三谷晴美…少女小説から私小説に脱皮して、名前も本名に変更する。
何週か前に取り上げた北原節子さんは、はじめに直木賞の候補に挙がってから、結局は、もうひとつの文学賞のほうに選ばれました。
直木賞にしろ、もうひとつの賞にしろ、そこら辺の線引きはだいたいテキトーにやっています。なので、そういうことが起きるのも別に不思議じゃないんですけど、純文学の同人雑誌や純文学誌で注目された人が、向こうの賞の候補には挙がらずに、直木賞のほうでしか選考されなかったケースなんてのも、昔は当たり前のように発生したりしました。テキトーに線引きされている、と言われるゆえんです。
まあ、「当たり前のように」かどうかは異論のあるところでしょう。直木賞だけで候補になった純文学作家って誰なんだ、具体例を100個挙げてみろ、とナイフを突きつけられると、もろてを上げて降参するしかありませんが、今週取り上げる三谷晴美さんは、いったいどちらに入るのか。少なくとも、芥ナントカ賞の候補になったことが一度もないのはたしかです。
〈三谷晴美〉というのはペンネームですが、もとは戸籍上の本名だった名前です。……と、わざわざハナシを始めるのも恥かしくなるぐらい、後年チョー有名になった作家なので、プロフィールをなぞるのは、ほどほどにしておきます。
ともかく、子供時代の本名が〈三谷晴美〉で、昭和4年/1929年、7歳のときに一家を上げて養子縁組したことで姓が変わります。昭和25年/1950年、結婚生活を自ら投げ捨ててわたしは小説を書いていきたい、と一人暮らしを始めた頃合いに、とにかくおカネになることはないかと頭をひねって、子供時代の名前〈三谷晴美〉で『少女世界』に投稿したところ、それが採用されて同誌でデビュー。以来、少女小説をたくさん書いて生計を立てますが、わたしがしたいのはこんなことじゃないんだと、まもなく丹羽文雄さんに会いに行き、『文学者』の同人にしてください、と頼み込みます。
そちらでも、はじめは〈三谷晴美〉の名前で書いていましたが、ようやく作品が載り始めたところで『文学者』が休刊に陥ります。いやだいやだ、わたしはもっと書きたいんだ、と同棲していた文学の先輩、小田仁二郎さんたちといっしょに『Z』を始めると、そのときに7歳のときから使っている本名を、筆名として切り替えました。
その頃を知る中村八朗さんの文章を引きますと、
「「文学者」は休刊になってしまったが、彼女は小田仁二郎と共に同人雑誌をやった。「Z」「題名のない雑誌」「A」等の雑誌を続け、「Z」を代表して「新潮」同人雑誌コンクールに「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞を受けるまでに成長した。瀬戸内の才能がようやく小田の指導でみがきがかかり、少女小説の世界から脱皮したのだ。彼女はもう三谷晴美のペンネームは使うことはなかった。」(中村八朗・著『文壇資料 十五日会と「文学者」』より)
少女向け小説を書いていた人が、のちに大人向け小説を書くようになる、というケースは別に直木賞界隈に限らず、異常にたくさんあるので、別に珍しいことじゃないんでしょうけど、筆名の変更がそこにからんでくるのが、また名前のもつ不思議さです。
実際、名前を変えずにジャンルを横断縦断する人もいます。書いている人は同じ人間なのに、どうして名前を変える例が断たない(?)のか。変えたところで何が起きるのか。べつに名前なんて何だっていいじゃん、と思っている派からすると、そこら辺の感覚はナゾ中のナゾです。
ただ、そこでこねくり回した筆名をつけず、自分の本名を使い始めた、というところに三谷さんの腹の据わった感じがよく出ています。
同人雑誌賞を受賞したその年、『新潮』に発表した「花芯」が子宮作家だ何だと文壇界隈で話題になり、以来5年ほど、いわゆる純文芸の雑誌からは声がかからなかった、ということなんですけど、自らが手がける同人雑誌のほか、『小説新潮』だの『講談倶楽部』だの中間・大衆小説誌からの注文はぞくぞく引き受けて、「世間から消えた」ふうになることもなく、その間も順調に名を上げました。腹が据わっています。
あるいは、世に出てまもなくの数年間、読み物小説のほうにしか活路がなかったのが、三谷さんが芥ナントカ賞の候補にならなかった最大の原因かもしれません。まあ、あっちの賞は頭がバカみたいに固くて、中間小説誌に載ってるやつは絶対に候補にしようとはしませんからね。アホくさくて、興味をもつにも値しません。
ひるがえって直木賞のほうは、中間誌、大衆誌はもちろんのこと、純文学誌に載ってるものだってウェルカム。おかげで、三谷さんが純文学誌に復帰し、そこに発表した連作のうちの一篇「あふれるもの」(『新潮』昭和38年/1963年5月号)を、堂々と予選通過作に選んでしまいました。さすが直木賞、そのテキトーさのおかげで自分の賞の候補者リストに、のちに大活躍する作家の名前を刻むことができました。
で、三谷さんは直木賞候補になったときの本名=筆名のほかにも、昭和48年/1973年に得度・出家してから名乗るようになった法名もあります。その法名は、直木賞を日本文学振興会から授かった人――今東光さんが名づけたもの、ということで、三谷さん自身、ほとほと直木賞には縁がある人ではあるんですけど、雑誌に載った一短篇じゃなくて、もっと読みでのある作品で候補に上げてりゃ、直木賞受賞者リストのなかにその名を入れられたかもしれないのに、と当時の文春の下読み編集者たちは、あとになって悔やんだとか、悔やまなかったとか。
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