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2024年7月21日 (日)

厚川昌男…直木賞を受賞しても奇術師としての心を忘れない。

 こないだ第171回(令和6年/2024年・上半期)直木賞の選考会がありました。青崎有吾さんの『地雷グリコ』が候補の一つに挙がっていました。そして落ちました。

 候補になったものが落ちることは、別に珍しいことじゃありません。無駄に長い直木賞の歴史上、候補になった作品はたくさんありますけど、その8割、9割は落選作です。そして、その落ちたものがキラキラ、ギラギラと光を放ち、多くの読者の心を動かして、日本の小説界に大きな影響を与えることも、けっこうあります。なので『地雷グリコ』が落ちたのは、そう悲観することでもありません。

 まあ、だれも悲観なんかしちゃいないかもしれませんけど、それはそれとして、この作品が候補になったのを見て、ふとワタクシの頭をよぎったのが、一人の直木賞候補者(受賞者)です。

 はじめは、あまりにパズル性の強い、トリックだのアリバイだのといった強烈な匂いのする推理小説を書いてデビューし、そのうちの一作『乱れからくり』が第79回(昭和53年/1978年・上半期)の候補に挙がったところ、選考会でも案外面白がられながら当然のように落選し、それから候補6度。12年後の第103回(平成2年/1990年・上半期)でようやく選考委員側が折れて(?)受賞してしまった作家がいます。日本の探偵小説・推理小説・ミステリー界の歴史を変えたうちの一人、とも言われます。

 ミステリーの世界には、作家のこと、作品のことを、マニアックに調べ上げる異常性をもった(褒め言葉です)人たちがうじゃうじゃいますので、もちろんこの作家のことも、情報があふれています。ありがたいことです。

 本名、厚川昌男さんは昭和8年/1933年、東京生まれ。実家は紋章上絵師を営む「松葉屋」で、厚川さんが三代目です。

 ものの本によれば、厚川さんが手品に興味をもったのは小学生の頃だったそうで、縁日で買い求めた手品の種が面白く、手品少年になります……。いや、ならなかったかもしれません。ともかく時は国家あげての戦争に突き進み、それが終わって、厚川さんは定時制の九段高校に通いながら、建設業者や金融会社で働きます。まだ10代後半の頃です。

 ところが、勤め先が倒産して無職となった頃、柴田直光さんの『奇術種あかし』(昭和26年/1951年12月・理工図書刊)と出会って、ふむふむ、これは面白いなとマジックにぞっこん。そこから厚川さんの手品にのめり込む奇特な人生が動き出します。

 奇術クラブに入会し、そこで知り合った耀子さんと結婚したのは、厚川さんのマジック人生のいちばんの収穫でしょうけど、昭和43年/1968年には優れた奇術師に贈られる第2回石田天海賞を受賞します。いまのところ、石田賞と直木賞の二冠をもっているのは、厚川さんただひとりです。

 さらには何といっても、厚川さんが初めて出した本が小説ではなく、厚川昌男名義の『ゾンビボールの研究』(昭和43年/1968年9月・力書房刊)だったことが重要です。重要ですというか、後年小説を書くときには、自分の名前をならべ替えてわざわざ筆名をつけたのに、奇術書を出すときには、本名を使っている。紋章上絵師が本職で、小説を書くのは第二の職業、それらに比べて奇術というのは、アマチュアの手すさび程度の存在だったでしょうが、しかし厚川さんという人間にとって、奇術師としての顔がすべての大モトにあったのは間違いありません。

 そんなことは、これまでもいろんな人が指摘してきたことなので、いまさらこのブログでなぞる必要もありません。とにかく、ここで書くとしたら、やはり直木賞のハナシです。

 第103回の直木賞贈呈式は平成2年/1990年8月20日に行われました。それを報じた『読売新聞』の記事が残っています。

「泡坂氏は“職人”らしい羽織、はかま姿で出席。同氏が趣味にしているマジックの仲間がお祝いにかけつけ、舞台で手並みを披露して拍手をあびていた。」(『読売新聞』平成2年/1990年8月23日夕刊「第103回芥川・直木賞贈呈式」より)

 厚川さんは外出するときに、かならず手品の種を一つ二つと仕込んでいて、いつどんなときでもマジックが披露できるようにしていたらしいです。直木賞の贈呈式でも、仲間といっしょに何らかその手並みをお披露目したんでしょう。どんなマジックをやったのか。気になるところですが、知っている方がいたら教えてください。

 それと、贈呈式よりも前、直木賞の場合は受賞が決まったときにも全国のニュースで取り上げられます。こないだ一穂ミチさんがマスク姿で受け答えしていた例のアレです。第103回でももちろん記者会見が開かれて、厚川さんもお出ましになったんですが、そのときの記事にも手品のことが出てきます。

「趣味は手品。受賞後の記者会見で、記者団からそのことを聞かれると、ポケットから赤いボールを取り出して鮮やかな手つきで”名人芸”を披露、会見は一転して和やかな雰囲気になった。」(『西日本新聞』平成2年/1990年7月17日「ひと 泡坂妻夫さん」より)

 うわっ、さすがだ……。何を聞かれるかわからない状況で、赤いボールを持っていく厚川さんの奇術師だましい。直木賞の受賞会見で手品をやってみせた受賞者は、おそらくこれまでのところ、厚川さんただひとりです。

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