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2024年9月の2件の記事

2024年9月 8日 (日)

氷川瓏…直木賞候補になろうが落とされようが、本名名義での文学修業をやめずに続ける。

 氷川瓏。ひかわ・ろう。いい名前です。ロマンチックで蠱惑的で、強烈なインパクトがあります。

 作家として有名か有名じゃないかでいったら、おそらく有名じゃないほうの部類です。だけど、ミステリー(というか推理小説)のアンソロジーとかでたまに氷川さんの作品を見かけることがあって、そういうものを読んだときから、いやあ、いい名前だよなあ、とかすかに意識させられた覚えがあります。直木賞ばっかり追っていないで、たまには別の本を読むのも大事ですよね。

 ちなみに直木賞の候補者リストを何回見ても、氷川さんの名前は出てきません。幻想的な小説が多かったようだし、それはそれで仕方ないか、と思うんですが、ところがずらずらと並んだ候補者のなかに、実は氷川さんの本名がまじっている、と知ったのはいったいいつのことだったか。すっかり忘れてしまいましたが、ともかく「氷川瓏」とは似ても似つかぬ、堅苦しくて実直そうな名前が氷川さんの本名で、たしかに第27回(昭和27年/1952年・上半期)の候補のひとりに挙がっています。作品名は「洞窟」、初出は『三田文学』です。

 氷川さんは昭和10年/1935年、東京商科大学(のちの一橋大学)専門部を出ています。そういう人が、どうしてペンネームとは別に本名で小説を書いているのか。詳しい動機はすでに熱心なミステリー研究者が調べ上げていることでしょう。

 それはともかく、どうして一橋の同窓生が慶應義塾と縁ぶかい『三田文学』に登場しているのか、どうして、そんなお固い同人雑誌に載った片々たる短篇が文芸のなかでも邪道といわれる直木賞なんかの候補になったのか。そちらのほうは、何となく理由は察せされます。はっきり言って木々高太郎さんのおかげです。

 木々高太郎。あんまりいい名前じゃありません。……と、そういうテキトーな個人的な感想はおいときまして、戦前はじめて探偵小説で直木賞を受賞し、戦後その実績から直木賞の選考委員に列せられると、まわりにいた文学志望者たちに直木賞をとれ、直木賞をとらなきゃ駄目だと言わんばかりにケツを叩いたという、いわずもがなの直木賞の申し子です。

 慶應出身の木々さんは、戦後『三田文学』の再建者のひとりとして編集の中枢に据えられます。探偵小説はまた文学として評価されるものでなければならない、と強い信念を持ち、同じような考えをもつ探偵作家たちと気炎を吐いたのは、まだ戦後まもなくの頃。その若い仲間たちのなかに、氷川さんもいました。

 氷川さん自身はそこまで自分で探偵小説を書いていこう、という欲があったようには見えませんが、昭和21年/1946年『宝石』の通巻2号目、5月号に江戸川乱歩さんの引きで「乳母車」が掲載されて、探偵文壇の人として遇されます。

 そちらのグループのほうでは、たしかに商業的に原稿が売れることもあって、氷川さんが作家・文筆業としてやっていくには「探偵小説・推理小説」の看板は、決して無意味なものだったとは言えません。しかし、本人は文学をやっていきたいとする気持ちが捨てられず、とくに木々さんが盛んに大口を叩いていた「探偵小説は文学たれ」に深く共鳴します。

 そうして書いた小説が、木々さんにも受け入れられ、木々さんたちがやっている『三田文学』に掲載。さらには、木々さんには『三田文学』から直木賞・芥川賞を! の思いが強かったので、その意向に沿ったかたちで第27回の直木賞の候補にねじ込まれた……といういきさつは容易に想像できるところです。

 けっきょく直木賞は全然だめでしたが、なんだよ木々先生、選考会で強く推してくれなかったのかよ、と逆恨みすることなく、氷川さんはその後も木々さんと(だけじゃなく、乱歩さんとも)友好的な関係を保ちます。さすが人間ができていますね、氷川さん。

 山村正夫さんによれば、それまで乱歩さんの邸宅で新年会がひらかれるのが恒例だったのを見て取った木々さんが、うちでもやろうと思いついたのかどうなのか、昭和31年/1956年から毎年木々さんの家でも行われるようになったそうですが、このとき幹事役を仰せつかったのが氷川さんです。

「たまたま氷川氏が、(引用者注:昭和31年/1956年)一月八日に個人で木々先生のお宅へ年賀におもむいたところ、先生より提案があり、「人選は、大坪砂男君と相談して、きめてほしい」と言われたという。」

そこで大坪、氷川両氏が幹事役となり、先生のお宅へ集まったのは、両氏のほかに渡辺啓助、永瀬三吾、日影丈吉、中島河太郎、阿部主計、夢座海二、朝山蜻一、古沢仁、宇野利泰、今日泊亜蘭、松本清張らの諸氏で、十三名だった。

(引用者中略)

「氷川氏の話によると、この新年会は年を追うごとに盛会になり、白石潔、椿八郎、鷲尾三郎、小山いと子、松井玲子などの諸氏が新たに参集した。これがしだいに発展して、先生主宰の純文学志望作家の集いになり、昭和三十八年にはこれらの諸氏の手で同人雑誌『詩と小説と評論』(原文ママ)が創刊され、現在に至っている。」(昭和48年/1973年10月・双葉社刊、山村正夫・著『推理文壇戦後史』より)

 ふむふむ、こういうハナシを読むと、言い出しっぺというのはだいたい呑気だけど、その意向に従って別に仕事でも何でもないのに、きちんと場を設けてあげた下働きの人の偉さに、思いを馳せないわけにはいきません。伝説の同人雑誌『小説と詩と評論』ができて、そこから何作も直木賞候補が生まれて、といった直木賞の歴史は、煎じ詰めれば、このときに嫌な顔ひとつせず(?)新年会の開催に尽力した氷川さんいればこそ、だったんですね。

 ちなみに氷川さんは、やはり本名で『小説と詩と評論』に参加しています。そちらでは、もう一切、自分が直木賞の候補に挙げられることはありませんでしたが、それでもずっと木々さんのもとに付いて、文学修業に励んだというのですから、その実直さが胸にしみます。

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2024年9月 1日 (日)

影山雄作…純文学を書いて10年、身も心ももたなくなってキッパリと創作から手を引く。

 先週は三谷晴美さんのことを取り上げました。もとはその名前で少女小説を書きながら、もっと「文学」チックなものを書こうと挑戦したとき、筆名を変えたという昔の例です。

 昔は昔なんですけど、そんな例は現在も含めて、たぶん古今東西くさるほどあります。だけど「たぶん」で済ませられないのが、直木賞オタクの面倒くささで、それぞれがどういう背景をもった例なのか、一つひとつの事案を見ていかないと胸にマグマがたまって熟睡もできません。

 ということで、今週もまたそんなハナシです。作品ジャンルをがらりと変えるタイミングで筆名もバッサリと変更した人。影山雄作さんのことに触れたいと思います。

 影山さんが小説家デビューしたのは平成4年/1992年のことで、およそ40歳前半のときでした。三谷晴美さんや北原節子さんなどと圧倒的に違うのは、それまでまったく小説や文学なんてものには興味がなく、作家になりたい、文学で生きていきたい、などとはまったく考えていなかったところです。

 ほんとに考えていなかったんでしょうか。影山さんのエッセイやインタビューでたびたびそう語られているだけのことなので、真意はいっさいわかりません。ただ疑っても仕方ないので、そこは信じて先に進みます。

 大学を卒業して影山さんは東洋経済新報社に就職しますが、そこで編集者になったわけじゃなく、企業広告を手がけるコピーライターとして会社から月給をもらいます。へえ、東洋経済にはそんな部署もあるんだ、出版社の世界もなかなか奥が深いもんですね。会社員生活を18年間つづけます。

 影山さんが小説を書いてみる気になったのは、会社を辞める少し前ぐらいのことだったようです。それまで小説なんて大して読んでこなかった中年オヤジが、なぜそこで初めて小説を書いてみようなどと思ったのか。そこら辺が人間心理(あるいは環境)のめぐり合わせの不思議ですけど、ちょうどその頃、デジタル化の波がうねりを上げて社会全体に広がってきていた時代に当たり、影山さんも仕事柄、企業の最新動向には目を配らせていましたから、そこで出会った素材を前にして、うん、何だかこれを核にして小説にしてみたい、と思ったんだそうです。会社勤めのかたわら、しこしこ原稿を仕上げまして中央公論新人賞に応募。それが「俺たちの水晶宮」です。

 語り手は海浜幕張にある、世界一巨大なコンピューターメーカーWBMの幕張テクニカルセンターに勤める男、加藤武志。出身は佐賀県ですが、やたらと田舎くさいものを毛嫌いしています。

 同じSE仲間の長崎顕代は富山の出身で、〈俺〉の目から見ると田舎もんも田舎もんだったんですが、彼女には圧倒的なプログラミングの才能があって、とにかく無駄のないシステムをつくっちゃうデキる人でした。と、それ以上に長崎には特徴的なことがあって、それは容姿、スタイルが異様にセクシーだったこと。彼女を見た男は、だれであっても欲情を持たずにはいられない女性なんだそうで、現に職場で彼女に襲いかかった男もいたほどです。その暴行未遂事件の場にいて、たまたま彼女を助けたことから、〈俺〉と長崎は急速に近づき、いちおう付き合っているカップル、というかたちに発展します。

 〈俺〉と長崎には、また信じがたいような共通点もありました。お互いに「佐賀の霊」「富山の霊」という、本人たちにしか見えない幽霊がときどき近くに現われることです。

 「見えない」といえば、彼らが携わっているシステムというやつも、全体的には目で見ることはできません。どこでどうタスクがつながって、どのように機能し合っているのか。見えないはずのシステムを、しかしCGの技術で可視化できるものも、WBMでは開発されたらしく、SEたちがおのおのの仕事を目で見る場面なども出てきます。このあたりが影山さんが小説の構想のタネになった一つの素材なのかな、と思うんですけど、詳しいことはわかりません。

 ともかくこの小説が、平成4年/1992年度の中央公論新人賞を受賞して、影山さんは作家として世に登場します。ただ、もののハナシによりますと、小説を書き上げて応募した段階で、影山さんは会社を辞め、受賞が決まったときには無職(いや、フリー)になっていたとも言いますので、40歳をすぎて組織のなかに縛られた状況を、影山さんはどうにか変えたいと思っていたんでしょう。運よく「俺たちの水晶宮」が受賞できたおかげで、小説家として立つことができました。

 以来約10年。平成14年/2002年ごろまで『中央公論文芸特集』や『文學界』などに小説を発表します。

 影山さんの回想によると、その頃は、おれは純文学作家なんだ! という強烈な思い込みに縛られたらしく、慣れない酒を飲み、生活は貧乏の極みを尽くして、そこから生まれてくる感覚を創作に向けていたんだとか何とか。

「言葉にすれば、人間の地肌が書きたかったということになるんだと思いますが、果たして何を表現しようとしたかったのか……逆にそれを分かりたくて、自分を限界まで追い込みました。まだ四十歳というのは若いですから、水はこぼれるまで注ぐことが、ガマの油だったらたらたら垂れるところまで追い込むのが、自分の役割だと思っていたんです。今になってみると非常に幼稚なことですが、全然アルコールには強くないのに、朝まで飲んでみるとか(笑)。

ところがそれを十年続けているとさすがに辛くなりました。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、宮城谷昌光、青山文平「受賞記念対談 「自分には書くことしかない」」より)

 それで思い切りよく、小説を書くことには区切りをつけて、昔とった杵柄なのかどうなのか、フリーライターとして文章を書いてお金を稼ぐ、それはそれで厳しい世界にシフトして8~9年ほどを過ごします。

 ところがフリーライターも、純文学作家と同じくらい不安定な職業です。そこまで儲かる商売でもなく、貯金なんてほとんどたまりません。このまま自分が死んだら、きっと我が妻は路頭に迷う。これじゃいかん。と影山さんが、「将来のおカネに困らなくなるような」策として考えたのが、商業作家になることでした。

 純文学作家が今度は長編の時代小説を書いて松本清張賞に応募、見事一発で受賞してしまいます。どうして他の新人賞とか、日経小説大賞とかじゃなくて、清張賞だったのか。……将来的に食っていけるほどの作家になるには、運営企業のバックアップ、それまでの実績などを鑑みて、なるほど清張賞が最も最適解に近かったのだろう、とは想像できるんですけど、ほんとにそんな理由で清張賞を選んだのか、影山さんはそういうことをあまり語るタイプの書き手じゃないので、現実にはよくわかりません。

 筆名もまたそうです。それまでの名前「影山雄作」を捨てて、どうして新しい名前で再出発を図ろうと思ったのか。

 そんなことは、わざわざ自分で語るまでもない、という信念があるような様子が、直木賞受賞時のエッセイを読んでも垣間見えます。

「「自分のことはペラペラしゃべらない」。子供の頃から、父にそう諭されて私は育ちました。「訊かれたときだけ話す。あとは、人の話をよく聴くようにしなさい」。

ずっと言われた通りにしてきたものだから、六十七になった今でも、その縛りが抜けません。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、青山文平「私なりの自伝的エッセイ」より)

 たしかに、自分のことをペラペラしゃべる人より、こういう人のほうが信用はできる気がします。

 でも、「訊かれたときだけ話す」とあるので、もしかしたら訊いたら答えてくれるのかもしれません。どうして古い筆名のままじゃなくて、別の筆名に変えようと思ったのか。ぜひ誰か訊いてみてください。

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