木村荘平・稲垣アキ(牛鍋屋経営者と妾)。女好きと、向こう気の強さを受け継いだ息子が、直木賞をとる。
一年間、「直木賞と親のこと」のテーマでやってきましたが、それももうじき終わります。
親だ親だ、と言いながら、何とか無理やり候補作家の親のことを直木賞に結びつけようとしてきました。しかし、当たり前ですけど、直木賞の受賞者・候補者にはいろんな人がいます。親との縁が太かった人ばかりではありません。
今週は、ほとんど直木賞と親につながりはないんですけど、その存在が確実に家族郎党と切り離せない昔の作家を取り上げてみたいと思います。木村荘十さんです。
木村荘十とは何者か。この人の小説をいまでも読んでいる、というツワモノに、ワタクシはお目にかかったことがありません。作家としては完全に忘れ去られ、文学史で扱われることもまずあり得ない。いま語られるとすれば、直木賞を受賞したこと、そして木村曙、木村荘太、木村荘八、木村荘十二といった方たちと血を分けた、腹ちがいのきょうだいだった、ということだけです。
要は木村さんのご家族は、有名な一族と言ってもよく、いまさら取り上げても仕方がないんですが、やはり荘十さんがこの一族に生まれたことを生涯にわたって意識していたことは間違いがありません。一週分のエントリーを割いておきます。
父親は木村荘平。天保12年/1841年7月、京の都にほど近い山城国伏見生まれ。
長じて商人として成功し、さまざまなブツを扱いますが、そのなかでも知られているのが、明治11年/1878年、当時はナウでモダンな食材だった牛肉を、鍋でぐつぐつ煮込んで食わせるという牛鍋屋「いろは」を東京市内にぞくぞく出店して、一躍人気を集めたことです。同じ屋号で別々の土地に店舗を出しては、それが当たったということで、日本の外食チェーンのはしり、などとも言われたりします。
成功者にはよくある資質かもしれませんが、荘平さんもまた精力絶倫、女性を抱いて抱いて抱きまくりました。「いろは」をもう一つ有名にしたのは、自分の妾をそれぞれの店舗に配して店のやりくりをまかせたことです。一店舗や二店舗ならそんなことやる人もたくさんいるでしょうが、荘平さんの場合は20を数えるお店の多く(全部ではなかったそうですが)に妾を置いた、と言われています。常人には真似できません。
「いろは」を任せた妾たちと、がしがし子作りに励んだ結果、男の子13人、女の子17人、計30人の子供が荘平さんの遺伝子を受け継ぎます。そのうち深川区東森下町にあった「いろは」第七支店の妾とのあいだにできた10番目の男子が、我らが荘十さんです。明治30年/1897年1月、荘平さんが55歳のときにできた子供でした。
父はかように著名人ですけど、では荘十さんの母は誰なのか。『嗤う自画像』(昭和34年/1959年12月・雪華社刊)という自伝的な読み物を書き残しておいてくれたおかげで、その実像の一部が後世にも伝わっています。
名前は稲垣アキ。出生も育ちも、荘十さんは「私は素性も知らない。」と書いていて、詳細は不明です。
ただ、妾とは言っても旦那にかしずいて一生を終わる人でなかったのはたしかなようで、荘平さんとは別に男をつくり、そのことが荘平さんにバレて、髪を刈られて坊主にさせられますが、そのまま男といっしょに出奔。荘十さんは4歳にして、母を知らない境遇に身を置かれます。
母ゆずりの反発心、父ゆずりの女好き……とまとめてしまうと、おそらく荘十さん自身には不服かもしれません。しかし、一か所にとどまって何かをなすことは、荘十さんにはとうていできない相談でした。何やらかにやら手を出しては女に惚れて、あるいは惚れられて、果ては政治家の妾と手に手を取り合って、満洲に逃避行。その地で、行き別れた母親・アキさんと20年ぶりに再会を果たします。
ところが、アキさんのほうはどこをどう人生を放浪してきたものやら、落魄の姿はげしくて、荘十さんは悲しみとともに母親と接したようです。その後、時を経ずしてアキさんのそのときの夫が丹毒にかかったものですから、アキさんは看病に明け暮れ、ついには自分も肺炎になって、営口満鉄病院で亡くなったとのことです。
「母が、家を出てからの、二十年の風雪については、遂に問いも語りもしなかつた」と荘十さんは書いています。この辺りに、親との縁が薄かった荘十さんの、孤独な感情が表れているようです。
なので、荘平さんとアキさん、両親が荘十さんの直木賞受賞と直接的に関わっているわけではありません。晩年、荘十さんが構想していたという、「いろは」一族を題材にした小説が実現していれば、それはそれで「直木賞受賞者がのちに両親のことを小説に書いた」と言えたかもしれませんが、残念ながら構想だけで終わってしまいます。
ということで、今週は両親とほとんど接することなく成長して直木賞の舞台にあがった人、って感じで締めざるを得ません。さびしいですね、直木賞の周辺に親が出てこないのは。
仕方ないので、荘平さんの小伝を書いた小沢信男さんの木村荘十評を引いて、何とか体裁を整えさせてもらうことにします。
「『嗤う自画像』(引用者中略)は性懲りもない女出入りを描いて題名通りの作品だが、木村家の兄弟たちを見わたして「俺の兄貴たちは皆んな屑だ……家名を挽回するのは俺より外にない」と力むくだりもある。また別の女性とともに帰国後は、創作に専念し、昭和七年「血縁」でサンデー毎日大衆文芸賞、昭和十六年「雲南守備兵」で直木賞を受賞した。兄弟中で荘十が、もっとも壮士風な面があったかもしれない。」(平成16年/2004年8月・筑摩書房刊、小沢信男・著『悲願千人斬の女』所収「いろは大王 木村荘平」より)
たしかに荘十さんの文章には、冷静さ・クールさのなかに、内なる血の気を多さを感じます。そこが小沢さん言うところの「壮士風」なのかもしれませんし、戦前・戦中の大衆文壇で活躍できた何がしかの要因があるかもしれない、と思います。
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