前田とみ子…離婚と再婚を経るうちに、異なる名前で再出発。
一人の同じ作家であっても、名前が一つしかないとはかぎりません。直木賞の歴史は無駄に長いですから、一人の人物がちがう名前で候補になった、という例もいくつか挙げることができます。これから一年のあいだに、そういう人のハナシもポツポツと差し挟んでいこうと思います。
まずは何といってもこの人。前田とみ子さんです。
昭和37年/1962年、中央公論社『婦人公論』がやっていた公募の新人賞、女流新人賞を「連(れん)」でとり、それがそのまま直木賞候補になりました。
このブログでは何度も言っていることではあるんですけど、ここで注目したいのは『婦人公論』に載った小説をあっさり候補に挙げてしまった直木賞の鷹揚さです。同じ第48回(昭和37年/1962年・下半期)では山口瞳さんの読み物風の小説も候補になりましたが、そちらは『婦人画報』に載ったものでした。
婦人雑誌に出た小説を、文学賞の候補に選んでしまう。「直木賞は大衆文芸の賞だ」と言い張って、中間小説誌とかエンタメの単行本とか、そういうところにばかり目を向けるような、凝り固まった事業ではなかったところが、ワタクシが直木賞のことを大好きな、最も大きい理由です。
あとから振り返ってみれば、前田さんの作品が直木賞の候補になってもとくに違和感はありません。だけど、どうなるかわからない昭和38年/1963年の段階で、よくも当時の文藝春秋新社の人たちは、直木賞の予選を通過させたよなあ、と感心します。悔しかったら、おまえも婦人雑誌の小説を候補にあげてみろよ、芥川賞! ……と、直木賞ファンとして優越感にひたれる数少ない機会をつくってくれた人。それが前田とみ子さんです。
前田さんは、後年むちゃくちゃ売れる作家になって、全集まで出てしまい、近年になっても評伝的な作品がいくつか出ています。ですので経歴的なことはバッサリ省きますが、高知に住む36歳の一人の女性が、女流新人賞をとったことは地元ではかなりの話題になったことだけは言っておかなきゃなりません。
大島信三さんの『宮尾登美子 遅咲きの人生』(平成28年/2016年10月・芙蓉書房出版刊)には、「一夜で環境が一変した。」と書いてあります。高知にあったありとあらゆるメディアがいっせいに前田さんのところに取材に訪れ、外出すれば、あのひと、新聞に出ていた女流作家よね、と顔をさされる日々。地元の有力者が語らって祝賀会がひらかれ、他にも受賞を祝う集まりがいくつも開催された、と大島さんは紹介しています。
林真理子さんの『綴る女 評伝・宮尾登美子』(令和2年/2020年2月・中央公論新社刊)にも、当然、女流新人賞をとったあとの大騒ぎのことが出てきます。「女流新人賞受賞時の地元の熱狂ぶり」と表現されていて、とにかく当時の中央公論社や『婦人公論』というのは権威があった、しかも高知の人たちにとって東京から出ている雑誌の新人賞をとったことは、とてつもなく大きく、新人賞をとって数年のペエペエの新人作家に『高知新聞』が連載小説を依頼して「湿地帯」が載ったのも、その大きさの表われのひとつだった、ということです。
こういうのを読むと、徳島の中川静子さんのことを思い出してしまいます。中川さんもまた、オール讀物新人賞を受賞して、東京の出版社から期待されて上京、どうにか職業作家の道を歩もうと努力しますが、けっきょくうまく行かずに帰郷しました。他にも、昭和30年代、40年代、こういった例はたくさんあったものと思います。ひまな人は誰か調べてみてください。
それはそれとして、前田さんの直木賞候補についてです。「連(れん)」が『婦人公論』に掲載されたのが昭和37年/1962年11月号。翌年1月、直木賞の選考にかけられ、ほとんどあっさりと落選しました。それから14年たった2度めの候補のときのことや、さらに2年後の直木賞受賞のときのハナシは、以前うちのブログでも書いた気がします。『全集』に収められた日記、そのほかのエッセイなどもあって取り上げやすいんですけど、では初めて候補になって、高知の家で連絡を待っていた1回目の候補のときは、どんなふうだったのか。……よくわかりません。
かつて引用したかもしれませんけど、いちおうご本人が「連(れん)」の直木賞候補のことを書いている、公開された日記の一部を引いておきます。
「考えてみれば、直木賞の候補はこれで三度目。一回目は『連』のとき。二回目は『陽暉楼』。『一絃の琴』でやっと当選。なんだか割り切れぬ気持ちがあり、浮かれてばかりもいられないというのが実感。そして、私は受賞第一作は書かないことにする。」(平成6年/1994年1月・朝日新聞社刊『宮尾登美子全集 第十五巻』「昭和五十四年一月二十一日」の項より)
3度も候補になってようやく受賞したことが気持ちとして割り切れない、というふうにも読めます。そりゃあ落選です、落ちました、と何度も聞かされるより、一度目できれいにとってしまえれば、前田さんもよかったかもしれません。
……よかったかどうかは、誰にもわかりません。前田さんがのちに作家として成功したのは、昭和38年/1963年に前田薫さんと離婚が成立して、翌昭和39年/1964年に宮尾雅夫さんと再婚、徐々に「前田とみ子」のペンネームが削げ落ちていくあいだに、書いても書いても読み捨てられるライター稼業に従事して、やがて新たな筆名(というか本名)で再登場するという雌伏の期間があったからだ、と言い張る人もいるでしょう。
人の人生なんてものは、あとから見ればだいたい結果論です。そこに何の法則も規則もありません。ただ、他人の人生をはたから見ているだけの直木賞ファンにとっては、前田さんが離婚・再婚によるペンネームの変更といういきさつで異なる名前で候補・受賞の両方を経験した、直木賞史上ただひとりの作家となった偶然を、不思議なこともあるもんだなあと面白がるばかりです。
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