影山雄作…純文学を書いて10年、身も心ももたなくなってキッパリと創作から手を引く。
先週は三谷晴美さんのことを取り上げました。もとはその名前で少女小説を書きながら、もっと「文学」チックなものを書こうと挑戦したとき、筆名を変えたという昔の例です。
昔は昔なんですけど、そんな例は現在も含めて、たぶん古今東西くさるほどあります。だけど「たぶん」で済ませられないのが、直木賞オタクの面倒くささで、それぞれがどういう背景をもった例なのか、一つひとつの事案を見ていかないと胸にマグマがたまって熟睡もできません。
ということで、今週もまたそんなハナシです。作品ジャンルをがらりと変えるタイミングで筆名もバッサリと変更した人。影山雄作さんのことに触れたいと思います。
影山さんが小説家デビューしたのは平成4年/1992年のことで、およそ40歳前半のときでした。三谷晴美さんや北原節子さんなどと圧倒的に違うのは、それまでまったく小説や文学なんてものには興味がなく、作家になりたい、文学で生きていきたい、などとはまったく考えていなかったところです。
ほんとに考えていなかったんでしょうか。影山さんのエッセイやインタビューでたびたびそう語られているだけのことなので、真意はいっさいわかりません。ただ疑っても仕方ないので、そこは信じて先に進みます。
大学を卒業して影山さんは東洋経済新報社に就職しますが、そこで編集者になったわけじゃなく、企業広告を手がけるコピーライターとして会社から月給をもらいます。へえ、東洋経済にはそんな部署もあるんだ、出版社の世界もなかなか奥が深いもんですね。会社員生活を18年間つづけます。
影山さんが小説を書いてみる気になったのは、会社を辞める少し前ぐらいのことだったようです。それまで小説なんて大して読んでこなかった中年オヤジが、なぜそこで初めて小説を書いてみようなどと思ったのか。そこら辺が人間心理(あるいは環境)のめぐり合わせの不思議ですけど、ちょうどその頃、デジタル化の波がうねりを上げて社会全体に広がってきていた時代に当たり、影山さんも仕事柄、企業の最新動向には目を配らせていましたから、そこで出会った素材を前にして、うん、何だかこれを核にして小説にしてみたい、と思ったんだそうです。会社勤めのかたわら、しこしこ原稿を仕上げまして中央公論新人賞に応募。それが「俺たちの水晶宮」です。
語り手は海浜幕張にある、世界一巨大なコンピューターメーカーWBMの幕張テクニカルセンターに勤める男、加藤武志。出身は佐賀県ですが、やたらと田舎くさいものを毛嫌いしています。
同じSE仲間の長崎顕代は富山の出身で、〈俺〉の目から見ると田舎もんも田舎もんだったんですが、彼女には圧倒的なプログラミングの才能があって、とにかく無駄のないシステムをつくっちゃうデキる人でした。と、それ以上に長崎には特徴的なことがあって、それは容姿、スタイルが異様にセクシーだったこと。彼女を見た男は、だれであっても欲情を持たずにはいられない女性なんだそうで、現に職場で彼女に襲いかかった男もいたほどです。その暴行未遂事件の場にいて、たまたま彼女を助けたことから、〈俺〉と長崎は急速に近づき、いちおう付き合っているカップル、というかたちに発展します。
〈俺〉と長崎には、また信じがたいような共通点もありました。お互いに「佐賀の霊」「富山の霊」という、本人たちにしか見えない幽霊がときどき近くに現われることです。
「見えない」といえば、彼らが携わっているシステムというやつも、全体的には目で見ることはできません。どこでどうタスクがつながって、どのように機能し合っているのか。見えないはずのシステムを、しかしCGの技術で可視化できるものも、WBMでは開発されたらしく、SEたちがおのおのの仕事を目で見る場面なども出てきます。このあたりが影山さんが小説の構想のタネになった一つの素材なのかな、と思うんですけど、詳しいことはわかりません。
ともかくこの小説が、平成4年/1992年度の中央公論新人賞を受賞して、影山さんは作家として世に登場します。ただ、もののハナシによりますと、小説を書き上げて応募した段階で、影山さんは会社を辞め、受賞が決まったときには無職(いや、フリー)になっていたとも言いますので、40歳をすぎて組織のなかに縛られた状況を、影山さんはどうにか変えたいと思っていたんでしょう。運よく「俺たちの水晶宮」が受賞できたおかげで、小説家として立つことができました。
以来約10年。平成14年/2002年ごろまで『中央公論文芸特集』や『文學界』などに小説を発表します。
影山さんの回想によると、その頃は、おれは純文学作家なんだ! という強烈な思い込みに縛られたらしく、慣れない酒を飲み、生活は貧乏の極みを尽くして、そこから生まれてくる感覚を創作に向けていたんだとか何とか。
「言葉にすれば、人間の地肌が書きたかったということになるんだと思いますが、果たして何を表現しようとしたかったのか……逆にそれを分かりたくて、自分を限界まで追い込みました。まだ四十歳というのは若いですから、水はこぼれるまで注ぐことが、ガマの油だったらたらたら垂れるところまで追い込むのが、自分の役割だと思っていたんです。今になってみると非常に幼稚なことですが、全然アルコールには強くないのに、朝まで飲んでみるとか(笑)。
ところがそれを十年続けているとさすがに辛くなりました。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、宮城谷昌光、青山文平「受賞記念対談 「自分には書くことしかない」」より)
それで思い切りよく、小説を書くことには区切りをつけて、昔とった杵柄なのかどうなのか、フリーライターとして文章を書いてお金を稼ぐ、それはそれで厳しい世界にシフトして8~9年ほどを過ごします。
ところがフリーライターも、純文学作家と同じくらい不安定な職業です。そこまで儲かる商売でもなく、貯金なんてほとんどたまりません。このまま自分が死んだら、きっと我が妻は路頭に迷う。これじゃいかん。と影山さんが、「将来のおカネに困らなくなるような」策として考えたのが、商業作家になることでした。
純文学作家が今度は長編の時代小説を書いて松本清張賞に応募、見事一発で受賞してしまいます。どうして他の新人賞とか、日経小説大賞とかじゃなくて、清張賞だったのか。……将来的に食っていけるほどの作家になるには、運営企業のバックアップ、それまでの実績などを鑑みて、なるほど清張賞が最も最適解に近かったのだろう、とは想像できるんですけど、ほんとにそんな理由で清張賞を選んだのか、影山さんはそういうことをあまり語るタイプの書き手じゃないので、現実にはよくわかりません。
筆名もまたそうです。それまでの名前「影山雄作」を捨てて、どうして新しい名前で再出発を図ろうと思ったのか。
そんなことは、わざわざ自分で語るまでもない、という信念があるような様子が、直木賞受賞時のエッセイを読んでも垣間見えます。
「「自分のことはペラペラしゃべらない」。子供の頃から、父にそう諭されて私は育ちました。「訊かれたときだけ話す。あとは、人の話をよく聴くようにしなさい」。
ずっと言われた通りにしてきたものだから、六十七になった今でも、その縛りが抜けません。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、青山文平「私なりの自伝的エッセイ」より)
たしかに、自分のことをペラペラしゃべる人より、こういう人のほうが信用はできる気がします。
でも、「訊かれたときだけ話す」とあるので、もしかしたら訊いたら答えてくれるのかもしれません。どうして古い筆名のままじゃなくて、別の筆名に変えようと思ったのか。ぜひ誰か訊いてみてください。
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