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2024年4月 7日 (日)

井上郁子(作家の妻)。娘が直木賞を受賞した作品を「あの程度の小説」と言ってのける。

 今週の「直木賞と親のこと」は「親が作家だった」シリーズです。

 シリーズです、というか、勝手にこちらが名づけているだけですけど、直木賞の舞台に挙がった候補者のなかで、この人は絶対に取り上げなきゃいけない、と思う人がいます。井上荒野さんです。

 初めて直木賞の候補になったのが第138回(平成19年/2007年・下半期)で、デビューしてから17~18年。その候補作の『ベーコン』は、選考会の場でも、まあこのぐらいの作品集は世間にゴロゴロあるよね、程度の軽いあしらいしか受けませんでしたが、その次の第139回(平成20年/2008年・上半期)では評価一転。『切羽へ』の、こまやかな心理描写が高い評価を受けて、あっさりと直木賞受賞者になりました。他に強い候補作がなかった、というのも多少は影響したかもしれません。もう16年もまえのことです。

 荒野さんの父親は、文学の世界に興味がある人ならまず名前を知っているような有名作家だったので、当時その辺りの切り口でいろいろと記事が出たのは、何となく覚えています。うちのブログでも、荒野さんと父のことは、以前に書いたような気がします。まあ、誰でも荒野さんと聞けばその父親を語りたくなるのは当然でしょう。

 ただ、直木賞との関係でいえば、やっぱり荒野さんの親といえば母親のほうではないか。……とワタクシが思うようになったのは、荒野さんが直木賞をとってから元気に作家活動をつづけ、『あちらにいる鬼』(平成31年/2019年2月・朝日新聞出版刊)を書いて、さまざまなメディアでインタビューを受けたりエッセイを寄せたりしてくれたからです。へえ、そうだったんだ、と知らなかったことが、荒野さんの口からどんどん公表されるにつれ、ワタクシも俄然、そのお母さんのことに興味を抱くようになりました。

 井上郁子。旧姓は池田。昭和5年/1930年、長崎県佐世保市生まれ。実家は市内の四ヶ町商店街の和菓子店「松月堂」で、二代目にあたる池田徹さんと妻・喜美子さんのあいだに長女として生まれました。

 かわいいお菓子屋さんのお嬢さん。とくべつ生活に苦労することもなく育ちますが、学校を出て高校の国語教師になるうちに、どこでどう火がついたものか、共産党や左翼の活動に関心をもちはじめます。戦後の昭和20年代、女も男も若者には、いまのままじゃ日本はだめだ、われらが社会を変えていかなくちゃだめなんだ、と何かに衝き動かされるものがあった、ということかもしれません。郁子さんも、そういう若者の一人だったようです。

 と、そこに現われたのが同じ佐世保で、かなり精力的に左翼運動に関わっていた共産党員の男。井上光晴さんです。

 声がでかくて、ずかずかと相手の懐に入ってくる、がさつな男、光晴さんは、出会ったころから郁子さんに好意をもったらしく、やがて二人は惹かれ合うようになります。

 出会いからだいたい2~3年たつうちに、いっしょに所帯を持つことになり、東京に出てくる光晴さんに従って、郁子さんも佐世保を離れて上京します。昭和31年/1956年、郁子さん26歳の年でした。

 『あちらにいる鬼』には、そのときはまだ婚姻届は出さず、正式に結婚したのは昭和36年/1961年になってからだ、と書かれています。そうなのかもしれません。夫の光晴さんは『新日本文学』を軸にしながら『現代批評』の創刊に加わったり、『書かれざる一章』『虚構のクレーン』などの小説を刊行したり、にわかに文壇に躍り出ます。昭和36年/1961年に長女・荒野さんが生まれたのはちょうどその頃のことです。

 ところが、光晴さんは多くの女性と関係しては、相手からも惚れられる人だったそうで、日本全国、行くさきざきで、わたしこそ光晴さんに愛されている、と胸を熱くする女性シンパができていった、と漏れ伝えられています。瀬戸内晴美さんとの仲は、そのなかでも別格だったのかどうなのか、もはや余人にはうかがい知れない世界ですけど、それもこれも、家に帰ればいつもなごやかな郁子さんがいる。長女の荒野さん、昭和41年/1966年に生まれた次女の切羽さんを、立派な大人に育て上げ、外でだんなが好き勝手やっているのもほとんど口出しせずに黙認した郁子さんが偉かった、ということになります。お母さんは偉大です。

 郁子さんも、自分で文章を書けばかなりのものが書ける才能の持ち主でした。生前、光晴さんの名前で発表されたいくつかの作品は、おそらく郁子さんが光晴さんからアイディアを聞いて自分で書いたものだろう、と後年、荒野さんは証言しています。本もたくさん読み、自分の考えを深めていった郁子さん。やがて娘が平成1年/1989年にフェミナ賞でデビューしたあとも、娘の小説を熟読しては、鋭い感想を述べていた、というのですから、若いころからの文学的な素養もバカにしたものではありません。

 夫の光晴さんは、平成4年/1992年に66歳で亡くなります。このとき、郁子さんは62歳。気丈に喪主を務め、いくつかの媒体に夫を偲ぶ文章を残すと、その後はとにかく自分の関心を本を読むことに向けることになりました。

 亡くなったのが平成26年/2014年9月5日ですので、享年84。夫のいない世界を22年も生きたご褒美として、平成20年/2008年7月には、荒野さんが直木賞を受賞するという晴れ舞台を自分の目で見ることもできました。荒野さんは、自分は父というより、母に似ているだろう、とさまざまなインタビューで答えていますが、それを郁子さんはどう聞いたのか。ともかく、郁子さんがいけなければ、荒野さんの直木賞受賞もなかったのは事実です。

 しかし、その授賞式の席上、郁子さんが語った言葉というのが、ふるっています。荒野さんの回想です。

「私の父は小説家だったが、私の母もまた、小説を書いていた。そのことを母は、父の死後10年ほどが経ったときに私に明かした。

(引用者中略)

先日、長い付き合いである、ある新聞社のベテラン文芸記者のK氏と、久しぶりにお酒を飲んだときのこと。「そういえばあなたが直木賞を受賞したときにさ」とK氏が教えてくれた。授賞式のとき、彼は私の母と同じテーブルにいたそうだ。父の担当だった編集者が集まっていて、ちょっとした同窓会のようになっていたその場所で、「お母さんが、ぼそっと呟いたんだよ。あの程度の小説で、直木賞ってとれるのねえ、って……」」(『文藝春秋』令和1年/2019年10月号 井上荒野「母の呟き」より)

 うんうん、すばらしいですね、郁子さん。『切羽へ』を「あの程度の小説」と表現するとは、ワタクシも激しく同意します。

 いや、直木賞の受賞作のほとんどは、あの程度・この程度の作品が大半を占めている、という感想に、ワタクシは激しく同意します。直木賞をとるものはどれも名作、なんちゅうのは、一部の人たちの勘違いでしかありません。それをぼそりと言える、まっとうな感性。その血が荒野さんにも濃密に流れているのだとしたら、これからの荒野さんも、活躍を続けることは間違いないでしょう。

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