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2024年6月の5件の記事

2024年6月30日 (日)

柳田俊三…いったん『新青年』でデビューしたものの、すぐに創作は休止。戦後復活するときに別の名前を名乗り出す。

 この週末、仙台に行ってきました。

 おお、仙台といえば直木賞にとっての第二の故郷! ……と言うほど直木賞と縁があるわけじゃなく、まあ別に普通の観光みたいなものですが、やっぱり旅行に行ったら古本屋に寄らないと気持ちよく帰路につけません。なので仙台でも何軒か回ってみたところ、ふと目にとまったのが『宮城文学夜話』(昭和54年/1979年8月・河北新報社刊)です。

 まえがきの記述によると、『河北新報』学芸部の小岩尚好さんが、宮城に関する文学作品や作家に視点を合わせ、ゆかりの人たちに取材して、その背景にあった事情なども紹介している読み物です。新聞に連載したのは昭和53年/1978年1月からで、ずいぶん好評だったと書いてあります。

 宮城と直木賞といえば誰でしょう。その当時に出てくる作家はだいたい相場が決まっています。大池唯雄さんです。第8回(昭和13年/1938年・下半期)直木賞を受賞、その後東京に出てくるかどうか迷ったこともあったらしいんですが、けっきょく生まれ故郷の宮城県柴田町に住みつづけ、激しいジャーナリズムの注文の波とかはまったくかぶらず、昭和45年/1970年に死ぬまで、静かで地味な文学活動に終始した歴史小説作家です。

 『宮城文学夜話』にも当然、大池さんの話が出てきます。しかしワタクシがビビっと来たのはその章ではありません。宮城にゆかりの歴史小説家として柳田知怒夫さんが取り上げられていたからです。やなぎだ・ちぬお。名前は見たことがあるけど、どんな作家だったのかよく知らない、そんな直木賞候補者は山ほどいますが、柳田さんもそのなかの一人です。

 同書の文章を参考にしながら、柳田さんの来歴を書いてみます。明治40年/1907年、群馬県高崎市生まれ。実家は貧乏でしかも子だくさんだったといい、教育にお金をかけてもらうことなど望むべくもなく、高等小学校を出てすぐに働きに出ます。

 しかし、これではいかんと思ったのか、働きながら勉学に励んで、教員免許を取得。昭和10年/1935年、28歳で上京し、東京で小学校の教員をしているときに、同じく学校の先生をしていた〈かほる〉さんと知り合って惹かれ合うと、めでたく結婚するところに至ります。まだその頃は、小説は書いていなかったっぽいです。

 30歳をすぎて柳田さんが、おれも小説書いてみっか、と決心したのはなぜだったのか。創作を志す動機なんて人それぞれで、しかもはっきり「これだ」と言えるものなどないのかもしれません。要するに、いまとなっては知りようもないんですけど、柳田さんは昭和15年/1940年に『新青年』に小説「蘭医日記」を投稿し、それが9月号で採用されてずぶずぶ文筆への道を探りはじめるのです。

 このとき、雑誌には「柳田俊三」という名で載りました。『宮城文学夜話』には「本名は敬三。」と書いてあるんですが、別の資料から鑑みると、本名は「敏三」かと思われます。いずれにしても「俊三」というのは、いちおう筆名だった模様です。

 少しずつ小説を発表していったものの、戦争が激しくなって読み物小説界もどんどん縮小されていき、新人作家が活躍できる場も狭まっていきます。その間、柳田さんは疎開で茨城県に移り、石岡女子高校の教壇に立ちますが、戦時中に東京の家は焼けてなくなってしまい、戦争が明けて妻の〈かほる〉の郷里である仙台に転居。そこで仙台市立女子商業高校の教師として職を見つけました。そこから退職まで約20年……、長く仙台に住んだことがこの土地とのつながりです。

 いや、長く住んだだけじゃありません。どうやらこの地の水が合ったのか、教師生活をつづけながら古い本やら文献やらに興味を抱き、昔のことを調べるうちにまたぞろ小説を書きたくなって、主に仙台藩の史料から着想を得たガチガチの歴史小説を手がけだします。すると、昭和29年/1954年、そのうちの一編「お小人騒動」が第5回オール新人杯を受賞。その系統の短篇を『オール讀物』とか『週刊朝日別冊』に発表し、それらをまとめた第一創作集『黒白』(昭和34年/1959年2月・穂高書房刊)を刊行したところ、第41回(昭和34年/1959年・上半期)直木賞の候補に挙げられました。そのとき柳田さん51歳。ほかの候補者……渡辺喜恵子さん、平岩弓枝さん、小田武雄さん、土屋隆夫さん、津村節子さん、池波正太郎さんの誰よりも年長のおじさんになっていました。

 その後、柳田さんが出した単著は『魚心帖』(昭和37年/1962年12月・アテネウム社刊)の一冊きり。『宮城文学夜話』によれば、長篇は一つもないそうです。

 『河北新報』の小岩さんが茅ヶ崎に住む〈かほる〉さんから聞いた言葉が、そこに残っています。

「「柳田は、筆が遅いのです。そばで見ていると、イライラ感ずることがあります。四、五十枚のものであれば、初め八十枚ぐらい書くのです。これを苦しみながらぎりぎり縮めていくのです。こういうやり方ですから、長編は最初から無理だったのです」と苦笑した。」(『宮城文学夜話』より)

 この創作姿勢で行けば時間もかかるし、書ける量が限られてしまうのは仕方ありません。結果、柳田さんは流行作家にはならず、いっとき直木賞の候補者リストに名前が挙がってそれっきりの、もはや誰にも読まれない作家になってしまいました。そういう生き方も、全然アリでしょう。

 最後に、ペンネームのハナシをしておきます。「知怒夫(ちぬお)」というのは、なかなか他では見かけない名前です。戦争の激化を挟んでいったん創作から離れた柳田さんが、戦後、仙台でふたたび小説を書きはじめたときに付けたはずなんですけど、いったい由来は何なのか。『宮城文学夜話』を読んでも、そこのところは紹介されていませんでした。いつもこんなことばっかり言っていって芸がないですが、柳田知怒夫の名前はどこから来たものなのか、今後の柳田知怒夫研究の成果を待ちたいと思います。

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2024年6月23日 (日)

能戸清司…小説やシナリオは別の名前で発表してきたのに、最後の最後に本名で小説を自費出版する。

 インターネットが一般的に普及して、もう何年になるでしょうか。いちいち思い出すのも馬鹿らしいので、各自、確認していただければいいんですが、個人的にワタクシにとってのインターネットは、直木賞に関する種々雑多な情報を得るためのツールです。ネットを使うようになってから今にいたるまで、それだけはずっと変わりません。

 ネットを覗くようになって感動したのは、直木賞の候補者リストで名前しか知らなかった人たちが、自分でホームページを立ち上げて、定期的に文章を発信しているところに触れられることでした。何だよ、ネットって天国かよ、とわくわくしながら直木賞(のあれこれを調べる)熱を高めてネットサーフィンに明け暮れていた時代を、懐かしく思い出します。

 そういう中で出会ったのが、能戸清司さんのホームぺージです。名前は「わが日没録 ある名もなき老人の終焉の記」。平成12年/2000年8月15日開設、と書いてありましたので、うちのサイトと同じくらいのスタート時期です。

 すでに高齢だった元・新聞記者の能戸さんが、日々のことや時事問題について、思ったことをつらつらと書き綴るタイプの、そんなサイトだったような記憶があります。ただ、能戸さん自身、平成26年/2014年には死んでしまうので、いまではそんなサイトも残っちゃいません。ワタクシの脳内がつくりあげた夢まぼろしだったかもしれません。

 まあ、「直木賞のすべて」とか「文学賞の世界」だって、ワタクシが死んじまえばあっさりとデータが消されて、どこにも残らない夢まぼろしになるんですから、仕方のないことなんですけど、それはともかくです。能戸さんは、別の名義でむかし小説を書いたことがあり、第44回(昭和35年/1960年・下半期)になぜかポロッと直木賞の候補になったことがあります。小説の世界では当時もいまも、まるで知られていない存在ですが、能戸さん自身はいろいろと著作もあって、有名だったらしい、と能戸さんのホームページを見て知りました。昔の候補者の履歴を調べるのは苦労することばかりなので、自ら発信してくれる人というのはマジでありがたいです。

 能戸さんが何で有名だったかというと、『朝日新聞』に勤める新聞記者として文章の書き方についての指南書をいろいろと出したことが挙げられます。とくに『うまい!といわれる文章はどう書くか』(昭和55年/1980年3月・ベストセラーズ/ワニの本)は、30万部を超えるほどによく売れたと言われていて、ワタクシも若いうちに能戸さんのこういう本に出会っていれば、もう少しうまい文章が書けるようになったかもしれません。能戸さんに言わせると、文章の技術うんぬんより何より、日頃から物事に対して考察を深め自分なりの意見を持つことが、文章を書くうえでの大切な条件らしいです。能戸さんもおそらく、考えることの大好きな、脳みその発達した人だったんでしょう。

 そして何より、能戸さんの特徴は、文章を書いてはそれを公に発表することをやめられなかったことです。

 『朝日』を辞め、文筆業のほうも時代の移り変わりとともに注文も減っていき、もはやあとは死を迎えるのみ、といった年齢になってもなお、能戸さんは自前でホームページをつくって文章を書きつづけます。自分の考えを文章にする。そんなもの、こっそり机の引き出しに入れておけばいいものを、わざわざ誰かの目に触れるように公開する。……何のためにやっているのか。誰のためになるのか。まったくわかりませんが、しかしそれがやめられなかった心境というのは、ワタクシ自身も似たようなものを持っているだけに、そこはかとなく親近感が沸いてきます。

 ホームページだけでは、心もとなくなったんでしょうか。御年90を過ぎて、能戸さんは自費出版のかたちで三冊の本を一気に出版しました。『マゼランの首』『彼方』(ともに平成24年/2012年8月・幻冬舎ルネッサンス刊)、『さらばカルメン ひとりぼっちの反戦抵抗』(平成24年/2012年9月・日本文学館刊)です。

 そのうち『マゼランの首』は、50年以上前に発表した直木賞候補作「夜は明けない」が収められていて、当時の『サンデー毎日特別号』に載ったきりでまず普通には目に触れることのなかったこの作品が、まさかの復活を果たした驚きの一冊となっています。

 ちなみに「夜は明けない」は昭和32年/1957年のマラヤ(マレーシア)が舞台です。長く植民地支配を受けてきたこの国が独立を果たしたその前後、元・日本兵として同地に残り、マラヤ共産党の人民解放軍に参加することになった〈ニキ〉という男と、イギリスの息のかかった独立に反対するマラヤ人たちとの動向を描いています。直木賞のほうではとくに大きな議論となることもなく、あっさりと落とされてそのままになっていた短篇小説でした。

 『マゼランの首』には能戸さんの短い「あとがき」が付いています。

「――自分が望んでもいないのに、大きな世界史の渦に巻き込まれていく人間の儚さ。

 

人生の死に際になって、これまで書き続けてきた文章をまとめておきたくなった。だれに読んでもらうためでもなく、生きていたことへのあかしとして。」(『マゼランの首』「あとがき」より)

 「だれに読んでもらうためでもなく」と言いながら、お金をはたいて一冊の本にするのは、やはり他の誰かに読んでもらいたかったからではないか。……そう思うんですけど、このあたりの面倒くさい心理は、文学の世界(いや、人間の生きているすべての社会)ではよく見かけます。はっきりと物を言い、端正な文章ばかりを書いていた能戸さんですが、やっぱり面倒くさい一面も、たしかに持っていた人なんでしょう。

 ところで直木賞の候補になったときの筆名、能戸さんが小説やシナリオを書くときに使っていた筆名「木戸織男」を、どうして最後に捨てて、能戸清司名義で小説集を出したのか。そのあたりの心の移り変わりも、面倒な人間心理が影響したんだろうと思われます。

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2024年6月16日 (日)

前田とみ子…離婚と再婚を経るうちに、異なる名前で再出発。

 一人の同じ作家であっても、名前が一つしかないとはかぎりません。直木賞の歴史は無駄に長いですから、一人の人物がちがう名前で候補になった、という例もいくつか挙げることができます。これから一年のあいだに、そういう人のハナシもポツポツと差し挟んでいこうと思います。

 まずは何といってもこの人。前田とみ子さんです。

 昭和37年/1962年、中央公論社『婦人公論』がやっていた公募の新人賞、女流新人賞を「連(れん)」でとり、それがそのまま直木賞候補になりました。

 このブログでは何度も言っていることではあるんですけど、ここで注目したいのは『婦人公論』に載った小説をあっさり候補に挙げてしまった直木賞の鷹揚さです。同じ第48回(昭和37年/1962年・下半期)では山口瞳さんの読み物風の小説も候補になりましたが、そちらは『婦人画報』に載ったものでした。

 婦人雑誌に出た小説を、文学賞の候補に選んでしまう。「直木賞は大衆文芸の賞だ」と言い張って、中間小説誌とかエンタメの単行本とか、そういうところにばかり目を向けるような、凝り固まった事業ではなかったところが、ワタクシが直木賞のことを大好きな、最も大きい理由です。

 あとから振り返ってみれば、前田さんの作品が直木賞の候補になってもとくに違和感はありません。だけど、どうなるかわからない昭和38年/1963年の段階で、よくも当時の文藝春秋新社の人たちは、直木賞の予選を通過させたよなあ、と感心します。悔しかったら、おまえも婦人雑誌の小説を候補にあげてみろよ、芥川賞! ……と、直木賞ファンとして優越感にひたれる数少ない機会をつくってくれた人。それが前田とみ子さんです。

 前田さんは、後年むちゃくちゃ売れる作家になって、全集まで出てしまい、近年になっても評伝的な作品がいくつか出ています。ですので経歴的なことはバッサリ省きますが、高知に住む36歳の一人の女性が、女流新人賞をとったことは地元ではかなりの話題になったことだけは言っておかなきゃなりません。

 大島信三さんの『宮尾登美子 遅咲きの人生』(平成28年/2016年10月・芙蓉書房出版刊)には、「一夜で環境が一変した。」と書いてあります。高知にあったありとあらゆるメディアがいっせいに前田さんのところに取材に訪れ、外出すれば、あのひと、新聞に出ていた女流作家よね、と顔をさされる日々。地元の有力者が語らって祝賀会がひらかれ、他にも受賞を祝う集まりがいくつも開催された、と大島さんは紹介しています。

 林真理子さんの『綴る女 評伝・宮尾登美子』(令和2年/2020年2月・中央公論新社刊)にも、当然、女流新人賞をとったあとの大騒ぎのことが出てきます。「女流新人賞受賞時の地元の熱狂ぶり」と表現されていて、とにかく当時の中央公論社や『婦人公論』というのは権威があった、しかも高知の人たちにとって東京から出ている雑誌の新人賞をとったことは、とてつもなく大きく、新人賞をとって数年のペエペエの新人作家に『高知新聞』が連載小説を依頼して「湿地帯」が載ったのも、その大きさの表われのひとつだった、ということです。

 こういうのを読むと、徳島の中川静子さんのことを思い出してしまいます。中川さんもまた、オール讀物新人賞を受賞して、東京の出版社から期待されて上京、どうにか職業作家の道を歩もうと努力しますが、けっきょくうまく行かずに帰郷しました。他にも、昭和30年代、40年代、こういった例はたくさんあったものと思います。ひまな人は誰か調べてみてください。

 それはそれとして、前田さんの直木賞候補についてです。「連(れん)」が『婦人公論』に掲載されたのが昭和37年/1962年11月号。翌年1月、直木賞の選考にかけられ、ほとんどあっさりと落選しました。それから14年たった2度めの候補のときのことや、さらに2年後の直木賞受賞のときのハナシは、以前うちのブログでも書いた気がします。『全集』に収められた日記、そのほかのエッセイなどもあって取り上げやすいんですけど、では初めて候補になって、高知の家で連絡を待っていた1回目の候補のときは、どんなふうだったのか。……よくわかりません。

 かつて引用したかもしれませんけど、いちおうご本人が「連(れん)」の直木賞候補のことを書いている、公開された日記の一部を引いておきます。

「考えてみれば、直木賞の候補はこれで三度目。一回目は『連』のとき。二回目は『陽暉楼』。『一絃の琴』でやっと当選。なんだか割り切れぬ気持ちがあり、浮かれてばかりもいられないというのが実感。そして、私は受賞第一作は書かないことにする。」(平成6年/1994年1月・朝日新聞社刊『宮尾登美子全集 第十五巻』「昭和五十四年一月二十一日」の項より)

 3度も候補になってようやく受賞したことが気持ちとして割り切れない、というふうにも読めます。そりゃあ落選です、落ちました、と何度も聞かされるより、一度目できれいにとってしまえれば、前田さんもよかったかもしれません。

 ……よかったかどうかは、誰にもわかりません。前田さんがのちに作家として成功したのは、昭和38年/1963年に前田薫さんと離婚が成立して、翌昭和39年/1964年に宮尾雅夫さんと再婚、徐々に「前田とみ子」のペンネームが削げ落ちていくあいだに、書いても書いても読み捨てられるライター稼業に従事して、やがて新たな筆名(というか本名)で再登場するという雌伏の期間があったからだ、と言い張る人もいるでしょう。

 人の人生なんてものは、あとから見ればだいたい結果論です。そこに何の法則も規則もありません。ただ、他人の人生をはたから見ているだけの直木賞ファンにとっては、前田さんが離婚・再婚によるペンネームの変更といういきさつで異なる名前で候補・受賞の両方を経験した、直木賞史上ただひとりの作家となった偶然を、不思議なこともあるもんだなあと面白がるばかりです。

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2024年6月 9日 (日)

稲垣史生…50歳を迎えて思うところがあり、また別の名前を(一瞬)使い出す。

 なぜ人は小説を書くんでしょうか。

 ……そんなもの、理由や動機は人によってまちまちです。「これだ」と確実に言えることなど、一つもありません。愚問というか、無意味というか、そんなことを考えるより、じっさいに書かれた小説を鼻くそほじくりながら読みあさるほうが、なんぼかマシでしょう。

 それで今週取り上げる稲垣史生さんですが、時代考証の世界に燦然と輝く伝説的な偉人、こまかい地味な仕事を何十年にもわたって続けたという、ある種の狂人でもあります。昔の日本の暮らしや制度、文化や芸術をあさって調べて、コツコツとそれを文章などに書き残し、歴史ドラマや小説などでおかしな点を見つければ、それは違う、事実はこうだ、と重箱の隅をつつきながら収入を得ていた人です。そんな人がどうして自分でも小説を書こうと思ったのか。……よくわかりません。

 ものの本によりますと、稲垣さんは明治45年/1912年5月の生まれ。付けられた名前は稲垣秀忠と、奇しくも(あるいは意識的にか)徳川二代将軍と同じ名前でした。出身地は富山県東礪波郡出町、いまでいう砺波市の中心部で、実家は街で古くから「唐津屋」という陶器店をやっていたお家柄。旧制砺波中学から早稲田の高等学院に進み、そのまま大学も早稲田に進んで昭和11年/1936年、早大文学部国文科を卒業します。

 その年、都新聞社に入社すると社会部に配属され、怒濤の新聞記者生活が始まりますが、どうやらすでに歴史への関心、あるいは文学への興味をどっさり抱えていたらしく、ものを書くにも蘊蓄の一つや二つを挟まなければ済まない、なかなかの自信家ぶりを発揮。昭和15年/1940年には、日本がよそさまの国に我がもの顔で侵略するのに合わせて、稲垣さんも海を渡り、満洲、北支、蒙彊を旅したのちに、その成果を小説のかたちでいくつか書いたりします。およそ齢は20代から30代。小説を書いていきたかった人のにおいがぷんぷんです。

 そこで付けた筆名が「稲垣史生」という名前です。どうやらこの名にこだわりがあったようで、その後、終生使いつづけました。

 しばらくのあいだ小説も「史生」名で書いていたんですけど、戦後になって新聞・出版の裏方をしながら時代小説、時代読み物を書くうちに、いっちょまじめな歴史物を書いてやろうじゃないか、と思い立ったのかどうなのか。また別の筆名を持ち出してきて小説を執筆すると、第19回(昭和36年/1961年度下期)のオール讀物新人賞で「雪の匂い」が佳作にとられ、翌第20回では「花の御所」が見事、受賞に輝きます。

 おそらくこの当時の、稲垣さんの創作熱の高まりは、「花の御所」を収めた単行本『花の御所』(昭和38年/1963年2月・光風社刊)の「あとがき」に表われているものと思います。御説、拝聴いたしましょう。

「七年の新聞記者生活や海軍報道班員としての活動、それから戦後のめまぐるしい変転を経験し、やっとものを考える時間的な余裕を得て、そして書いたのがこの四篇(引用者注:「人質槍」「折焚く柴の記」「金閣寺伝奇」「花の御所」)です。何か訴えるものがあるとすれば、過去の経験の中で、いちばん痛切に感じたものの流露かも知れません。

四篇とも三十七年ちゅうの執筆です。(引用者中略)この年の五月、私はまた「戦国武家事典」を出したのですが、その資料を四篇の作品ちゅうに大いに使いました。したがって、テーマに資料に、今まで私の蓄積し来ったものを、ここに作品化したとも云えるでしょうか。」(『花の御所』「あとがき」より)

 稲垣さん、年はちょうど50歳を迎える頃合いです。人が過去を振り返り、ついつい先のことを考えて、いまのうちに何かしておかなくちゃな、と切実に思い悩む年代……といえば年代です。

 オール讀物新人賞を受けた「花の御所」は、『オール讀物』編集部の熱い推薦(ないしはコネ)で、そのまま第48回(昭和37年/1962年・下半期)直木賞の候補にまで選ばれます。しかしこの回は山口瞳さんの「江分利満氏の優雅な生活」はまだしも、杉本苑子さんの『孤愁の岸』という、ド級に熱のこもった長篇歴史小説が対抗馬にいたものですから、稲垣さんの作品など出る幕もなく、お歴々の選考委員から難クセのような手厳しい選評を受けて、あっさり落選。なかでも大佛次郎さんが「辞典や調査の煩わしい仕事をすこしお休みなさい。」(『オール讀物』昭和38年/1963年4月号)と書いているのが、やさしさなのか、無茶ぶりなのか、わかりませんけど、もっと小説に本腰を入れたらどうですか、という親切なアドバイスだったのは間違いありません。

 しかし稲垣さんがそれをどこまで受け入れたか、というと、どうもあまり聞き入れた感じがありません。一瞬使った「稲垣一城」の名前は、知らないあいだに見なくなり、時代考証家・稲垣史生のほうが前面に打ち出され、そのまま暴走老人、突っ走りました。

 50歳にもなれば、人はあまり他人の言うことを素直に聞かなくなりますからね。小説だけが人生じゃなし、自分の信じた道を進んで、それはそれでよかったんだと思います。

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2024年6月 2日 (日)

一色次郎…長年使ってきた本名が気に入らずに、筆名をつけたら文学賞を受賞。

 一般的に「別の名前」というと何でしょうか。物書きの世界では、本名とペンネーム、という組み合わせが真っ先に思い浮かびます。

 本名で本職に従事している人が、会社にバレないように、あるいは別の人格になりたくて、あるいは、他人には想像のつかないその人だけの事情があって、ペンネームで小説を書き始める……。よくあるハナシです。

 直木賞の歴史のなかでも、そういう人はたくさん登場してきました。いちいち取り上げていたら、それだけで一年間が経ってしまいそうです。ただ、その例を除いてしまうと、とうていネタが持ちそうにないので、少しずつ取り上げていくことにします。

 まずはこの人。「一色次郎」さんです。

 ケースとしては稀かもしれません。もとは本名で活動していて、その名前で直木賞の候補にも挙がりましたが、一般に知られる作家にはなれなかったところ、筆名を「一色次郎」として心機一転。すると昭和42年/1967年に第3回太宰治賞をとってしまい、一気に運がひらきはじめて、そちらの筆名のほうで文筆業をまっとうしました。筆名を変えて(新しく付けて)成功した例、と言っていいでしょう。

 鹿児島県沖永良部島生まれ。3歳のとき父が八合事件で検挙されて獄中で死んでしまったのを機に、一家で鹿児島市内に移住。しばらくそこで生活します。父方の叔母が熊本に嫁いでいた関係で、昭和9年/1934年から昭和10年/1935年、同地で暮らし、そのあいだに雑誌や新聞に文章を発表、私家版で創作集も一冊出しますが、それで何がどうなるわけでもなし。からだを壊して鹿児島に帰郷、しかしどうしても小説家になりたいという夢があきらめ切れず、昭和12年/1937年、21歳で東京に出てきます。しかしそこからがさらなる地獄の始まりです。そう簡単に陽の目を見る機会は訪れず、職を転々とし、先の見えない窮乏と苦難の人生が幕を開けます。……といったことは、うちのブログで何かのときに書いた気がします。

 昭和24年/1949年、『三田文学』に短篇「冬の旅」が掲載されます。本人によれば、それが自分の文学作品がはじめて活字になったものだということです。ずいぶんと周囲でも評判がよく、おそらく誰かに推薦されて第22回(昭和24年/1949年・下半期)直木賞の候補にまで残ります。しかし受賞はできません。

 この頃、一色さんは33歳で家族持ち。何の賞も受けなかったけれど、やっぱりおれは筆一本でやっていきたいんだ、と(おそらく)雄叫びを上げて文筆の生活に入ります。基本は売り込みと注文原稿をこなす、いわゆる売文の日々です。とくに子供向けの伝記・読み物の類いに需要が多く、一色さんも日本児童文芸家協会の会員として数多くの児童書を手がけました。

 一色さんが2度目の直木賞候補になったのは第45回(昭和36年/1961年・上半期)のことです。最初の候補から10数年。今度は『西日本スポーツ』に連載した「孤雁」という時代小説で、まあ一色さんが目指した文学的な作品とは大きく距離を隔てた、剣豪ものの小説です。面白いことは面白いが、うーん、これでは文学賞はあげられないな、と選考会でも厳しい意見が議場を飛び交い、やっぱりここでも一色さんは浮上できません。

 ここまでやってきて、そろそろ50の声を聞く年代です。どうも、おれの本名がよくないんじゃないのか、と自分の名前にせいにしてしまったのは、一色さんとしてもワラをもすがる苦し紛れの発想だったかと思います。考えてみれば、昔からおれは自分の名前が好きじゃなかったんだ、といよいよそこまで思いつめ、名前を変えることを決心します。

「父が得意になってつけたのであろう典一の内、典の字が特に気にくわない。ある気まぐれに辞典を引いてみたら「典の字には、質草あるいは質へ行くという意味がある」と書いてある。トンデモナイ話だ。これでは、いつまでたっても、うだつが上がるわけがない。大屋の字にしてもそうだ。小屋みたいなところに住んでいて、大屋でもあるまい。」(昭和43年/1968年6月・大和書房刊『わが人生の遍歴 古里日記』所収「筆名」より)

 こじつけといえば、こじつけです。姓名判断なんてものは、多かれ少なかれ、眉つばモノのこじつけだ、と言ってしまえばそれまでです。

 いったい名前が悪かったのか。それとも、文学の主流・王道とは別のところを走っている直木賞なんてものの候補に挙げられたのが、いけなかったのか。どっちにしても結果論ですけど、一色さんは新しい筆名を考えました。「一色」は、少年時代に少しだけ住んでいた兵庫県一色村にちなんだもの。「次郎」は、人生うまくいかずに事業に失敗して死んでいった祖父の名前をそのまま拝借した、ということです。

 昭和42年/1967年、50歳をすぎて太宰賞を受賞できたのは、付けた筆名がよかったからだ。……というのは、さすがに無理があります。ただ、そのおかげで「直木賞候補者」として語られることがほぼなくなり、「太宰賞受賞者」の肩書きがつきました。直木賞より太宰賞。一色さんにとっても本望だったことでしょう。

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