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2024年3月10日 (日)

白石小一郎(税理士)。まともに定職につけなかった息子が、筆一本で立つころには寿命が尽きる。

 直木賞史上、最も有名な親子、というと誰でしょうか。

 まあ、誰を有名と思うかは人それぞれです。最も有名なのかどうか、ワタクシもまったく自信はないんですが、やっぱり親子そろって直木賞を受賞したペアであれば、かなりの上位に挙がると思います。白石一郎さんと一文さんです。

 一文さんから見た「親と子のハナシ」は、一文さんが受賞した第142回(平成21年/2009年・下半期)の頃に、たくさんメディアに流れました。それらをまとめてここで取り上げるのでも、全然いいんですけど、多く知られたことをなぞるだけじゃ面白くありません。なので今週は、それとは違う白石親子のことを調べることにしました。

 一郎さんにとっての父親のことです。

 いや、これも知られたハナシかもしれません。ただ、一文さんの父親エピソードほどは一般的ではないだろうと信じまして、直木賞受賞者の父親のそのまた父親でもある、白石家のおじいちゃんのことを書いておくことにします。

 白石小一郎。詳しい生年も経歴もよくわかりません。とりあえずざっくりしたことだけまとめると、生まれたのは、だいたい明治25年/1892年ごろ。出身は、九州北部の玄界灘にある壱岐島で、父親は同島の箱崎村の初代村長を務めた白石保衛さん、だったと推測されます。

 そんな地元の名士の家で小一郎さんはすくすくと成長し、大正2年/1913年に朝鮮に渡って釜山郵便局の事務員になります。これは兄の槌夫さんが、長崎師範甲種講習を出たあとに朝鮮で学校の先生になっていて、それを頼ったためとも言われています。日本が韓国の領土をおれのもんだぜと吸収したのが明治43年/1910年の韓国併合からなので、槌夫さんや小一郎さんが朝鮮で生活しはじめたのも、その背景があったからだと言えるでしょう。

 小一郎さんはその後、大正8年/1919年に澤山商会という会社に転職を果たします。この会社は商品を船で運ぶいわゆる海運業者として大きな勢力を誇っていて、なかなかの大企業だったらしいですが、これといった学歴のない小一郎さんは自ら勉学に励み、経理事務の担当として懸命に働いて評価を得ます。人間、まじめに働くことは大事です。

 それからどういった縁で知り合ったものか、広島県尾道の商家で生まれ育った艶子さんと結ばれることになり、女の子を二人もうけたあと、昭和6年/1931年には待望の男の子が生まれて、小一郎さん大喜び。さあ何と名づけようかと悩んだあげく、漢文の教師でもあった兄の槌夫さんに相談したところ、うん、「一郎」がいいんじゃないかと言われて、将来白石家をしょって立つかわいい坊やに立派な(?)名前がつきました。

 ということで一郎さんは、姉二人にも可愛がられ、両親にも甘やかされて、朝鮮釜山の地で多感な少年時代を送ります。しかし、旧制中学二年のときに日本が戦争にボロ負け。父の小一郎さんは「馬鹿な! こんなことあるか」と半狂乱で叫んだと言います(平成12年/2000年2月『文藝春秋臨時増刊号 私たちが生きた20世紀』白石一郎「「内地」と「外地」」)。

 澤山汽船からの給料で羽振りのいい生活をしていた白石家でしたが、戦争に負けたあとは、がらりと状況が変わります。小一郎さんだけ釜山に残り、残りの家族はいったん福岡県の柳川に引き揚げて、翌年、どうにか目途をつけて小一郎さんが本土に戻ってくると、長崎県佐世保に落ち着きます。そこで小一郎さんは、経理事務という自分の専門を活かして、仕事先を開拓。家族を食わせることに懸命になりますが、つらいことは続くもので、昭和22年/1947年、妻の艶子さんを亡くします。悲嘆に暮れる白石小一郎。ああ、この世には神も仏もいないのか。

 望みは、ただ一人の男の子、一郎さんが自分の跡を継ぐなり、立派になってくれることでしたが、まあこの一郎さんが、数字を見てもちんぷんかんぷんの役立たず。大学は、思い切って東京の早稲田に行かせたものの、ろくに経済の勉強もせずに遊び呆ける日々で、ようやく就職したと思ったら、会社では遅刻ばかりして戦力外。税理士の資格をとらせるために、佐世保に帰ってこさせると、自分の税理士事務所で働かせてはみますが、仕事や勉強に身を入れる様子もなく、原稿用紙に文字を埋めては、おれは作家になるんだとか何だとか言っているニート状態です。

 この頃を回想して、一郎さんはこう書いています。

「小説を書いては懸賞に応募し、これも落選をつづけながら、ふしぎに気落ちせず、せっせと書いては送った。たぶん他に能がないので、小説を書くことにしか救いがなかったのだろう。二年ばかりのぶらぶら生活で両親には本当に迷惑をかけた。今でも心の中でお詫びをしている。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋/文春文庫『無名時代の私』所収 白石一郎「孫悟空」より)

 「両親」とあるので、おそらく小一郎さんは再婚したものと思われます。いずれにしても、かわいい息子がこの世のなかでどうやって身を立てるかもがいている。父親として心配しなかったわけがありません。

 昭和31年/1956年ごろに、小一郎さんは仕事の都合で、福岡に移り住みます。その頃には息子の一郎さんも、税理士になる目標を捨てて、親戚のやっている電気器具の卸し会社にコネ入社させてもらいます。さすがにおれもきちんと働かなくちゃ、とは思っていたようですが、しかしその会社でも迷惑のかけどおしで、親の心配はますますつのるばかりです。

 そんな一郎さんが講談倶楽部賞をとるのが昭和32年/1957年、はじめて直木賞の候補に挙がるのが、第63回(昭和45年/1970年・上半期)でした。小一郎さんが肺がんで亡くなったのは、70歳すぎの頃だそうなので、昭和37年/1962年前後だったと見ると、一郎さんが作家デビューした頃には存命だったでしょう。しかし、時悪しく一郎さんが寄稿先として頼みにしていた『講談倶楽部』が廃刊となった頃に、小一郎さんは世を去ります。

 息子の生活は、とうてい筆一本でやっていけると言えるほどの状況ではありません。どんな思いで死んでいったのか。心配は心配だったと思いますが、好きなことやっとるようだし、まあええか、ぐらいに思っていたかもしれません。親の気持ちは人それぞれ。こればっかりは、もうわかりません。

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