杉浦英一…処女作は本名で発表したものの新人賞に応募するときにペンネームをつける。
毎日暑いですね。暑い夏といえばいったい何か。日本では戦争モノと相場が決まっています。
いや、決まっちゃいない気もします。とにかくあまりに毎日暑すぎて頭がボーッとしているもので、いつも以上に(いつも通りに)テキトーなことを書き流すだけになりそうです。
いい年こいて、相変わらずテキトーに生きていて恥じ入るばかりなんですが、第40回(昭和33年/1958年・下半期)の直木賞を受賞したこの方の書いたものや、あるいは当人が死んだ後に出版されたいくつかの伝記を読んでいると、思わずシャッキリ背筋が伸ばされます。本名、杉浦英一さん。今週はこの人のハナシで一週分をしのいでみます。
「杉浦英一」というのは本名なんですが、知られるとおり、小説家としてペンネームで商業デビューを果たす前にこの名前で上下巻におよぶ立派な本を出しています。『中京財界史』(上巻=昭和31年/1956年1月、下巻=同年2月・中部経済新聞社刊)です。その意味では、「別の名前での著作活動があった」と見なしても問題ありません。
いや、評伝を読んでみると、杉浦さんには文學界新人賞を受賞するまでにも、いくつか文学の上での著作が発表されていたと書いてあります。一つには詩人としての活動です。
戦後、大学に入るために英語を学ぶことに決めた杉浦さんは、英語を教えてくれる個人講師を知り合からの紹介されます。それが小林歳雄さんとの出会いで、小林さんの孤高な姿勢とゆるぎない文学への傾倒に感銘を受けて、杉浦さんはずぶずぶと文学に関心を深めていきます。昭和21年/1946年、杉浦さんが19歳ごろのことです。
そのあたりから東海アララギ会に入って短歌を詠みはじめます。昭和21年/1946年、東京商科大学予科に入ったあとは哲学研究会に参加。小難しい観念的な哲学の世界に、これもまたゾッコン心をもっていかれて、あまり友達づきあいもせず、静かに文献と向き合います。大学には、そういう人もよくいます。
昭和24年/1949年、一橋大学とその名が変わった同学の本科に進み、理論経済学を専攻しますが、おおよそそのころ病気に罹り、結核と診断されてしばらくの療養生活です。ああ、おれはこのまま死んでしまうのか。思い悩む青年の心は、えてして文学の方向に向くようで、杉浦さんもこのころ盛んに詩を書き、『流れやみて』という詩集を私家版でつくったそうです。
病状はその後回復して、杉浦さんは学校にも復帰しますが、一度しみついた詩への興味は絶ちがたく、北川冬彦さん主宰の『時間』や、山本太郎さん主宰の『零度』に加わって、学業のあいま熱心に詩をつくりました。
昭和27年/1952年に一橋大学を卒業すると、まもなく愛知学芸大学岡崎分校助手として大学の先生への道を歩み出します。専門は経済学ではあったんですが、おれには文学が必要だとウズウズする心が抑えきれず、昭和29年/1954年にはかの有名な「くれとす」という読書会を、4人の知人たちと始めます。
同じころ、名古屋で出ていた『近代批評』という同人雑誌にも加わって、批評・評論を書いたそうなんですが、並行して小説のほうも書く意欲があり、当時書かれた作品のことを、『城山三郎伝 筆に限りなし』(平成21年/2009年3月・講談社刊)の加藤仁さんや、『城山三郎伝 昭和を生きた気骨の作家』(平成23年/2011年3月・ミネルヴァ書房刊)の西尾典祐さんが紹介してくれています。
なかでも〈杉英之〉という署名で書かれた「鈴鹿」という作品は、ガリ版刷り16ページでつくられたもので、のちに『大義の末』として出される作品の原型と見なすことができる、と西尾さんは解説しています。内容はもちろんのこと、ここで杉浦英一ではなく〈杉英之〉とペンネームを使っていることが気になります。
他に〈十時和彦〉と名が記された「婚約」という原稿も残っているそうです。いずれも、広く使われずに消えていった筆名ですが、杉浦さんのなかで小説を書くには本名じゃないほうがしっくりくる、何かしらの感覚があったんでしょう。たぶん。
……とか言いつつ、本人のなかでこれが小説の処女作だと認めた作品は、『近代批評』7号[昭和31年/1956年12月]に本名名義で発表したものだということです。「生命の歌」という小説で、直木賞を受賞した直後の昭和34年/1959年5月に講談社から出た『事故専務』という作品集に収められました。戦争末期、海兵団の練習生としてつらい軍隊生活を経験した青年が、同じ教班でいっしょだった青年のことを日記に書けつけたもの、という体裁で構成された小説です。
その後まもなく杉浦さんは引っ越しをして、転居先の辺りの地名をもとに新たなペンネームを考案、それで応募した第4回文學界新人賞(昭和32年/1957年)でズバッと受賞を果たし、その受賞作「輸出」がそのまま直木賞の候補にまで推されて、一気に新しい筆名のほうで文壇に躍り出ます。
このとき本名で出していれば、あるいは〈杉英之〉〈十時和彦〉で出していれば、その後の賞の当落とか、作家としての歩みも変わったかもしれませんが、そんなことを想像しても意味はなさそうです。ともかく新しい筆名は据わりがよく、一度の直木賞候補を経て、翌年には直木賞の受賞まで達してしまいます。
そのペンネームの由来は、有名すぎていまさらなぞるのも気が引けますけど、評伝のほうには他の理由もちょこっと書かれています。こんな感じです。
「(引用者注:転居先の)すぐ近くに城山八幡宮があり、時は三十二年三月だったから、その二つを組み合わせ、ペンネームを「城山三郎」とした。三郎には長男の弱々しさを払拭する意味も込められていた。」(西尾典祐・著『城山三郎伝 昭和を生きた気骨の作家』より)
「たまたま移り住んだ土地が古くから「城山」と呼ばれていたので、その「城山」を姓とし、三月だったので「三郎」と名をつけた。本名のままでもよかったのだが、教鞭をとる大学の同僚や学生たちに二足の草鞋を知られたくなかった。また、愛知県には「杉浦」姓がおおく、小説家ではすでに杉浦明平がいたので、それを避ける意味もあった。」(平成23年/2011年3月・扶桑社刊、植村鞆音・著『気骨の人 城山三郎』より)
長男の弱々しさを払拭するとか、既成の作家の苗字を避けようとしたとか、そういう理由もあったのかもしれません。そのあたりを気にかける感覚があった、というのも杉浦さんの一つの個性です。
だけど、本名の〈杉浦英一〉ってじゅうぶんカッコいい名前だと思うんだけどな。わざわざそれを排してペンネームをつけがたった、というのも、杉浦さん本人のセンスでしょう。それで成功したんですから、わきからとやかく言う筋合いもありません。
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