« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »

2024年7月の5件の記事

2024年7月28日 (日)

北原節子…同姓同名の相手とぶつからないように、直木賞の候補になる1年ぐらい前にペンネームを変える。

 世のなか、同姓同名の人はたくさんいます。偶然といえば偶然、そこから巻き起こるスッチャカメッチャカの大騒動、なんてのも小説の題材になりやすく、これまで同姓同名に関する作品がさまざまに書かれてきたものと思います。ひまな人は調べてみてください。

 直木賞は無駄に歴史が長いので、候補者だけで500人を超える人数がいます。同姓同名の作家が候補になった、みたいなケースがあっても別におかしくはないんですけど、さすがにそういう例はまだありません。作家の場合、小説を出すときにどういう名前で行こうか自分で決めるタイミングがありますので、よし、おれはわたしは、既存の作家と同じ名前を使ってこれからやっていくぞ、とわざわざ同姓同名を選ぶ人は、相当な変わり者なんでしょう。これからも直木賞史上、別の人物が同じ名前で候補になる、なんて組み合わせは、発生しづらいかもしれません。

 それはそれとして、直木賞の過去の候補者のなかには、同姓同名に関する有名なエピソードをもつ人がいます。今週は、その人のハナシで乗り切りたいと思います。

 昭和3年/1928年6月5日、福井市佐佳枝中町で生まれた北原節子さんです。父は絹織物づくりの会社に勤めていた北原芳司さんで、北原家は長野県高遠町にルーツをもつお家柄だった、と伝わっています。

 そこから何がどうなって小説を書くようになり、直木賞候補になり、けっきょく芥川賞なんかを受賞したのか。北原さんは有名な人ですので、そこら辺りの情報は、ゴロゴロ転がっています。そういうものをつなぎ合わせて読んでみると、北原さんが小説を書きはじめたのはだいたい昭和26年/1951年頃、学習院大学短期大学部に入ってまもなくの頃だったらしいです。

 最初に原稿がまとまって活字になったのは『少女世界』に掲載されたいわゆる「少女小説」と呼ばれるものですけど、そこで北原さんはあえてペンネームを付けることなく本名で勝負しています。勝負というか何というか、別段、「北原節子」という名前がイヤだったわけでもなく、自然と本名のままで物書き人生をスタートした、といったところでしょう。

 少女小説を書けば原稿料が入ります。次々とそれらのジャンルを書きながら、しかし自分はブンガクの作家としてやっていきたい、と強い夢を抱いていた北原さんは同人雑誌もつくります。それが縁で吉村昭さんと知り合い、急速に惹かれ合って昭和28年/1953年に結婚。相手の籍に入って本名は吉村節子と変わりましたが、ものを書くときはそれからも「北原節子」の名前を使いつづけます。

 なかなかの才能があったおかげで、少女小説にもたしかにファンができる。同時雑誌に書いた小説も、そのスジの評論家たちから好評で新聞、雑誌の同人雑誌評などで褒められる。「北原節子」の名前が徐々に知れ渡るようになった頃、この状況にドキッと驚き、戦々恐々の複雑な心持ちを抱いていた人がいます。北原節子さんです。

 何が何やら……という感じですが、同姓同名の人たちのことを文章にするのって難しいですよね。小説でぐいぐい注目された「北原節子」さんは、のちに直木賞候補・芥川賞受賞者になった人ですが、「最近、小説のこと取り上げられているらしいね」と知り合いから声をかけられ、いや、それって私のことじゃないから、と思っていた「北原節子」さんは、実業之日本社に勤めていた編集者です。大正14年/1925年長野県生まれ。詩を書いたり随筆を書いたり、ちょこちょこ物も書くタイプの人でした。

 二人の北原さんのうち、先に本を出版したのが後者の北原さんです。『空はいつも光っている』(昭和32年/1957年11月・学風書院刊)という本で、同書の最後に急きょというかたちで収められたエッセイがその名も「同姓同名」。知り合いから、きみ、小説も書いているんだね、と声をかけられることが増え、まったく同じ本名をもつ女性が活躍し出したことを知り、うーん、わたしもそのうち小説を書きたかったのに、いつか書く機会がきたら相手に遠慮して、こちらが名前を変えることになるかしら、と思い始めたのだと言います。

 ところが、二人のことを知る青山光二さんが、作家の北原さんに編集者・詩人の北原さんの存在を伝えたところ、作家の北原さんは相手に手紙を送ります。どうやら二人、同じ名前のために送り物の誤配などが発生していたらしく、ともかくこれを機に文通が始まり、作家の北原さんは自分の所属する同人誌『Z』を相手に献本、良好な関係を築き上げることになります。

 何かのパーティで二人は初めて顔を合わせ、その後、編集者・詩人の北原さんが初の出版を祝って祝賀会が開かれた折には作家の北原さんも招待されました。そこでいきなりスピーチを振られた作家の北原さんは、会場にいた佐多稲子さんや壺井栄さんに、「もしいつか私の本が出ることがあったら、同姓同名の北原さんにあやかって、先生方にご出席いただけたらどんなに嬉しいだろう」(平成25年/2013年10月・河出書房新社刊、津村節子・著『人生のぬくもり』所収「生きるということ――大原富枝」)と言って、会場を沸かせた、とのことです。

 しかしこの頃には、作家の北原さんは、やはり自分のほうが名前を変えようと決意していたようで、編集者・詩人の北原さんのエッセイにそのことが出てきます。

「実は、大変申しわけないことになったのだが、先日、『Z』の同人である瀬戸内晴美さんにおめにかかった時、あちらの北原節子さんが、もしかすると、名前を変えて、ご主人の姓である吉村を名乗ることになるかもしれないということを仰言られた。

それは、私が最近ある雑誌に数年前に書いた小説のようなものを、本名で発表してしまったことから、きっと、そういうことになったのだと思う。

(引用者中略)

せっかく北原節子という名前で小説を書いていらしたのを、こちらがいわば営業妨害してしまったようなことになったのであるから、私こそ引っこめばいいと申しわけない気持だけれど、どうやら、私の方は、まだ当分の間、姓の変る宛もなさそうである。

(引用者中略)

北原節子という名前が好きで、やっぱりどんな名前にもしたくないと仰言られていたというあちらの北原節子さんから、もう一人の北原節子はこんなやつだったのかと思われないように、せめて、これなら、名前だけは許してやろうと思っていただけるように、と心の中ではひそかに願ってはいるけれど、さて、どういうことになるだろうか。」(『空はいつも光っている』所収「同姓同名」より)

 そして作家の北原さんは昭和33年/1958年、ついに筆名を変えます。結婚後の姓名そのままでもよかったようなところ、しかし、あえて「津村」というペンネームを選択。相手の北原さんから遅れること1年半、昭和34年/1959年3月に初の作品集『華燭』(次元社刊)を出しました。

 ちなみに『華燭』に収録されたのは3つの作品で、「華燭」「孔雀」「模造」のうち、「模造」はもともと「北原節子」名義で発表された短篇です。初めて本を出したその時期、第41回(昭和34年/1959年・上半期)に「鍵」で初めて直木賞の候補に挙げられたんですが、どうやら参考作品として『華燭』も選ばれたようで、中山義秀さんなどは「華燭」「孔雀」「模造」も合わせてこの作家の作品を褒めています。

 ともかく、このとき使っていたのは、すでに新しいペンネームです。旧姓のまま使っていたその名を変えようという決断が、あと数年遅れていたら……。直木賞の候補作家リストに「北原節子」という名前が刻まれたかもしれません。大してドラマチックな展開じゃなくて申し訳ないんですけど、これも同姓同名が生んだ一つの小事件です。

| | コメント (0)

2024年7月21日 (日)

厚川昌男…直木賞を受賞しても奇術師としての心を忘れない。

 こないだ第171回(令和6年/2024年・上半期)直木賞の選考会がありました。青崎有吾さんの『地雷グリコ』が候補の一つに挙がっていました。そして落ちました。

 候補になったものが落ちることは、別に珍しいことじゃありません。無駄に長い直木賞の歴史上、候補になった作品はたくさんありますけど、その8割、9割は落選作です。そして、その落ちたものがキラキラ、ギラギラと光を放ち、多くの読者の心を動かして、日本の小説界に大きな影響を与えることも、けっこうあります。なので『地雷グリコ』が落ちたのは、そう悲観することでもありません。

 まあ、だれも悲観なんかしちゃいないかもしれませんけど、それはそれとして、この作品が候補になったのを見て、ふとワタクシの頭をよぎったのが、一人の直木賞候補者(受賞者)です。

 はじめは、あまりにパズル性の強い、トリックだのアリバイだのといった強烈な匂いのする推理小説を書いてデビューし、そのうちの一作『乱れからくり』が第79回(昭和53年/1978年・上半期)の候補に挙がったところ、選考会でも案外面白がられながら当然のように落選し、それから候補6度。12年後の第103回(平成2年/1990年・上半期)でようやく選考委員側が折れて(?)受賞してしまった作家がいます。日本の探偵小説・推理小説・ミステリー界の歴史を変えたうちの一人、とも言われます。

 ミステリーの世界には、作家のこと、作品のことを、マニアックに調べ上げる異常性をもった(褒め言葉です)人たちがうじゃうじゃいますので、もちろんこの作家のことも、情報があふれています。ありがたいことです。

 本名、厚川昌男さんは昭和8年/1933年、東京生まれ。実家は紋章上絵師を営む「松葉屋」で、厚川さんが三代目です。

 ものの本によれば、厚川さんが手品に興味をもったのは小学生の頃だったそうで、縁日で買い求めた手品の種が面白く、手品少年になります……。いや、ならなかったかもしれません。ともかく時は国家あげての戦争に突き進み、それが終わって、厚川さんは定時制の九段高校に通いながら、建設業者や金融会社で働きます。まだ10代後半の頃です。

 ところが、勤め先が倒産して無職となった頃、柴田直光さんの『奇術種あかし』(昭和26年/1951年12月・理工図書刊)と出会って、ふむふむ、これは面白いなとマジックにぞっこん。そこから厚川さんの手品にのめり込む奇特な人生が動き出します。

 奇術クラブに入会し、そこで知り合った耀子さんと結婚したのは、厚川さんのマジック人生のいちばんの収穫でしょうけど、昭和43年/1968年には優れた奇術師に贈られる第2回石田天海賞を受賞します。いまのところ、石田賞と直木賞の二冠をもっているのは、厚川さんただひとりです。

 さらには何といっても、厚川さんが初めて出した本が小説ではなく、厚川昌男名義の『ゾンビボールの研究』(昭和43年/1968年9月・力書房刊)だったことが重要です。重要ですというか、後年小説を書くときには、自分の名前をならべ替えてわざわざ筆名をつけたのに、奇術書を出すときには、本名を使っている。紋章上絵師が本職で、小説を書くのは第二の職業、それらに比べて奇術というのは、アマチュアの手すさび程度の存在だったでしょうが、しかし厚川さんという人間にとって、奇術師としての顔がすべての大モトにあったのは間違いありません。

 そんなことは、これまでもいろんな人が指摘してきたことなので、いまさらこのブログでなぞる必要もありません。とにかく、ここで書くとしたら、やはり直木賞のハナシです。

 第103回の直木賞贈呈式は平成2年/1990年8月20日に行われました。それを報じた『読売新聞』の記事が残っています。

「泡坂氏は“職人”らしい羽織、はかま姿で出席。同氏が趣味にしているマジックの仲間がお祝いにかけつけ、舞台で手並みを披露して拍手をあびていた。」(『読売新聞』平成2年/1990年8月23日夕刊「第103回芥川・直木賞贈呈式」より)

 厚川さんは外出するときに、かならず手品の種を一つ二つと仕込んでいて、いつどんなときでもマジックが披露できるようにしていたらしいです。直木賞の贈呈式でも、仲間といっしょに何らかその手並みをお披露目したんでしょう。どんなマジックをやったのか。気になるところですが、知っている方がいたら教えてください。

 それと、贈呈式よりも前、直木賞の場合は受賞が決まったときにも全国のニュースで取り上げられます。こないだ一穂ミチさんがマスク姿で受け答えしていた例のアレです。第103回でももちろん記者会見が開かれて、厚川さんもお出ましになったんですが、そのときの記事にも手品のことが出てきます。

「趣味は手品。受賞後の記者会見で、記者団からそのことを聞かれると、ポケットから赤いボールを取り出して鮮やかな手つきで”名人芸”を披露、会見は一転して和やかな雰囲気になった。」(『西日本新聞』平成2年/1990年7月17日「ひと 泡坂妻夫さん」より)

 うわっ、さすがだ……。何を聞かれるかわからない状況で、赤いボールを持っていく厚川さんの奇術師だましい。直木賞の受賞会見で手品をやってみせた受賞者は、おそらくこれまでのところ、厚川さんただひとりです。

| | コメント (0)

2024年7月17日 (水)

第171回直木賞(令和6年/2024年上半期)決定の夜に

240717

 今日の東京も蒸し暑い日でした。

 蒸し暑い夏といえば直木賞。奇数回のときは毎年こんな感じです。今日7月17日(水)、第171回(令和6年/2024年・上半期)の受賞が発表されました。ニュースで報じられているとおりです。

 ウワサによると、こんな面白い行事が定期的にあるのに、候補作をいっさい読まず、ニュースで知るだけ、っていう人が世の中にはたくさんいるんだとか。

 マジでもったいない。と思うんですけど、まあこっちだって、直木賞以外の、おそらく楽しい世の中のイベントや出来事は、ほとんど知らないまま生きています。どっちもどっちです。

 いずれにしても、直木賞を楽しめるかどうかは、世間の動向とは関係ありません。半年のあいだ待ちに待ち望んで、ようやくやってきた新しい直木賞も、候補作のすべてが面白くて、それがいちばんの満足でした。どれが受賞したとかは、正直、些細なハナシです。

 麻布競馬場さんに授賞したら、直木賞も大化けできたのに……。直木賞にとっては、チャンスを逃したかたちになって残念です。『令和元年の人生ゲーム』を読んでいると、描いている世界は新しいのに人間を見つめようとする小説家としての腕の確かさに、感嘆しきりでした。麻布競馬場さん、また直木賞の場にきてください。そして直木賞にリベンジの機会を与えてやってください。

 それにしても、こんなに正統派で、作者の思いのこもった小説が候補ですから、一発で岩井圭也さんが受賞するのかと思っちゃいましたよ。『われは熊楠』の何がどうケチをつけられたのか。いまのところはよくわかりませんが、ほんのちょっと委員の機嫌が違えば、直木賞の一つや二つ、岩井さんが受賞する日は近いはずです。「あげるのが遅い」が直木賞の代名詞。あきらめてその日を待ちます。

 青崎有吾さんの『地雷グリコ』は、世間の評判がものすごくて、読む前から身構えてしまったんですけど、いやいや、あまりの鮮やかな設定と展開に参りました。次はどうなる、最後にどうなる。このとてつもないドキドキ感。読書の醍醐味を味わわせてもらったので、文学賞とかはどうでもいいです。これから追いかけていきたい作家がまた一人見つかりました。

 鼻から火を吹く『あいにくあんたのためじゃない』のパワフルさ。かつ繊細さ。柚木麻子さんが、自分の行く道から逸れずに、ずっとアップデートを続けているその姿に思わず感動しました。6回も落としたからってそれが何だ、直木賞だって人の子だ、7回8回と続けば、いつか直木賞が折れるかもしれん。っつうか、柚木さんのほうがウンザリしちゃってるかもしれない。すみません、直木賞のために、これからも候補入りの話、断らないでください。

          ○

 聞くところによると、光文社の本で直木賞を受賞したのは、第57回(昭和42年/1967年・上半期)の生島治郎さん『追いつめる』以来、57年ぶりらしいです。とれそうでとれない。と、しばしば言われてきたこの出版社に、直木賞受賞を引っ張ってきた一穂ミチさんの強運ぶり(いや、実力)が、とにかくもう、すさまじいです。

 以前候補になった『スモールワールズ』『光のとこにいてね』とはまた一転、『ツミデミック』に収められたホラー味&ユーモア味&社会性もある犯罪小説の数々に、しびれました。これからも一転十転、歴史ものでもSFでも、多種多様な小説を書いていってくれるんでしょう。何でも書けちゃう一穂ミチ。恐ろしいです。

          ○

 今回は、第144回(平成22年/2010年・下半期)から続く伝統のニコ生放送が、サイバー何とかのせいで休止中。YouTubeのほうの「ニコニコニュース」で受賞者会見が中継されました。発表貼り出しの時間は以下のとおりです。

 うーん、わきの解説がなくてつまらないな。……と思ったからでもないんですけど、家でパソコンに張り付いていても暇なだけなので、蒸し暑いなか、えっちらおっちら電車を乗り継いで、横浜市金沢区にある直木三十五の墓に行ってきました。去年の夏もここで発表を待ったので、今年で2回目。長昌寺のご住職と、南国忌実行委員の重鎮お二人とともに、受賞の結果を直木さんの墓前にご報告しました。って、相変わらず何をやってるんだ、おれは。

 でもまあ、直木賞はいつ見ても、どんなふうに接しても絶対に面白いから、一生直木賞ファンはやめられません。今度は極寒の1月にやってくる第172回(令和6年/2024年・下半期)の候補作を読むことだけを楽しみにして、半年間の冴えない日常を過ごしたいと思います。ええい、早くこい。直木賞。

| | コメント (0)

2024年7月14日 (日)

直木賞がやってきた「逆説の選考」を、第171回(令和6年/2024年上半期)候補作にも当てはめてみる。

 今週水曜日、令和6年/2024年7月17日に第171回(令和6年/2024年上半期)の直木賞が決まります。

 半年に一度、これだけを楽しみに生きています。直木賞は万全の態勢でのぞみたい。ということで、候補作5つもきっちり読んだ。仕事の休みもとった。もうあとは待つだけです。

 決まってしまえば、受賞作(受賞作家)だけが突出して取り上げられて、ほかの候補作にはあまり光が当たりません。なので、どれがとるか、あれがいいか、と候補作すべてに可能性がある状態でいろいろと考えられるいまの時間が、直木賞ファンにとってはいちばん幸せです。

 それでアレコレ要らぬことまで考えるわけですけど、直木賞は何がとりそうか。過去の傾向をひっぱり出して、つらつら考えてみれば、直木賞の特徴といってはっきり言えることが一つあります。「おおよそ逆がくる」ということです。「逆説の選考」などとも呼ばれます。

 何が「逆」なのか。と言いますと、一般的に褒められるようなことは否定的に扱われ、マイナス要素と言えそうなことが高い評価を受ける、ということです。

 売れている本は駄目。面白い小説は駄目。すらすらと一気に読めるもの、性格のいい人や温かい雰囲気のものも駄目。あまり売れそうになく、読んでいても退屈で、ゴツゴツとした文体で書かれた、人のイヤな部分とか、負の感情が描かれて読後スカッとしないようなものが、直木賞では(いや、文学賞の多くでは)点を集めたりします。変な世界です。

 ということは、ですよ。候補作を読んで、これは駄目だな、と思えるような箇所が多ければ多いほど、受賞作になりやすい、と言っていいと思います。これは別にワタクシがあまのじゃくなわけではなく、これまでの直木賞の傾向がほんとうにそうなんだから、仕方ありません。

 じゃあ、今回の5つの候補作はどうなのか。基本的にどれもこれも、読んでいてケチがつけられるような小説は見当たりません。見当たらないんですが、駄目な点が多くないと受賞できない、というならハナシは別です。無理やりにでも、それぞれのマイナスになりそうなところを探してみることで、逆に受賞が決定することを願ってみたいと思います。

          ○

■青崎有吾『地雷グリコ』(令和5年/2023年11月・KADOKAWA刊)

 このブッとんだ超絶の傑作に、果たして落とし穴などあるんでしょうか。頭をしぼって、

  • いくら何でも射守矢真兎が事前に考えていた想定どおりに事が運びすぎ。ほとんどマンガ。
  • 設定や人間心理にリアリティがなさすぎる。
  • 読み終わって、だから何なんだ、と徒労感しか残らない。

 といった辺りを挙げてみました。これくらいツッコみどころの多い小説であれば、十分受賞の可能性はありそうです。

■麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』(令和6年/2024年2月・文藝春秋刊)

 いまの時代の、いまを生きる人たちに向けた、ぐっとくるワードが満載の小説です。うーん、欠点というと何でしょう。

  • 連作を通して出てくる沼田の人物造型が、よくわからない。
  • 描かれている状況や設定が、現代の一部に寄りすぎていて、中高年以上の読者には付いていけない。
  • いかにも人間のイジ汚い部分にせまっているようで、そこまで鋭くはない。

 小説にとってプラスはマイナス。マイナスはプラス。本作もまた、熱く議論される箇所の多い小説だと思います。

■一穂ミチ『ツミデミック』(令和5年/2023年11月・光文社刊)

 一穂さんのこれまでの2度の候補作とはまた違っていて、作者の力量の幅広さがよくわかります。さすがにマイナス点を探すのには難渋します。

  • 話をつくりすぎていて、途中、興ざめしてくる。
  • これぞ作者の独自性! といった看板になるような魅力が希薄。
  • どれもまとまりがよすぎて、読後に強く残る印象がない。

 まあ、よくできた作品集ほど、こんな選評はよく見かけますが、けなす委員がいれば褒める委員もいる。それが直木賞です。

■岩井圭也『われは熊楠』(令和6年/2024年5月・文藝春秋刊)

 老成しているようで新鮮な、直木賞に受けるにふさわしい岩井さんの小説ですから、やはり駄目な点がきっとあるんだと思います。

  • どうしてそんなに夢のお告げみたいなものばかり繰り返されるんだ。飽きてくる。
  • 歴史的事実に忠実であろうとするあまり、展開が単調。
  • 熊楠の人物的な面白さが、小説としての面白さにつながっていない。

 つまらなければつまらないほど、直木賞に近づく、というのも不思議なものです。

■柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』(令和6年/2024年3月・新潮社刊)

 出ました。これまでさんざん選評で酷評されてきたその蓄積が、ついに臨界点を超える段階にまできたのが柚木さんです。

  • どの話も展開がフリきりすぎていて、ドン引きする。
  • 感情や主張を、登場人物がしゃべりすぎ。余白や余韻がない。
  • けっきょく作者が言いたいことのためだけに話がつくられている、という印象から抜け出たものがない。

 とにかく首をかしげてしまう小説であれば、直木賞の受賞はまず間違いありません。

          ○

 だいたい、外部の野次馬が、候補作を読んでの感想を書いて、いったい直木賞の何になるんでしょうか。別に何にもなりゃしません。

 直木賞の楽しみは、まずは候補作をすべて読む。その状態で選考結果が出るのを待機して、出たら出たで、ワーッとその騒ぎを全身に浴びる。その快感を与えてくれる点で、いまのところ直木賞以上のものはありません。

 ただ、もしもとってほしい候補作がある人であれば、結果が出るまで気が気じゃないでしょう。そういうときは、推しの小説が持っている駄目なところをできるだけ数多くピックアップして、受賞を祈ることをおすすめします。

| | コメント (0)

2024年7月 7日 (日)

ワセダ中退…直木賞を受賞するほんの数年前、相方といっしょに漫才の舞台に立つ。

 ペンネームにもいろいろあります。他人によって付けられるパターンもあるでしょうけど、基本的には自分自身でおのれの名前を付けるわけです。当然そこには、本人の性格や個性がにじみ出てきます。

 親族や友人、世話になった恩師などの名前が由来で付けられる例があります。古今東西の有名人の名前をもじって付ける人もいます。人の名前と関係なく、ゆかりある場所の地名とか、一般的な単語から連想して付けるような人もいます。いやいや、理由もクソもなく、そのときの気分とか、内輪ウケしそうな冗談っぽい言葉の羅列とか、一発カマしてやろうという気配まんまんの、ちょっと恥ずい系統のペンネームの付け方もあります。まあ、いろいろです。

 昭和30年代、放送業界で飛ぶ鳥落とす勢いのあった裏方の作家、三木鶏郎さんの事務所にたむろした若者のなかで、一気に頭角を現わしたのが〈阿木由起夫〉を名乗る青年でした。筆名の由来は、自分の下の名前〈あきゆき〉を分割して、最後に「夫」を付けたという、けっこう安易なものだった、と言われています。もう少し深い意味があったのかもしれませんが、真相は本人にしかわかりません。

 阿木さんが世に出てきたその当時は、何といってもマスメディアの業界が急激な膨張をつづけた時代です。出版界では次から次へと雑誌が出る。放送界ではラジオがあるところにテレビが出現。業界が膨張するということは、つまりそこで働くつくり手側の人材がつねに求められる、ってことでもあります。阿木さんも、こそこそと、いや堂々と、かなりの虚勢を張って精力的に業界にもぐり込みました。

 ……と、このあたりのことは、阿木さんが小説家になって直木賞をとってから、膨大に書き残した小説のなかの一部に、ひんぱんに出てきます。うちのブログでも何度か触れたことがありますので、ばっさり割愛。したいところではあるんですけど、今年のブログのテーマが「別の名前」ということで、阿木さんが放送作家から活字の書き手としても名が知られ、本名で書いた小説が第57回(昭和42年/1967年・上半期)に直木賞候補、次の第58回(昭和42年/1967年・下半期)に直木賞を受賞するそれまでのあいだに、さまざまな名前を使って、いろんな舞台でハッチャけたことをしていたことは、やはり今回も書いておかないとどうしようもありません。

 シャンソン喫茶「銀巴里」では〈クロード・野坂〉の芸名でシャンソンを歌っていた、というのは一つのチャレンジですからいいでしょう。しかし、昭和35年/1960年、急速に親しくなった野末陳平さんと新宿文化劇場の舞台に立ち、素人ながら漫才を披露したのは、もう明らかな悪ノリです。そのころM-1があったら、おそらくエントリーして一回戦で敗退していたんじゃないかと思います。

 そのときに付けた漫才用の芸名が〈ワセダ中退・落第〉だった、というのですから、面白いのかつまらないのか、昭和30年代のノリというのは、50年以上を経た今の感覚からはよくわかりません。

 しかし、この芸名は当時の観客には受けたらしい、とモノの本には書いてあります。

「野坂の芸名が“中退”で野末が“落第”である。最初に口をかけたのは、野坂のほうだった。

「おい野末、芸人になって二人で売りこもうよ。女にもてるには、これがいちばん手っとり早いぜ」

野末もこの言葉にのせられて、二人は舞台にたった。野末落第氏が、鼻の下から口の両側に弧をえがくヒゲで、野坂中退氏はアゴの下につりヒゲ、二人合わせてぐるりと口のまわりがヒゲになるという趣向だった。

司会者に「次はお待ちかねの立体漫才」と紹介されると、二人はこの扮装で舞台に登場する。その瞬間は芸名のおもしろさと扮装にドッと観客がわいた。」(昭和43年/1968年12月・文研出版刊、植田康夫・著『現代マスコミ・スター 時代に挑戦する6人の男』より)

 いわゆる〈出オチ〉というやつです。二人がしゃべると客席はしんと静かになって、笑い声ひとつ起こらず、まるで話にならなかったみたいです。万が一それで結果が出ていたら、二人はテレビをにぎわす漫才師になって、だけどもとから作家志望でもあった〈中退〉さんのほうは物も書き出し、芸人界初の直木賞受賞者が誕生したかもしれません。……いや、どうだったんでしょう、ちょっと無理めな妄想でした。

 ともかく、こういうあれこれの活動が、直木賞候補になったときに川口松太郎さんが「作家として大成する意気をもって取り組んでいるかどうか疑わしいような悪名声がある」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号)と選評に書くことにつながります。テレビやラジオでギャーギャー顔を出している奴はふまじめだと思われて直木賞がとれない、などとまことしやかな噂が流れる展開を生むわけです。でも、その半年後にはきちんと小説の出来が評価されて、直木賞をとっちゃうんですから、じつはそんな噂は野次馬たちが勝手に言っているだけのフェイクだったことがわかります。

 直木賞に関する噂なんて、たいていそういうものかもしれません。阿木さん=ワセダ中退さん=野坂さんが、直木賞界隈をにぎわしていた50年以上もまえも、そして現在も、何が真実で何がフェイクかよくわからない。だから直木賞は、いつ見ても面白いわけです。

| | コメント (0)

« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »