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2024年5月の5件の記事

2024年5月26日 (日)

関伊之助…「大衆文芸」のレッテルを壊したくて、あえて自分の名前を隠す。

 「直木賞と別の名前」。いちばん最初は誰にしようかと考えたんですが、やっぱりこの人しかいませんよね。

 うちのブログでも、何度も取り上げてきた人です。今回の件もあまりに知られすぎていて、何ひとつ新鮮さはありません。でもまあ、奇をてらうことに価値があるわけじゃなし、ベタなハナシでも馬鹿にしたりせず、書いておいてもいいんじゃないかと思います。

 「関 伊之助」。この名前を使って小説が発表されたのは昭和22年/1947年5月のこと……いや、5月刊行と奥付に入っているということは、世に出たのはその年の春ぐらい。舞台は、もともと新潮社に務めていた和田芳恵さんが大地書房に入社して創刊した『日本小説』という新雑誌です。

 目次には、高見順、丹羽文雄、林房雄、太宰治、林芙美子などなど、すでに当時よく知られた作家たちに並んで、まるで誰も知らない書き手がポツリとまじっていました。「関 伊之助」です。小説「裸婦」というのを発表しています。あらすじを語ると、こんな感じです。

 「東京芸能社」という看板を掲げて仕事をしている「わたし」は、京都に来たときにはいつも「浜むら」という席貸旅館に泊まっています。戦時中、席貸旅館なんてぜいたくだというので、商売が禁止されたため、「浜むら」も泣く泣く店を閉める羽目になりますが、女将のお梅から相談を受けて、「わたし」は一つの案を授けます。この建物は自分の事務所ということにして、女将や女中たちには自分が給料を払うようにする。それでこれまで通りに、自分が京都に来たときは世話してくれないか、というものです。お梅は、それはよろしおまんなあ、と快諾。「わたし」はこの家の主人格になります。

 「浜むら」には長く務めている女中のよし子がいました。年は31歳。これまで何度もあった縁談はすべてうまく行きませんでしたが、昭和18年/1943年、突如、縁談がまとまります。相手は太田と名乗る海軍の少尉で、よし子は「わたし」のもとを去りました。

 しかし結婚して4か月で、旦那に出征命令が下り、甘い新婚生活はすぐに終わりを告げてしまいます。どうやら今度の縁談は、そもそも召集されることが前提に進められたもので、戦場に引っ張られるまえに嫁を迎えて子供をつくらせることが目的だった、とのこと。ところがよし子とのあいだに子供はできず、それから1年たって相手の少尉は戦死してしまいます。

 よし子は軍人の未亡人となったわけですが、ここで軍部から思いがけないハナシを聞いてうろたえます。いわく、調査したところ、おたくと主人のあいだには正式な婚姻届が出ていない。籍が入っていないとなると、軍のほうでも未亡人への対応が大きく変わってくる。いったい、どういう事情で届けを出さなかったのか、と。

 ……よし子にとっては寝耳に水です。あわてて舅に問いただしてみると、もしも籍を入れて息子が死ねば財産の権利はすべて妻に行く、息子がどうなるかわからない段階で急いで届けを出すこともないだろう、とたしかに婚姻届は役所に出されていなかったことが判明しました。ナニッ、それでは死んだ少尉―英霊の生前の意思とは反するではないか、けしからん、と軍部のほうではかんかんに怒って、警察沙汰になり、舅はまさかの豚箱行きです。

 自分は別に財産目的で嫁に来たわけでもない。戦争未亡人として国から手厚く保護されたくて結婚したわけでもない。よし子は、そのなりゆきを悲しみ、軍と嫁ぎ先のあいだで居たたまれなくなって、ついには疎水に身を投げてしまいます。

 しかしよし子は死にきれませんでした。濡れネズミの状態でやってきた彼女を、「わたし」は必死で介抱することになりますが、服をすべて脱がせて全裸のよし子を、そのときはっきり見た……というのが題名にある「裸婦」の意味です。

 その後よし子は回復し、戦争も終わって「浜むら」も営業を再開。元のような生活に戻ります。末尾の一文は、こうです。

「戦争がわたしに与へたたゞ一つの幸福は、深夜にさぐり得た美しい肉体の満喫であつたかも知れない。」(「裸婦」より)

 おおむね戦時中に不幸に襲われた一人の女性のハナシではあるんですが、題名もそうですし、作中に女性の裸が出てくるということではちょっぴりエロチックでもある。戦後の一時期やたらと書かれた、微妙にエロの香りがする現代小説の一つ、と言っていいでしょう。

 これがけっこう評判がよく、いったい「関 伊之助」とは何者なんだ、と一部では話題になったと言われています。作者自身は、その後もこの名前で書いていこうという意欲があったみたいですが、挿絵を担当した宮田重雄さんがポロッと正体の名前を言っちゃったため、なーんだ、と世間にバレしてしまったそうです。なんてことしてくれたんだ、宮田重雄。

 まあ、宮田さんを責めても仕方ありません。ともかく作者と、それを担当した和田芳恵さんが、なぜ別の名前を使ったのか。その理由に直木賞とも無縁とは言えない、深くて哀しい当時の状況が横たわっていることが重要です。

 作者はバリバリの大衆文芸作家と見られている中堅作家。しかし、「大衆文芸」と言うだけで、それって純文学じゃないんだね、と馬鹿にされ、真剣に取り上げてもらえない、という感覚が世間にはびこっている。これをどうにか壊したい。作品そのもので勝負するためには、自分の名前を隠すしかない。というわけです。

 直木賞も、ただただ「大衆文芸」の賞、ということだけで、ああ大衆向けの小説ね、とレッテルを張られ、純文芸と呼ばれる作品や作家たちと同じ土俵で語られない、という時代が長くつづきました。いまでも、その状況は少し残っているかもしれません。そういう一般的な認識を壊したい。直木賞(のなかの一部の選考委員)が歴史的にやってきたのは、大衆文芸からの脱却の挑戦だったんですけど、その現実を見たとき、「関 伊之助」の名前を使った第1回直木賞の受賞者=川口松太郎さんも、ある意味、直木賞と似たことをやろうとしたのではないか。そう思います。

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第18期のテーマは「別の名前」。直木賞にかかわる作家たちが、別の名義でどんな活動をしていたのかを見てみます。

 月日が経つのは早いものです。いや。全然早くなんかない気もします。

 それはどっちでもいいんですが、うちのブログを始めて今年で18年目。直木賞につながっているようで、まったく関係ないエントリーを差し挟みながら、1年に1つずつテーマを決めて書いてきました。

 2024年~2025年、今年はどんなことを調べていこうか。と考えてみたんですけど、何をテーマにしたところで、けっきょくスゴい結論が出るわけでもなく、いっつも同じようなことばかり言っていて堂々めぐりです。別にテーマなんか何でもいいですね。要は毎週、直木賞(とそれに関わってきた人たち)のことを継続的に頭に置いていたい、というだけのことです。

 なので今年もまた、テキトーに思いついた深みのないテーマで行ってみようと思います。

 直木賞の受賞者、候補者、選考委員たちはたくさんいます。彼ら彼女らが、一般的によく知られている名前とはまた違う、別の名前を使うこともよくあります。そんなハナシを1週に1回ずつ取り上げていくことにしました。

 そもそも直木賞と芥川賞の、最大の違いとは何でしょうか。それは、名前を冠された人物が、本名なのか、それとも別につけた名前(いわゆる筆名、ペンネーム)なのか、ということです。

 ……いやまあ、それが最大の違いかどうかは措いておきましょう。本名で書いていた人が何かのきっかけに筆名を名乗り出す。いくつもの別名を使い分ける。活動ジャンルによって変えてみる。「作家の名前」というのは、それだけでもうさまざまな要素を含む面白いコンテンツです。

 それと直木賞とに何の関係があるんでしょうか。ワタクシもよくわかりません。ただ、直木賞のことを調べていると、いろんな候補者が別の名で活動しているケースにぶつかります。今年は、それらの事例を取り上げながら、相も変わらず強引に直木賞と結びつけて書いていけたらいいなと思います。

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2024年5月19日 (日)

村上さだ(逓信技師の妻)。おれ作家になる、と言った息子のことを喜んで支援する。

 人サマの親がどんな人だったのか。調べていてもキリがありません。ちょうど「直木賞と親のこと」も今週で50回目です。ここらで打ち止めにしたいと思います。

 ということで最後に取り上げる直木賞の候補者なんですが、またまた大昔の作家ですみません。第12回直木賞(昭和15年/1940年下半期)を「上総風土記」その他で受賞した村上元三さんです。

 受賞しただけではなく、第32回(昭和29年/1954年・下半期)から第102回(平成1年/1989年・下半期)まで、長きにわたって選考委員を務めました。重鎮中の重鎮ですから、何だかんだと、うちのブログでも触れてきたような気がします。けっきょくまた以前取り上げたことを蒸し返すだけになるかもしれません。

 それはともかく村上さんも、直木賞を受賞するまでの人生には、親のことが色濃く漂っています。いまさら、こんな人物の生涯を振り返って何になるんだ。その意味はまったくわかりませんけど、最後のエントリーもまた、何ひとつ結論めいたことのない直木賞受賞者の親のハナシです。

 父は村上慶治。生まれた年は不明で、くわしい生い立ちもわかりませんが、慶治さんの父親はもともと盛岡藩の武士だったそうで、幕末から明治維新を経験し、九州で起きた西南の役にも参加した人です。息子の慶治さんはそれとは違って技術畑の道に進み、逓信技師となって国からお給金をもらう公務員になります。

 手に技術のある人は、たいてい引く手あまたで大忙しです。慶治さんも日本全国いろいろと異動させられ、せわしない日々を送りますが、ちょうど北海道の函館に赴任していた頃、現地でずきゅんと恋に落ちちゃいます。お相手は、函館の網元の娘として生まれた豪傑お嬢、〈さだ〉さんです。

 〈さだ〉さんもまた詳しい履歴はわかりません。元三さんの書くところによれば、〈さだ〉さんの実家は函館の網元「福島屋」で、跡取りとなる息子がいなかったために会津藩の武士で函館に渡った佐久間千代美さんが、そこに婿に入るかたちで家を継ぎ、家付き女房〈やお〉さんとのあいだに6人の子をなします。それがすべて女の子だったらしく、上から2番目が〈さだ〉さんだった、とのことです。

 ともかく慶治さんと〈さだ〉さんはめでたく恋愛を成就させて、一つの家庭をつくります。変わらず慶治さんは転勤が多く、〈さだ〉さんといっしょに引っ越しの繰り返し。そのあいだに和子さん、英雄さん、と子供が生まれますが、逓信官吏として海を渡り、明治43年/1910年3月、日本の支配が強まる朝鮮半島の元山府に移ったところで生を受けた男の子が元三さんです。元山で生まれた三男だから「元三」と名づけられたのだ、と伝わっています。

 家族とともに幼い元三さんも、いくつもの土地で、少し住んではまた転居する、という生活を送ります。京城、大阪、樺太・豊原……。元三さんが中学に進む頃には東京にやってきて、渋谷の宮益坂に住むことになり、元三さんは青山学院中学部に入学しました。

 ところが慶治さんが何を血迷ったか、役所を辞めて自分で事業を興すことを決意します。その辺り、事情はよくわかりませんけど、おそらくは慶治さんも50歳前後、思うところがあったに違いありません。元三さんが中学部を卒業した昭和3年/1928年に、家族をひきつれて静岡県の清水市に引っ越し、そこで製材製函業を始めます。

 しかし、そう簡単に商売がうまくいったら、日本じゅう億万長者だらけになっちゃいます。慶治さんの事業は苦難の連続で、次第に経営も傾き出し、村上家ジリ貧に陥ります。そうだ、おれには海の向こうに手づるがある、ちょっと行って資金を調達してくるわ、と慶治さんは言い残し、勝手に一人で朝鮮に行ってしまいます。元三さんの兄や姉は、結婚したり独立したりしてすでに家にはおらず、残されたのは〈さだ〉さんと、元三さん、その妹・美代子さんの3人きり。もはや慶治さんを頼ることはできません。

 元三さんだいたい20歳ごろから数年にわたるこの時代が、経済的にも精神的にも最も苦しい頃だった、といまからみれば推察されます。どうにかなるのか、おれの人生。一家3人で浅草のアパートに一室を借り、自分でも働けるところはないかと仕事を探す日々を送ります。

 そんなときに見かけたのが『サンデー毎日』に載っている大衆文芸懸賞の募集記事です。入選すれば賞金300円。当時としては魅力的な額です。ここで元三さんは腕試しのつもりで小説を書き、昭和9年/1934年、書き上がった「利根の川霧」を編集部宛てに送ります。残念ながら入選はしませんでしたが、選外佳作15編のうちの一つに残り、恒例の増刊号「新作大衆文芸」に掲載されると、それが映画会社の目にとまったおかげで、映画の原作料というかたちで100円を手にすることができました。おっ、おれやれるかも。むくむくとやる気がみなぎる元三青年。

 つづいて半年後に応募した「近江くづれ」も、大衆文芸懸賞で選外佳作に入り、いよいよ元三さんは作家になることで身を立てようと考えます。大衆文芸の選者だった千葉亀雄さんを新聞社に訪ねて相談したところ、お母さんに相談してみて、了解が得られるのなら、ぜひとも挑戦してみるといい、と背中を押されたので、家に帰って〈さだ〉さんに自分は小説でやっていこうと思う、と告白。すると〈さだ〉さんは笑顔をみせて、「わたしも貧乏してもいいから、しっかりおやり」と手放しで賛成し、なけなしのお金をはたいてその晩の食卓に、鯛ならぬ尾頭つきの青魚を出して門出を祝してくれたのだ、ということです。いいハナシです。

 ちなみにその後〈さだ〉さんは、息子の直木賞受賞を知ることなく、昭和13年/1938年3月5日、病であの世に旅立ちます。朝鮮に行って行方知れずだった父の慶治さんは、昭和19年/1944年になって帰国、子供たちとも再会しますが、健康状態は最悪で、病院に行ったところ肺の病気との診断です。鎌倉の療養所に入所して様子を見ますが病状が悪化し、その年の11月に亡くなりました。

 ということで、両親のうち、元三さんが作家になるまでの歩みで重要なのは、やはり母の〈さだ〉さんの存在だったかと思います。直木賞とは直接の関係はありません。しかし、〈さだ〉さんは小説を読むのも大好きな人だったようで、元三さんが直木賞を受賞して出版した単行本『上総風土記』(昭和16年/1941年5月・新小説社刊)にも、しっかりとその痕跡を残しています。

 「あとがき」にこうあります。

「直木賞審査の総評の中に、僕を才気のある作家だといふのと、鈍根の作家だといふのと、二通りあつた。どう自惚れて見ても、僕には才気はない。鈍根の方が當つてゐる。

僕にとつて良き批評家であつた母が、いつも云つてゐた。

「お前の書くものは、がさがさしてゐて、ふんわりした處が無いし、ちつとも色氣が書けてゐない」

その母が亡くなつてから、丸三年経つのに、僕はまだ母の註文したやうなものが書けないでゐる。この本を佛壇に供へる時、僕は面目なくて、今にうまくなるから、と母に詫びるよりほか仕方がない。」(『上総風土記』「あとがき」より)

 この忌憚のない批評が、肉親の愛ですよね。直木賞の選評で、村上さんに才気があるとのたまった某氏(……吉川英治さんです)より、母親〈さだ〉さんの言葉のほうに、ここでは軍配を上げておきたいと思います(って別に勝ち負けじゃないか)。

          ○

 「直木賞と親のこと」、もっと取り上げなきゃいけない作家や親のエピソードは残っていそうな気がしますが、これでやめておきます。来週からはテーマを変えて……といっても、別に新鮮なことは何ひとつ書けやしないんですが、ひきつづき直木賞に関するようなことを書いていくつもりです。

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2024年5月12日 (日)

岡田次郎蔵(町人学者)。息子が新聞記者の入社試験を受けたことを、ことのほか喜ぶ。

 エッセイも小説も、だいたいが紙一重です。自分の身の回りのことを語っていて、ほとんどエッセイ=随筆のように見えるのに、あえて「小説」と銘打っているものもあります。境目があるようでないような、よくわからない世界ですけど、正直、読者にとってはどっちでもいいです。

 直木賞史上、奇跡の復活を果たしたナニワの硬骨新聞記者、岡田誠三さんは、昭和50年/1975年3月に出した『定年後』(中央公論社刊)がその復帰作です。これも中身はほとんど実際にあったハナシを自分の視点で描いているエッセイではあるんですけど、ときに「自伝小説」「私小説」と呼ばれ、ときに「ノンフィクション」とも呼ばれる、相当分類の難しい一作でした。さすが「報道小説」なる意味不明な角書きを付された作品で直木賞をとった人だけのことはあります。フィクションもノンフィクションも、すべてはいっしょくたです。

 それで岡田さんといえば、やはり親への関心が強烈に全身に宿っていた物書きと言っていいでしょう。

 『定年後』のなかにも、たびたび「大阪の奇人」と呼ばれた父親が出てきます。この作品が話題となって売れたあと、次の作品の『自分人間』(昭和52年/1977年1月・中央公論社刊)その父親を題材に選んでいるところからも、誠三さんがいかに父親と向き合いたがっていたのかがわかります。と言いますか、『定年後』の献辞には「この一書を故上野精一翁と亡き父母の記憶に捧げる」とありました。よくよく親のことが書きたかった人なのは間違いありません。

 父は岡田次郎蔵。号は播陽。明治6年/1873年11月6日(10月15日とする文献もあり)生まれ、昭和21年/1946年4月22日没。出身は兵庫県印南郡大塩村で、実家は田舎の村にありながら書画や俳諧を趣味とする村夫子の構えをなしていたらしく、次郎蔵さんもそういう空気を吸いながら育ちます。

 しかし、絵とか文とかにかまけていたって、おなかは膨れません。本を買ったり絵にお金をつぎ込むうちに家運も傾きかけ、これじゃ駄目だと危機感を抱いたのが、次郎蔵さんの父親、良太郎さんです。おまえらは小学校を出たら商売の勉強をしろ、と子供たちに言い聞かせ、次郎蔵さんもまた高等小学校を終えると、よそに奉公に出されます。

 数え十一のときに次郎蔵さんが奉公先に選んだのが、兵庫にあった北風荘右衛門のお店です。なぜそこなのか、といえば、北風家はかつて大塩事件に関係したことがあったからで、当時すでにこの事件に興味を持っていた次郎蔵さんが、平八郎のことを知る書類が店のどこかに眠っているのではないかと期待して、わざわざ奉公先をそこにしたのだ、と言います。結果、めぼしい資料は残っておらず、翌年、次郎蔵さんは大阪に移って「えり富」という古着屋に勤めることになりました。

 少年から青年へ。10代から20代を「えり富」の店員として過ごします。その間も学問や芸術にはずっと関心を持っていたはずですが、趣味ばかりにうつつを抜かしている余裕はなく、ともかく働かなければ生きてはいけないのは、いつの時代も同じです。古着屋の丁稚として次郎蔵さんも人並みに労働に従事します。

 次郎蔵=播陽さんのことは、誠三さんの息子、岡田清治さんがホームページ「人生道場 独人房」のなかで紹介されています。清治さんには昔、『消えた受賞作』をつくるときに大変お世話になりましたが、その後お元気でしょうか。とそれはともかく、ここで『大塩公民館たより』を引用するかたちで掲載された経歴によれば、朝鮮・支那に遊学したり、十合呉服店に入ったりと、独立するまでにいろいろと経験を積んだ模様です。若いうちは何でもやっておいたほうが、そりゃあいいと思います。

 そこに紹介されている年代と、誠三さんが『自分人間』で書いている内容には、多少の食い違いもあるんですが、『大塩公民館たより』のほうを活かして書いておきますと、心斎橋筋に自前で「播磨屋呉服店」を開店したのが明治29年/1896年のこと。許嫁となる相手はすでに決まっていて、良太郎さんの弟にあたる人が京都で三代清風与平となった清水焼の陶磁家で、そこに生まれた娘と大きくなったら結婚させる、と両家で話し合われていたそうです。二つ年下のその娘さん、玉さんと次郞蔵さんは結婚します。明治31年/1898年のことでした。

 二人のあいだには長く子供ができませんでしたが、長男の良一さんが生まれたのが明治41年/1908年。次郎蔵さんが数え36歳のときのことです。その後、明治44年/1911年に修二(早世)、大正2年/1913年に誠三、大正3年/1914年に實(早世)、大正5年/1916年に照子と設けますが、とくに次郎蔵さんは長男にむちゃくちゃ高い期待をかけたようです。うちの子供だ、頭がいい、そうに決まっている、と根拠がありそうでなさそうな親バカぶりを発揮。遊びほうけて成績が悪けりゃ頭ごなしに叱り飛ばしたりして、そうこうするうちに良一さんはグレて家にも寄り付かなくなります。まあそりゃそうだよね、といった感じです。

 家業の呉服店はしばらくは順調に経営がまわっていましたが、景気は上がったり下がったり、安定したものでもありません。大正末期から昭和初期の社会的な不況に次郎蔵さんとこも堪えることができず、昭和3年/1928年に店を畳むことになります。そのとき次郎蔵さん、数え56。もう好きなことだけで生きていくぜ、と大塩平八郎の系統をひく陽明学を中心にいろいろと調べては、物を書いて発表する町人学者として生きていきます。

 直木賞ができたのが昭和9年/1934年12月。いちおう世間ではあまり話題にならなかった、と信じたがる人もいるみたいですけど、そうは言っても、知っている人は知っている、多少の知名度はある文学賞としてコツコツと運営されていました。大阪に住み、終戦まぎわの昭和20年/1945年にふるさとに転居した次郎蔵さんが直木賞のことを知っていたのか。知っていた可能性は十分にあります。

 ただ、そんな回想は息子・誠三さんの書いたものにはまったく出てきません。誠三さん自身、自分が直木賞を受賞したと知ったのは、昭和19年/1944年8月、従軍先のマニラで新聞に出ていたのを見たときだったそうです。戦時中に、多少でも受賞記事が新聞に載っちゃうのが、直木賞のなかなか油断できないところですけど、だとすれば次郎蔵さんが日本で新聞を見ていたときに、おお、うちの息子が直木賞だ、と見かける機会がなかったとも言い切れません。

 見ていれば、そりゃあ嬉しがったでしょう。『自分人間』にこんな記述があるぐらいです。

「父は、私がある新聞社(引用者注:朝日新聞)の入社試験を受けたことを心から喜んだ。播陽の談話や、その延長のような著書の中での発想が多分にジャーナリスティックなところから推しても、彼自身が新聞記者になりたかったかも知れない。」(『自分人間』より)

 いや、直木賞を受賞したことより、報道の成果としての作品が世に認められたことを、新聞記者になりたがったかもしれない次郎蔵さんは喜んだんじゃないか、と想像します。しかし、もし息子の直木賞を知っていたら、そのことを誠三さんが何かに書き残していないわけがなく、けっきょく知らないまま死んでいったのかもしれません。

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2024年5月 5日 (日)

宮城谷さだ子(みやげ物屋)。姓名判断、見合い話などをお膳立てして、息子の運を切りひらく。

 長生きすると、それだけいいことがあります。

 というのは、もちろん一面的な見方でしかなく、いいことがあれば悪いこともある、長生きしようが若死にしようが、それが人の人生です。何ゴトも一概には言えません。

 ただ、長く生きていると、思わぬ場面に出くわすチャンスが増えるのは明らかでしょう。自分の息子がまさか直木賞なんてものをとる日を目のあたりにできるのは、その父親だか母親だかが長生きしたおかげです。

 今日取り上げようと思う宮城谷昌光さんの母親も、宮城谷さんが直木賞を受賞した平成3年/1991年ごろにはたしかに存命中でした。息子の昌光さんはそのとき46歳のいいオジさんで、数年前まで文壇ではほとんど知られていない無名の人でしたが、それが一気に高い評価を受けて、新田次郎文学賞をとるは、直木賞をとるは、急激に歴史小説の雄として持ち上げられてしまったんですから、宮城谷さん本人はもとより、詳細はわかりませんが、お母さんのほうもおそらく驚いたのではないかと思います。

 詳細はわからない、と書きました。ワタクシもさすがに宮城谷さんの母親のことは、そこまで細かくは知りません。いつものように宮城谷さんが少しずつ書き伝えてくれている、自身の来歴などからつなぎ合わせてみようと思います。

 宮城谷さだ子。生まれはおそらく大正4年/1915年頃。愛知県豊川市に本家がある宮城谷一族の分家のひとつに生まれたらしく、姉が二人いました。大正から昭和のはじめ、どのようにさだ子さんが過ごしたのか。息子の昌光さんもほとんど聞いたことがなく、もはや真相は藪の中です。

 太平洋戦争が起こった昭和16年/1941年当時、さだ子さんは東京にいて、兜町の証券会社で働いていたと言います。沙羅双樹さんの小説に出てくるような世界ですね。しかし戦火が激しくなってきたのを逃れるためにか東京を離れて、姉が旅館をしていた愛知県宝飯郡三谷町に引っ越します。じきに30歳になろうという頃合いです。

 いったいそこで何の縁があったのか。地元の蒲郡で綿織物をつくったり卸したりしていた広中喜市さんという男性と通じ合い、一つの命を身に宿します。広中さんは明治30年/1897年ですからさだ子さんとは20歳近くも離れていて、すでに妻もあり子もある身の上です。果たして二人に何があったのか。これもまたすべては藪の中です。

 いまだ戦争の続く昭和20年/1945年、さだ子さんは一人の男児を出産しました。名前は誠一。のちに姓名判断で「昌光」と筆名をつけることになる、アノ宮城谷さんです。

 母ひとり子ひとり。のちにさだ子さんは、もう一人子供をなしたそうですけど、いわゆるシングルマザーというやつです。戦後の食糧難にもめげず、三谷町で「若竹」という旅館を切り盛りし、かわいい我が子の成長を見守りますが、昭和28年/1953年、旅館が倒産。悪い人にだまされたか、そそのかされたか、例のごとく事情はわかりませんけど、泣く泣くさだ子さんは我が子を連れて、同じ三谷町内で転居します。

 ところが、そのさだ子さんに、またまた商売を始める話が舞い込みます。いや舞い込んだんじゃなくて、さだ子さん自身が企画したのかもしれません。昭和30年/1955年、三谷町にあった三谷温泉に新たな温泉が湧き、街じゅう大賑わいのお祭り騒ぎ。さだ子さんも、その温泉地でみやげ物屋の売店を始めることになったのです。それがだいたい40歳すぎ。新たなチャレンジです。がんばれ、さだ子。

 その後、きちんと子供を学校に行かせ、商売をつづけたさだ子さんは、もちろん無名な人なんですけど、やはり直木賞(の周辺)に現れた偉人のひとり、と言っていいんでしょう。東京の大学を出て、雑誌編集とかやくざな仕事に就いた息子のために、知り合いから持ち込まれたお見合いのハナシをどうにか受けさせ、宮城谷さんに聖枝さんという伴侶を見つけさせるきっかけをつくったのも、さだ子さんです。

 「きっかけ」といえば、誠一という名で成長し、『新評』編集部で働いていた宮城谷さんが「昌光」と名乗りはじめるそもそもの場面にも、やはりさだ子さんがいたそうです。

「現在のペンネームを使い始めたのもこの年(引用者注:昭和47年/1972年)からです。蒲郡市にいる母親が、蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)に宿泊した有名な姓名判断の先生に自分の名を見てもらう機会があり、見料を先払いして私の名も東京で見てもらえるよう頼んでおいたんです。

六本木あたりにその先生を訪ねてゆき、「できるだけ使いなさい」と見せられたのが「昌光」でした。」(『読売新聞』平成26年/2014年12月11日「時代の証言者 遅咲き歴史文学 宮城谷昌光(14) 「出直し」決意し円満退社」より ―署名:文化部 佐藤憲一)

 結婚したあと、昌光さん夫婦は、昭和48年/1973年からさだ子さんの売店を手伝い、年をとる一方の母親を支えます。しかし、昭和55年/1980年ごろになって、ついに店の経営が傾き出し、それを機に昌光さんたちは店を離れて、蒲郡市の中心部に学習塾をひらきます。残されたさだ子さんは、どうやって身すぎ世すぎを送っていたのか。宮城谷さんの作家デビュー、それから直木賞受賞など、いくつかのイベントを体験してからあの世に旅立ったはずなんですが、そのとき彼女がどう考え、どう反応したのか。まったくわかりません。

 まあ、わからないことだらけですけど、たいてい無名の人というのは、わからないなかでドエラいことをやっちゃうもんです。宮城谷昌光という作家を生んださだ子さんも、おそらくはそういう一人だったんじゃないか、と思います。

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