柳田俊三…いったん『新青年』でデビューしたものの、すぐに創作は休止。戦後復活するときに別の名前を名乗り出す。
この週末、仙台に行ってきました。
おお、仙台といえば直木賞にとっての第二の故郷! ……と言うほど直木賞と縁があるわけじゃなく、まあ別に普通の観光みたいなものですが、やっぱり旅行に行ったら古本屋に寄らないと気持ちよく帰路につけません。なので仙台でも何軒か回ってみたところ、ふと目にとまったのが『宮城文学夜話』(昭和54年/1979年8月・河北新報社刊)です。
まえがきの記述によると、『河北新報』学芸部の小岩尚好さんが、宮城に関する文学作品や作家に視点を合わせ、ゆかりの人たちに取材して、その背景にあった事情なども紹介している読み物です。新聞に連載したのは昭和53年/1978年1月からで、ずいぶん好評だったと書いてあります。
宮城と直木賞といえば誰でしょう。その当時に出てくる作家はだいたい相場が決まっています。大池唯雄さんです。第8回(昭和13年/1938年・下半期)直木賞を受賞、その後東京に出てくるかどうか迷ったこともあったらしいんですが、けっきょく生まれ故郷の宮城県柴田町に住みつづけ、激しいジャーナリズムの注文の波とかはまったくかぶらず、昭和45年/1970年に死ぬまで、静かで地味な文学活動に終始した歴史小説作家です。
『宮城文学夜話』にも当然、大池さんの話が出てきます。しかしワタクシがビビっと来たのはその章ではありません。宮城にゆかりの歴史小説家として柳田知怒夫さんが取り上げられていたからです。やなぎだ・ちぬお。名前は見たことがあるけど、どんな作家だったのかよく知らない、そんな直木賞候補者は山ほどいますが、柳田さんもそのなかの一人です。
同書の文章を参考にしながら、柳田さんの来歴を書いてみます。明治40年/1907年、群馬県高崎市生まれ。実家は貧乏でしかも子だくさんだったといい、教育にお金をかけてもらうことなど望むべくもなく、高等小学校を出てすぐに働きに出ます。
しかし、これではいかんと思ったのか、働きながら勉学に励んで、教員免許を取得。昭和10年/1935年、28歳で上京し、東京で小学校の教員をしているときに、同じく学校の先生をしていた〈かほる〉さんと知り合って惹かれ合うと、めでたく結婚するところに至ります。まだその頃は、小説は書いていなかったっぽいです。
30歳をすぎて柳田さんが、おれも小説書いてみっか、と決心したのはなぜだったのか。創作を志す動機なんて人それぞれで、しかもはっきり「これだ」と言えるものなどないのかもしれません。要するに、いまとなっては知りようもないんですけど、柳田さんは昭和15年/1940年に『新青年』に小説「蘭医日記」を投稿し、それが9月号で採用されてずぶずぶ文筆への道を探りはじめるのです。
このとき、雑誌には「柳田俊三」という名で載りました。『宮城文学夜話』には「本名は敬三。」と書いてあるんですが、別の資料から鑑みると、本名は「敏三」かと思われます。いずれにしても「俊三」というのは、いちおう筆名だった模様です。
少しずつ小説を発表していったものの、戦争が激しくなって読み物小説界もどんどん縮小されていき、新人作家が活躍できる場も狭まっていきます。その間、柳田さんは疎開で茨城県に移り、石岡女子高校の教壇に立ちますが、戦時中に東京の家は焼けてなくなってしまい、戦争が明けて妻の〈かほる〉の郷里である仙台に転居。そこで仙台市立女子商業高校の教師として職を見つけました。そこから退職まで約20年……、長く仙台に住んだことがこの土地とのつながりです。
いや、長く住んだだけじゃありません。どうやらこの地の水が合ったのか、教師生活をつづけながら古い本やら文献やらに興味を抱き、昔のことを調べるうちにまたぞろ小説を書きたくなって、主に仙台藩の史料から着想を得たガチガチの歴史小説を手がけだします。すると、昭和29年/1954年、そのうちの一編「お小人騒動」が第5回オール新人杯を受賞。その系統の短篇を『オール讀物』とか『週刊朝日別冊』に発表し、それらをまとめた第一創作集『黒白』(昭和34年/1959年2月・穂高書房刊)を刊行したところ、第41回(昭和34年/1959年・上半期)直木賞の候補に挙げられました。そのとき柳田さん51歳。ほかの候補者……渡辺喜恵子さん、平岩弓枝さん、小田武雄さん、土屋隆夫さん、津村節子さん、池波正太郎さんの誰よりも年長のおじさんになっていました。
その後、柳田さんが出した単著は『魚心帖』(昭和37年/1962年12月・アテネウム社刊)の一冊きり。『宮城文学夜話』によれば、長篇は一つもないそうです。
『河北新報』の小岩さんが茅ヶ崎に住む〈かほる〉さんから聞いた言葉が、そこに残っています。
「「柳田は、筆が遅いのです。そばで見ていると、イライラ感ずることがあります。四、五十枚のものであれば、初め八十枚ぐらい書くのです。これを苦しみながらぎりぎり縮めていくのです。こういうやり方ですから、長編は最初から無理だったのです」と苦笑した。」(『宮城文学夜話』より)
この創作姿勢で行けば時間もかかるし、書ける量が限られてしまうのは仕方ありません。結果、柳田さんは流行作家にはならず、いっとき直木賞の候補者リストに名前が挙がってそれっきりの、もはや誰にも読まれない作家になってしまいました。そういう生き方も、全然アリでしょう。
最後に、ペンネームのハナシをしておきます。「知怒夫(ちぬお)」というのは、なかなか他では見かけない名前です。戦争の激化を挟んでいったん創作から離れた柳田さんが、戦後、仙台でふたたび小説を書きはじめたときに付けたはずなんですけど、いったい由来は何なのか。『宮城文学夜話』を読んでも、そこのところは紹介されていませんでした。いつもこんなことばっかり言っていって芸がないですが、柳田知怒夫の名前はどこから来たものなのか、今後の柳田知怒夫研究の成果を待ちたいと思います。
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