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2024年8月の4件の記事

2024年8月25日 (日)

三谷晴美…少女小説から私小説に脱皮して、名前も本名に変更する。

 何週か前に取り上げた北原節子さんは、はじめに直木賞の候補に挙がってから、結局は、もうひとつの文学賞のほうに選ばれました。

 直木賞にしろ、もうひとつの賞にしろ、そこら辺の線引きはだいたいテキトーにやっています。なので、そういうことが起きるのも別に不思議じゃないんですけど、純文学の同人雑誌や純文学誌で注目された人が、向こうの賞の候補には挙がらずに、直木賞のほうでしか選考されなかったケースなんてのも、昔は当たり前のように発生したりしました。テキトーに線引きされている、と言われるゆえんです。

 まあ、「当たり前のように」かどうかは異論のあるところでしょう。直木賞だけで候補になった純文学作家って誰なんだ、具体例を100個挙げてみろ、とナイフを突きつけられると、もろてを上げて降参するしかありませんが、今週取り上げる三谷晴美さんは、いったいどちらに入るのか。少なくとも、芥ナントカ賞の候補になったことが一度もないのはたしかです。

 〈三谷晴美〉というのはペンネームですが、もとは戸籍上の本名だった名前です。……と、わざわざハナシを始めるのも恥かしくなるぐらい、後年チョー有名になった作家なので、プロフィールをなぞるのは、ほどほどにしておきます。

 ともかく、子供時代の本名が〈三谷晴美〉で、昭和4年/1929年、7歳のときに一家を上げて養子縁組したことで姓が変わります。昭和25年/1950年、結婚生活を自ら投げ捨ててわたしは小説を書いていきたい、と一人暮らしを始めた頃合いに、とにかくおカネになることはないかと頭をひねって、子供時代の名前〈三谷晴美〉で『少女世界』に投稿したところ、それが採用されて同誌でデビュー。以来、少女小説をたくさん書いて生計を立てますが、わたしがしたいのはこんなことじゃないんだと、まもなく丹羽文雄さんに会いに行き、『文学者』の同人にしてください、と頼み込みます。

 そちらでも、はじめは〈三谷晴美〉の名前で書いていましたが、ようやく作品が載り始めたところで『文学者』が休刊に陥ります。いやだいやだ、わたしはもっと書きたいんだ、と同棲していた文学の先輩、小田仁二郎さんたちといっしょに『Z』を始めると、そのときに7歳のときから使っている本名を、筆名として切り替えました。

 その頃を知る中村八朗さんの文章を引きますと、

「「文学者」は休刊になってしまったが、彼女は小田仁二郎と共に同人雑誌をやった。「Z」「題名のない雑誌」「A」等の雑誌を続け、「Z」を代表して「新潮」同人雑誌コンクールに「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞を受けるまでに成長した。瀬戸内の才能がようやく小田の指導でみがきがかかり、少女小説の世界から脱皮したのだ。彼女はもう三谷晴美のペンネームは使うことはなかった。」(中村八朗・著『文壇資料 十五日会と「文学者」』より)

 少女向け小説を書いていた人が、のちに大人向け小説を書くようになる、というケースは別に直木賞界隈に限らず、異常にたくさんあるので、別に珍しいことじゃないんでしょうけど、筆名の変更がそこにからんでくるのが、また名前のもつ不思議さです。

 実際、名前を変えずにジャンルを横断縦断する人もいます。書いている人は同じ人間なのに、どうして名前を変える例が断たない(?)のか。変えたところで何が起きるのか。べつに名前なんて何だっていいじゃん、と思っている派からすると、そこら辺の感覚はナゾ中のナゾです。

 ただ、そこでこねくり回した筆名をつけず、自分の本名を使い始めた、というところに三谷さんの腹の据わった感じがよく出ています。

 同人雑誌賞を受賞したその年、『新潮』に発表した「花芯」が子宮作家だ何だと文壇界隈で話題になり、以来5年ほど、いわゆる純文芸の雑誌からは声がかからなかった、ということなんですけど、自らが手がける同人雑誌のほか、『小説新潮』だの『講談倶楽部』だの中間・大衆小説誌からの注文はぞくぞく引き受けて、「世間から消えた」ふうになることもなく、その間も順調に名を上げました。腹が据わっています。

 あるいは、世に出てまもなくの数年間、読み物小説のほうにしか活路がなかったのが、三谷さんが芥ナントカ賞の候補にならなかった最大の原因かもしれません。まあ、あっちの賞は頭がバカみたいに固くて、中間小説誌に載ってるやつは絶対に候補にしようとはしませんからね。アホくさくて、興味をもつにも値しません。

 ひるがえって直木賞のほうは、中間誌、大衆誌はもちろんのこと、純文学誌に載ってるものだってウェルカム。おかげで、三谷さんが純文学誌に復帰し、そこに発表した連作のうちの一篇「あふれるもの」(『新潮』昭和38年/1963年5月号)を、堂々と予選通過作に選んでしまいました。さすが直木賞、そのテキトーさのおかげで自分の賞の候補者リストに、のちに大活躍する作家の名前を刻むことができました。

 で、三谷さんは直木賞候補になったときの本名=筆名のほかにも、昭和48年/1973年に得度・出家してから名乗るようになった法名もあります。その法名は、直木賞を日本文学振興会から授かった人――今東光さんが名づけたもの、ということで、三谷さん自身、ほとほと直木賞には縁がある人ではあるんですけど、雑誌に載った一短篇じゃなくて、もっと読みでのある作品で候補に上げてりゃ、直木賞受賞者リストのなかにその名を入れられたかもしれないのに、と当時の文春の下読み編集者たちは、あとになって悔やんだとか、悔やまなかったとか。

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2024年8月18日 (日)

(栄)…『朝日新聞』将棋の観戦記で名を馳せた人の、昔の直木賞候補作が、2024年に復活する。

 直木賞が決まって一か月が経ちました。早く次の回が来ないかなあと毎日祈ってるんですが、こればっかりはいくら祈っても駄目みたいです。あと4~5か月、冴えない日々を送りながらそのときを待ちたいと思います。

 そういえば、第171回(令和6年/2024年・上半期)が決まった7月半ば、直木賞に関連して、うわっ、まじか、と仰天するような出来事がありました。それは一穂ミチさんが受賞したことです……と続けたいところですが、今回取り上げるのはそのことじゃありまけん。

 ワタクシが腰を抜かしちゃったのは、令和6年/2024年年7月に『将棋と文学セレクション』(将棋と文学研究会・監修、矢口貢大・編、秀明大学出版会刊)という本が発売されたからです。

 直木賞とはあまり関係なさそうなアンソロジーではあるんですけど、いやいや、ここに小説「北風」が載っているという衝撃の事実!

 21世紀のこの世のなかに同作が復活したのを目撃できて、もう思い残すことなんか何もありません。正直いますぐ死んでもいいぐらいです(というのは、さすがに言いすぎです)。

 「北風」を書いたのは誰なのか。『朝日新聞』大阪本社で長く将棋を担当していた学芸記者です。後年『朝日』の観戦記では名前の一字をとって(栄)という署名を使いました。あるいは本名よりもそちらのほうが有名なのかもしれません。と、将棋の世界はよくわからないので、テキトーなことを言っときます。

 (栄)さんは大正2年/1913年に生まれました。前半生は国家あげての戦争が、かなり色濃く影響を及ぼした時代です。そんななかでも(栄)さんは、子供の頃から文学をやっていきたい意欲が高かったおかげで、友人たちと同人雑誌をつくっては、ああだこうだと議論を交わし、お互い友情を深め合った……んだと思います。

 文学史上(栄)さんが最も有名なのは、自身が直木賞候補になったことではなく、友人の織田作之助さんと旧制中学時代からズルズルとつるんで、20代半ばには織田さんの紹介で『海風』という同人雑誌に参加、自身も編集に携わって織田さんの「夫婦善哉」を載せたことでしょう。自分自身が書かずともこういう作品を世に出せたんですから、それだけで(栄)さんの人生、万々歳です。

 しかし(栄)さんの人生はまだまだ続きます。昭和18年/1943年、30歳で『朝日新聞』大阪本社に入り、戦後になって系列の『大阪日日新聞』に出向。そこで升田幸三さんと大山康晴さんの世紀の一戦の現場に出くわし、にわかに将棋(および将棋を差す人間たち)に興味を掻き立てられると、将棋記者の道を敢然と歩み出します。

 ただ、文学への思いを捨てたわけじゃなく、師と仰いだ藤沢桓夫さんたちといっしょに『文学雑誌』を発行します。そういう時期の昭和25年/1950年、直木賞もまだまだ戦後復興が軌道に乗らない混乱期に同人雑誌『日輪』に載せた小説でポロッと直木賞候補に挙げられたのが第23回(昭和25年/1950年・上半期)のことでした。当然のように受賞には遠く及ばず、(栄)さんと直木賞の縁はそれっきりで終わります。

 その後(栄)さんは新聞社の社員として将棋の世界を渡り歩きます。『将棋と文学セレクション』で「北風」の解説を書いた小笠原輝さんによると、昭和43年/1968年に『朝日』を定年するおおよそその時期から(栄)名義で観戦記を書き始めたんだそうです。昭和47年/1972年ごろには『名人戦名局集 思い出の観戦記1』や『名棋士名局集 付・盤側棋談』という本も出し(ともに弘文社刊)、日本将棋連盟から長年の観戦記者としての功績からか表彰も受けて、やはり(栄)さんの後半生は将棋とともにあった、と言えるでしょう。

 それはそうなんですが、とにかく(栄)さんが直木賞の候補になった「微笑」と「北風」が読みたくて、ワタクシも相当苦労しました。自分のサイトにもその苦労の一端を書いたことがあって、そんなものは単なる直木賞オタクのたわごとだったんですけど、昔の直木賞候補作が一つでも多く復活して、新しい読者に読まれるチャンスが与えられればいいな、と思って書いたのは間違いありません。

 ものの噂によれば、小笠原さんはうちのサイトも見てくれたそうで、こんなしがないサイトでもやめずに置いといてよかったな、と思うばかりです。その小笠原さんが「北風」について、誰が誰のモデルだといった詳しいハナシを含めて、同書に解説を書いてくれています。ありがたいです。

「老松町の辻八段は、吉井が惹かれた升田の師匠である木見金治郎九段がモデルである。そこに主人公の彦沢銀六が入門し、升田をモデルとした竹田と切磋琢磨するが、煙草屋の娘初江との愛欲に迷い、少しずつ棋力の差をつけられていく。同い年の竹田が出世するなか「消える寸前の灯火のきらめき」となっている銀六の姿は、織田作之助と吉井の関係性に近いものがある。(引用者中略)「北風」は、当時の吉井の心境を表現した作品であると言える。」(『将棋と文学セレクション』所収 小笠原輝「愛欲の棋士 北風 吉井栄治」解説より)

 おおっ、そうか。「北風」に出てくる悲しき将棋差しの銀六は、(栄)さん自身が投影されているとも読めるんだ! この解説に接するまでまったく気がつきませんでした。

 他人が昔の小説をどう読もうが関係ないじゃん、という自我の発達した人もたくさんいるでしょう。ただワタクシは、だいたい頭の構造が幼稚なので、よその人の評価を見るのが大好きです。しかも、これまで一度も単行本に収録されたことのない半世紀以上前の小説に、いまとなってこんな立派な解説がつくんですからね。そりゃあ腰を抜かして、しばらく立ち上がれなくても仕方ありません。

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2024年8月11日 (日)

杉浦英一…処女作は本名で発表したものの新人賞に応募するときにペンネームをつける。

 毎日暑いですね。暑い夏といえばいったい何か。日本では戦争モノと相場が決まっています。

 いや、決まっちゃいない気もします。とにかくあまりに毎日暑すぎて頭がボーッとしているもので、いつも以上に(いつも通りに)テキトーなことを書き流すだけになりそうです。

 いい年こいて、相変わらずテキトーに生きていて恥じ入るばかりなんですが、第40回(昭和33年/1958年・下半期)の直木賞を受賞したこの方の書いたものや、あるいは当人が死んだ後に出版されたいくつかの伝記を読んでいると、思わずシャッキリ背筋が伸ばされます。本名、杉浦英一さん。今週はこの人のハナシで一週分をしのいでみます。

 「杉浦英一」というのは本名なんですが、知られるとおり、小説家としてペンネームで商業デビューを果たす前にこの名前で上下巻におよぶ立派な本を出しています。『中京財界史』(上巻=昭和31年/1956年1月、下巻=同年2月・中部経済新聞社刊)です。その意味では、「別の名前での著作活動があった」と見なしても問題ありません。

 いや、評伝を読んでみると、杉浦さんには文學界新人賞を受賞するまでにも、いくつか文学の上での著作が発表されていたと書いてあります。一つには詩人としての活動です。

 戦後、大学に入るために英語を学ぶことに決めた杉浦さんは、英語を教えてくれる個人講師を知り合からの紹介されます。それが小林歳雄さんとの出会いで、小林さんの孤高な姿勢とゆるぎない文学への傾倒に感銘を受けて、杉浦さんはずぶずぶと文学に関心を深めていきます。昭和21年/1946年、杉浦さんが19歳ごろのことです。

 そのあたりから東海アララギ会に入って短歌を詠みはじめます。昭和21年/1946年、東京商科大学予科に入ったあとは哲学研究会に参加。小難しい観念的な哲学の世界に、これもまたゾッコン心をもっていかれて、あまり友達づきあいもせず、静かに文献と向き合います。大学には、そういう人もよくいます。

 昭和24年/1949年、一橋大学とその名が変わった同学の本科に進み、理論経済学を専攻しますが、おおよそそのころ病気に罹り、結核と診断されてしばらくの療養生活です。ああ、おれはこのまま死んでしまうのか。思い悩む青年の心は、えてして文学の方向に向くようで、杉浦さんもこのころ盛んに詩を書き、『流れやみて』という詩集を私家版でつくったそうです。

 病状はその後回復して、杉浦さんは学校にも復帰しますが、一度しみついた詩への興味は絶ちがたく、北川冬彦さん主宰の『時間』や、山本太郎さん主宰の『零度』に加わって、学業のあいま熱心に詩をつくりました。

 昭和27年/1952年に一橋大学を卒業すると、まもなく愛知学芸大学岡崎分校助手として大学の先生への道を歩み出します。専門は経済学ではあったんですが、おれには文学が必要だとウズウズする心が抑えきれず、昭和29年/1954年にはかの有名な「くれとす」という読書会を、4人の知人たちと始めます。

 同じころ、名古屋で出ていた『近代批評』という同人雑誌にも加わって、批評・評論を書いたそうなんですが、並行して小説のほうも書く意欲があり、当時書かれた作品のことを、『城山三郎伝 筆に限りなし』(平成21年/2009年3月・講談社刊)の加藤仁さんや、『城山三郎伝 昭和を生きた気骨の作家』(平成23年/2011年3月・ミネルヴァ書房刊)の西尾典祐さんが紹介してくれています。

 なかでも〈杉英之〉という署名で書かれた「鈴鹿」という作品は、ガリ版刷り16ページでつくられたもので、のちに『大義の末』として出される作品の原型と見なすことができる、と西尾さんは解説しています。内容はもちろんのこと、ここで杉浦英一ではなく〈杉英之〉とペンネームを使っていることが気になります。

 他に〈十時和彦〉と名が記された「婚約」という原稿も残っているそうです。いずれも、広く使われずに消えていった筆名ですが、杉浦さんのなかで小説を書くには本名じゃないほうがしっくりくる、何かしらの感覚があったんでしょう。たぶん。

 ……とか言いつつ、本人のなかでこれが小説の処女作だと認めた作品は、『近代批評』7号[昭和31年/1956年12月]に本名名義で発表したものだということです。「生命の歌」という小説で、直木賞を受賞した直後の昭和34年/1959年5月に講談社から出た『事故専務』という作品集に収められました。戦争末期、海兵団の練習生としてつらい軍隊生活を経験した青年が、同じ教班でいっしょだった青年のことを日記に書けつけたもの、という体裁で構成された小説です。

 その後まもなく杉浦さんは引っ越しをして、転居先の辺りの地名をもとに新たなペンネームを考案、それで応募した第4回文學界新人賞(昭和32年/1957年)でズバッと受賞を果たし、その受賞作「輸出」がそのまま直木賞の候補にまで推されて、一気に新しい筆名のほうで文壇に躍り出ます。

 このとき本名で出していれば、あるいは〈杉英之〉〈十時和彦〉で出していれば、その後の賞の当落とか、作家としての歩みも変わったかもしれませんが、そんなことを想像しても意味はなさそうです。ともかく新しい筆名は据わりがよく、一度の直木賞候補を経て、翌年には直木賞の受賞まで達してしまいます。

 そのペンネームの由来は、有名すぎていまさらなぞるのも気が引けますけど、評伝のほうには他の理由もちょこっと書かれています。こんな感じです。

「(引用者注:転居先の)すぐ近くに城山八幡宮があり、時は三十二年三月だったから、その二つを組み合わせ、ペンネームを「城山三郎」とした。三郎には長男の弱々しさを払拭する意味も込められていた。」(西尾典祐・著『城山三郎伝 昭和を生きた気骨の作家』より)

「たまたま移り住んだ土地が古くから「城山」と呼ばれていたので、その「城山」を姓とし、三月だったので「三郎」と名をつけた。本名のままでもよかったのだが、教鞭をとる大学の同僚や学生たちに二足の草鞋を知られたくなかった。また、愛知県には「杉浦」姓がおおく、小説家ではすでに杉浦明平がいたので、それを避ける意味もあった。」(平成23年/2011年3月・扶桑社刊、植村鞆音・著『気骨の人 城山三郎』より)

 長男の弱々しさを払拭するとか、既成の作家の苗字を避けようとしたとか、そういう理由もあったのかもしれません。そのあたりを気にかける感覚があった、というのも杉浦さんの一つの個性です。

 だけど、本名の〈杉浦英一〉ってじゅうぶんカッコいい名前だと思うんだけどな。わざわざそれを排してペンネームをつけがたった、というのも、杉浦さん本人のセンスでしょう。それで成功したんですから、わきからとやかく言う筋合いもありません。

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2024年8月 4日 (日)

原耿之介…昔好きだった人の名前がペンネームの由来だったときにはうまく行かず、最後に妻の名前から一字借りる。

 どうして人はペンネームをつけたがるのか。たぶん理由はさまざまあるでしょう。

 その一つひとつの理由を調べていけば、何がしかの研究になるかもしれません。ただ、そんなことをやっても、けっきょく疲れがたまるだけなので、好んでやってみようという気も起こりません。

 だけど、直木賞に関することならハナシは別です。疲れるとか無意味だとか、そんなことは空の彼方にふっとびます。とにかく直木賞にまつわることなら無条件で知りたくなる。直木賞病の典型的な症状っていうやつです。

 それで直木賞の候補者を見てみると、とっかえひっかえいくつものペンネームを使った人がけっこういます。今週はそのなかの一人の作家について取り上げてみようと思います。

 原耿之介さんです。

 ……といっても、あまりなじみのないペンネームすぎて伝わりようがないんですが、本名は佐々木久雄さん。昭和6年/1931年3月27日生まれ。学生の頃から文学の熱に強烈に浮かされ、自分でもいつかは作家になりたいと創作を始めた人です。

 のちに作家になるまでの道程を、当時の文章を再掲しながら綴った『なにがなんでも作家になりたい!』(三好京三・著、平成15年/2003年9月・洋々社刊)という本が出ています。それよりずっと以前に書いた『わが子育て論』(昭和52年/1977年11月・講談社刊)の「I 教師として、作家として」なども、かなり自伝的な要素を含んだ回想です。そこら辺りを参考に、佐々木さんのペンネーム遍歴を追ってみることにします。

 初めて使ったペンネームは、どうやら戦後昭和21年/1946年、15歳の中学三年のときです。地元・岩手県胆沢郡で出ていた同人雑誌『北斗』に随筆「夏の死」と詩「釣心」を載せています。このときの名前は「笹原寿緒」。由来はよくわかりませんが、「笹」は自分の姓が「佐々木」なので何となくわかるとして、「原」とは何か、「寿緒」とはどこから来たのか。今後だれかが研究してくれることを期待したいと思います。

 その後、やはり別の同人雑誌『作風』に所属することになって、そのときは本名の「佐々木久雄」で小説を書いていたんですが、再び佐々木さんはペンネームを付けることに執着しはじめます。『なにがなんでも作家になりたい!』によれば、昭和25年/1950年3月、19歳のときには「笹原耿二」という名前で自分のノートに文章を書いていたそうですし、昭和26年/1951年、自分がこれからどういうふうに作家になっていこうか、いろいろ考えたことをノートに記したときにも、わざわざ「ペンネームはどれにするか。」と項を立てて、いくつかの案を挙げています。京耿二、笹原耿二、原耿二、滝三千夫、笹原三千夫、野原三千夫。「原」と「耿」、それから「二」か「三」の漢数字がお気に入りだったようです。

 その佐々木さんが初めて岩手県内で有望な書き手として知られることになるのが昭和33年/1958年、『北の文学』に投稿して採用された「聖職」です。このとき使ったのは、先にいくつかの案のなかにもあった「笹原耿二」。ささはら・しゅうじ、と読むんでしょうか。いよいよ、佐々木さん、夢の作家人生に向かって大きな一歩を踏み出しました。

 と、しかしいきなりここで身近なところからケチがつきます。すでに結婚していた妻の京子さんから、どうもそれでは映画俳優の鶴田浩二みたいでにやけた感じがする、と言われたそうで、「笹原耿二」から鶴田浩二を連想する京子さんの感性もなかなかぶっ飛んでいると思うんですけど、佐々木さんもこれにはムウッと返す言葉がなく、最初の一字をとって「原耿二」で行こう、といったんは心を決めます。

 ところが、どうにもこれではしっくりこない、と思ったものか、翌年昭和34年/1959年に『北の文学』に「ヤスマ島」という小説を寄せた際には、さらに筆名を変えて「原耿之介」と名乗りをあげます。『なにがなんでも作家になりたい!』での記述によれば、佐々木さんは「之介」のところに男っぽさを感じさせたかったようです。そこから10数年、このペンネームを使いつづけました。

 東北の土地で三人の作家が、おれたち大衆文芸で名を上げてやるぜ、と集結してできた同人雑誌『東北文脈』。同人は大正十三造さん、長尾宇迦さん、そして原耿之介さんです。といったことは、以前うちのブログで触れたことがあります。佐々木さんはこのペンネームをひっさげて、同人雑誌に書きながら小説誌の新人賞――大正さん、長尾さんという先輩二人が講談倶楽部賞、小説現代新人賞と、講談社の読み物雑誌で賞をとった人だったので、佐々木さんも小説現代に狙いを定めて、毎回毎回、がんばって応募を続けたのだと言います。

 しかしそうこうするうち時は過ぎ、原耿之介・名義の作品はいっつも予選通過どまり。うーん、これはなかなか芽が出そうもないな、と佐々木さんは頭をしぼり、次なる一手に打って出ます。ペンネームをがらりと変えたのです。

 まあ「一手」というほど大した戦略ではないんですけど、昭和49年/1974年、狙いを『小説新潮』に変えて、ここで毎月募集されていた「小説新潮サロン」に投稿を始めるときに、佐々木さんは新しい名前を考えました。「森笙太」です。回想によれば、山村大森に住む、昔、笙子という女性に思いを寄せた男、ということで「森笙太」だったんだそうです。いちおう効果があったものか、小説新潮サロンで採用され、その年の小説新潮新人賞への応募権利を勝ち取ると、「兎」という小説を書いて送ってみたら最終候補作にまで残ります。昭和50年/1975年のことでした。

 そうか、ペンネームを変えると次の段階にステップアップできるんだ! と佐々木さんが思ったかどうかはわかりません。ただ、その年の10月に締め切りの文學界新人賞に応募するとき、森笙太をやめて、本名に戻ることなくさらに新たな名前をつけたのは、もうヤケクソといいますか、わらをもすがす思いといいますか、佐々木さんのペンネームに対する強い執着がよく見て取れます。

「それまでの原耿之介や森笙太には、昔の恋人の名前の一部を使っていたが、今度こそ最後、ということで、妻の京子の一字を用いた。三好は「炎の人」を書いた三好十郎が好きになっていたのでその姓を借り、最後の「三」は、すぐれた作家の名前に割に多く漢数字が使われているので、やはりそれを真似た。伊藤桂一、五木寛之、庄野潤三などだ。身近な作家には内海隆一郎がいる。」(『なにがなんでも作家になりたい!』より)

 いやいや、漢数字が使われていない作家のなかにだって「すぐれた作家」はたくさんいるんじゃないか。と思うんですけど、どっちにしたって名付けの由来なんて、こじつけとか思い込みとか、ほとんどが気持ちの持ちようの問題です。ツッコんでも仕方ありません。

 ともかく、文學界新人賞のときに付けた名前で、ついに新人賞を受賞し、そのまま直木賞までとってしまったので、これにて佐々木さんのペンネーム史も打ち止めとなりました。ずっと昔好きだった女性の名前の一部を名乗るよりも、いまの伴侶の名前を使っていたほうが、世間的な体裁もよく、家族の関係もうまくいった……かどうかは微妙なところですが、しかし最後まで作家をつづけ、京子さんとも添い遂げたんですから、それでよかったんだと思います。

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