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2024年5月12日 (日)

岡田次郎蔵(町人学者)。息子が新聞記者の入社試験を受けたことを、ことのほか喜ぶ。

 エッセイも小説も、だいたいが紙一重です。自分の身の回りのことを語っていて、ほとんどエッセイ=随筆のように見えるのに、あえて「小説」と銘打っているものもあります。境目があるようでないような、よくわからない世界ですけど、正直、読者にとってはどっちでもいいです。

 直木賞史上、奇跡の復活を果たしたナニワの硬骨新聞記者、岡田誠三さんは、昭和50年/1975年3月に出した『定年後』(中央公論社刊)がその復帰作です。これも中身はほとんど実際にあったハナシを自分の視点で描いているエッセイではあるんですけど、ときに「自伝小説」「私小説」と呼ばれ、ときに「ノンフィクション」とも呼ばれる、相当分類の難しい一作でした。さすが「報道小説」なる意味不明な角書きを付された作品で直木賞をとった人だけのことはあります。フィクションもノンフィクションも、すべてはいっしょくたです。

 それで岡田さんといえば、やはり親への関心が強烈に全身に宿っていた物書きと言っていいでしょう。

 『定年後』のなかにも、たびたび「大阪の奇人」と呼ばれた父親が出てきます。この作品が話題となって売れたあと、次の作品の『自分人間』(昭和52年/1977年1月・中央公論社刊)その父親を題材に選んでいるところからも、誠三さんがいかに父親と向き合いたがっていたのかがわかります。と言いますか、『定年後』の献辞には「この一書を故上野精一翁と亡き父母の記憶に捧げる」とありました。よくよく親のことが書きたかった人なのは間違いありません。

 父は岡田次郎蔵。号は播陽。明治6年/1873年11月6日(10月15日とする文献もあり)生まれ、昭和21年/1946年4月22日没。出身は兵庫県印南郡大塩村で、実家は田舎の村にありながら書画や俳諧を趣味とする村夫子の構えをなしていたらしく、次郎蔵さんもそういう空気を吸いながら育ちます。

 しかし、絵とか文とかにかまけていたって、おなかは膨れません。本を買ったり絵にお金をつぎ込むうちに家運も傾きかけ、これじゃ駄目だと危機感を抱いたのが、次郎蔵さんの父親、良太郎さんです。おまえらは小学校を出たら商売の勉強をしろ、と子供たちに言い聞かせ、次郎蔵さんもまた高等小学校を終えると、よそに奉公に出されます。

 数え十一のときに次郎蔵さんが奉公先に選んだのが、兵庫にあった北風荘右衛門のお店です。なぜそこなのか、といえば、北風家はかつて大塩事件に関係したことがあったからで、当時すでにこの事件に興味を持っていた次郎蔵さんが、平八郎のことを知る書類が店のどこかに眠っているのではないかと期待して、わざわざ奉公先をそこにしたのだ、と言います。結果、めぼしい資料は残っておらず、翌年、次郎蔵さんは大阪に移って「えり富」という古着屋に勤めることになりました。

 少年から青年へ。10代から20代を「えり富」の店員として過ごします。その間も学問や芸術にはずっと関心を持っていたはずですが、趣味ばかりにうつつを抜かしている余裕はなく、ともかく働かなければ生きてはいけないのは、いつの時代も同じです。古着屋の丁稚として次郎蔵さんも人並みに労働に従事します。

 次郎蔵=播陽さんのことは、誠三さんの息子、岡田清治さんがホームページ「人生道場 独人房」のなかで紹介されています。清治さんには昔、『消えた受賞作』をつくるときに大変お世話になりましたが、その後お元気でしょうか。とそれはともかく、ここで『大塩公民館たより』を引用するかたちで掲載された経歴によれば、朝鮮・支那に遊学したり、十合呉服店に入ったりと、独立するまでにいろいろと経験を積んだ模様です。若いうちは何でもやっておいたほうが、そりゃあいいと思います。

 そこに紹介されている年代と、誠三さんが『自分人間』で書いている内容には、多少の食い違いもあるんですが、『大塩公民館たより』のほうを活かして書いておきますと、心斎橋筋に自前で「播磨屋呉服店」を開店したのが明治29年/1896年のこと。許嫁となる相手はすでに決まっていて、良太郎さんの弟にあたる人が京都で三代清風与平となった清水焼の陶磁家で、そこに生まれた娘と大きくなったら結婚させる、と両家で話し合われていたそうです。二つ年下のその娘さん、玉さんと次郞蔵さんは結婚します。明治31年/1898年のことでした。

 二人のあいだには長く子供ができませんでしたが、長男の良一さんが生まれたのが明治41年/1908年。次郎蔵さんが数え36歳のときのことです。その後、明治44年/1911年に修二(早世)、大正2年/1913年に誠三、大正3年/1914年に實(早世)、大正5年/1916年に照子と設けますが、とくに次郎蔵さんは長男にむちゃくちゃ高い期待をかけたようです。うちの子供だ、頭がいい、そうに決まっている、と根拠がありそうでなさそうな親バカぶりを発揮。遊びほうけて成績が悪けりゃ頭ごなしに叱り飛ばしたりして、そうこうするうちに良一さんはグレて家にも寄り付かなくなります。まあそりゃそうだよね、といった感じです。

 家業の呉服店はしばらくは順調に経営がまわっていましたが、景気は上がったり下がったり、安定したものでもありません。大正末期から昭和初期の社会的な不況に次郎蔵さんとこも堪えることができず、昭和3年/1928年に店を畳むことになります。そのとき次郎蔵さん、数え56。もう好きなことだけで生きていくぜ、と大塩平八郎の系統をひく陽明学を中心にいろいろと調べては、物を書いて発表する町人学者として生きていきます。

 直木賞ができたのが昭和9年/1934年12月。いちおう世間ではあまり話題にならなかった、と信じたがる人もいるみたいですけど、そうは言っても、知っている人は知っている、多少の知名度はある文学賞としてコツコツと運営されていました。大阪に住み、終戦まぎわの昭和20年/1945年にふるさとに転居した次郎蔵さんが直木賞のことを知っていたのか。知っていた可能性は十分にあります。

 ただ、そんな回想は息子・誠三さんの書いたものにはまったく出てきません。誠三さん自身、自分が直木賞を受賞したと知ったのは、昭和19年/1944年8月、従軍先のマニラで新聞に出ていたのを見たときだったそうです。戦時中に、多少でも受賞記事が新聞に載っちゃうのが、直木賞のなかなか油断できないところですけど、だとすれば次郎蔵さんが日本で新聞を見ていたときに、おお、うちの息子が直木賞だ、と見かける機会がなかったとも言い切れません。

 見ていれば、そりゃあ嬉しがったでしょう。『自分人間』にこんな記述があるぐらいです。

「父は、私がある新聞社(引用者注:朝日新聞)の入社試験を受けたことを心から喜んだ。播陽の談話や、その延長のような著書の中での発想が多分にジャーナリスティックなところから推しても、彼自身が新聞記者になりたかったかも知れない。」(『自分人間』より)

 いや、直木賞を受賞したことより、報道の成果としての作品が世に認められたことを、新聞記者になりたがったかもしれない次郎蔵さんは喜んだんじゃないか、と想像します。しかし、もし息子の直木賞を知っていたら、そのことを誠三さんが何かに書き残していないわけがなく、けっきょく知らないまま死んでいったのかもしれません。

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