北原節子…同姓同名の相手とぶつからないように、直木賞の候補になる1年ぐらい前にペンネームを変える。
世のなか、同姓同名の人はたくさんいます。偶然といえば偶然、そこから巻き起こるスッチャカメッチャカの大騒動、なんてのも小説の題材になりやすく、これまで同姓同名に関する作品がさまざまに書かれてきたものと思います。ひまな人は調べてみてください。
直木賞は無駄に歴史が長いので、候補者だけで500人を超える人数がいます。同姓同名の作家が候補になった、みたいなケースがあっても別におかしくはないんですけど、さすがにそういう例はまだありません。作家の場合、小説を出すときにどういう名前で行こうか自分で決めるタイミングがありますので、よし、おれはわたしは、既存の作家と同じ名前を使ってこれからやっていくぞ、とわざわざ同姓同名を選ぶ人は、相当な変わり者なんでしょう。これからも直木賞史上、別の人物が同じ名前で候補になる、なんて組み合わせは、発生しづらいかもしれません。
それはそれとして、直木賞の過去の候補者のなかには、同姓同名に関する有名なエピソードをもつ人がいます。今週は、その人のハナシで乗り切りたいと思います。
昭和3年/1928年6月5日、福井市佐佳枝中町で生まれた北原節子さんです。父は絹織物づくりの会社に勤めていた北原芳司さんで、北原家は長野県高遠町にルーツをもつお家柄だった、と伝わっています。
そこから何がどうなって小説を書くようになり、直木賞候補になり、けっきょく芥川賞なんかを受賞したのか。北原さんは有名な人ですので、そこら辺りの情報は、ゴロゴロ転がっています。そういうものをつなぎ合わせて読んでみると、北原さんが小説を書きはじめたのはだいたい昭和26年/1951年頃、学習院大学短期大学部に入ってまもなくの頃だったらしいです。
最初に原稿がまとまって活字になったのは『少女世界』に掲載されたいわゆる「少女小説」と呼ばれるものですけど、そこで北原さんはあえてペンネームを付けることなく本名で勝負しています。勝負というか何というか、別段、「北原節子」という名前がイヤだったわけでもなく、自然と本名のままで物書き人生をスタートした、といったところでしょう。
少女小説を書けば原稿料が入ります。次々とそれらのジャンルを書きながら、しかし自分はブンガクの作家としてやっていきたい、と強い夢を抱いていた北原さんは同人雑誌もつくります。それが縁で吉村昭さんと知り合い、急速に惹かれ合って昭和28年/1953年に結婚。相手の籍に入って本名は吉村節子と変わりましたが、ものを書くときはそれからも「北原節子」の名前を使いつづけます。
なかなかの才能があったおかげで、少女小説にもたしかにファンができる。同時雑誌に書いた小説も、そのスジの評論家たちから好評で新聞、雑誌の同人雑誌評などで褒められる。「北原節子」の名前が徐々に知れ渡るようになった頃、この状況にドキッと驚き、戦々恐々の複雑な心持ちを抱いていた人がいます。北原節子さんです。
何が何やら……という感じですが、同姓同名の人たちのことを文章にするのって難しいですよね。小説でぐいぐい注目された「北原節子」さんは、のちに直木賞候補・芥川賞受賞者になった人ですが、「最近、小説のこと取り上げられているらしいね」と知り合いから声をかけられ、いや、それって私のことじゃないから、と思っていた「北原節子」さんは、実業之日本社に勤めていた編集者です。大正14年/1925年長野県生まれ。詩を書いたり随筆を書いたり、ちょこちょこ物も書くタイプの人でした。
二人の北原さんのうち、先に本を出版したのが後者の北原さんです。『空はいつも光っている』(昭和32年/1957年11月・学風書院刊)という本で、同書の最後に急きょというかたちで収められたエッセイがその名も「同姓同名」。知り合いから、きみ、小説も書いているんだね、と声をかけられることが増え、まったく同じ本名をもつ女性が活躍し出したことを知り、うーん、わたしもそのうち小説を書きたかったのに、いつか書く機会がきたら相手に遠慮して、こちらが名前を変えることになるかしら、と思い始めたのだと言います。
ところが、二人のことを知る青山光二さんが、作家の北原さんに編集者・詩人の北原さんの存在を伝えたところ、作家の北原さんは相手に手紙を送ります。どうやら二人、同じ名前のために送り物の誤配などが発生していたらしく、ともかくこれを機に文通が始まり、作家の北原さんは自分の所属する同人誌『Z』を相手に献本、良好な関係を築き上げることになります。
何かのパーティで二人は初めて顔を合わせ、その後、編集者・詩人の北原さんが初の出版を祝って祝賀会が開かれた折には作家の北原さんも招待されました。そこでいきなりスピーチを振られた作家の北原さんは、会場にいた佐多稲子さんや壺井栄さんに、「もしいつか私の本が出ることがあったら、同姓同名の北原さんにあやかって、先生方にご出席いただけたらどんなに嬉しいだろう」(平成25年/2013年10月・河出書房新社刊、津村節子・著『人生のぬくもり』所収「生きるということ――大原富枝」)と言って、会場を沸かせた、とのことです。
しかしこの頃には、作家の北原さんは、やはり自分のほうが名前を変えようと決意していたようで、編集者・詩人の北原さんのエッセイにそのことが出てきます。
「実は、大変申しわけないことになったのだが、先日、『Z』の同人である瀬戸内晴美さんにおめにかかった時、あちらの北原節子さんが、もしかすると、名前を変えて、ご主人の姓である吉村を名乗ることになるかもしれないということを仰言られた。
それは、私が最近ある雑誌に数年前に書いた小説のようなものを、本名で発表してしまったことから、きっと、そういうことになったのだと思う。
(引用者中略)
せっかく北原節子という名前で小説を書いていらしたのを、こちらがいわば営業妨害してしまったようなことになったのであるから、私こそ引っこめばいいと申しわけない気持だけれど、どうやら、私の方は、まだ当分の間、姓の変る宛もなさそうである。
(引用者中略)
北原節子という名前が好きで、やっぱりどんな名前にもしたくないと仰言られていたというあちらの北原節子さんから、もう一人の北原節子はこんなやつだったのかと思われないように、せめて、これなら、名前だけは許してやろうと思っていただけるように、と心の中ではひそかに願ってはいるけれど、さて、どういうことになるだろうか。」(『空はいつも光っている』所収「同姓同名」より)
そして作家の北原さんは昭和33年/1958年、ついに筆名を変えます。結婚後の姓名そのままでもよかったようなところ、しかし、あえて「津村」というペンネームを選択。相手の北原さんから遅れること1年半、昭和34年/1959年3月に初の作品集『華燭』(次元社刊)を出しました。
ちなみに『華燭』に収録されたのは3つの作品で、「華燭」「孔雀」「模造」のうち、「模造」はもともと「北原節子」名義で発表された短篇です。初めて本を出したその時期、第41回(昭和34年/1959年・上半期)に「鍵」で初めて直木賞の候補に挙げられたんですが、どうやら参考作品として『華燭』も選ばれたようで、中山義秀さんなどは「華燭」「孔雀」「模造」も合わせてこの作家の作品を褒めています。
ともかく、このとき使っていたのは、すでに新しいペンネームです。旧姓のまま使っていたその名を変えようという決断が、あと数年遅れていたら……。直木賞の候補作家リストに「北原節子」という名前が刻まれたかもしれません。大してドラマチックな展開じゃなくて申し訳ないんですけど、これも同姓同名が生んだ一つの小事件です。
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