« 木村荘平・稲垣アキ(牛鍋屋経営者と妾)。女好きと、向こう気の強さを受け継いだ息子が、直木賞をとる。 | トップページ | 岡田次郎蔵(町人学者)。息子が新聞記者の入社試験を受けたことを、ことのほか喜ぶ。 »

2024年5月 5日 (日)

宮城谷さだ子(みやげ物屋)。姓名判断、見合い話などをお膳立てして、息子の運を切りひらく。

 長生きすると、それだけいいことがあります。

 というのは、もちろん一面的な見方でしかなく、いいことがあれば悪いこともある、長生きしようが若死にしようが、それが人の人生です。何ゴトも一概には言えません。

 ただ、長く生きていると、思わぬ場面に出くわすチャンスが増えるのは明らかでしょう。自分の息子がまさか直木賞なんてものをとる日を目のあたりにできるのは、その父親だか母親だかが長生きしたおかげです。

 今日取り上げようと思う宮城谷昌光さんの母親も、宮城谷さんが直木賞を受賞した平成3年/1991年ごろにはたしかに存命中でした。息子の昌光さんはそのとき46歳のいいオジさんで、数年前まで文壇ではほとんど知られていない無名の人でしたが、それが一気に高い評価を受けて、新田次郎文学賞をとるは、直木賞をとるは、急激に歴史小説の雄として持ち上げられてしまったんですから、宮城谷さん本人はもとより、詳細はわかりませんが、お母さんのほうもおそらく驚いたのではないかと思います。

 詳細はわからない、と書きました。ワタクシもさすがに宮城谷さんの母親のことは、そこまで細かくは知りません。いつものように宮城谷さんが少しずつ書き伝えてくれている、自身の来歴などからつなぎ合わせてみようと思います。

 宮城谷さだ子。生まれはおそらく大正4年/1915年頃。愛知県豊川市に本家がある宮城谷一族の分家のひとつに生まれたらしく、姉が二人いました。大正から昭和のはじめ、どのようにさだ子さんが過ごしたのか。息子の昌光さんもほとんど聞いたことがなく、もはや真相は藪の中です。

 太平洋戦争が起こった昭和16年/1941年当時、さだ子さんは東京にいて、兜町の証券会社で働いていたと言います。沙羅双樹さんの小説に出てくるような世界ですね。しかし戦火が激しくなってきたのを逃れるためにか東京を離れて、姉が旅館をしていた愛知県宝飯郡三谷町に引っ越します。じきに30歳になろうという頃合いです。

 いったいそこで何の縁があったのか。地元の蒲郡で綿織物をつくったり卸したりしていた広中喜市さんという男性と通じ合い、一つの命を身に宿します。広中さんは明治30年/1897年ですからさだ子さんとは20歳近くも離れていて、すでに妻もあり子もある身の上です。果たして二人に何があったのか。これもまたすべては藪の中です。

 いまだ戦争の続く昭和20年/1945年、さだ子さんは一人の男児を出産しました。名前は誠一。のちに姓名判断で「昌光」と筆名をつけることになる、アノ宮城谷さんです。

 母ひとり子ひとり。のちにさだ子さんは、もう一人子供をなしたそうですけど、いわゆるシングルマザーというやつです。戦後の食糧難にもめげず、三谷町で「若竹」という旅館を切り盛りし、かわいい我が子の成長を見守りますが、昭和28年/1953年、旅館が倒産。悪い人にだまされたか、そそのかされたか、例のごとく事情はわかりませんけど、泣く泣くさだ子さんは我が子を連れて、同じ三谷町内で転居します。

 ところが、そのさだ子さんに、またまた商売を始める話が舞い込みます。いや舞い込んだんじゃなくて、さだ子さん自身が企画したのかもしれません。昭和30年/1955年、三谷町にあった三谷温泉に新たな温泉が湧き、街じゅう大賑わいのお祭り騒ぎ。さだ子さんも、その温泉地でみやげ物屋の売店を始めることになったのです。それがだいたい40歳すぎ。新たなチャレンジです。がんばれ、さだ子。

 その後、きちんと子供を学校に行かせ、商売をつづけたさだ子さんは、もちろん無名な人なんですけど、やはり直木賞(の周辺)に現れた偉人のひとり、と言っていいんでしょう。東京の大学を出て、雑誌編集とかやくざな仕事に就いた息子のために、知り合いから持ち込まれたお見合いのハナシをどうにか受けさせ、宮城谷さんに聖枝さんという伴侶を見つけさせるきっかけをつくったのも、さだ子さんです。

 「きっかけ」といえば、誠一という名で成長し、『新評』編集部で働いていた宮城谷さんが「昌光」と名乗りはじめるそもそもの場面にも、やはりさだ子さんがいたそうです。

「現在のペンネームを使い始めたのもこの年(引用者注:昭和47年/1972年)からです。蒲郡市にいる母親が、蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)に宿泊した有名な姓名判断の先生に自分の名を見てもらう機会があり、見料を先払いして私の名も東京で見てもらえるよう頼んでおいたんです。

六本木あたりにその先生を訪ねてゆき、「できるだけ使いなさい」と見せられたのが「昌光」でした。」(『読売新聞』平成26年/2014年12月11日「時代の証言者 遅咲き歴史文学 宮城谷昌光(14) 「出直し」決意し円満退社」より ―署名:文化部 佐藤憲一)

 結婚したあと、昌光さん夫婦は、昭和48年/1973年からさだ子さんの売店を手伝い、年をとる一方の母親を支えます。しかし、昭和55年/1980年ごろになって、ついに店の経営が傾き出し、それを機に昌光さんたちは店を離れて、蒲郡市の中心部に学習塾をひらきます。残されたさだ子さんは、どうやって身すぎ世すぎを送っていたのか。宮城谷さんの作家デビュー、それから直木賞受賞など、いくつかのイベントを体験してからあの世に旅立ったはずなんですが、そのとき彼女がどう考え、どう反応したのか。まったくわかりません。

 まあ、わからないことだらけですけど、たいてい無名の人というのは、わからないなかでドエラいことをやっちゃうもんです。宮城谷昌光という作家を生んださだ子さんも、おそらくはそういう一人だったんじゃないか、と思います。

|

« 木村荘平・稲垣アキ(牛鍋屋経営者と妾)。女好きと、向こう気の強さを受け継いだ息子が、直木賞をとる。 | トップページ | 岡田次郎蔵(町人学者)。息子が新聞記者の入社試験を受けたことを、ことのほか喜ぶ。 »

直木賞と親のこと」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 木村荘平・稲垣アキ(牛鍋屋経営者と妾)。女好きと、向こう気の強さを受け継いだ息子が、直木賞をとる。 | トップページ | 岡田次郎蔵(町人学者)。息子が新聞記者の入社試験を受けたことを、ことのほか喜ぶ。 »