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2024年4月14日 (日)

有吉秋津(銀行員の妻)。夫のかつての友人が、娘の直木賞候補作を選考する。

 直木賞、直木賞と、うちのブログではそればっかり言っています。ほんとは、直木賞に関わる作家のなかでも、有名じゃない部類の人をたくさん取り上げたいんです。だけど有名じゃない人は、つまり有名じゃないので、くわしく調べたくてもなかなか調べきれません。ということで、すみません、今週は超絶に有名な作家の、親のハナシを書くことにします。

 有吉佐和子さんです。作家デビューが昭和30年/1955年(月号表記は昭和31年/1956年1月号)の『文學界』に掲載された「地唄」で、直木賞の候補になったのはそれから1年半後の第37回(昭和32年/1957年・上半期)。対象となったのは『キング』に載った「白い扇」でした。

 選考委員のあいだでは、何とうまい作家だ、と一部で好評を集めます。しかし、すでに力量は十分知られている人だから受賞の対象にはならない、とか何とか言って反対した人がいたそうです。知られている、っていったって、まだ文壇に出て1年そこらのペエペエの人に、それはあんまりじゃなかったかと思います。けっきょく直木賞の候補になったのはこれ一回っきり。まあ直木賞も惜しいことをしました。

 そのとき26歳のうら若き乙女だった有吉さんは、高度経済成長の出版界お祭り景気の波にも乗って、おそろしいほどに大活躍。昭和59年/1984年8月に亡くなるまでの、30年に満たない作家人生を図太く駆け抜けました。もっと長生きしていれば、直木賞の選考委員とかにお声がかかって、委員としても伝説を残してくれたかもしれません。残念です。

 ところが、娘の玉青さんも物を書くようになったおかげで、佐和子さんとの思い出はもちろんのこと、その母親のことも世に知れ渡ることになります。玉青さんのような立場の人が『ソボちゃん いちばん好きな人のこと』(平成26年/2014年5月・平凡社刊)を書かなければ、絶対に本としてかたちに残ることもなかったはずの、有吉さんのお母さん。まったくありがたいことです。

 有吉秋津。旧姓は木本。明治37年/1904年10月10日、和歌山県海草郡木ノ本村生まれ。実家は、もともと農業をなりわいとする大地主でしたが、秋津さんの祖父にあたる太兵衛さんが酒造業を始めてますます発展。太兵衛さんの長男、つまり秋津さんの父親となる主一郎さんは若い頃から地元コミュニティの中心にいて、木ノ本村の村長、県会議員、県会議長などを務めたあと、衆議院議員にも当選します。

 そういう環境のなかで秋津さんも、なかなかの英才教育を受けたようで、進学したのが京都女専です。以下は玉青さんによる昭和も後期の回想ですが、秋津さんは新聞や雑誌に丹念に目を通し、本を読んでは知性を磨き、政治について何よりの関心を抱いていた、とのことです。若い頃から、おそらく勉学に励む人だったことだろうと思われます。

 大正半ばから後期ごろ、何の縁があったのか、横浜正金銀行本店に勤める有吉眞次さんと結婚します。眞次さんは秋津さんより7歳年上の、帝大出のインテリゲンチャ。その後、何度か海外に赴任しますが、そのたびに漱石全集と有島武郎全集を持っていくのを忘れなかった、というほどに、かなりの文学好きでした。

 それはともかく、眞次さんと秋津さんは4人の子供を授かります。まずこの世に誕生したのが、大正14年/1925年7月生れの長男の善さんです。まもなく眞次さんの転勤で上海に移り、そこで昭和3年/1928年に次男が生まれますが、まもなく病死。昭和5年/1930年に次なる生命をみごもったとき、秋津さんは海外で産むより実家で産みたいという気持ちに傾いて、ニューヨーク勤務が決まった眞次さんには付いていかず、和歌山に帰郷すると、昭和6年/1931年1月、そこで無事に女の子を生み落とします。佐和子と名づけられました。

 銀行員としておそらく優秀だったんでしょう。眞次さんのほうはさらに海外赴任が続きます。昭和10年/1935年、いったんニューヨークから戻って、秋津さんや佐和子さんともども、東京・大森に住まいを定めますが、昭和12年/1937年、ジャワのバタビヤ(現在のインドネシア・ジャカルタ)にまたまた異動の辞令がくだり、長男の善さんだけを和歌山に預けて、一家で海外へ。昭和14年/1939年に秋津さんは出産のために再び実家に戻って、眞咲さんという男の子を生みますが、昭和16年/1941年に眞次さんの勤務先が東京に変わるまで、一家はジャワで過ごします。

 次々と新しい子供に恵まれ、夫の仕事は順風満帆。この頃の経験が、秋津さんの人生のなかでもとくに楽しい思い出として残りました。だいたい年齢は30代。それはそれは輝く毎日だったことでしょう。戦争を除けば。

 まもなく日本は、国を挙げての決死の戦いにひた走った結果、あっさりと欧米諸国に小手先をひねられて、すみません、許してください、もうしません、と泣きを入れて敗北します。飛ぶ鳥を落とす勢いで人生を送っていた眞次さんは、頼る大樹がなくなって、急速にやる気を失ううちに、昭和25年/1950年に脳溢血で突然死。53歳でした。

 秋津さんもガックリきただろうとは思います。しかし、いつまでもうなだれていないのが、女・有吉秋津のたくましさです。

 子供たちのうち、どうにか立派に育て上げた佐和子さんが、たまさか作家として認められ、才女だ何だと多くのメディアに引っ張りダコの大忙し。わがままで気分屋さんの娘に離れず寄り添い、あなたの今度の作品はあそこが駄目だった、などと厳しく感想を言うのも忘れずに、佐和子さんの仕事の窓口として秘書役をこなしながら、昭和38年/1963年に佐和子さんが生んだお孫さん(玉青さんですね)の育児やお世話を一手に引き受けて、これもまた立派に育て上げます。

 「実は佐和子さんの作品、いくつかはお母さんが書いていたんじゃないの」と、冗談口を叩かれるほどに、佐和子さんの仕事には絶対に欠かせない存在として人生を送った、ということです。昭和63年/1988年5月10日没。享年83。佐和子さんが亡くなった4年ほどのちのことでした。

 ……というところで、今週もまったく直木賞のハナシが出てきませんでした。あまりに悲しすぎるので、無理やり直木賞に結びつけておきたいと思います。

 先に触れたように、秋津さんの夫・眞次さんは文学をこよなく愛する人でした。学生時代には有島武郎を囲む読書会に籍を置き、野尻清彦さんとはその当時からお仲間だったんだそうです。

 丸川賀世子さんの『有吉佐和子とわたし』(平成5年/1993年7月・文藝春秋刊)に、その野尻さん――後年、大佛次郎と名乗った作家と、佐和子さんとの話題が出てきます。

(引用者注:野尻清彦=大佛は)佐和子とのおつき合いはありませんでした。有吉真次の娘と知って驚かれたようでしたけど、何故か冷たかったそうです。お子さんがなかったせいでしょうかね。あとになって、佐和子に何かを書いてくれと伝言があったようですけど、佐和子は断わっていました。」(丸川賀世子・著『有吉佐和子とわたし』所収「お母さんから伺った話」より)

 ちなみに佐和子さんが直木賞の候補になったとき、委員の一人に大佛さんもいましたが、選評では一行も触れていません。かつての友人の娘だからといって、何をしてやる義理もないでしょうし、別に直木賞とは関係ないとは思います。ただ、少なくとも秋津・佐和子側から見たときに、大佛次郎は冷たかった、という思い出が残っているのは気にかかるところです。

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