが、1960年代、テディさんはまだ早稲田大学の学生だった頃から『マンハント』の雑誌あたりに続々と文章を発表して、昭和37年/1962年に大学を出たあとも、サラリーマンにはなり切れず、文章を書くことで生計を立てます。
翻訳ミステリ雑誌から出てきて、その後、『C調英語教室』(昭和38年/1963年2月・三一書房/三一新書)や『味のある英会話』(昭和40年/1965年4月・三一書房/三一新書)を出すなど、コテコテの日本式・和風なテイストをとっぱらったアメリカンな装いが、きっと新しい感覚と見られたものでしょう。まじめぶらずに、おふざけの要素を強く入れ込んでいるのも、テディさんの特徴ですが、時代が求めるものは硬派より軟派だったでしょうから、他の同時代のコラムニストに共通する特徴だったかもしれません。
このあたりはもう、60年代、70年代の異様に熱を帯びていた雑誌文化にくわしい人はたくさんいるので、後から生まれた世代はそういうオジサン・オバサン(ジイサン・バアサン)たちの、自慢話と思い出話の境のあいまいな回想録を読んで、そのころの時代の風を感じるしかありません。ともかく、そういったイケイケの出版文化のなかで、テディさんも若者たちから熱烈な支持を受けることになります。
そんなテディさんが、どうして30歳をすぎて小説なんてものを書き始めるのか。ヒトさまの心持ちはまったくわかりませんけど、だいたい32~33歳ごろからテディさんは小説の方向に向かいはじめます。と同時に「テディ片岡」の名前を脱ぎ捨てます。
テディさんが編集者として、あるいは書き手として創刊に関わった雑誌に『ワンダーランド』(昭和48年/1973年6月創刊)があります。その頃の回想を、オジイサンもオジイサン、津野海太郎さんが書き残してくれていますので、正座して耳を傾けてみましょう。
「(引用者注:テディ片岡は)年齢でいえば私と似たようなものだったが、なにしろハワイの日系人二世の息子だから、アメリカかぶれの要素などカケラもない。かぶれも反撥もひっくるめての日本人のアメリカ幻想のみならず、アメリカさえも内側から突っぱなして見ているような気配があって、こいつはちょっとレベルがちがうな、とおもった。優劣の問題ではない。日本のなかでもアメリカでも異物。立っている土台がはじめからちがう。
ただし、この(引用者注:『ワンダーランド』創刊の)段階でそのことに気づいていた人間はかならずしもおおくはなかったろう。だいいち、かれ自身がまだ雑文家「テディ片岡」の尻尾をひきずっていた。そのテディ氏が創刊号から『ロンサム・カウボーイ』という連作を書きはじめ、そのことで「片岡義男」という作家が誕生する。かれがじぶんから書くといったのか、ほかのだれかがそうすすめたのかは失念。おそらく前者だったのだろうとはおもうが――。」(平成20年/2008年10月・本の雑誌社刊、津野海太郎・著『おかしな時代――『ワンダーランド』と黒テントへの日々』より)
失念するあたりが(「失念」と書くあたりが)津野さんらしいよな、と思います。ただ、仮にだれかに勧められて新しい名義で「ロンサム・カウボーイ」を書きはじめたのだとしても、まもなく『野性時代』のほうでは完全に「テディ片岡」を捨てて小説に向かっているので、やはりご本人の意欲・意思が、創作した物語をある程度の文量で書く小説の形式にあったのは、たしかです。
そうして違う分野にやってきたテディさんの小説を、すぐさま候補に挙げた直木賞の予選は、なかなかあなどりがたいものがあります。作者35歳、このときの選考委員は50代3人、60代3人、70代3人。……と、何でもかんでも世代論で片づけるわけにはいかないな、と思うのは、御年75歳の石坂洋次郎さんが「スローなブギにしてくれ」を大変褒めているからですが、あまりにサラッとした作品だったために、まるで受賞にはからめずにしりぞけられてしまいます。
まあ、直木賞は昔っから重苦しいものが大好きです。人の好みは千差万別、落選するのもしかたありません。
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