小池清泰(会社員)。娘が初めて出したエッセイ集を読んで、ショックを受ける。
直木賞は昔もいまも、いつだって通過点でしかありません。
ある作家が候補になったり受賞したりするまでに、どんなことをしてきたか。それも重要です。ただ、直木賞と交わったあとで何を書き、どんな人生を送るのか。そちらのほうがもっと大切です。
……などと、昔のゴシップばっかりあさって毎日を過ごしているクソ・ブロガーが言ったところで、何の説得力もないですね。とりあえず説得力がないことだけ確認して、さっさと先に進みます。
直木賞の候補に挙がったときではなく、その後にいろいろと活躍するなかで、親のことが話題になった候補者(あるいは受賞者)はたくさんいるんですが、今日はそのなかから小池真理子さんを取り上げてみたいと思います。受賞したのが第114回(平成7年/1995年・下半期)ですので、もう28年も前に直木賞と関係性ができた人です。
小池さんが受賞したのは43歳のときでした。働きざかりのド真ん中です。それから28年、あんな小説、こんなエッセイ、たくさん書いてきましたが、その間に、夫の藤田宜永さんや、父と母、二人の親を見送って、そのときどきに相手の様子や自分の感情などを文章に残しています。ネットでも読めるものが多くて、まあ、いつもながらうちのブログが取り上げる意味もないんですけど、中でも平成24年/2012年に刊行された『沈黙のひと』(文藝春秋刊、初出『オール讀物』平成23年/2011年4月号~9月号、11月号~平成24年/2012年6月号)は、父親のことをモデルにして評判になったりしました。
小説は小説、モデルはモデルです。そこに描かれたのが小池さんの父親そのままじゃないんでしょうけど、こういうかたちで娘に自分の人生の一端を世に書き残されて、きっと父親も本望だったに違いないと思います。
小池清泰。大正12年/1923年、満洲国大連生まれ。父親は満鉄の職員として日本から満洲に渡った人で、清泰さんは小学校時代を吉林で送り、中学時代を新京で過ごします。しかし父親とはその頃に生き別れ、昭和14年/1939年に日本に引き揚げてくると旧制新潟中学に編入。いっしょに日本に来た母親は、引き揚げ直後に病で亡くなり、清泰さんの先行きに暗雲がたちこめます。
学徒出陣を経験する頃には、フランス文学やロシア文学が大好きな、骨の髄まで文学青年になっていたそうで、あるいは文学や芸術に傾ける情熱が、清泰さんの心を救ったのかもしれません。終戦後、友人らと文化運動を始めたのも、おそらくその情熱のなせるわざでしたし、運動の一環で函館に出向いたとき、そこの活動でいっしょになった同い年の函館ムスメ、増子さんと出会って急激に恋に落ちて、昭和22年/1947年結婚する運びになったのも、清泰さんが芸術をとことん好きだったからでしょう。清泰さん24歳。自ら明るい人生を切り開いていきます。
そのとき、まだ東北帝国大学法文学部の学生だった清泰さんは、昭和25年/1950年にめでたく卒業。昭和石油に入社します。それから2年後には小池家に玉のような女の子が授かって、のちに作家となる小池真理子さんがこの世に誕生。8年後には2人目の女の子にも恵まれますが、ぐんぐん成長する石油会社で、しっかりと出世街道に乗った芸術好きの男、となれば、女性からラブラブの視線がそそがれたりもして、外に女性をつくり、あろうことか子供を孕ませ、それを知った増子さんが、うちには家庭がある、お腹の子を堕ろしてください、と相手の女性に言いに行ったりする修羅場があったんだとか。
ともかく、幸せな家庭なようで、夫婦のあいだにはオモテ立っては言えない感情のギザギザがあった、というのは、どこの家庭でもそうだろうといえばそうでしょう。清泰さんの仕事のほうは、高度経済成長の波に乗って順調に推移し、東京から西宮、はてまた仙台と転勤をするうちに役職も徐々に上がっていったということです。
その間も、清泰さんは文学にはなみなみならぬ関心を抱き、というか当時のサラリーマンの多くがそうだっただけかもしれませんが、家にはジッド、ヘッセ、トルストイ、その他さまざまな本が並んでいて、娘の真理子さんも父親の書斎に忍び込んではいろいろと手にとりながら育ちます。後年、清泰さんは盛んに短歌を詠み、「朝日歌壇」にも定期的に応募していくつか採用されたりしているのも、文学好きの情熱が年をとってもからだに残っていたせいでしょう。
娘の真理子さんは大学を経て、出版社に入社、しかし1年半ほどで会社を辞め、フリー編集者になって、うんぬん、という『知的悪女のすすめ』(昭和53年/1978年6月・山手書房刊)での物書きデビューにいたるまでのハナシは、もう有名すぎるのでバッサリはしょります。このとき、父の清泰さんは55歳。可愛い娘がいよいよ念願の作家になるチャンスをつかんだ、と言って喜んでいたそうです。ただ、実際、小池さんのエッセイを読んだら、現代女性の生態や考えが赤裸々に描かれていて、まさか自分の娘が、とショックでふさぎ込んでしまった……と真理子さんは「父の遺品――『沈黙のひと』が生まれるまで」(『文藝春秋』平成25年/2013年5月号)で回想しています。
とまあ、そんなエッセイも含めて、いまじゃネットで読めます。なのでここでは、真理子さんが直木賞を受賞したときに『オール讀物』に寄せた「自伝エッセイ」から、父のエピソードを一つだけ挙げるにとどめます。
「小学校六年になった年、父の書棚からたまたまヘッセの『デミアン』を持ち出して読んでいたら、父に見つかって叱られた。まだ早い、と言う。
何が早いのか、どうして叱られねばならないのか、理解できなかった。しばらく忘れていたのだが、中学三年のころだったか、再読してみた。『デミアン』にはホモセクシュアル的なニュアンスがこめられ、思春期の少年の淡い性衝動が描かれていた。なるほどね、と思った。」(『オール讀物』平成8年/1996年3月号 小池真理子「ひとりよがりの長い旅」より)
いつなら早くないと思うのか、清泰さんの感覚はわかりませんけど、いつまでも自分の娘は何も知らない可愛い子供であってほしい、という父親ゴコロが炸裂しています。だからこそ、25歳の娘が『知的悪女のすすめ』で、男のことをバッシバッシと切り捨てる様子を見て、ショックを受けたんでしょう。
それから18年後。真理子さんは『恋』で直木賞を受賞しました。文学があれほど好きだった清泰さんがどんな反応を示したのか。セックスの話題がこれでもかと出てくる耽美的な香りのする作品で、さすがに清泰さんもショックを受けたりはしなかった、とは思うんですけど、それからまもなくパーキンソン病に冒され、娘の受賞以後の活躍はわずかしか見ることができませんでした。10年近く闘病生活を送り、平成21年/2009年3月4日に亡くなりました。
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