一色次郎…長年使ってきた本名が気に入らずに、筆名をつけたら文学賞を受賞。
一般的に「別の名前」というと何でしょうか。物書きの世界では、本名とペンネーム、という組み合わせが真っ先に思い浮かびます。
本名で本職に従事している人が、会社にバレないように、あるいは別の人格になりたくて、あるいは、他人には想像のつかないその人だけの事情があって、ペンネームで小説を書き始める……。よくあるハナシです。
直木賞の歴史のなかでも、そういう人はたくさん登場してきました。いちいち取り上げていたら、それだけで一年間が経ってしまいそうです。ただ、その例を除いてしまうと、とうていネタが持ちそうにないので、少しずつ取り上げていくことにします。
まずはこの人。「一色次郎」さんです。
ケースとしては稀かもしれません。もとは本名で活動していて、その名前で直木賞の候補にも挙がりましたが、一般に知られる作家にはなれなかったところ、筆名を「一色次郎」として心機一転。すると昭和42年/1967年に第3回太宰治賞をとってしまい、一気に運がひらきはじめて、そちらの筆名のほうで文筆業をまっとうしました。筆名を変えて(新しく付けて)成功した例、と言っていいでしょう。
鹿児島県沖永良部島生まれ。3歳のとき父が八合事件で検挙されて獄中で死んでしまったのを機に、一家で鹿児島市内に移住。しばらくそこで生活します。父方の叔母が熊本に嫁いでいた関係で、昭和9年/1934年から昭和10年/1935年、同地で暮らし、そのあいだに雑誌や新聞に文章を発表、私家版で創作集も一冊出しますが、それで何がどうなるわけでもなし。からだを壊して鹿児島に帰郷、しかしどうしても小説家になりたいという夢があきらめ切れず、昭和12年/1937年、21歳で東京に出てきます。しかしそこからがさらなる地獄の始まりです。そう簡単に陽の目を見る機会は訪れず、職を転々とし、先の見えない窮乏と苦難の人生が幕を開けます。……といったことは、うちのブログで何かのときに書いた気がします。
昭和24年/1949年、『三田文学』に短篇「冬の旅」が掲載されます。本人によれば、それが自分の文学作品がはじめて活字になったものだということです。ずいぶんと周囲でも評判がよく、おそらく誰かに推薦されて第22回(昭和24年/1949年・下半期)直木賞の候補にまで残ります。しかし受賞はできません。
この頃、一色さんは33歳で家族持ち。何の賞も受けなかったけれど、やっぱりおれは筆一本でやっていきたいんだ、と(おそらく)雄叫びを上げて文筆の生活に入ります。基本は売り込みと注文原稿をこなす、いわゆる売文の日々です。とくに子供向けの伝記・読み物の類いに需要が多く、一色さんも日本児童文芸家協会の会員として数多くの児童書を手がけました。
一色さんが2度目の直木賞候補になったのは第45回(昭和36年/1961年・上半期)のことです。最初の候補から10数年。今度は『西日本スポーツ』に連載した「孤雁」という時代小説で、まあ一色さんが目指した文学的な作品とは大きく距離を隔てた、剣豪ものの小説です。面白いことは面白いが、うーん、これでは文学賞はあげられないな、と選考会でも厳しい意見が議場を飛び交い、やっぱりここでも一色さんは浮上できません。
ここまでやってきて、そろそろ50の声を聞く年代です。どうも、おれの本名がよくないんじゃないのか、と自分の名前にせいにしてしまったのは、一色さんとしてもワラをもすがる苦し紛れの発想だったかと思います。考えてみれば、昔からおれは自分の名前が好きじゃなかったんだ、といよいよそこまで思いつめ、名前を変えることを決心します。
「父が得意になってつけたのであろう典一の内、典の字が特に気にくわない。ある気まぐれに辞典を引いてみたら「典の字には、質草あるいは質へ行くという意味がある」と書いてある。トンデモナイ話だ。これでは、いつまでたっても、うだつが上がるわけがない。大屋の字にしてもそうだ。小屋みたいなところに住んでいて、大屋でもあるまい。」(昭和43年/1968年6月・大和書房刊『わが人生の遍歴 古里日記』所収「筆名」より)
こじつけといえば、こじつけです。姓名判断なんてものは、多かれ少なかれ、眉つばモノのこじつけだ、と言ってしまえばそれまでです。
いったい名前が悪かったのか。それとも、文学の主流・王道とは別のところを走っている直木賞なんてものの候補に挙げられたのが、いけなかったのか。どっちにしても結果論ですけど、一色さんは新しい筆名を考えました。「一色」は、少年時代に少しだけ住んでいた兵庫県一色村にちなんだもの。「次郎」は、人生うまくいかずに事業に失敗して死んでいった祖父の名前をそのまま拝借した、ということです。
昭和42年/1967年、50歳をすぎて太宰賞を受賞できたのは、付けた筆名がよかったからだ。……というのは、さすがに無理があります。ただ、そのおかげで「直木賞候補者」として語られることがほぼなくなり、「太宰賞受賞者」の肩書きがつきました。直木賞より太宰賞。一色さんにとっても本望だったことでしょう。
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