関伊之助…「大衆文芸」のレッテルを壊したくて、あえて自分の名前を隠す。
「直木賞と別の名前」。いちばん最初は誰にしようかと考えたんですが、やっぱりこの人しかいませんよね。
うちのブログでも、何度も取り上げてきた人です。今回の件もあまりに知られすぎていて、何ひとつ新鮮さはありません。でもまあ、奇をてらうことに価値があるわけじゃなし、ベタなハナシでも馬鹿にしたりせず、書いておいてもいいんじゃないかと思います。
「関 伊之助」。この名前を使って小説が発表されたのは昭和22年/1947年5月のこと……いや、5月刊行と奥付に入っているということは、世に出たのはその年の春ぐらい。舞台は、もともと新潮社に務めていた和田芳恵さんが大地書房に入社して創刊した『日本小説』という新雑誌です。
目次には、高見順、丹羽文雄、林房雄、太宰治、林芙美子などなど、すでに当時よく知られた作家たちに並んで、まるで誰も知らない書き手がポツリとまじっていました。「関 伊之助」です。小説「裸婦」というのを発表しています。あらすじを語ると、こんな感じです。
「東京芸能社」という看板を掲げて仕事をしている「わたし」は、京都に来たときにはいつも「浜むら」という席貸旅館に泊まっています。戦時中、席貸旅館なんてぜいたくだというので、商売が禁止されたため、「浜むら」も泣く泣く店を閉める羽目になりますが、女将のお梅から相談を受けて、「わたし」は一つの案を授けます。この建物は自分の事務所ということにして、女将や女中たちには自分が給料を払うようにする。それでこれまで通りに、自分が京都に来たときは世話してくれないか、というものです。お梅は、それはよろしおまんなあ、と快諾。「わたし」はこの家の主人格になります。
「浜むら」には長く務めている女中のよし子がいました。年は31歳。これまで何度もあった縁談はすべてうまく行きませんでしたが、昭和18年/1943年、突如、縁談がまとまります。相手は太田と名乗る海軍の少尉で、よし子は「わたし」のもとを去りました。
しかし結婚して4か月で、旦那に出征命令が下り、甘い新婚生活はすぐに終わりを告げてしまいます。どうやら今度の縁談は、そもそも召集されることが前提に進められたもので、戦場に引っ張られるまえに嫁を迎えて子供をつくらせることが目的だった、とのこと。ところがよし子とのあいだに子供はできず、それから1年たって相手の少尉は戦死してしまいます。
よし子は軍人の未亡人となったわけですが、ここで軍部から思いがけないハナシを聞いてうろたえます。いわく、調査したところ、おたくと主人のあいだには正式な婚姻届が出ていない。籍が入っていないとなると、軍のほうでも未亡人への対応が大きく変わってくる。いったい、どういう事情で届けを出さなかったのか、と。
……よし子にとっては寝耳に水です。あわてて舅に問いただしてみると、もしも籍を入れて息子が死ねば財産の権利はすべて妻に行く、息子がどうなるかわからない段階で急いで届けを出すこともないだろう、とたしかに婚姻届は役所に出されていなかったことが判明しました。ナニッ、それでは死んだ少尉―英霊の生前の意思とは反するではないか、けしからん、と軍部のほうではかんかんに怒って、警察沙汰になり、舅はまさかの豚箱行きです。
自分は別に財産目的で嫁に来たわけでもない。戦争未亡人として国から手厚く保護されたくて結婚したわけでもない。よし子は、そのなりゆきを悲しみ、軍と嫁ぎ先のあいだで居たたまれなくなって、ついには疎水に身を投げてしまいます。
しかしよし子は死にきれませんでした。濡れネズミの状態でやってきた彼女を、「わたし」は必死で介抱することになりますが、服をすべて脱がせて全裸のよし子を、そのときはっきり見た……というのが題名にある「裸婦」の意味です。
その後よし子は回復し、戦争も終わって「浜むら」も営業を再開。元のような生活に戻ります。末尾の一文は、こうです。
「戦争がわたしに与へたたゞ一つの幸福は、深夜にさぐり得た美しい肉体の満喫であつたかも知れない。」(「裸婦」より)
おおむね戦時中に不幸に襲われた一人の女性のハナシではあるんですが、題名もそうですし、作中に女性の裸が出てくるということではちょっぴりエロチックでもある。戦後の一時期やたらと書かれた、微妙にエロの香りがする現代小説の一つ、と言っていいでしょう。
これがけっこう評判がよく、いったい「関 伊之助」とは何者なんだ、と一部では話題になったと言われています。作者自身は、その後もこの名前で書いていこうという意欲があったみたいですが、挿絵を担当した宮田重雄さんがポロッと正体の名前を言っちゃったため、なーんだ、と世間にバレしてしまったそうです。なんてことしてくれたんだ、宮田重雄。
まあ、宮田さんを責めても仕方ありません。ともかく作者と、それを担当した和田芳恵さんが、なぜ別の名前を使ったのか。その理由に直木賞とも無縁とは言えない、深くて哀しい当時の状況が横たわっていることが重要です。
作者はバリバリの大衆文芸作家と見られている中堅作家。しかし、「大衆文芸」と言うだけで、それって純文学じゃないんだね、と馬鹿にされ、真剣に取り上げてもらえない、という感覚が世間にはびこっている。これをどうにか壊したい。作品そのもので勝負するためには、自分の名前を隠すしかない。というわけです。
直木賞も、ただただ「大衆文芸」の賞、ということだけで、ああ大衆向けの小説ね、とレッテルを張られ、純文芸と呼ばれる作品や作家たちと同じ土俵で語られない、という時代が長くつづきました。いまでも、その状況は少し残っているかもしれません。そういう一般的な認識を壊したい。直木賞(のなかの一部の選考委員)が歴史的にやってきたのは、大衆文芸からの脱却の挑戦だったんですけど、その現実を見たとき、「関 伊之助」の名前を使った第1回直木賞の受賞者=川口松太郎さんも、ある意味、直木賞と似たことをやろうとしたのではないか。そう思います。
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