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2024年9月の5件の記事

2024年9月29日 (日)

山手樹一郎…一人の若手作家が使っていたペンネームが、別の人に受け継がれて直木賞候補になる。

 直木賞の歴史は無駄に長いので(と、いつもこんな書き出しですけど)、変なことがときどき起こります。候補者の名前についても例外じゃありません。

 過去、直木賞の授賞がいったん決まりながら本人が辞退して授賞なしといった例は、第17回(昭和18年/1943年・上半期)の一回だけです。その辞退した作家は、戦中・戦後におよんで多くの読者を魅了し、直木賞そのものを追い抜いちゃうほどの知名度を獲得したので、彼の生涯や作品を対象にした研究や評論は、いまも絶え間なく生み出されつづけています。

 そのなかの一つに、彼が使った筆名・ペンネームの研究という分野があります。

 清水三十六さんという本名を持ちながら、直木賞の候補になって受賞辞退としたときの筆名はもちろんのこと、他にも数々の筆名を使っていて、いったいどれだけの名前があったのか、いまも全貌はわからないらしいです。竹添敦子さんや末國善己さんなどの熱心な研究のおかげで、〈甲野信三〉名義の作品が発掘されたのは、つい10数年前のことです。記憶に新しいかと思います。

 有名になる前に、さまざまな筆名を使い分けるのは、清水さんだけの特徴とはいえませんが、たとえば戦前には〈俵屋宗八〉〈佐野喬〉、戦後になっても〈黒林騎士〉〈折箸蘭亭〉〈風々亭一迷〉〈覆面作家〉などなど、やたらと多くの名前で作品を発表しています。名前なんてどうだっていいじゃないか、作品がどれだけ読者の心に届くかが重要なのさ、と言わんばかりの乱発ぶりです。

 それで、そういうペンネームのなかに〈山手樹一郎〉もあった、というのですから仰天です。直木賞の歴史を見ても、こんな事態をつくり上げたのは、おそらく彼だけでしょう。

 この辺りの事情は、あまりにも有名なハナシすぎて、いまさらナゾるのも気が引けるんですが、しかし直木賞エピソードにもつながることですから、いちおうさらいしておきます。

 清水さんがまだ駆け出し作家だったころ、親しかった編集者に井口長次さんがいました。小学新報社の雑誌『少女号』の編集をしていた頃に清水さんと知り合い、原稿を売り買いする間柄になりますが、井口さんが博文館の『少年少女 譚海』に移ってからもその関係は変わらず、井口編集長は清水さんの話づくりのうまさと面白さを買って、時代小説、探偵小説、冒険小説を次々と雑誌に掲載します。

 井口さんはのちに回想しています。

「しまいには時代小説、冒険小説、探偵小説なんでもござれとよくこなして、おもしろいから変名で二つぐらいずつ載せるようになった。或る時なにかの都合で三つ載ることになり、もう一つペンネームが必要になった。たしか現代物だったと思うが、ぼくはそれに山手樹一郎という筆名をつけた。山手はぼくの母方の姓で、山本の山がおなじだから、山手線一郎としゃれようかと思ったが、それではあまりふざけすぎると考え、樹一郎にした。」(昭和30年/1955年5月・和同出版社刊、山手樹一郎・著『山手樹一郎短篇小説全集 第一巻 うぐいす侍』「後記 めくら蛇の記」より)

 ふうむ、もしこのとき井口さんが悪ノリしちゃう性格の人だったら、ペンネームは山手線一郎になっていたかもしれません。

 直木賞は麻布競馬場さんが候補になって、浅田次郎さんにペンネームのことでイジられるぐらいなので、「山手線一郎」が出てきても別に全然よかったんですけど、残念ながら井口さんの生真面目さがそれを阻みます。

 しかし、けっきょく清水さんの数あるペンネームの一つとして付けられた〈山手樹一郎〉は、数奇な運命をたどることになりました。その後、井口さんが『サンデー毎日』大衆文芸に応募するときに、井口さん自身が使用。すると、その名前で小説家として立つようになったおかげで、第15回(昭和17年/1942年・上半期)「余香抄」が直木賞の最終予選一歩手前まで行ったあと、第19回(昭和19年/1944年・上半期)に「檻送記」で、直木賞の最終候補として議論の場に挙げられます。

 一人の若手作家が、かつて使っていたペンネームが別の人に受け継がれ、当の若手作家も候補になる、受け継いだ人まで候補になる、というペンネームマジックが直木賞の歴史に刻まれたわけです。おお、アメージング。

 ……と、こんなことで興奮するのは、直木賞オタクだけですか。そうですよね。あまりにどうでもいいことすぎて、名前なんてどうだっていいだろ、と言う人の気持ちも、わからないではありません。

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2024年9月22日 (日)

テディ片岡…軽妙なコラムや読み物で人気を集めた人が、小説を書き始めるとともに名を変える。

 日本の大衆文芸、エンターテインメント小説の分野は、だいたいいつの時代も賑やかです。

 新しい書き手がどんどん出てくるわ、新しい作品が絶え間なく生まれるわ。そこの土台に乗っかっている直木賞も、一年に二回じゃ足りないぐらいに、受賞にふさわしい作家が次々と出てきます。昔もいまも。

 だけど、直木賞の歴史を見ると、授賞なしが連続したり、断続したりしていた時期が、明らかに存在します。直木賞、いったいお前は何をやっていたんだ、とあきれられてもおかしくありません。時代でいうと1970年代、昭和50年なかばの頃です。

 そんな時代に候補に挙げられながら、直木賞はとらなかったけど、ずっと商業ベースの小説を書き続け、ファンの心をがっちりつかんできた作家がたくさんいます。今週はそのなかから、第74回(昭和50年/1975年・下半期)に「スローなブギにしてくれ」で候補になった作家のことを少し書いてみることにしました。候補になったときに使っていた作家名とは別に、違う名前でも一世を風靡(?)した人だからです。

 昭和43年/1968年、KKベストセラーズから出た『意地悪な本 あなたもやってみませんか!』は、伝えられるところによると12万部も売れたそうです。著者は、しとうきねおさんと、テディ片岡さん。少し発想をひねった物の見方と、軽くてユーモアあふれるマンガないし文体をひっさげて、大いにウケた……と言われています。

 このうち、テディ片岡さんのほうが、のちに直木賞の候補になった人なんですが、1960年代、テディさんはまだ早稲田大学の学生だった頃から『マンハント』の雑誌あたりに続々と文章を発表して、昭和37年/1962年に大学を出たあとも、サラリーマンにはなり切れず、文章を書くことで生計を立てます。

 翻訳ミステリ雑誌から出てきて、その後、『C調英語教室』(昭和38年/1963年2月・三一書房/三一新書)や『味のある英会話』(昭和40年/1965年4月・三一書房/三一新書)を出すなど、コテコテの日本式・和風なテイストをとっぱらったアメリカンな装いが、きっと新しい感覚と見られたものでしょう。まじめぶらずに、おふざけの要素を強く入れ込んでいるのも、テディさんの特徴ですが、時代が求めるものは硬派より軟派だったでしょうから、他の同時代のコラムニストに共通する特徴だったかもしれません。

 このあたりはもう、60年代、70年代の異様に熱を帯びていた雑誌文化にくわしい人はたくさんいるので、後から生まれた世代はそういうオジサン・オバサン(ジイサン・バアサン)たちの、自慢話と思い出話の境のあいまいな回想録を読んで、そのころの時代の風を感じるしかありません。ともかく、そういったイケイケの出版文化のなかで、テディさんも若者たちから熱烈な支持を受けることになります。

 そんなテディさんが、どうして30歳をすぎて小説なんてものを書き始めるのか。ヒトさまの心持ちはまったくわかりませんけど、だいたい32~33歳ごろからテディさんは小説の方向に向かいはじめます。と同時に「テディ片岡」の名前を脱ぎ捨てます。

 テディさんが編集者として、あるいは書き手として創刊に関わった雑誌に『ワンダーランド』(昭和48年/1973年6月創刊)があります。その頃の回想を、オジイサンもオジイサン、津野海太郎さんが書き残してくれていますので、正座して耳を傾けてみましょう。

(引用者注:テディ片岡は)年齢でいえば私と似たようなものだったが、なにしろハワイの日系人二世の息子だから、アメリカかぶれの要素などカケラもない。かぶれも反撥もひっくるめての日本人のアメリカ幻想のみならず、アメリカさえも内側から突っぱなして見ているような気配があって、こいつはちょっとレベルがちがうな、とおもった。優劣の問題ではない。日本のなかでもアメリカでも異物。立っている土台がはじめからちがう。

ただし、この(引用者注:『ワンダーランド』創刊の)段階でそのことに気づいていた人間はかならずしもおおくはなかったろう。だいいち、かれ自身がまだ雑文家「テディ片岡」の尻尾をひきずっていた。そのテディ氏が創刊号から『ロンサム・カウボーイ』という連作を書きはじめ、そのことで「片岡義男」という作家が誕生する。かれがじぶんから書くといったのか、ほかのだれかがそうすすめたのかは失念。おそらく前者だったのだろうとはおもうが――。」(平成20年/2008年10月・本の雑誌社刊、津野海太郎・著『おかしな時代――『ワンダーランド』と黒テントへの日々』より)

 失念するあたりが(「失念」と書くあたりが)津野さんらしいよな、と思います。ただ、仮にだれかに勧められて新しい名義で「ロンサム・カウボーイ」を書きはじめたのだとしても、まもなく『野性時代』のほうでは完全に「テディ片岡」を捨てて小説に向かっているので、やはりご本人の意欲・意思が、創作した物語をある程度の文量で書く小説の形式にあったのは、たしかです。

 そうして違う分野にやってきたテディさんの小説を、すぐさま候補に挙げた直木賞の予選は、なかなかあなどりがたいものがあります。作者35歳、このときの選考委員は50代3人、60代3人、70代3人。……と、何でもかんでも世代論で片づけるわけにはいかないな、と思うのは、御年75歳の石坂洋次郎さんが「スローなブギにしてくれ」を大変褒めているからですが、あまりにサラッとした作品だったために、まるで受賞にはからめずにしりぞけられてしまいます。

 まあ、直木賞は昔っから重苦しいものが大好きです。人の好みは千差万別、落選するのもしかたありません。

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2024年9月15日 (日)

谷川早…別の名義で書いた作品と同じ回に、直木賞の選評にその名が登場する前代未聞の作家。

 直木賞の歴史は無駄に長いです。

 無駄に長いので、いまじゃ考えられないようなことが起こったりすることもありました。この賞の歴史をえんえんとたどる醍醐味は、そういうものに遭遇するところにあるのだ、と言っても過言じゃありません。

 いまから84年前の第11回(昭和15年/1940年・上半期)、昔も昔で、当時の直木賞のことをリアルタイムで覚えている人は誰もいないでしょうけど、『文藝春秋』昭和15年/1940年9月号に載った選評(選考経緯)において、直木賞史上、驚天動地の事態が巻き起こりました。

 同一人物の作品が、二つの別の作者名で議論の俎上に上がったことが、選評のなかで明らかにされていたからです。

 ……と、それを書いた宇野浩二さんは、別にそれぞれの作者が同じ人物だと指摘しているわけでもなく、勝手にワタクシが興奮しているだけなんですけど、このとき直木賞にはかる参考作品として主催の日本文学振興会がつくった資料に、谷川早「平賀源内捕物帳」(『講談倶楽部』)1・2・5、というものが挙がっていました。

 どうして、1と2と5だけなのか。よくわからないナゾだらけの資料ですが、そもそも〈谷川早〉って何者だ、という感は否めません(否めるか)。書いているのは『講談倶楽部』のこのシリーズと、昭和15年/1940年4月に博文館から出た『顎十郎捕物帖』だけ。で、《顎十郎~》は『奇譚』という雑誌で、そもそも〈六戸部力〉なる作者が書き継いでいた連作なのに、どうして単行本のときに〈谷川早〉と名乗り直しているのか。ナゾもナゾです。

 ただ、この作家はその後、戦後になって直木賞を受賞していますし、いや、賞なんかとは関係なく、その作品に惚れ込む人たちがいまに至るまで大勢います。どうして、これらの捕物帳だけ〈谷川早〉の名前を使ったのか、とっくのとうに調査・分析・解明されていることでしょう。いまさらうちのブログでだらだら取り上げるまでもありません。

 でもまあ、うちは直木賞専門ブログです。直木賞のことなら書かずにはいられません。探偵小説から海外物、何のこっちゃのおハナシまでいろいろ書いた本名・阿部正雄さんが、どうして直木賞の場では(第11回の「葡萄蔓の束」を除いて)時代物ばっかりで候補になったのか。これも、無理やり言えばナゾめいていると言えなくもありません。

 と思ったら、すでに阿部さんの直木賞候補と時代物について、川崎賢子さんが書いていました。……自分が考えるようなことは、だいたい誰かがすでに思いついているものです。阿部さんぐらいの作家になれば、研究の歴史も長く、なおさらです。

 戦時中に作家になった阿部さんのことを、川崎さんは書いています。

「十蘭はひどい時代に小説家となった。(引用者中略)初めて久生十蘭の筆名を用いたのは「金狼」発表時、一九三六年で二・二六事件、戦線の拡大と文学者動員の圧力はやむことなかった。

(引用者中略)

ひどい時代には時代物に現代を託する、歌舞伎ジャンルの方法を十蘭も受け継いでいる。史実と創作、史料と偽書が縦横にないまぜにされている。贋金造りのように嘘を実録らしくみせるのが小説の醍醐味だというのが久生十蘭のポーズである。」(平成27年/2015年2月・河出書房新社/文芸の本棚『久生十蘭 評する言葉も失う最高の作家』所収、川崎賢子「十蘭つれづれ 偽書をかきわけながら」より)

 おそらく川崎さんが論じたい部分とは全然違う方向での引用になって、すみません。

 直木賞との関係を、ここからワタクシなりに解釈すると、つまりこういうことです。戦争が出版物や創作のうえで多くの縛りを設けさせた直木賞の戦前期。阿部さんも、その時代にまだしも存在を許された「時代物」という形式をとらざるを得ず、おのずと候補に挙がる作品も時代物ばかりになってしまった……と。

 時代物に見せかけて、実はつくりにつくった虚構の世界、という阿部さんの本領は、戦前の直木賞ではいまいち評価されずに終わります。谷川早の名前で挙がった諸作も、だれがどんな意図で直木賞の参考作にしたのか、どれだけの選考委員がそれを読んでどんな感想をもったのか、もはやすべては霧の中です。

 ところが戦後、昭和26年/1951年にもなって、またまた阿部さんの作品が直木賞に図られて、けっきょく直木賞のほうが、参りました、遅くなってすみません、もらってやってください、とこうべを垂れることになるんですけど、それがまた「鈴木主水」という時代物(に見せかけたナントヤラ)だったのが、直木賞の歴史にぐっと深みを与えています。戦前から戦後まで、阿部さんのやっていることは何も変わっていない、ということをあえて時代物を候補に挙げることで示してみせた上で、あのときは直木賞の側が理解できなかったんだと詫びる姿勢を公然と見せた(ように見える)からです。

 ああ、あのときは間違っていた、とあとで気づいたら、正直にその非を認めるのは大切です。そのことをワタクシは第26回の直木賞から学びました。

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2024年9月 8日 (日)

氷川瓏…直木賞候補になろうが落とされようが、本名名義での文学修業をやめずに続ける。

 氷川瓏。ひかわ・ろう。いい名前です。ロマンチックで蠱惑的で、強烈なインパクトがあります。

 作家として有名か有名じゃないかでいったら、おそらく有名じゃないほうの部類です。だけど、ミステリー(というか推理小説)のアンソロジーとかでたまに氷川さんの作品を見かけることがあって、そういうものを読んだときから、いやあ、いい名前だよなあ、とかすかに意識させられた覚えがあります。直木賞ばっかり追っていないで、たまには別の本を読むのも大事ですよね。

 ちなみに直木賞の候補者リストを何回見ても、氷川さんの名前は出てきません。幻想的な小説が多かったようだし、それはそれで仕方ないか、と思うんですが、ところがずらずらと並んだ候補者のなかに、実は氷川さんの本名がまじっている、と知ったのはいったいいつのことだったか。すっかり忘れてしまいましたが、ともかく「氷川瓏」とは似ても似つかぬ、堅苦しくて実直そうな名前が氷川さんの本名で、たしかに第27回(昭和27年/1952年・上半期)の候補のひとりに挙がっています。作品名は「洞窟」、初出は『三田文学』です。

 氷川さんは昭和10年/1935年、東京商科大学(のちの一橋大学)専門部を出ています。そういう人が、どうしてペンネームとは別に本名で小説を書いているのか。詳しい動機はすでに熱心なミステリー研究者が調べ上げていることでしょう。

 それはともかく、どうして一橋の同窓生が慶應義塾と縁ぶかい『三田文学』に登場しているのか、どうして、そんなお固い同人雑誌に載った片々たる短篇が文芸のなかでも邪道といわれる直木賞なんかの候補になったのか。そちらのほうは、何となく理由は察せされます。はっきり言って木々高太郎さんのおかげです。

 木々高太郎。あんまりいい名前じゃありません。……と、そういうテキトーな個人的な感想はおいときまして、戦前はじめて探偵小説で直木賞を受賞し、戦後その実績から直木賞の選考委員に列せられると、まわりにいた文学志望者たちに直木賞をとれ、直木賞をとらなきゃ駄目だと言わんばかりにケツを叩いたという、いわずもがなの直木賞の申し子です。

 慶應出身の木々さんは、戦後『三田文学』の再建者のひとりとして編集の中枢に据えられます。探偵小説はまた文学として評価されるものでなければならない、と強い信念を持ち、同じような考えをもつ探偵作家たちと気炎を吐いたのは、まだ戦後まもなくの頃。その若い仲間たちのなかに、氷川さんもいました。

 氷川さん自身はそこまで自分で探偵小説を書いていこう、という欲があったようには見えませんが、昭和21年/1946年『宝石』の通巻2号目、5月号に江戸川乱歩さんの引きで「乳母車」が掲載されて、探偵文壇の人として遇されます。

 そちらのグループのほうでは、たしかに商業的に原稿が売れることもあって、氷川さんが作家・文筆業としてやっていくには「探偵小説・推理小説」の看板は、決して無意味なものだったとは言えません。しかし、本人は文学をやっていきたいとする気持ちが捨てられず、とくに木々さんが盛んに大口を叩いていた「探偵小説は文学たれ」に深く共鳴します。

 そうして書いた小説が、木々さんにも受け入れられ、木々さんたちがやっている『三田文学』に掲載。さらには、木々さんには『三田文学』から直木賞・芥川賞を! の思いが強かったので、その意向に沿ったかたちで第27回の直木賞の候補にねじ込まれた……といういきさつは容易に想像できるところです。

 けっきょく直木賞は全然だめでしたが、なんだよ木々先生、選考会で強く推してくれなかったのかよ、と逆恨みすることなく、氷川さんはその後も木々さんと(だけじゃなく、乱歩さんとも)友好的な関係を保ちます。さすが人間ができていますね、氷川さん。

 山村正夫さんによれば、それまで乱歩さんの邸宅で新年会がひらかれるのが恒例だったのを見て取った木々さんが、うちでもやろうと思いついたのかどうなのか、昭和31年/1956年から毎年木々さんの家でも行われるようになったそうですが、このとき幹事役を仰せつかったのが氷川さんです。

「たまたま氷川氏が、(引用者注:昭和31年/1956年)一月八日に個人で木々先生のお宅へ年賀におもむいたところ、先生より提案があり、「人選は、大坪砂男君と相談して、きめてほしい」と言われたという。」

そこで大坪、氷川両氏が幹事役となり、先生のお宅へ集まったのは、両氏のほかに渡辺啓助、永瀬三吾、日影丈吉、中島河太郎、阿部主計、夢座海二、朝山蜻一、古沢仁、宇野利泰、今日泊亜蘭、松本清張らの諸氏で、十三名だった。

(引用者中略)

「氷川氏の話によると、この新年会は年を追うごとに盛会になり、白石潔、椿八郎、鷲尾三郎、小山いと子、松井玲子などの諸氏が新たに参集した。これがしだいに発展して、先生主宰の純文学志望作家の集いになり、昭和三十八年にはこれらの諸氏の手で同人雑誌『詩と小説と評論』(原文ママ)が創刊され、現在に至っている。」(昭和48年/1973年10月・双葉社刊、山村正夫・著『推理文壇戦後史』より)

 ふむふむ、こういうハナシを読むと、言い出しっぺというのはだいたい呑気だけど、その意向に従って別に仕事でも何でもないのに、きちんと場を設けてあげた下働きの人の偉さに、思いを馳せないわけにはいきません。伝説の同人雑誌『小説と詩と評論』ができて、そこから何作も直木賞候補が生まれて、といった直木賞の歴史は、煎じ詰めれば、このときに嫌な顔ひとつせず(?)新年会の開催に尽力した氷川さんいればこそ、だったんですね。

 ちなみに氷川さんは、やはり本名で『小説と詩と評論』に参加しています。そちらでは、もう一切、自分が直木賞の候補に挙げられることはありませんでしたが、それでもずっと木々さんのもとに付いて、文学修業に励んだというのですから、その実直さが胸にしみます。

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2024年9月 1日 (日)

影山雄作…純文学を書いて10年、身も心ももたなくなってキッパリと創作から手を引く。

 先週は三谷晴美さんのことを取り上げました。もとはその名前で少女小説を書きながら、もっと「文学」チックなものを書こうと挑戦したとき、筆名を変えたという昔の例です。

 昔は昔なんですけど、そんな例は現在も含めて、たぶん古今東西くさるほどあります。だけど「たぶん」で済ませられないのが、直木賞オタクの面倒くささで、それぞれがどういう背景をもった例なのか、一つひとつの事案を見ていかないと胸にマグマがたまって熟睡もできません。

 ということで、今週もまたそんなハナシです。作品ジャンルをがらりと変えるタイミングで筆名もバッサリと変更した人。影山雄作さんのことに触れたいと思います。

 影山さんが小説家デビューしたのは平成4年/1992年のことで、およそ40歳前半のときでした。三谷晴美さんや北原節子さんなどと圧倒的に違うのは、それまでまったく小説や文学なんてものには興味がなく、作家になりたい、文学で生きていきたい、などとはまったく考えていなかったところです。

 ほんとに考えていなかったんでしょうか。影山さんのエッセイやインタビューでたびたびそう語られているだけのことなので、真意はいっさいわかりません。ただ疑っても仕方ないので、そこは信じて先に進みます。

 大学を卒業して影山さんは東洋経済新報社に就職しますが、そこで編集者になったわけじゃなく、企業広告を手がけるコピーライターとして会社から月給をもらいます。へえ、東洋経済にはそんな部署もあるんだ、出版社の世界もなかなか奥が深いもんですね。会社員生活を18年間つづけます。

 影山さんが小説を書いてみる気になったのは、会社を辞める少し前ぐらいのことだったようです。それまで小説なんて大して読んでこなかった中年オヤジが、なぜそこで初めて小説を書いてみようなどと思ったのか。そこら辺が人間心理(あるいは環境)のめぐり合わせの不思議ですけど、ちょうどその頃、デジタル化の波がうねりを上げて社会全体に広がってきていた時代に当たり、影山さんも仕事柄、企業の最新動向には目を配らせていましたから、そこで出会った素材を前にして、うん、何だかこれを核にして小説にしてみたい、と思ったんだそうです。会社勤めのかたわら、しこしこ原稿を仕上げまして中央公論新人賞に応募。それが「俺たちの水晶宮」です。

 語り手は海浜幕張にある、世界一巨大なコンピューターメーカーWBMの幕張テクニカルセンターに勤める男、加藤武志。出身は佐賀県ですが、やたらと田舎くさいものを毛嫌いしています。

 同じSE仲間の長崎顕代は富山の出身で、〈俺〉の目から見ると田舎もんも田舎もんだったんですが、彼女には圧倒的なプログラミングの才能があって、とにかく無駄のないシステムをつくっちゃうデキる人でした。と、それ以上に長崎には特徴的なことがあって、それは容姿、スタイルが異様にセクシーだったこと。彼女を見た男は、だれであっても欲情を持たずにはいられない女性なんだそうで、現に職場で彼女に襲いかかった男もいたほどです。その暴行未遂事件の場にいて、たまたま彼女を助けたことから、〈俺〉と長崎は急速に近づき、いちおう付き合っているカップル、というかたちに発展します。

 〈俺〉と長崎には、また信じがたいような共通点もありました。お互いに「佐賀の霊」「富山の霊」という、本人たちにしか見えない幽霊がときどき近くに現われることです。

 「見えない」といえば、彼らが携わっているシステムというやつも、全体的には目で見ることはできません。どこでどうタスクがつながって、どのように機能し合っているのか。見えないはずのシステムを、しかしCGの技術で可視化できるものも、WBMでは開発されたらしく、SEたちがおのおのの仕事を目で見る場面なども出てきます。このあたりが影山さんが小説の構想のタネになった一つの素材なのかな、と思うんですけど、詳しいことはわかりません。

 ともかくこの小説が、平成4年/1992年度の中央公論新人賞を受賞して、影山さんは作家として世に登場します。ただ、もののハナシによりますと、小説を書き上げて応募した段階で、影山さんは会社を辞め、受賞が決まったときには無職(いや、フリー)になっていたとも言いますので、40歳をすぎて組織のなかに縛られた状況を、影山さんはどうにか変えたいと思っていたんでしょう。運よく「俺たちの水晶宮」が受賞できたおかげで、小説家として立つことができました。

 以来約10年。平成14年/2002年ごろまで『中央公論文芸特集』や『文學界』などに小説を発表します。

 影山さんの回想によると、その頃は、おれは純文学作家なんだ! という強烈な思い込みに縛られたらしく、慣れない酒を飲み、生活は貧乏の極みを尽くして、そこから生まれてくる感覚を創作に向けていたんだとか何とか。

「言葉にすれば、人間の地肌が書きたかったということになるんだと思いますが、果たして何を表現しようとしたかったのか……逆にそれを分かりたくて、自分を限界まで追い込みました。まだ四十歳というのは若いですから、水はこぼれるまで注ぐことが、ガマの油だったらたらたら垂れるところまで追い込むのが、自分の役割だと思っていたんです。今になってみると非常に幼稚なことですが、全然アルコールには強くないのに、朝まで飲んでみるとか(笑)。

ところがそれを十年続けているとさすがに辛くなりました。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、宮城谷昌光、青山文平「受賞記念対談 「自分には書くことしかない」」より)

 それで思い切りよく、小説を書くことには区切りをつけて、昔とった杵柄なのかどうなのか、フリーライターとして文章を書いてお金を稼ぐ、それはそれで厳しい世界にシフトして8~9年ほどを過ごします。

 ところがフリーライターも、純文学作家と同じくらい不安定な職業です。そこまで儲かる商売でもなく、貯金なんてほとんどたまりません。このまま自分が死んだら、きっと我が妻は路頭に迷う。これじゃいかん。と影山さんが、「将来のおカネに困らなくなるような」策として考えたのが、商業作家になることでした。

 純文学作家が今度は長編の時代小説を書いて松本清張賞に応募、見事一発で受賞してしまいます。どうして他の新人賞とか、日経小説大賞とかじゃなくて、清張賞だったのか。……将来的に食っていけるほどの作家になるには、運営企業のバックアップ、それまでの実績などを鑑みて、なるほど清張賞が最も最適解に近かったのだろう、とは想像できるんですけど、ほんとにそんな理由で清張賞を選んだのか、影山さんはそういうことをあまり語るタイプの書き手じゃないので、現実にはよくわかりません。

 筆名もまたそうです。それまでの名前「影山雄作」を捨てて、どうして新しい名前で再出発を図ろうと思ったのか。

 そんなことは、わざわざ自分で語るまでもない、という信念があるような様子が、直木賞受賞時のエッセイを読んでも垣間見えます。

「「自分のことはペラペラしゃべらない」。子供の頃から、父にそう諭されて私は育ちました。「訊かれたときだけ話す。あとは、人の話をよく聴くようにしなさい」。

ずっと言われた通りにしてきたものだから、六十七になった今でも、その縛りが抜けません。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、青山文平「私なりの自伝的エッセイ」より)

 たしかに、自分のことをペラペラしゃべる人より、こういう人のほうが信用はできる気がします。

 でも、「訊かれたときだけ話す」とあるので、もしかしたら訊いたら答えてくれるのかもしれません。どうして古い筆名のままじゃなくて、別の筆名に変えようと思ったのか。ぜひ誰か訊いてみてください。

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