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2024年5月19日 (日)

村上さだ(逓信技師の妻)。おれ作家になる、と言った息子のことを喜んで支援する。

 人サマの親がどんな人だったのか。調べていてもキリがありません。ちょうど「直木賞と親のこと」も今週で50回目です。ここらで打ち止めにしたいと思います。

 ということで最後に取り上げる直木賞の候補者なんですが、またまた大昔の作家ですみません。第12回直木賞(昭和15年/1940年下半期)を「上総風土記」その他で受賞した村上元三さんです。

 受賞しただけではなく、第32回(昭和29年/1954年・下半期)から第102回(平成1年/1989年・下半期)まで、長きにわたって選考委員を務めました。重鎮中の重鎮ですから、何だかんだと、うちのブログでも触れてきたような気がします。けっきょくまた以前取り上げたことを蒸し返すだけになるかもしれません。

 それはともかく村上さんも、直木賞を受賞するまでの人生には、親のことが色濃く漂っています。いまさら、こんな人物の生涯を振り返って何になるんだ。その意味はまったくわかりませんけど、最後のエントリーもまた、何ひとつ結論めいたことのない直木賞受賞者の親のハナシです。

 父は村上慶治。生まれた年は不明で、くわしい生い立ちもわかりませんが、慶治さんの父親はもともと盛岡藩の武士だったそうで、幕末から明治維新を経験し、九州で起きた西南の役にも参加した人です。息子の慶治さんはそれとは違って技術畑の道に進み、逓信技師となって国からお給金をもらう公務員になります。

 手に技術のある人は、たいてい引く手あまたで大忙しです。慶治さんも日本全国いろいろと異動させられ、せわしない日々を送りますが、ちょうど北海道の函館に赴任していた頃、現地でずきゅんと恋に落ちちゃいます。お相手は、函館の網元の娘として生まれた豪傑お嬢、〈さだ〉さんです。

 〈さだ〉さんもまた詳しい履歴はわかりません。元三さんの書くところによれば、〈さだ〉さんの実家は函館の網元「福島屋」で、跡取りとなる息子がいなかったために会津藩の武士で函館に渡った佐久間千代美さんが、そこに婿に入るかたちで家を継ぎ、家付き女房〈やお〉さんとのあいだに6人の子をなします。それがすべて女の子だったらしく、上から2番目が〈さだ〉さんだった、とのことです。

 ともかく慶治さんと〈さだ〉さんはめでたく恋愛を成就させて、一つの家庭をつくります。変わらず慶治さんは転勤が多く、〈さだ〉さんといっしょに引っ越しの繰り返し。そのあいだに和子さん、英雄さん、と子供が生まれますが、逓信官吏として海を渡り、明治43年/1910年3月、日本の支配が強まる朝鮮半島の元山府に移ったところで生を受けた男の子が元三さんです。元山で生まれた三男だから「元三」と名づけられたのだ、と伝わっています。

 家族とともに幼い元三さんも、いくつもの土地で、少し住んではまた転居する、という生活を送ります。京城、大阪、樺太・豊原……。元三さんが中学に進む頃には東京にやってきて、渋谷の宮益坂に住むことになり、元三さんは青山学院中学部に入学しました。

 ところが慶治さんが何を血迷ったか、役所を辞めて自分で事業を興すことを決意します。その辺り、事情はよくわかりませんけど、おそらくは慶治さんも50歳前後、思うところがあったに違いありません。元三さんが中学部を卒業した昭和3年/1928年に、家族をひきつれて静岡県の清水市に引っ越し、そこで製材製函業を始めます。

 しかし、そう簡単に商売がうまくいったら、日本じゅう億万長者だらけになっちゃいます。慶治さんの事業は苦難の連続で、次第に経営も傾き出し、村上家ジリ貧に陥ります。そうだ、おれには海の向こうに手づるがある、ちょっと行って資金を調達してくるわ、と慶治さんは言い残し、勝手に一人で朝鮮に行ってしまいます。元三さんの兄や姉は、結婚したり独立したりしてすでに家にはおらず、残されたのは〈さだ〉さんと、元三さん、その妹・美代子さんの3人きり。もはや慶治さんを頼ることはできません。

 元三さんだいたい20歳ごろから数年にわたるこの時代が、経済的にも精神的にも最も苦しい頃だった、といまからみれば推察されます。どうにかなるのか、おれの人生。一家3人で浅草のアパートに一室を借り、自分でも働けるところはないかと仕事を探す日々を送ります。

 そんなときに見かけたのが『サンデー毎日』に載っている大衆文芸懸賞の募集記事です。入選すれば賞金300円。当時としては魅力的な額です。ここで元三さんは腕試しのつもりで小説を書き、昭和9年/1934年、書き上がった「利根の川霧」を編集部宛てに送ります。残念ながら入選はしませんでしたが、選外佳作15編のうちの一つに残り、恒例の増刊号「新作大衆文芸」に掲載されると、それが映画会社の目にとまったおかげで、映画の原作料というかたちで100円を手にすることができました。おっ、おれやれるかも。むくむくとやる気がみなぎる元三青年。

 つづいて半年後に応募した「近江くづれ」も、大衆文芸懸賞で選外佳作に入り、いよいよ元三さんは作家になることで身を立てようと考えます。大衆文芸の選者だった千葉亀雄さんを新聞社に訪ねて相談したところ、お母さんに相談してみて、了解が得られるのなら、ぜひとも挑戦してみるといい、と背中を押されたので、家に帰って〈さだ〉さんに自分は小説でやっていこうと思う、と告白。すると〈さだ〉さんは笑顔をみせて、「わたしも貧乏してもいいから、しっかりおやり」と手放しで賛成し、なけなしのお金をはたいてその晩の食卓に、鯛ならぬ尾頭つきの青魚を出して門出を祝してくれたのだ、ということです。いいハナシです。

 ちなみにその後〈さだ〉さんは、息子の直木賞受賞を知ることなく、昭和13年/1938年3月5日、病であの世に旅立ちます。朝鮮に行って行方知れずだった父の慶治さんは、昭和19年/1944年になって帰国、子供たちとも再会しますが、健康状態は最悪で、病院に行ったところ肺の病気との診断です。鎌倉の療養所に入所して様子を見ますが病状が悪化し、その年の11月に亡くなりました。

 ということで、両親のうち、元三さんが作家になるまでの歩みで重要なのは、やはり母の〈さだ〉さんの存在だったかと思います。直木賞とは直接の関係はありません。しかし、〈さだ〉さんは小説を読むのも大好きな人だったようで、元三さんが直木賞を受賞して出版した単行本『上総風土記』(昭和16年/1941年5月・新小説社刊)にも、しっかりとその痕跡を残しています。

 「あとがき」にこうあります。

「直木賞審査の総評の中に、僕を才気のある作家だといふのと、鈍根の作家だといふのと、二通りあつた。どう自惚れて見ても、僕には才気はない。鈍根の方が當つてゐる。

僕にとつて良き批評家であつた母が、いつも云つてゐた。

「お前の書くものは、がさがさしてゐて、ふんわりした處が無いし、ちつとも色氣が書けてゐない」

その母が亡くなつてから、丸三年経つのに、僕はまだ母の註文したやうなものが書けないでゐる。この本を佛壇に供へる時、僕は面目なくて、今にうまくなるから、と母に詫びるよりほか仕方がない。」(『上総風土記』「あとがき」より)

 この忌憚のない批評が、肉親の愛ですよね。直木賞の選評で、村上さんに才気があるとのたまった某氏(……吉川英治さんです)より、母親〈さだ〉さんの言葉のほうに、ここでは軍配を上げておきたいと思います(って別に勝ち負けじゃないか)。

          ○

 「直木賞と親のこと」、もっと取り上げなきゃいけない作家や親のエピソードは残っていそうな気がしますが、これでやめておきます。来週からはテーマを変えて……といっても、別に新鮮なことは何ひとつ書けやしないんですが、ひきつづき直木賞に関するようなことを書いていくつもりです。

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