三浦義武(コーヒー愛好家)。この親のことを書けば直木賞がとれるかも、と言われながら息子は断固拒否。
こないだの第170回(令和5年/2023年・下半期)、村木嵐さんが候補になりました。
村木さんといえば、福田みどりさんの個人秘書。司馬遼太郎さんの家の最後のお手伝いさん。ということから連想しまして、村木さんとは全然関係ないんですけど、今週はひっそりこの方のエピソードを差し挟みたいと思います。司馬・福田夫妻と同じ職場で働いていた三浦浩さんです。
三浦さんについては、おそらくうちのブログでも何度か取り上げました。第76回(昭和51年/1976年・下半期)から第98回(昭和62年/1987年・下半期)までの4度の直木賞候補。前半2回の候補のときは、個人的にもよく知る産経新聞の先輩、司馬さんが選考委員を務めて激推しし、しかしそれでもやっぱりとれず、同郷島根の文春編集者、高橋一清さんが、これを書けばきっと直木賞をとれますよ、ととっておきのテーマを提案したのに断固拒否したという、気になる逸話が満載の候補者です。
それで、高橋さんが差し出したテーマとは何だったのか。三浦さんのお父さんの生涯についてのことでした。なので、せっかく「直木賞と親のこと」でブログを書いているいまのうちに、改めて三浦さんとその父親のことに触れておこうと思ったわけです。
三浦義武。明治32年/1899年7月18日、島根県那賀郡井野村生まれ。
実家は伝えられるところによると、もともと桓武平氏を先祖に持ち、戦国時代には尼子氏に仕え、井野室谷に屋敷を構えたいわゆる旧家です。五代元兼のときに津和野藩の大庄屋になって500石をもらい、その辺りの土地では三浦さんちといえば知らぬ者はいないぐらいに大きな影響力をもったと言います。義武さんの父親、十六代政八郎さんも県会議員として石見地方の開発に尽力した人なんだとか。しかし義武さんが子供のときに、母と父が相次いで亡くなり、義武さんは叔父の慶太郎さんのところで育てられます。
旧制浜田中学から東京の早稲田大学法科に進んだのが大正9年/1920年のこと。しかし東京に来てからは勉学に励むというより、お茶の道に興味を抱いて、徐々にそちらの研究に熱意を持ち出します。
お茶にはどんな成分があり、人体にどんな影響を及ぼしているのか。いろいろと知るうちに、その流れでコーヒーという飲み物を知った義武さん。まだまだ日本ではコーヒーの研究が盛んとは言えない状況でしたが、凝り出すと他が見えなくなる性分だったようで、コーヒーにはどんな成分が含まれているか、うまく飲むためにはどうしたらいいか、とコーヒーの世界に傾倒していきます。昭和のはじめ、だいたい義武さん20代の頃です。
ちょうどその頃、昭和5年/1930年に息子・浩さんが生まれています。なので浩さんのルーツは島根ですが、生まれは東京で、しばらくはこの大都会で育ちました。
ちなみに義武さんのことなんですけど、神英雄さんがまとめた『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』(平成29年/2017年10月・松籟社刊)という一冊があります。その生涯を追った「缶コーヒー誕生」の章だけじゃなく、義武さんが発表したコーヒーに関する原稿とか、年譜とか、もう参考になることしか書いてありません。ほんとありがたいです。
で、同書によると、昭和10年/1935年、白木屋の食品部長となった義武さんは、白木屋デパート食堂で「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」を昭和12年/1937年まで開催。片岡鉄兵さんとか小島政二郎さんとか、文壇の作家とも親しく交流があったと言われます。おお、ごぞんじのとおり、片岡さんも小島さんも往年の直木賞選考委員です。すでに浩さんは父親の代から直木賞とは縁の深いつながりがあったんですね。うれしいです。
いや、うれしがっている場合じゃありません。日本の戦局は次第に広がっていくいっぽうで、義武さんも商売の核ともいえるコーヒー豆が満足に入手できなくなってしまい、昭和17年/1942年に島根の井野に帰郷。そこで日本の敗戦を迎えます。
昭和20年/1945年に義武さんは井野村長になっていましたが、翌年、衆議院選挙で落選。この頃は相当すさんだ(?)生活に陥ったらしく、からだも壊して井野の屋敷で逼塞の時を送ります。その様子の一端は、浩さんがのちのち書いた『記憶の中の青春 小説・京大作家集団』(平成5年/1993年11月・朝日新聞社刊)にもちらっと出てくるんですが、胃潰瘍を患って大量に喀血、選挙に落選したあとにお金に苦労し、選挙違反容疑までかけられて警察の取り調べを受け、後援者の一人がそのことを苦にして自殺してしまう不幸に見舞われます。……大変だったらしいです。
しかし、そんな苦しいなかでも、おれにはコーヒーだ、コーヒーしかないんだ、とその情熱はとどまるところを知らず、昭和26年/1951年、浜田市に「喫茶ヨシタケ」をオープンします。コーヒー牛乳を考案したり、大型焙煎機を導入してウキウキしたり、缶コーヒーの製品化に向けて研究を重ねて昭和40年/1965年、「ミラ・コーヒー」と名づけた缶コーヒーを発売したりと、コーヒー・ラバーの人生を邁進しました。
いっぽう息子の浩さんですが、どこまで父親の狂信的なコーヒー愛を支持していたのか。よくわかりません。神さんの本によれば、産経新聞の社内留学制度でオックスフォード大学に留学していた昭和41年/1966年、父親がいろんな人たちの協力を得てミラ・コーヒー販売の会社を立ち上げて、そこに三浦さんの先輩である司馬さんも出資しますが、この会社は資金繰りが苦しくて経営難が続きます。留学から帰ってきてそのことを知った浩さんは、司馬さんにまで迷惑が及びそうだと怒り心頭。事業をやめるように父に強く迫った、とのことです。……いろいろと息子も大変です。
後年、高橋一清さんが、お父さんのことを小説にしなさいよ、そしたら直木賞とれるかもしれませんよ、と勧めたとき、浩さんは、おれは私小説なんか絶対書かないと強固に断ったと言われます。それは私小説を書くのがイヤだった、ということもあるんでしょうが、父親のやってきたことにそこまでイイ感情を抱いていなかったのではないか。そう勘ぐりたくもなります。結局、『記憶の中の青春』みたいな私小説、書いてますし。浩さんの胸中はわかりません。
それはそれとして直木賞です。義武さんが亡くなったのは昭和55年/1980年2月8日。ということは、義武さんは息子の浩さんが商業出版で小説を出し、直木賞の候補に一度、二度と挙がった頃はご存命でした。
息子が直木賞候補になったこと。その選考を、息子を介して親しくなった司馬遼太郎さんが務めること。義武さんはどのように思い、どんなことを語っていたのか。興味がありますが、世のなかは不明なことだらけなので、その辺りのことは一切が闇の中です。
三浦さんのつくるコーヒーが大好きだった小島政二郎さんは、三浦さんを評してこう書きました。
「最近島根県の浜田市から、三浦コーヒーの三浦義武君が上京して、私のところへ遊びに来た。
三浦君はコーヒーの話しかしない。コーヒーメニヤだ。だから、三浦君の入れたコーヒーは日本一うまい。」(昭和41年/1966年9月・鶴書房刊、小島政二郎著『明治の人間』所収「鼻の話」より ―初出『高砂香料時報』27号[昭和40年/1965年9月])
コーヒーの話しかしない人だった、とあります。案外、最愛の息子・浩さんが直木賞候補になっても、とくに何も言わなかったかもしれません。
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