ワセダ中退…直木賞を受賞するほんの数年前、相方といっしょに漫才の舞台に立つ。
ペンネームにもいろいろあります。他人によって付けられるパターンもあるでしょうけど、基本的には自分自身でおのれの名前を付けるわけです。当然そこには、本人の性格や個性がにじみ出てきます。
親族や友人、世話になった恩師などの名前が由来で付けられる例があります。古今東西の有名人の名前をもじって付ける人もいます。人の名前と関係なく、ゆかりある場所の地名とか、一般的な単語から連想して付けるような人もいます。いやいや、理由もクソもなく、そのときの気分とか、内輪ウケしそうな冗談っぽい言葉の羅列とか、一発カマしてやろうという気配まんまんの、ちょっと恥ずい系統のペンネームの付け方もあります。まあ、いろいろです。
昭和30年代、放送業界で飛ぶ鳥落とす勢いのあった裏方の作家、三木鶏郎さんの事務所にたむろした若者のなかで、一気に頭角を現わしたのが〈阿木由起夫〉を名乗る青年でした。筆名の由来は、自分の下の名前〈あきゆき〉を分割して、最後に「夫」を付けたという、けっこう安易なものだった、と言われています。もう少し深い意味があったのかもしれませんが、真相は本人にしかわかりません。
阿木さんが世に出てきたその当時は、何といってもマスメディアの業界が急激な膨張をつづけた時代です。出版界では次から次へと雑誌が出る。放送界ではラジオがあるところにテレビが出現。業界が膨張するということは、つまりそこで働くつくり手側の人材がつねに求められる、ってことでもあります。阿木さんも、こそこそと、いや堂々と、かなりの虚勢を張って精力的に業界にもぐり込みました。
……と、このあたりのことは、阿木さんが小説家になって直木賞をとってから、膨大に書き残した小説のなかの一部に、ひんぱんに出てきます。うちのブログでも何度か触れたことがありますので、ばっさり割愛。したいところではあるんですけど、今年のブログのテーマが「別の名前」ということで、阿木さんが放送作家から活字の書き手としても名が知られ、本名で書いた小説が第57回(昭和42年/1967年・上半期)に直木賞候補、次の第58回(昭和42年/1967年・下半期)に直木賞を受賞するそれまでのあいだに、さまざまな名前を使って、いろんな舞台でハッチャけたことをしていたことは、やはり今回も書いておかないとどうしようもありません。
シャンソン喫茶「銀巴里」では〈クロード・野坂〉の芸名でシャンソンを歌っていた、というのは一つのチャレンジですからいいでしょう。しかし、昭和35年/1960年、急速に親しくなった野末陳平さんと新宿文化劇場の舞台に立ち、素人ながら漫才を披露したのは、もう明らかな悪ノリです。そのころM-1があったら、おそらくエントリーして一回戦で敗退していたんじゃないかと思います。
そのときに付けた漫才用の芸名が〈ワセダ中退・落第〉だった、というのですから、面白いのかつまらないのか、昭和30年代のノリというのは、50年以上を経た今の感覚からはよくわかりません。
しかし、この芸名は当時の観客には受けたらしい、とモノの本には書いてあります。
「野坂の芸名が“中退”で野末が“落第”である。最初に口をかけたのは、野坂のほうだった。
「おい野末、芸人になって二人で売りこもうよ。女にもてるには、これがいちばん手っとり早いぜ」
野末もこの言葉にのせられて、二人は舞台にたった。野末落第氏が、鼻の下から口の両側に弧をえがくヒゲで、野坂中退氏はアゴの下につりヒゲ、二人合わせてぐるりと口のまわりがヒゲになるという趣向だった。
司会者に「次はお待ちかねの立体漫才」と紹介されると、二人はこの扮装で舞台に登場する。その瞬間は芸名のおもしろさと扮装にドッと観客がわいた。」(昭和43年/1968年12月・文研出版刊、植田康夫・著『現代マスコミ・スター 時代に挑戦する6人の男』より)
いわゆる〈出オチ〉というやつです。二人がしゃべると客席はしんと静かになって、笑い声ひとつ起こらず、まるで話にならなかったみたいです。万が一それで結果が出ていたら、二人はテレビをにぎわす漫才師になって、だけどもとから作家志望でもあった〈中退〉さんのほうは物も書き出し、芸人界初の直木賞受賞者が誕生したかもしれません。……いや、どうだったんでしょう、ちょっと無理めな妄想でした。
ともかく、こういうあれこれの活動が、直木賞候補になったときに川口松太郎さんが「作家として大成する意気をもって取り組んでいるかどうか疑わしいような悪名声がある」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号)と選評に書くことにつながります。テレビやラジオでギャーギャー顔を出している奴はふまじめだと思われて直木賞がとれない、などとまことしやかな噂が流れる展開を生むわけです。でも、その半年後にはきちんと小説の出来が評価されて、直木賞をとっちゃうんですから、じつはそんな噂は野次馬たちが勝手に言っているだけのフェイクだったことがわかります。
直木賞に関する噂なんて、たいていそういうものかもしれません。阿木さん=ワセダ中退さん=野坂さんが、直木賞界隈をにぎわしていた50年以上もまえも、そして現在も、何が真実で何がフェイクかよくわからない。だから直木賞は、いつ見ても面白いわけです。
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