氷川瓏…直木賞候補になろうが落とされようが、本名名義での文学修業をやめずに続ける。
氷川瓏。ひかわ・ろう。いい名前です。ロマンチックで蠱惑的で、強烈なインパクトがあります。
作家として有名か有名じゃないかでいったら、おそらく有名じゃないほうの部類です。だけど、ミステリー(というか推理小説)のアンソロジーとかでたまに氷川さんの作品を見かけることがあって、そういうものを読んだときから、いやあ、いい名前だよなあ、とかすかに意識させられた覚えがあります。直木賞ばっかり追っていないで、たまには別の本を読むのも大事ですよね。
ちなみに直木賞の候補者リストを何回見ても、氷川さんの名前は出てきません。幻想的な小説が多かったようだし、それはそれで仕方ないか、と思うんですが、ところがずらずらと並んだ候補者のなかに、実は氷川さんの本名がまじっている、と知ったのはいったいいつのことだったか。すっかり忘れてしまいましたが、ともかく「氷川瓏」とは似ても似つかぬ、堅苦しくて実直そうな名前が氷川さんの本名で、たしかに第27回(昭和27年/1952年・上半期)の候補のひとりに挙がっています。作品名は「洞窟」、初出は『三田文学』です。
氷川さんは昭和10年/1935年、東京商科大学(のちの一橋大学)専門部を出ています。そういう人が、どうしてペンネームとは別に本名で小説を書いているのか。詳しい動機はすでに熱心なミステリー研究者が調べ上げていることでしょう。
それはともかく、どうして一橋の同窓生が慶應義塾と縁ぶかい『三田文学』に登場しているのか、どうして、そんなお固い同人雑誌に載った片々たる短篇が文芸のなかでも邪道といわれる直木賞なんかの候補になったのか。そちらのほうは、何となく理由は察せされます。はっきり言って木々高太郎さんのおかげです。
木々高太郎。あんまりいい名前じゃありません。……と、そういうテキトーな個人的な感想はおいときまして、戦前はじめて探偵小説で直木賞を受賞し、戦後その実績から直木賞の選考委員に列せられると、まわりにいた文学志望者たちに直木賞をとれ、直木賞をとらなきゃ駄目だと言わんばかりにケツを叩いたという、いわずもがなの直木賞の申し子です。
慶應出身の木々さんは、戦後『三田文学』の再建者のひとりとして編集の中枢に据えられます。探偵小説はまた文学として評価されるものでなければならない、と強い信念を持ち、同じような考えをもつ探偵作家たちと気炎を吐いたのは、まだ戦後まもなくの頃。その若い仲間たちのなかに、氷川さんもいました。
氷川さん自身はそこまで自分で探偵小説を書いていこう、という欲があったようには見えませんが、昭和21年/1946年『宝石』の通巻2号目、5月号に江戸川乱歩さんの引きで「乳母車」が掲載されて、探偵文壇の人として遇されます。
そちらのグループのほうでは、たしかに商業的に原稿が売れることもあって、氷川さんが作家・文筆業としてやっていくには「探偵小説・推理小説」の看板は、決して無意味なものだったとは言えません。しかし、本人は文学をやっていきたいとする気持ちが捨てられず、とくに木々さんが盛んに大口を叩いていた「探偵小説は文学たれ」に深く共鳴します。
そうして書いた小説が、木々さんにも受け入れられ、木々さんたちがやっている『三田文学』に掲載。さらには、木々さんには『三田文学』から直木賞・芥川賞を! の思いが強かったので、その意向に沿ったかたちで第27回の直木賞の候補にねじ込まれた……といういきさつは容易に想像できるところです。
けっきょく直木賞は全然だめでしたが、なんだよ木々先生、選考会で強く推してくれなかったのかよ、と逆恨みすることなく、氷川さんはその後も木々さんと(だけじゃなく、乱歩さんとも)友好的な関係を保ちます。さすが人間ができていますね、氷川さん。
山村正夫さんによれば、それまで乱歩さんの邸宅で新年会がひらかれるのが恒例だったのを見て取った木々さんが、うちでもやろうと思いついたのかどうなのか、昭和31年/1956年から毎年木々さんの家でも行われるようになったそうですが、このとき幹事役を仰せつかったのが氷川さんです。
「たまたま氷川氏が、(引用者注:昭和31年/1956年)一月八日に個人で木々先生のお宅へ年賀におもむいたところ、先生より提案があり、「人選は、大坪砂男君と相談して、きめてほしい」と言われたという。」
そこで大坪、氷川両氏が幹事役となり、先生のお宅へ集まったのは、両氏のほかに渡辺啓助、永瀬三吾、日影丈吉、中島河太郎、阿部主計、夢座海二、朝山蜻一、古沢仁、宇野利泰、今日泊亜蘭、松本清張らの諸氏で、十三名だった。
(引用者中略)
「氷川氏の話によると、この新年会は年を追うごとに盛会になり、白石潔、椿八郎、鷲尾三郎、小山いと子、松井玲子などの諸氏が新たに参集した。これがしだいに発展して、先生主宰の純文学志望作家の集いになり、昭和三十八年にはこれらの諸氏の手で同人雑誌『詩と小説と評論』(原文ママ)が創刊され、現在に至っている。」(昭和48年/1973年10月・双葉社刊、山村正夫・著『推理文壇戦後史』より)
ふむふむ、こういうハナシを読むと、言い出しっぺというのはだいたい呑気だけど、その意向に従って別に仕事でも何でもないのに、きちんと場を設けてあげた下働きの人の偉さに、思いを馳せないわけにはいきません。伝説の同人雑誌『小説と詩と評論』ができて、そこから何作も直木賞候補が生まれて、といった直木賞の歴史は、煎じ詰めれば、このときに嫌な顔ひとつせず(?)新年会の開催に尽力した氷川さんいればこそ、だったんですね。
ちなみに氷川さんは、やはり本名で『小説と詩と評論』に参加しています。そちらでは、もう一切、自分が直木賞の候補に挙げられることはありませんでしたが、それでもずっと木々さんのもとに付いて、文学修業に励んだというのですから、その実直さが胸にしみます。
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