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2024年4月の4件の記事

2024年4月28日 (日)

木村荘平・稲垣アキ(牛鍋屋経営者と妾)。女好きと、向こう気の強さを受け継いだ息子が、直木賞をとる。

 一年間、「直木賞と親のこと」のテーマでやってきましたが、それももうじき終わります。

 親だ親だ、と言いながら、何とか無理やり候補作家の親のことを直木賞に結びつけようとしてきました。しかし、当たり前ですけど、直木賞の受賞者・候補者にはいろんな人がいます。親との縁が太かった人ばかりではありません。

 今週は、ほとんど直木賞と親につながりはないんですけど、その存在が確実に家族郎党と切り離せない昔の作家を取り上げてみたいと思います。木村荘十さんです。

 木村荘十とは何者か。この人の小説をいまでも読んでいる、というツワモノに、ワタクシはお目にかかったことがありません。作家としては完全に忘れ去られ、文学史で扱われることもまずあり得ない。いま語られるとすれば、直木賞を受賞したこと、そして木村曙、木村荘太、木村荘八、木村荘十二といった方たちと血を分けた、腹ちがいのきょうだいだった、ということだけです。

 要は木村さんのご家族は、有名な一族と言ってもよく、いまさら取り上げても仕方がないんですが、やはり荘十さんがこの一族に生まれたことを生涯にわたって意識していたことは間違いがありません。一週分のエントリーを割いておきます。

 父親は木村荘平。天保12年/1841年7月、京の都にほど近い山城国伏見生まれ。

 長じて商人として成功し、さまざまなブツを扱いますが、そのなかでも知られているのが、明治11年/1878年、当時はナウでモダンな食材だった牛肉を、鍋でぐつぐつ煮込んで食わせるという牛鍋屋「いろは」を東京市内にぞくぞく出店して、一躍人気を集めたことです。同じ屋号で別々の土地に店舗を出しては、それが当たったということで、日本の外食チェーンのはしり、などとも言われたりします。

 成功者にはよくある資質かもしれませんが、荘平さんもまた精力絶倫、女性を抱いて抱いて抱きまくりました。「いろは」をもう一つ有名にしたのは、自分の妾をそれぞれの店舗に配して店のやりくりをまかせたことです。一店舗や二店舗ならそんなことやる人もたくさんいるでしょうが、荘平さんの場合は20を数えるお店の多く(全部ではなかったそうですが)に妾を置いた、と言われています。常人には真似できません。

 「いろは」を任せた妾たちと、がしがし子作りに励んだ結果、男の子13人、女の子17人、計30人の子供が荘平さんの遺伝子を受け継ぎます。そのうち深川区東森下町にあった「いろは」第七支店の妾とのあいだにできた10番目の男子が、我らが荘十さんです。明治30年/1897年1月、荘平さんが55歳のときにできた子供でした。

 父はかように著名人ですけど、では荘十さんの母は誰なのか。『嗤う自画像』(昭和34年/1959年12月・雪華社刊)という自伝的な読み物を書き残しておいてくれたおかげで、その実像の一部が後世にも伝わっています。

 名前は稲垣アキ。出生も育ちも、荘十さんは「私は素性も知らない。」と書いていて、詳細は不明です。

 ただ、妾とは言っても旦那にかしずいて一生を終わる人でなかったのはたしかなようで、荘平さんとは別に男をつくり、そのことが荘平さんにバレて、髪を刈られて坊主にさせられますが、そのまま男といっしょに出奔。荘十さんは4歳にして、母を知らない境遇に身を置かれます。

 母ゆずりの反発心、父ゆずりの女好き……とまとめてしまうと、おそらく荘十さん自身には不服かもしれません。しかし、一か所にとどまって何かをなすことは、荘十さんにはとうていできない相談でした。何やらかにやら手を出しては女に惚れて、あるいは惚れられて、果ては政治家の妾と手に手を取り合って、満洲に逃避行。その地で、行き別れた母親・アキさんと20年ぶりに再会を果たします。

 ところが、アキさんのほうはどこをどう人生を放浪してきたものやら、落魄の姿はげしくて、荘十さんは悲しみとともに母親と接したようです。その後、時を経ずしてアキさんのそのときの夫が丹毒にかかったものですから、アキさんは看病に明け暮れ、ついには自分も肺炎になって、営口満鉄病院で亡くなったとのことです。

 「母が、家を出てからの、二十年の風雪については、遂に問いも語りもしなかつた」と荘十さんは書いています。この辺りに、親との縁が薄かった荘十さんの、孤独な感情が表れているようです。

 なので、荘平さんとアキさん、両親が荘十さんの直木賞受賞と直接的に関わっているわけではありません。晩年、荘十さんが構想していたという、「いろは」一族を題材にした小説が実現していれば、それはそれで「直木賞受賞者がのちに両親のことを小説に書いた」と言えたかもしれませんが、残念ながら構想だけで終わってしまいます。

 ということで、今週は両親とほとんど接することなく成長して直木賞の舞台にあがった人、って感じで締めざるを得ません。さびしいですね、直木賞の周辺に親が出てこないのは。

 仕方ないので、荘平さんの小伝を書いた小沢信男さんの木村荘十評を引いて、何とか体裁を整えさせてもらうことにします。

「『嗤う自画像』(引用者中略)は性懲りもない女出入りを描いて題名通りの作品だが、木村家の兄弟たちを見わたして「俺の兄貴たちは皆んな屑だ……家名を挽回するのは俺より外にない」と力むくだりもある。また別の女性とともに帰国後は、創作に専念し、昭和七年「血縁」でサンデー毎日大衆文芸賞、昭和十六年「雲南守備兵」で直木賞を受賞した。兄弟中で荘十が、もっとも壮士風な面があったかもしれない。」(平成16年/2004年8月・筑摩書房刊、小沢信男・著『悲願千人斬の女』所収「いろは大王 木村荘平」より)

 たしかに荘十さんの文章には、冷静さ・クールさのなかに、内なる血の気を多さを感じます。そこが小沢さん言うところの「壮士風」なのかもしれませんし、戦前・戦中の大衆文壇で活躍できた何がしかの要因があるかもしれない、と思います。

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2024年4月21日 (日)

山本唯一(国文学者)。反抗していた息子が、自分の蔵書を参考にして歴史小説を書く。

 今日は令和6年/2024年4月21日日曜日。東京・鬼子母神で一箱古本市の「みちくさ市」がありました。

 とくに行く必要もないんですけど、春日部の奇人・盛厚三さんが元気に出店していると聞いていたので、久栖博季さんが三島由紀夫賞の候補になったことを伝えなきゃと思って、からだに鞭打ち、行ってきました。釧路関係のことなら何でも喜ぶ奇人中の奇人、盛さんですから、まだ受賞もしていない候補に選ばれたという段階のニュースでも、大喜びしていました。

 と、それはうちのブログとは関係ありません。みちくさ市で、盛さんとも顔なじみの〈とみきち屋〉さんに『直木賞受賞エッセイ集成』(平成26年/2014年4月・文藝春秋刊)が出ていたので、思わず買ってしまった……と、それが言いたかったんです。

 平成期の直木賞受賞者たちが、『オール讀物』に寄せた受賞エッセイをまとめた本ですけど、このエッセイは基本的には受賞者がそれまでどのように歩んできたか、というのがテーマになっています。当然、直木賞にまつわる親のハナシの宝庫でもあります。

 今週は、そこに収録された作家のことにしたいと思い、この人を取り上げます。第140回(平成20年/2008年・下半期)受賞、いまはもう新作が読むことはかなわない山本兼一さんです。

 山本さんの受賞エッセイは「本のある家」というタイトルです(初出『オール讀物』平成21年/2009年3月号)。自身の来歴のハナシでありながら、親のことを語っていて、内容からしても代表的な「親にまつわる直木賞受賞エッセイ」の一つ、と言っていいでしょう。書かれているのは、山本さんの父親のおハナシです。

 山本唯一(ゆいいつ)。大正10年/1921年2月7日、新潟県中頸城郡新井町生まれ。実家は同地のお寺だったのではないかと思われますが、くわしくは今後の山本唯一研究(?)の成果を待ちたいと思います。

 大学は、仏教にまつわるあれこれに特化した大谷大学に進み、昭和18年/1943年に文学部を卒業します。しかし時代が時代、日本じゅうが戦争だ聖戦だと言い募っていた時期に当たり、唯一さんも「卒業」とは言いながら学徒出陣で陸軍に行かされて、そこで貴重な青春時代の2年間を送った模様です。

 唯一さんの興味があったのは、昔の俳諧についてあれこれと調べることで、とくに俳諧と仏教との関わりには並々ならぬ関心を抱いていました。戦争が終わって、あらためて学究の道に舞い戻ると、昭和25年/1950年に京都大学文学部国文学科を修了。そこから母校の大谷大学に助手として帰ってきます。

 昭和27年/1952年に助教授になる頃には、終生連れ添う嘉子(よしこ)さんと結婚したらしく、その後に女児をひとり、男児をひとり儲けます。その男の子のほうが、のちに小説家になる兼一さんです。生まれは昭和31年/1956年7月、父の唯一さんが気鋭の国文学者として世に出ようとしていた頃にあたります。

 それで、兼一さんの受賞エッセイなんですけど、タイトルにあるとおり、とにかく実家にはたくさんの本が並んでいたそうです。唯一さんは自分の研究分野である和書や古書籍を大量に買い込むし、嘉子さんは高校で国語の先生をしていたそうで、こちらも大の読書好き。文学全集やら新刊の書籍やらを本棚に並べては、ガッシガッシと読書に励みます。

 本に囲まれた環境で育つうちに、いつかは自分も文学で生きていきたい……と思うようになる兼一さんの心の動きは、あるいは自然だったかもしれません。しかし、ここで出てくるのが当エッセイの眼目に違いない心のしこり。父親、唯一さんに対する反抗心ないしは憎悪の感情です。

 子供の頃は鉄拳制裁で、兼一さんもけっこう唯一さんに殴られていたと言います。外ではまじめで温厚な学者先生が、裏では平気で暴力をふるっていた、というのですから穏やかではありません。息子にはよくある感情でしょうけど、兼一さんは父親のことがイヤでイヤで仕方なくて、まともに口を利くことすらできなくなります。

 そして、唯一さんが望んでいたような道には行かず、大学卒業を控えてバックパッカーとなるとインドからヨーロッパをめざして一人旅。帰国後は、新聞の求人広告からさがして、家具関係の業界誌をつくっている会社に就職します。その後は文章を書くことが仕事になる職場を転々としたあと、30歳でフリーのライターになりました。

 その頃、父の唯一さんは、大谷大学で教授、図書館長、文学部長などを勤め上げて、昭和61年/1986年に退職します。芭蕉研究といえばこの人だ、といったようなガチガチの国文学者として研究を続けますが、平成3年/1991年6月2日、妻の嘉子さんに先立たれてしまいます。一人になった老学者。

 やっぱり親のことは放っておけないと、東京に住んでいた兼一さんは、京都の唯一さんのところに戻ってきて、同居することを選びます。昔からの経緯もあるので、そう簡単に父親と打ち解けることはできませんが、ともかく父のもとには大量の本がある。小説家になりたい、と思って、さまざまな新人賞に応募しては落選を繰り返していた兼一さんは、やがて家にある歴史研究の基本的な文献に親しむようになって、そうか、歴史小説を書いてみようと思い立った、というわけです。

 唯一さんが亡くなったのは平成12年/2000年10月2日です。兼一さんが「弾正の鷹」で小説NON創刊150号記念短編時代小説賞の佳作になったのは平成11年/1999年ですから、その頃には唯一さんも生きていたはずですが、そんなものをもらったところで、小説家として続けていけるかはまるでわかりません。けっきょく、父親とは胸をひらいて語り合うこともなく、作家になった自分の姿を見せることもないままに、別離を迎えてしまいました。

 それから約8年が経過して、兼一さんは直木賞を受賞します。そして改めて父のことを思います。

「憎しみしか感じていなかった父親だが、いま、こうして蔵書の恩恵にあずかってみると、複雑な思いがゆらぐ。

直木賞という大きな賞をいただき、この原稿を書くことで、わたしはようやく父親との関係を、客観的に見つめ直すことができるかもしれない。

この歳になって――、と恥ずかしく思うが、人間という生き物は、どうしたって幼児体験を重く引きずるしかなかろう。

いま、仕事場で本に囲まれながら、本が語りかけてくる声を聴いている。」(山本兼一「本のある家」より)

 直木賞というものがあったおかげで、父との関係性を見つめ直せるかもしれない。そんなふうに兼一さんは言ってくれました。そうであれば、直木賞のほうも、少しはやっている意味があった、というものです。

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2024年4月14日 (日)

有吉秋津(銀行員の妻)。夫のかつての友人が、娘の直木賞候補作を選考する。

 直木賞、直木賞と、うちのブログではそればっかり言っています。ほんとは、直木賞に関わる作家のなかでも、有名じゃない部類の人をたくさん取り上げたいんです。だけど有名じゃない人は、つまり有名じゃないので、くわしく調べたくてもなかなか調べきれません。ということで、すみません、今週は超絶に有名な作家の、親のハナシを書くことにします。

 有吉佐和子さんです。作家デビューが昭和30年/1955年(月号表記は昭和31年/1956年1月号)の『文學界』に掲載された「地唄」で、直木賞の候補になったのはそれから1年半後の第37回(昭和32年/1957年・上半期)。対象となったのは『キング』に載った「白い扇」でした。

 選考委員のあいだでは、何とうまい作家だ、と一部で好評を集めます。しかし、すでに力量は十分知られている人だから受賞の対象にはならない、とか何とか言って反対した人がいたそうです。知られている、っていったって、まだ文壇に出て1年そこらのペエペエの人に、それはあんまりじゃなかったかと思います。けっきょく直木賞の候補になったのはこれ一回っきり。まあ直木賞も惜しいことをしました。

 そのとき26歳のうら若き乙女だった有吉さんは、高度経済成長の出版界お祭り景気の波にも乗って、おそろしいほどに大活躍。昭和59年/1984年8月に亡くなるまでの、30年に満たない作家人生を図太く駆け抜けました。もっと長生きしていれば、直木賞の選考委員とかにお声がかかって、委員としても伝説を残してくれたかもしれません。残念です。

 ところが、娘の玉青さんも物を書くようになったおかげで、佐和子さんとの思い出はもちろんのこと、その母親のことも世に知れ渡ることになります。玉青さんのような立場の人が『ソボちゃん いちばん好きな人のこと』(平成26年/2014年5月・平凡社刊)を書かなければ、絶対に本としてかたちに残ることもなかったはずの、有吉さんのお母さん。まったくありがたいことです。

 有吉秋津。旧姓は木本。明治37年/1904年10月10日、和歌山県海草郡木ノ本村生まれ。実家は、もともと農業をなりわいとする大地主でしたが、秋津さんの祖父にあたる太兵衛さんが酒造業を始めてますます発展。太兵衛さんの長男、つまり秋津さんの父親となる主一郎さんは若い頃から地元コミュニティの中心にいて、木ノ本村の村長、県会議員、県会議長などを務めたあと、衆議院議員にも当選します。

 そういう環境のなかで秋津さんも、なかなかの英才教育を受けたようで、進学したのが京都女専です。以下は玉青さんによる昭和も後期の回想ですが、秋津さんは新聞や雑誌に丹念に目を通し、本を読んでは知性を磨き、政治について何よりの関心を抱いていた、とのことです。若い頃から、おそらく勉学に励む人だったことだろうと思われます。

 大正半ばから後期ごろ、何の縁があったのか、横浜正金銀行本店に勤める有吉眞次さんと結婚します。眞次さんは秋津さんより7歳年上の、帝大出のインテリゲンチャ。その後、何度か海外に赴任しますが、そのたびに漱石全集と有島武郎全集を持っていくのを忘れなかった、というほどに、かなりの文学好きでした。

 それはともかく、眞次さんと秋津さんは4人の子供を授かります。まずこの世に誕生したのが、大正14年/1925年7月生れの長男の善さんです。まもなく眞次さんの転勤で上海に移り、そこで昭和3年/1928年に次男が生まれますが、まもなく病死。昭和5年/1930年に次なる生命をみごもったとき、秋津さんは海外で産むより実家で産みたいという気持ちに傾いて、ニューヨーク勤務が決まった眞次さんには付いていかず、和歌山に帰郷すると、昭和6年/1931年1月、そこで無事に女の子を生み落とします。佐和子と名づけられました。

 銀行員としておそらく優秀だったんでしょう。眞次さんのほうはさらに海外赴任が続きます。昭和10年/1935年、いったんニューヨークから戻って、秋津さんや佐和子さんともども、東京・大森に住まいを定めますが、昭和12年/1937年、ジャワのバタビヤ(現在のインドネシア・ジャカルタ)にまたまた異動の辞令がくだり、長男の善さんだけを和歌山に預けて、一家で海外へ。昭和14年/1939年に秋津さんは出産のために再び実家に戻って、眞咲さんという男の子を生みますが、昭和16年/1941年に眞次さんの勤務先が東京に変わるまで、一家はジャワで過ごします。

 次々と新しい子供に恵まれ、夫の仕事は順風満帆。この頃の経験が、秋津さんの人生のなかでもとくに楽しい思い出として残りました。だいたい年齢は30代。それはそれは輝く毎日だったことでしょう。戦争を除けば。

 まもなく日本は、国を挙げての決死の戦いにひた走った結果、あっさりと欧米諸国に小手先をひねられて、すみません、許してください、もうしません、と泣きを入れて敗北します。飛ぶ鳥を落とす勢いで人生を送っていた眞次さんは、頼る大樹がなくなって、急速にやる気を失ううちに、昭和25年/1950年に脳溢血で突然死。53歳でした。

 秋津さんもガックリきただろうとは思います。しかし、いつまでもうなだれていないのが、女・有吉秋津のたくましさです。

 子供たちのうち、どうにか立派に育て上げた佐和子さんが、たまさか作家として認められ、才女だ何だと多くのメディアに引っ張りダコの大忙し。わがままで気分屋さんの娘に離れず寄り添い、あなたの今度の作品はあそこが駄目だった、などと厳しく感想を言うのも忘れずに、佐和子さんの仕事の窓口として秘書役をこなしながら、昭和38年/1963年に佐和子さんが生んだお孫さん(玉青さんですね)の育児やお世話を一手に引き受けて、これもまた立派に育て上げます。

 「実は佐和子さんの作品、いくつかはお母さんが書いていたんじゃないの」と、冗談口を叩かれるほどに、佐和子さんの仕事には絶対に欠かせない存在として人生を送った、ということです。昭和63年/1988年5月10日没。享年83。佐和子さんが亡くなった4年ほどのちのことでした。

 ……というところで、今週もまったく直木賞のハナシが出てきませんでした。あまりに悲しすぎるので、無理やり直木賞に結びつけておきたいと思います。

 先に触れたように、秋津さんの夫・眞次さんは文学をこよなく愛する人でした。学生時代には有島武郎を囲む読書会に籍を置き、野尻清彦さんとはその当時からお仲間だったんだそうです。

 丸川賀世子さんの『有吉佐和子とわたし』(平成5年/1993年7月・文藝春秋刊)に、その野尻さん――後年、大佛次郎と名乗った作家と、佐和子さんとの話題が出てきます。

(引用者注:野尻清彦=大佛は)佐和子とのおつき合いはありませんでした。有吉真次の娘と知って驚かれたようでしたけど、何故か冷たかったそうです。お子さんがなかったせいでしょうかね。あとになって、佐和子に何かを書いてくれと伝言があったようですけど、佐和子は断わっていました。」(丸川賀世子・著『有吉佐和子とわたし』所収「お母さんから伺った話」より)

 ちなみに佐和子さんが直木賞の候補になったとき、委員の一人に大佛さんもいましたが、選評では一行も触れていません。かつての友人の娘だからといって、何をしてやる義理もないでしょうし、別に直木賞とは関係ないとは思います。ただ、少なくとも秋津・佐和子側から見たときに、大佛次郎は冷たかった、という思い出が残っているのは気にかかるところです。

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2024年4月 7日 (日)

井上郁子(作家の妻)。娘が直木賞を受賞した作品を「あの程度の小説」と言ってのける。

 今週の「直木賞と親のこと」は「親が作家だった」シリーズです。

 シリーズです、というか、勝手にこちらが名づけているだけですけど、直木賞の舞台に挙がった候補者のなかで、この人は絶対に取り上げなきゃいけない、と思う人がいます。井上荒野さんです。

 初めて直木賞の候補になったのが第138回(平成19年/2007年・下半期)で、デビューしてから17~18年。その候補作の『ベーコン』は、選考会の場でも、まあこのぐらいの作品集は世間にゴロゴロあるよね、程度の軽いあしらいしか受けませんでしたが、その次の第139回(平成20年/2008年・上半期)では評価一転。『切羽へ』の、こまやかな心理描写が高い評価を受けて、あっさりと直木賞受賞者になりました。他に強い候補作がなかった、というのも多少は影響したかもしれません。もう16年もまえのことです。

 荒野さんの父親は、文学の世界に興味がある人ならまず名前を知っているような有名作家だったので、当時その辺りの切り口でいろいろと記事が出たのは、何となく覚えています。うちのブログでも、荒野さんと父のことは、以前に書いたような気がします。まあ、誰でも荒野さんと聞けばその父親を語りたくなるのは当然でしょう。

 ただ、直木賞との関係でいえば、やっぱり荒野さんの親といえば母親のほうではないか。……とワタクシが思うようになったのは、荒野さんが直木賞をとってから元気に作家活動をつづけ、『あちらにいる鬼』(平成31年/2019年2月・朝日新聞出版刊)を書いて、さまざまなメディアでインタビューを受けたりエッセイを寄せたりしてくれたからです。へえ、そうだったんだ、と知らなかったことが、荒野さんの口からどんどん公表されるにつれ、ワタクシも俄然、そのお母さんのことに興味を抱くようになりました。

 井上郁子。旧姓は池田。昭和5年/1930年、長崎県佐世保市生まれ。実家は市内の四ヶ町商店街の和菓子店「松月堂」で、二代目にあたる池田徹さんと妻・喜美子さんのあいだに長女として生まれました。

 かわいいお菓子屋さんのお嬢さん。とくべつ生活に苦労することもなく育ちますが、学校を出て高校の国語教師になるうちに、どこでどう火がついたものか、共産党や左翼の活動に関心をもちはじめます。戦後の昭和20年代、女も男も若者には、いまのままじゃ日本はだめだ、われらが社会を変えていかなくちゃだめなんだ、と何かに衝き動かされるものがあった、ということかもしれません。郁子さんも、そういう若者の一人だったようです。

 と、そこに現われたのが同じ佐世保で、かなり精力的に左翼運動に関わっていた共産党員の男。井上光晴さんです。

 声がでかくて、ずかずかと相手の懐に入ってくる、がさつな男、光晴さんは、出会ったころから郁子さんに好意をもったらしく、やがて二人は惹かれ合うようになります。

 出会いからだいたい2~3年たつうちに、いっしょに所帯を持つことになり、東京に出てくる光晴さんに従って、郁子さんも佐世保を離れて上京します。昭和31年/1956年、郁子さん26歳の年でした。

 『あちらにいる鬼』には、そのときはまだ婚姻届は出さず、正式に結婚したのは昭和36年/1961年になってからだ、と書かれています。そうなのかもしれません。夫の光晴さんは『新日本文学』を軸にしながら『現代批評』の創刊に加わったり、『書かれざる一章』『虚構のクレーン』などの小説を刊行したり、にわかに文壇に躍り出ます。昭和36年/1961年に長女・荒野さんが生まれたのはちょうどその頃のことです。

 ところが、光晴さんは多くの女性と関係しては、相手からも惚れられる人だったそうで、日本全国、行くさきざきで、わたしこそ光晴さんに愛されている、と胸を熱くする女性シンパができていった、と漏れ伝えられています。瀬戸内晴美さんとの仲は、そのなかでも別格だったのかどうなのか、もはや余人にはうかがい知れない世界ですけど、それもこれも、家に帰ればいつもなごやかな郁子さんがいる。長女の荒野さん、昭和41年/1966年に生まれた次女の切羽さんを、立派な大人に育て上げ、外でだんなが好き勝手やっているのもほとんど口出しせずに黙認した郁子さんが偉かった、ということになります。お母さんは偉大です。

 郁子さんも、自分で文章を書けばかなりのものが書ける才能の持ち主でした。生前、光晴さんの名前で発表されたいくつかの作品は、おそらく郁子さんが光晴さんからアイディアを聞いて自分で書いたものだろう、と後年、荒野さんは証言しています。本もたくさん読み、自分の考えを深めていった郁子さん。やがて娘が平成1年/1989年にフェミナ賞でデビューしたあとも、娘の小説を熟読しては、鋭い感想を述べていた、というのですから、若いころからの文学的な素養もバカにしたものではありません。

 夫の光晴さんは、平成4年/1992年に66歳で亡くなります。このとき、郁子さんは62歳。気丈に喪主を務め、いくつかの媒体に夫を偲ぶ文章を残すと、その後はとにかく自分の関心を本を読むことに向けることになりました。

 亡くなったのが平成26年/2014年9月5日ですので、享年84。夫のいない世界を22年も生きたご褒美として、平成20年/2008年7月には、荒野さんが直木賞を受賞するという晴れ舞台を自分の目で見ることもできました。荒野さんは、自分は父というより、母に似ているだろう、とさまざまなインタビューで答えていますが、それを郁子さんはどう聞いたのか。ともかく、郁子さんがいけなければ、荒野さんの直木賞受賞もなかったのは事実です。

 しかし、その授賞式の席上、郁子さんが語った言葉というのが、ふるっています。荒野さんの回想です。

「私の父は小説家だったが、私の母もまた、小説を書いていた。そのことを母は、父の死後10年ほどが経ったときに私に明かした。

(引用者中略)

先日、長い付き合いである、ある新聞社のベテラン文芸記者のK氏と、久しぶりにお酒を飲んだときのこと。「そういえばあなたが直木賞を受賞したときにさ」とK氏が教えてくれた。授賞式のとき、彼は私の母と同じテーブルにいたそうだ。父の担当だった編集者が集まっていて、ちょっとした同窓会のようになっていたその場所で、「お母さんが、ぼそっと呟いたんだよ。あの程度の小説で、直木賞ってとれるのねえ、って……」」(『文藝春秋』令和1年/2019年10月号 井上荒野「母の呟き」より)

 うんうん、すばらしいですね、郁子さん。『切羽へ』を「あの程度の小説」と表現するとは、ワタクシも激しく同意します。

 いや、直木賞の受賞作のほとんどは、あの程度・この程度の作品が大半を占めている、という感想に、ワタクシは激しく同意します。直木賞をとるものはどれも名作、なんちゅうのは、一部の人たちの勘違いでしかありません。それをぼそりと言える、まっとうな感性。その血が荒野さんにも濃密に流れているのだとしたら、これからの荒野さんも、活躍を続けることは間違いないでしょう。

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