山本唯一(国文学者)。反抗していた息子が、自分の蔵書を参考にして歴史小説を書く。
今日は令和6年/2024年4月21日日曜日。東京・鬼子母神で一箱古本市の「みちくさ市」がありました。
とくに行く必要もないんですけど、春日部の奇人・盛厚三さんが元気に出店していると聞いていたので、久栖博季さんが三島由紀夫賞の候補になったことを伝えなきゃと思って、からだに鞭打ち、行ってきました。釧路関係のことなら何でも喜ぶ奇人中の奇人、盛さんですから、まだ受賞もしていない候補に選ばれたという段階のニュースでも、大喜びしていました。
と、それはうちのブログとは関係ありません。みちくさ市で、盛さんとも顔なじみの〈とみきち屋〉さんに『直木賞受賞エッセイ集成』(平成26年/2014年4月・文藝春秋刊)が出ていたので、思わず買ってしまった……と、それが言いたかったんです。
平成期の直木賞受賞者たちが、『オール讀物』に寄せた受賞エッセイをまとめた本ですけど、このエッセイは基本的には受賞者がそれまでどのように歩んできたか、というのがテーマになっています。当然、直木賞にまつわる親のハナシの宝庫でもあります。
今週は、そこに収録された作家のことにしたいと思い、この人を取り上げます。第140回(平成20年/2008年・下半期)受賞、いまはもう新作が読むことはかなわない山本兼一さんです。
山本さんの受賞エッセイは「本のある家」というタイトルです(初出『オール讀物』平成21年/2009年3月号)。自身の来歴のハナシでありながら、親のことを語っていて、内容からしても代表的な「親にまつわる直木賞受賞エッセイ」の一つ、と言っていいでしょう。書かれているのは、山本さんの父親のおハナシです。
山本唯一(ゆいいつ)。大正10年/1921年2月7日、新潟県中頸城郡新井町生まれ。実家は同地のお寺だったのではないかと思われますが、くわしくは今後の山本唯一研究(?)の成果を待ちたいと思います。
大学は、仏教にまつわるあれこれに特化した大谷大学に進み、昭和18年/1943年に文学部を卒業します。しかし時代が時代、日本じゅうが戦争だ聖戦だと言い募っていた時期に当たり、唯一さんも「卒業」とは言いながら学徒出陣で陸軍に行かされて、そこで貴重な青春時代の2年間を送った模様です。
唯一さんの興味があったのは、昔の俳諧についてあれこれと調べることで、とくに俳諧と仏教との関わりには並々ならぬ関心を抱いていました。戦争が終わって、あらためて学究の道に舞い戻ると、昭和25年/1950年に京都大学文学部国文学科を修了。そこから母校の大谷大学に助手として帰ってきます。
昭和27年/1952年に助教授になる頃には、終生連れ添う嘉子(よしこ)さんと結婚したらしく、その後に女児をひとり、男児をひとり儲けます。その男の子のほうが、のちに小説家になる兼一さんです。生まれは昭和31年/1956年7月、父の唯一さんが気鋭の国文学者として世に出ようとしていた頃にあたります。
それで、兼一さんの受賞エッセイなんですけど、タイトルにあるとおり、とにかく実家にはたくさんの本が並んでいたそうです。唯一さんは自分の研究分野である和書や古書籍を大量に買い込むし、嘉子さんは高校で国語の先生をしていたそうで、こちらも大の読書好き。文学全集やら新刊の書籍やらを本棚に並べては、ガッシガッシと読書に励みます。
本に囲まれた環境で育つうちに、いつかは自分も文学で生きていきたい……と思うようになる兼一さんの心の動きは、あるいは自然だったかもしれません。しかし、ここで出てくるのが当エッセイの眼目に違いない心のしこり。父親、唯一さんに対する反抗心ないしは憎悪の感情です。
子供の頃は鉄拳制裁で、兼一さんもけっこう唯一さんに殴られていたと言います。外ではまじめで温厚な学者先生が、裏では平気で暴力をふるっていた、というのですから穏やかではありません。息子にはよくある感情でしょうけど、兼一さんは父親のことがイヤでイヤで仕方なくて、まともに口を利くことすらできなくなります。
そして、唯一さんが望んでいたような道には行かず、大学卒業を控えてバックパッカーとなるとインドからヨーロッパをめざして一人旅。帰国後は、新聞の求人広告からさがして、家具関係の業界誌をつくっている会社に就職します。その後は文章を書くことが仕事になる職場を転々としたあと、30歳でフリーのライターになりました。
その頃、父の唯一さんは、大谷大学で教授、図書館長、文学部長などを勤め上げて、昭和61年/1986年に退職します。芭蕉研究といえばこの人だ、といったようなガチガチの国文学者として研究を続けますが、平成3年/1991年6月2日、妻の嘉子さんに先立たれてしまいます。一人になった老学者。
やっぱり親のことは放っておけないと、東京に住んでいた兼一さんは、京都の唯一さんのところに戻ってきて、同居することを選びます。昔からの経緯もあるので、そう簡単に父親と打ち解けることはできませんが、ともかく父のもとには大量の本がある。小説家になりたい、と思って、さまざまな新人賞に応募しては落選を繰り返していた兼一さんは、やがて家にある歴史研究の基本的な文献に親しむようになって、そうか、歴史小説を書いてみようと思い立った、というわけです。
唯一さんが亡くなったのは平成12年/2000年10月2日です。兼一さんが「弾正の鷹」で小説NON創刊150号記念短編時代小説賞の佳作になったのは平成11年/1999年ですから、その頃には唯一さんも生きていたはずですが、そんなものをもらったところで、小説家として続けていけるかはまるでわかりません。けっきょく、父親とは胸をひらいて語り合うこともなく、作家になった自分の姿を見せることもないままに、別離を迎えてしまいました。
それから約8年が経過して、兼一さんは直木賞を受賞します。そして改めて父のことを思います。
「憎しみしか感じていなかった父親だが、いま、こうして蔵書の恩恵にあずかってみると、複雑な思いがゆらぐ。
直木賞という大きな賞をいただき、この原稿を書くことで、わたしはようやく父親との関係を、客観的に見つめ直すことができるかもしれない。
この歳になって――、と恥ずかしく思うが、人間という生き物は、どうしたって幼児体験を重く引きずるしかなかろう。
いま、仕事場で本に囲まれながら、本が語りかけてくる声を聴いている。」(山本兼一「本のある家」より)
直木賞というものがあったおかげで、父との関係性を見つめ直せるかもしれない。そんなふうに兼一さんは言ってくれました。そうであれば、直木賞のほうも、少しはやっている意味があった、というものです。
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