原耿之介…昔好きだった人の名前がペンネームの由来だったときにはうまく行かず、最後に妻の名前から一字借りる。
どうして人はペンネームをつけたがるのか。たぶん理由はさまざまあるでしょう。
その一つひとつの理由を調べていけば、何がしかの研究になるかもしれません。ただ、そんなことをやっても、けっきょく疲れがたまるだけなので、好んでやってみようという気も起こりません。
だけど、直木賞に関することならハナシは別です。疲れるとか無意味だとか、そんなことは空の彼方にふっとびます。とにかく直木賞にまつわることなら無条件で知りたくなる。直木賞病の典型的な症状っていうやつです。
それで直木賞の候補者を見てみると、とっかえひっかえいくつものペンネームを使った人がけっこういます。今週はそのなかの一人の作家について取り上げてみようと思います。
原耿之介さんです。
……といっても、あまりなじみのないペンネームすぎて伝わりようがないんですが、本名は佐々木久雄さん。昭和6年/1931年3月27日生まれ。学生の頃から文学の熱に強烈に浮かされ、自分でもいつかは作家になりたいと創作を始めた人です。
のちに作家になるまでの道程を、当時の文章を再掲しながら綴った『なにがなんでも作家になりたい!』(三好京三・著、平成15年/2003年9月・洋々社刊)という本が出ています。それよりずっと以前に書いた『わが子育て論』(昭和52年/1977年11月・講談社刊)の「I 教師として、作家として」なども、かなり自伝的な要素を含んだ回想です。そこら辺りを参考に、佐々木さんのペンネーム遍歴を追ってみることにします。
初めて使ったペンネームは、どうやら戦後昭和21年/1946年、15歳の中学三年のときです。地元・岩手県胆沢郡で出ていた同人雑誌『北斗』に随筆「夏の死」と詩「釣心」を載せています。このときの名前は「笹原寿緒」。由来はよくわかりませんが、「笹」は自分の姓が「佐々木」なので何となくわかるとして、「原」とは何か、「寿緒」とはどこから来たのか。今後だれかが研究してくれることを期待したいと思います。
その後、やはり別の同人雑誌『作風』に所属することになって、そのときは本名の「佐々木久雄」で小説を書いていたんですが、再び佐々木さんはペンネームを付けることに執着しはじめます。『なにがなんでも作家になりたい!』によれば、昭和25年/1950年3月、19歳のときには「笹原耿二」という名前で自分のノートに文章を書いていたそうですし、昭和26年/1951年、自分がこれからどういうふうに作家になっていこうか、いろいろ考えたことをノートに記したときにも、わざわざ「ペンネームはどれにするか。」と項を立てて、いくつかの案を挙げています。京耿二、笹原耿二、原耿二、滝三千夫、笹原三千夫、野原三千夫。「原」と「耿」、それから「二」か「三」の漢数字がお気に入りだったようです。
その佐々木さんが初めて岩手県内で有望な書き手として知られることになるのが昭和33年/1958年、『北の文学』に投稿して採用された「聖職」です。このとき使ったのは、先にいくつかの案のなかにもあった「笹原耿二」。ささはら・しゅうじ、と読むんでしょうか。いよいよ、佐々木さん、夢の作家人生に向かって大きな一歩を踏み出しました。
と、しかしいきなりここで身近なところからケチがつきます。すでに結婚していた妻の京子さんから、どうもそれでは映画俳優の鶴田浩二みたいでにやけた感じがする、と言われたそうで、「笹原耿二」から鶴田浩二を連想する京子さんの感性もなかなかぶっ飛んでいると思うんですけど、佐々木さんもこれにはムウッと返す言葉がなく、最初の一字をとって「原耿二」で行こう、といったんは心を決めます。
ところが、どうにもこれではしっくりこない、と思ったものか、翌年昭和34年/1959年に『北の文学』に「ヤスマ島」という小説を寄せた際には、さらに筆名を変えて「原耿之介」と名乗りをあげます。『なにがなんでも作家になりたい!』での記述によれば、佐々木さんは「之介」のところに男っぽさを感じさせたかったようです。そこから10数年、このペンネームを使いつづけました。
東北の土地で三人の作家が、おれたち大衆文芸で名を上げてやるぜ、と集結してできた同人雑誌『東北文脈』。同人は大正十三造さん、長尾宇迦さん、そして原耿之介さんです。といったことは、以前うちのブログで触れたことがあります。佐々木さんはこのペンネームをひっさげて、同人雑誌に書きながら小説誌の新人賞――大正さん、長尾さんという先輩二人が講談倶楽部賞、小説現代新人賞と、講談社の読み物雑誌で賞をとった人だったので、佐々木さんも小説現代に狙いを定めて、毎回毎回、がんばって応募を続けたのだと言います。
しかしそうこうするうち時は過ぎ、原耿之介・名義の作品はいっつも予選通過どまり。うーん、これはなかなか芽が出そうもないな、と佐々木さんは頭をしぼり、次なる一手に打って出ます。ペンネームをがらりと変えたのです。
まあ「一手」というほど大した戦略ではないんですけど、昭和49年/1974年、狙いを『小説新潮』に変えて、ここで毎月募集されていた「小説新潮サロン」に投稿を始めるときに、佐々木さんは新しい名前を考えました。「森笙太」です。回想によれば、山村大森に住む、昔、笙子という女性に思いを寄せた男、ということで「森笙太」だったんだそうです。いちおう効果があったものか、小説新潮サロンで採用され、その年の小説新潮新人賞への応募権利を勝ち取ると、「兎」という小説を書いて送ってみたら最終候補作にまで残ります。昭和50年/1975年のことでした。
そうか、ペンネームを変えると次の段階にステップアップできるんだ! と佐々木さんが思ったかどうかはわかりません。ただ、その年の10月に締め切りの文學界新人賞に応募するとき、森笙太をやめて、本名に戻ることなくさらに新たな名前をつけたのは、もうヤケクソといいますか、わらをもすがす思いといいますか、佐々木さんのペンネームに対する強い執着がよく見て取れます。
「それまでの原耿之介や森笙太には、昔の恋人の名前の一部を使っていたが、今度こそ最後、ということで、妻の京子の一字を用いた。三好は「炎の人」を書いた三好十郎が好きになっていたのでその姓を借り、最後の「三」は、すぐれた作家の名前に割に多く漢数字が使われているので、やはりそれを真似た。伊藤桂一、五木寛之、庄野潤三などだ。身近な作家には内海隆一郎がいる。」(『なにがなんでも作家になりたい!』より)
いやいや、漢数字が使われていない作家のなかにだって「すぐれた作家」はたくさんいるんじゃないか。と思うんですけど、どっちにしたって名付けの由来なんて、こじつけとか思い込みとか、ほとんどが気持ちの持ちようの問題です。ツッコんでも仕方ありません。
ともかく、文學界新人賞のときに付けた名前で、ついに新人賞を受賞し、そのまま直木賞までとってしまったので、これにて佐々木さんのペンネーム史も打ち止めとなりました。ずっと昔好きだった女性の名前の一部を名乗るよりも、いまの伴侶の名前を使っていたほうが、世間的な体裁もよく、家族の関係もうまくいった……かどうかは微妙なところですが、しかし最後まで作家をつづけ、京子さんとも添い遂げたんですから、それでよかったんだと思います。
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