稲垣史生…50歳を迎えて思うところがあり、また別の名前を(一瞬)使い出す。
なぜ人は小説を書くんでしょうか。
……そんなもの、理由や動機は人によってまちまちです。「これだ」と確実に言えることなど、一つもありません。愚問というか、無意味というか、そんなことを考えるより、じっさいに書かれた小説を鼻くそほじくりながら読みあさるほうが、なんぼかマシでしょう。
それで今週取り上げる稲垣史生さんですが、時代考証の世界に燦然と輝く伝説的な偉人、こまかい地味な仕事を何十年にもわたって続けたという、ある種の狂人でもあります。昔の日本の暮らしや制度、文化や芸術をあさって調べて、コツコツとそれを文章などに書き残し、歴史ドラマや小説などでおかしな点を見つければ、それは違う、事実はこうだ、と重箱の隅をつつきながら収入を得ていた人です。そんな人がどうして自分でも小説を書こうと思ったのか。……よくわかりません。
ものの本によりますと、稲垣さんは明治45年/1912年5月の生まれ。付けられた名前は稲垣秀忠と、奇しくも(あるいは意識的にか)徳川二代将軍と同じ名前でした。出身地は富山県東礪波郡出町、いまでいう砺波市の中心部で、実家は街で古くから「唐津屋」という陶器店をやっていたお家柄。旧制砺波中学から早稲田の高等学院に進み、そのまま大学も早稲田に進んで昭和11年/1936年、早大文学部国文科を卒業します。
その年、都新聞社に入社すると社会部に配属され、怒濤の新聞記者生活が始まりますが、どうやらすでに歴史への関心、あるいは文学への興味をどっさり抱えていたらしく、ものを書くにも蘊蓄の一つや二つを挟まなければ済まない、なかなかの自信家ぶりを発揮。昭和15年/1940年には、日本がよそさまの国に我がもの顔で侵略するのに合わせて、稲垣さんも海を渡り、満洲、北支、蒙彊を旅したのちに、その成果を小説のかたちでいくつか書いたりします。およそ齢は20代から30代。小説を書いていきたかった人のにおいがぷんぷんです。
そこで付けた筆名が「稲垣史生」という名前です。どうやらこの名にこだわりがあったようで、その後、終生使いつづけました。
しばらくのあいだ小説も「史生」名で書いていたんですけど、戦後になって新聞・出版の裏方をしながら時代小説、時代読み物を書くうちに、いっちょまじめな歴史物を書いてやろうじゃないか、と思い立ったのかどうなのか。また別の筆名を持ち出してきて小説を執筆すると、第19回(昭和36年/1961年度下期)のオール讀物新人賞で「雪の匂い」が佳作にとられ、翌第20回では「花の御所」が見事、受賞に輝きます。
おそらくこの当時の、稲垣さんの創作熱の高まりは、「花の御所」を収めた単行本『花の御所』(昭和38年/1963年2月・光風社刊)の「あとがき」に表われているものと思います。御説、拝聴いたしましょう。
「七年の新聞記者生活や海軍報道班員としての活動、それから戦後のめまぐるしい変転を経験し、やっとものを考える時間的な余裕を得て、そして書いたのがこの四篇(引用者注:「人質槍」「折焚く柴の記」「金閣寺伝奇」「花の御所」)です。何か訴えるものがあるとすれば、過去の経験の中で、いちばん痛切に感じたものの流露かも知れません。
四篇とも三十七年ちゅうの執筆です。(引用者中略)この年の五月、私はまた「戦国武家事典」を出したのですが、その資料を四篇の作品ちゅうに大いに使いました。したがって、テーマに資料に、今まで私の蓄積し来ったものを、ここに作品化したとも云えるでしょうか。」(『花の御所』「あとがき」より)
稲垣さん、年はちょうど50歳を迎える頃合いです。人が過去を振り返り、ついつい先のことを考えて、いまのうちに何かしておかなくちゃな、と切実に思い悩む年代……といえば年代です。
オール讀物新人賞を受けた「花の御所」は、『オール讀物』編集部の熱い推薦(ないしはコネ)で、そのまま第48回(昭和37年/1962年・下半期)直木賞の候補にまで選ばれます。しかしこの回は山口瞳さんの「江分利満氏の優雅な生活」はまだしも、杉本苑子さんの『孤愁の岸』という、ド級に熱のこもった長篇歴史小説が対抗馬にいたものですから、稲垣さんの作品など出る幕もなく、お歴々の選考委員から難クセのような手厳しい選評を受けて、あっさり落選。なかでも大佛次郎さんが「辞典や調査の煩わしい仕事をすこしお休みなさい。」(『オール讀物』昭和38年/1963年4月号)と書いているのが、やさしさなのか、無茶ぶりなのか、わかりませんけど、もっと小説に本腰を入れたらどうですか、という親切なアドバイスだったのは間違いありません。
しかし稲垣さんがそれをどこまで受け入れたか、というと、どうもあまり聞き入れた感じがありません。一瞬使った「稲垣一城」の名前は、知らないあいだに見なくなり、時代考証家・稲垣史生のほうが前面に打ち出され、そのまま暴走老人、突っ走りました。
50歳にもなれば、人はあまり他人の言うことを素直に聞かなくなりますからね。小説だけが人生じゃなし、自分の信じた道を進んで、それはそれでよかったんだと思います。
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