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2024年3月24日 (日)

久世ナヲ(軍人の妻、高校教諭)。早くに亡くなった夫の分まで、息子の小説家としての活躍を見届ける。

 図書館に行くと、だいたいエッセイ・コーナーに立ち寄ります。小説だけじゃなくエッセイの類も、いろんな人たちがたくさん本を出していて、背表紙を見ているだけで一生が終わっちまいそうですが、こないだも近くの図書館に行って、つらつら眺めていたところ、あっ、この人をあまりブログで取り上げてこなかったな、と思い当たる名前に出会いました。久世光彦さんです。

 何をいまさら、という感じがあります。直木賞の候補になる前から、ある種の有名人、よく知られたドラマの演出家で、いまだって「久世光彦」のテーマで夜通し語り明かせる爺さん婆さん(もしくは、おっちゃんおばちゃん)は数多くいるでしょう。何をいまさら、です。

 その生涯についても(おそらく)調べ尽くされています。うちのブログが手を伸ばすのもおこがましい気がする著名な書き手のひとりです。でも、残念ながら……いや、残念ってことはないか、久世さんも第111回(平成6年/1994年上半期)と第120回(平成10年/1998年下半期)、二度ほど直木賞の候補になった人ですから、うちのブログで触れたところで、誰に文句を言われる筋合いもありません。今週は、久世さんと親のハナシで行くことにします。

 久世さんには父親と母親がいます。どちらも久世さんのエッセイには、ちょくちょく登場する人たちです。といってもワタクシだって、そんなに久世さんのエッセイを読み尽くしたわけじゃないので、まあ、いわゆる知ったかぶりです。ただ、どちらかといえば、直木賞との関係性でいえば母親のほうが取り上げやすそうな気がするので、今日のエントリーは久世ママのほうを中心にしようと思います。

 久世ナヲ。旧姓は置塩。明治33年/1900年4月、富山県生まれ。実家は魚津市御影だったので、たぶんそこで生まれ育ったんでしょう。もともとは裕福な家で、上のきょうだいたちはイイ学校に行かせてもらいますが、まもなく実家の事業が傾いたために、ナヲさんだけ師範学校に入り、教師の道を進むことになります。

 ところが、このときナヲさんがあまりに優秀な成績だったおかげで、よし、うちがお金を出してやるから東京で学べ、と言ってくれた篤志家がいたそうです。名前はわかりません。その人の期待を一心に背負い、ナヲさんは猛勉強して富山の女子師範から、無事に東京女子高等師範学校へと入学が許可されます。大正9年/1920年春のことでした。

 そこの家事科で学んだのち、富山に戻って富山県女子師範兼富山高女教諭になります。大正14年/1925年には、どんな縁があったものかこちらも富山県出身の陸軍歩兵、久世弥三吉(くぜ・やそきち)さんとめでたく結婚が成就。大正15年/1926年に福島県の会津高女で働いたものの、昭和3年/1928年に退職し、夫に付いて家を守る、いわゆる主婦の座に落ち着きます。

 子供は、大正15年/1926年に生まれた瓔子(えいこ)さんを皮切りに、公尭(きみたか)、伊尭(よしたか)、玲子(れいこ)とこの世に生み出しますが、そのうち伊尭さんは3歳で急性陽炎で死亡、玲子さんは生後40日で乳児脚気で死亡と、たてつづけに幼い命をうしなって、ナヲさんも悄然。そのため昭和10年/1935年、第五子として生まれた光彦(てるひこ)さんのことは、過保護なぐらいに大事に大事に育てた、ということです。

 当時、久世家は東京の杉並区阿佐ヶ谷に家を持ち、一家五人、安らかに(?)過ごしていましたが、昭和10年代を経験した日本の家族では当然のごとく、戦争によって運命が大きく変わります。昭和18年/1943年か昭和19年/1944年、弥三吉さんの転勤の都合で東京を離れて札幌へ、そして昭和20年/1945年ふたたび弥三吉さんが長崎の五島列島に行かされることになったのを機に、ナヲさん、瓔子さん、光彦さんは富山県に疎開というかたちで引っ越します。

 昭和20年/1945年、日本はガッツリ敗北を喫しました。軍人だった弥三吉さんはその日から、もう何をなすこともできない無職の徒です。落魄した、と子供の光彦さんの目から見ても明らかな様子で富山に引き揚げてくると、完全に無気力になってしまった弥三吉さんはそのまま立ち直ることもできず、昭和24年/1949年7月12日、胆嚢炎でこの世を去りました。53歳でした。

 となるともう、生活の面倒一切はナヲさんが見なければなりません。かつて教職にあったその技能を活かして再び高校教諭として職場に舞い戻ると、稼いだ給料を子供たちとの生活に宛てはじめます。細腕一本、おかあちゃん頑張ります。

 ナヲさんの喜びは、もちろん子供たちの成長です。ところが末っ子で甘やかしに甘やかした光彦さんは、勉強もそっちのけで遊びほうけ、高校時代には夜の街で酒をかっくらったとか何とか、その非行の様子が新聞にも取り上げられて、ナヲさんも冷や汗を流します。光彦さんの志望は天下の赤門、東京大学ということで、昭和29年/1954年、高校三年生で受験しますが、あえなく不合格。

 よし、と光彦さんは奮起したのかどうのか、気持ちを切り替えるために富山から東京に居を移し、予備校に通って二年目も東大に挑みますが、これもまた駄目。それでも東大ならそのくらいの浪人はいくらでもいるさ、と開き直ったか、さらに翌年もう一度光彦さんは東大を受けて、三度目でようやく入学を果たします。

 このときナヲさんは、どうしていたかというと、光彦さんが東京での予備校生活に入るのに合わせていっしょに上京し、東京で高校の先生を続けたそうです。甘やかしといえば甘やかしですけど、あるいは息子がきちんと勉強をするか、監視する意味もあったのかもしれません。

 当時のことを光彦さんが振り返っています。

「僕が東大受験を失敗したのをきっかけに予備校へ行くために母と上京。母は東京でも教師を続けた。

母はふた言目には「一番になれ」「一番を取るのが当たり前」と教えた。

(引用者中略)

ナーニ、不良をやっていても東大くらい一発で入ってみせる。腹の中では豪語していたが、どっこい世の中そうは問屋が卸さなかった。二度落ちて三度目に合格。

母がどんなに喜んでくれたか。あのときの笑顔を忘れられない。」(平成22年/2010年11月・青蛙房刊、木村隆・編『この母ありて』所収「東大合格の笑顔忘れられない」より ―初出『スポーツニッポン』平成17年/2005年3月23日)

 息子が語る母親の笑顔。いいハナシです。

 ……と、相変わらず全然直木賞のところまで行きませんね。すみません。

 もともと光彦さんは文学を志望していましたが、同世代で面識もあった大江健三郎さんが在学中に芥川賞なんかとっちゃったもんですから、ああ、おれには勝てん、とあきらめて演劇の道に。TBSに入ってドラマ制作で力を発揮して、芸能の世界でも、久世のドラマはいいぞ、と評判を呼ぶようになるんですけど、その間、ナヲさんのほうは埼玉県に住まいを移して、教師の仕事を続けました。

 そして教員を退職してからも、ナヲさんは元気バリバリ、口も達者に生き続け、息子の光彦さんが小説のほうでも評判となった1990年代にはまだ存命だった、というのですから、あの洟たれの甘えん坊が立派になった姿を、その目に焼き付けたことでしょう。少なくとも、平成6年/1994年に光彦さんが『一九三四年冬―乱歩』で山本周五郎賞を受賞した場面は目撃できたわけです。

 その光彦さんが、同作で直木賞を落選し、二度目の『逃げ水半次無用帖』もやっぱり駄目だった平成11年/1999年はじめ。ナヲさん、その落選のことも理解できていたんでしょうか。選考会があって半月後の2月2日、肺炎のため亡くなりました。

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