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2024年6月23日 (日)

能戸清司…小説やシナリオは別の名前で発表してきたのに、最後の最後に本名で小説を自費出版する。

 インターネットが一般的に普及して、もう何年になるでしょうか。いちいち思い出すのも馬鹿らしいので、各自、確認していただければいいんですが、個人的にワタクシにとってのインターネットは、直木賞に関する種々雑多な情報を得るためのツールです。ネットを使うようになってから今にいたるまで、それだけはずっと変わりません。

 ネットを覗くようになって感動したのは、直木賞の候補者リストで名前しか知らなかった人たちが、自分でホームページを立ち上げて、定期的に文章を発信しているところに触れられることでした。何だよ、ネットって天国かよ、とわくわくしながら直木賞(のあれこれを調べる)熱を高めてネットサーフィンに明け暮れていた時代を、懐かしく思い出します。

 そういう中で出会ったのが、能戸清司さんのホームぺージです。名前は「わが日没録 ある名もなき老人の終焉の記」。平成12年/2000年8月15日開設、と書いてありましたので、うちのサイトと同じくらいのスタート時期です。

 すでに高齢だった元・新聞記者の能戸さんが、日々のことや時事問題について、思ったことをつらつらと書き綴るタイプの、そんなサイトだったような記憶があります。ただ、能戸さん自身、平成26年/2014年には死んでしまうので、いまではそんなサイトも残っちゃいません。ワタクシの脳内がつくりあげた夢まぼろしだったかもしれません。

 まあ、「直木賞のすべて」とか「文学賞の世界」だって、ワタクシが死んじまえばあっさりとデータが消されて、どこにも残らない夢まぼろしになるんですから、仕方のないことなんですけど、それはともかくです。能戸さんは、別の名義でむかし小説を書いたことがあり、第44回(昭和35年/1960年・下半期)になぜかポロッと直木賞の候補になったことがあります。小説の世界では当時もいまも、まるで知られていない存在ですが、能戸さん自身はいろいろと著作もあって、有名だったらしい、と能戸さんのホームページを見て知りました。昔の候補者の履歴を調べるのは苦労することばかりなので、自ら発信してくれる人というのはマジでありがたいです。

 能戸さんが何で有名だったかというと、『朝日新聞』に勤める新聞記者として文章の書き方についての指南書をいろいろと出したことが挙げられます。とくに『うまい!といわれる文章はどう書くか』(昭和55年/1980年3月・ベストセラーズ/ワニの本)は、30万部を超えるほどによく売れたと言われていて、ワタクシも若いうちに能戸さんのこういう本に出会っていれば、もう少しうまい文章が書けるようになったかもしれません。能戸さんに言わせると、文章の技術うんぬんより何より、日頃から物事に対して考察を深め自分なりの意見を持つことが、文章を書くうえでの大切な条件らしいです。能戸さんもおそらく、考えることの大好きな、脳みその発達した人だったんでしょう。

 そして何より、能戸さんの特徴は、文章を書いてはそれを公に発表することをやめられなかったことです。

 『朝日』を辞め、文筆業のほうも時代の移り変わりとともに注文も減っていき、もはやあとは死を迎えるのみ、といった年齢になってもなお、能戸さんは自前でホームページをつくって文章を書きつづけます。自分の考えを文章にする。そんなもの、こっそり机の引き出しに入れておけばいいものを、わざわざ誰かの目に触れるように公開する。……何のためにやっているのか。誰のためになるのか。まったくわかりませんが、しかしそれがやめられなかった心境というのは、ワタクシ自身も似たようなものを持っているだけに、そこはかとなく親近感が沸いてきます。

 ホームページだけでは、心もとなくなったんでしょうか。御年90を過ぎて、能戸さんは自費出版のかたちで三冊の本を一気に出版しました。『マゼランの首』『彼方』(ともに平成24年/2012年8月・幻冬舎ルネッサンス刊)、『さらばカルメン ひとりぼっちの反戦抵抗』(平成24年/2012年9月・日本文学館刊)です。

 そのうち『マゼランの首』は、50年以上前に発表した直木賞候補作「夜は明けない」が収められていて、当時の『サンデー毎日特別号』に載ったきりでまず普通には目に触れることのなかったこの作品が、まさかの復活を果たした驚きの一冊となっています。

 ちなみに「夜は明けない」は昭和32年/1957年のマラヤ(マレーシア)が舞台です。長く植民地支配を受けてきたこの国が独立を果たしたその前後、元・日本兵として同地に残り、マラヤ共産党の人民解放軍に参加することになった〈ニキ〉という男と、イギリスの息のかかった独立に反対するマラヤ人たちとの動向を描いています。直木賞のほうではとくに大きな議論となることもなく、あっさりと落とされてそのままになっていた短篇小説でした。

 『マゼランの首』には能戸さんの短い「あとがき」が付いています。

「――自分が望んでもいないのに、大きな世界史の渦に巻き込まれていく人間の儚さ。

 

人生の死に際になって、これまで書き続けてきた文章をまとめておきたくなった。だれに読んでもらうためでもなく、生きていたことへのあかしとして。」(『マゼランの首』「あとがき」より)

 「だれに読んでもらうためでもなく」と言いながら、お金をはたいて一冊の本にするのは、やはり他の誰かに読んでもらいたかったからではないか。……そう思うんですけど、このあたりの面倒くさい心理は、文学の世界(いや、人間の生きているすべての社会)ではよく見かけます。はっきりと物を言い、端正な文章ばかりを書いていた能戸さんですが、やっぱり面倒くさい一面も、たしかに持っていた人なんでしょう。

 ところで直木賞の候補になったときの筆名、能戸さんが小説やシナリオを書くときに使っていた筆名「木戸織男」を、どうして最後に捨てて、能戸清司名義で小説集を出したのか。そのあたりの心の移り変わりも、面倒な人間心理が影響したんだろうと思われます。

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