高野一郎・きぬ子(家具職人とその妻)。幼い娘を残して戦場に行った父、晩年まで娘と離れず暮らした母。
直木賞を受賞した人の親には、履歴の知られた有名な人もいます。ただ、だいたいの親は一般には知られることのない普通の無名人です。
そんな人たちのことを知ってどうするんだ。という気がしないではありませんが、いや、そんなこと言いはじめたら、世のなかのすべてが「知ってどうするんだ」ってことになっちゃいます。ここは自分の興味の向くままに、直木賞に関する「知っても何の役にも立たないこと」を調べつづけるしかありません。
一般には知られることのない無名な人。だけども、子供である作家が書き残したことで、われわれ無関係な読者にも、ほお、こういう人がいたんだ、と知られるようになったケースは数多くあります。たとえば第109回(平成5年/1993年・上半期)直木賞を受賞した北原亞以子さんの場合も、そのひとつです。
31歳で作家デビューしてから苦節20年。『深川澪通り木戸番小屋』で第17回泉鏡花文学賞を受賞し、その勢いで(?)4年後には『恋忘れ草』で直木賞の候補に初めて挙がり、そのままズバッととりました。そのあたりのアレコレは、昔、うちのブログでも触れたことがあるように記憶しています。
直木賞をとった頃からは順調に原稿の注文が引くこともなく押し寄せて、数々の著作を残しましたが、そのなかで新潮社の『波』で連載したのが「父の戦地」(平成18年/2006年10月号~平成19年/2007年12月号)でした。平成20年/2008年7月に新潮社から単行本となり、平成23年/2011年8月には新潮文庫に入っています。
タイトルのとおり、これは北原さんが自身の父親のことを書いたものです。と同時に、もちろん父親のまわりにいた母親や係累のことにも筆が及んでいます。
父親は高野一郎。生まれはだいたい明治の末ごろ。明治45年とすれば西暦で1912年の時代です。実家は東京・芝で家具をつくっていた職人の家で、父にあたる銀次郎さんは椅子の製作を専門にしていたんだとか。もちろん息子の一郎さんに後を継がせて家具職人になってもらおうと思っていたらしいんですけど、一郎さんはそちらのほうにはからっきし興味がなく、イラストとか漫画を描くのが大好きな少年でした。
11歳のとき、母の〈タマ〉さんが数え30歳で亡くなってしまい、やがて父の銀次郎さんは若い娘さんを後添いに迎えます。新しい継母は、一郎さんとは6歳しか違わない若さだったもので、二人は気安く口を聞き合う仲のいい親子になりますが、そのことが後年までズルズルと尾を引きます。
尾を引くとはどういうことか。そこに登場するのが一郎さんと結婚することになる〈きぬ子〉さんです。一郎さんのお嫁さん候補を探していたとき、たまたまその継母の従妹にあたる〈きぬ子〉さんに白羽の矢が立てられて、昭和8年/1933年ごろに二人は首尾よく結ばれます。甘ーい甘ーい新婚生活のスタートです。
ところが、家族関係というのはどこで問題を起こすかわかりません。一郎さんは継母とは軽口や冗談を叩き合って、キャッキャ、キャッキャと打ち解けあう。お嫁さんの〈きぬ子〉さんも二人といっしょに話したいと輪に入っていこうとするんですが、そこで継母が「あなたが来るとおもしろくなくなる」と憮然とした態度をとってくる。それには一郎さんもとくに反論することもなく、ただ黙っていて、〈きぬ子〉さんもしゅんとなってしまいます。ああ、かわいそうな〈きぬ子〉さん。
結婚して5年め、昭和13年/1938年の正月に待望の第一子が誕生します。美枝(よしえ)と名づけられたこの女の子が、のちに作家となる筆名・北原亞以子さんです。
その後、昭和16年/1941年に一郎さんは兵隊にとられ、高野一家も銀次郎さんが亡くなって家具づくりの仕事場も閉鎖、〈きぬ子〉さんと娘の北原さんは千葉県成田に疎開して、生活が苦しくなる戦争のあいだ、南方に派遣された一郎さんからぞくぞくと妻子のもとにイラスト入りのハガキが送られてくるんですが、昭和20年/1945年4月29日、一郎さんは従軍先のビルマ、サルウィン川の河口で敵機から銃弾を浴びて死亡。30代半ばの若さでした。
……といったあれこれの経緯の詳細は『父の戦地』を読んでいただくとしまして、終戦後、〈きぬ子〉さんは再婚を決意。北原さんも新しい父をもうけることになります。
〈きぬ子〉さんは北原さんに対して、もとの夫の一郎さんのことはあまり語ることのないまま生活を送ったそうです。あるいは語るにしても、けっこう辛辣に一郎さんのことを悪く言う思い出ばなしが多かったようで、父に対して恋しさを募らせる北原さんは、そういう悪口を聞くのが嫌いでした。母親は、おそらく再婚相手に気を遣ってわざともとの夫をよくは言わなかったのではないか、それと新婚時代に継母と仲良くして言いなりだった夫に、軽く恨みをもっていたのではないか、というのが後年、北原さんが書いている憶測です。
それで「直木賞と親のこと」のハナシなんですけど、当然、父・一郎さんは北原さんが受賞したときには、この世にいません。母・きぬ子さんも、北原さんが新潮新人賞と小説現代新人賞(佳作)を受けた昭和44年/1969年には存命でしたが、作家としてきちんと食っていけるようになる前には、あの世に旅立ってしまった模様。娘が直木賞を受ける姿を見ることはありませんでした。
しかし、父のことをずっと恋しく思い、母については「自分はマザーコンプレックスだ」というほど人生の岐路では常に母親との生活を優先してきた北原さんです。きっちりと、直木賞を受賞したときのエッセイに二人のことを書き残しています。
「(引用者注:「恋忘れ草」に出てくる)国芳は武者絵が有名だが、私は、わずかしかない彼の風景画に惹かれた。彼の風景画に出てくる人物が、何となく父を想像させたのだ。
(引用者中略)
苦労して育った母の口癖は、「もったいない」だった。私が捨てようとしたものも母は器用に再生し、古いブラウスもスカートも、一部が座布団カバーになったりした。(引用者中略)晩年はミシンを踏まず、針箱を引き寄せては着物を縫い返していたが、私には、その姿と、つましい暮らしをしていたにちがいない江戸の女達の姿が重なって見えるのである。」(『オール讀物』平成5年/1993年9月号 北原亞以子「木々の香」より)
そして、父と母が、自分を決して丈夫ではなく幼少期から弱いからだで生んでくれたからこそ、自分は作家になったのだと思う、と書いています。名もなき二人の両親のことを、自分が受賞者になったということを活かして直木賞の歴史に刻んでくれた北原さん。心がしみじみします。
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