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2024年3月の5件の記事

2024年3月31日 (日)

小池清泰(会社員)。娘が初めて出したエッセイ集を読んで、ショックを受ける。

 直木賞は昔もいまも、いつだって通過点でしかありません。

 ある作家が候補になったり受賞したりするまでに、どんなことをしてきたか。それも重要です。ただ、直木賞と交わったあとで何を書き、どんな人生を送るのか。そちらのほうがもっと大切です。

 ……などと、昔のゴシップばっかりあさって毎日を過ごしているクソ・ブロガーが言ったところで、何の説得力もないですね。とりあえず説得力がないことだけ確認して、さっさと先に進みます。

 直木賞の候補に挙がったときではなく、その後にいろいろと活躍するなかで、親のことが話題になった候補者(あるいは受賞者)はたくさんいるんですが、今日はそのなかから小池真理子さんを取り上げてみたいと思います。受賞したのが第114回(平成7年/1995年・下半期)ですので、もう28年も前に直木賞と関係性ができた人です。

 小池さんが受賞したのは43歳のときでした。働きざかりのド真ん中です。それから28年、あんな小説、こんなエッセイ、たくさん書いてきましたが、その間に、夫の藤田宜永さんや、父と母、二人の親を見送って、そのときどきに相手の様子や自分の感情などを文章に残しています。ネットでも読めるものが多くて、まあ、いつもながらうちのブログが取り上げる意味もないんですけど、中でも平成24年/2012年に刊行された『沈黙のひと』(文藝春秋刊、初出『オール讀物』平成23年/2011年4月号~9月号、11月号~平成24年/2012年6月号)は、父親のことをモデルにして評判になったりしました。

 小説は小説、モデルはモデルです。そこに描かれたのが小池さんの父親そのままじゃないんでしょうけど、こういうかたちで娘に自分の人生の一端を世に書き残されて、きっと父親も本望だったに違いないと思います。

 小池清泰。大正12年/1923年、満洲国大連生まれ。父親は満鉄の職員として日本から満洲に渡った人で、清泰さんは小学校時代を吉林で送り、中学時代を新京で過ごします。しかし父親とはその頃に生き別れ、昭和14年/1939年に日本に引き揚げてくると旧制新潟中学に編入。いっしょに日本に来た母親は、引き揚げ直後に病で亡くなり、清泰さんの先行きに暗雲がたちこめます。

 学徒出陣を経験する頃には、フランス文学やロシア文学が大好きな、骨の髄まで文学青年になっていたそうで、あるいは文学や芸術に傾ける情熱が、清泰さんの心を救ったのかもしれません。終戦後、友人らと文化運動を始めたのも、おそらくその情熱のなせるわざでしたし、運動の一環で函館に出向いたとき、そこの活動でいっしょになった同い年の函館ムスメ、増子さんと出会って急激に恋に落ちて、昭和22年/1947年結婚する運びになったのも、清泰さんが芸術をとことん好きだったからでしょう。清泰さん24歳。自ら明るい人生を切り開いていきます。

 そのとき、まだ東北帝国大学法文学部の学生だった清泰さんは、昭和25年/1950年にめでたく卒業。昭和石油に入社します。それから2年後には小池家に玉のような女の子が授かって、のちに作家となる小池真理子さんがこの世に誕生。8年後には2人目の女の子にも恵まれますが、ぐんぐん成長する石油会社で、しっかりと出世街道に乗った芸術好きの男、となれば、女性からラブラブの視線がそそがれたりもして、外に女性をつくり、あろうことか子供を孕ませ、それを知った増子さんが、うちには家庭がある、お腹の子を堕ろしてください、と相手の女性に言いに行ったりする修羅場があったんだとか。

 ともかく、幸せな家庭なようで、夫婦のあいだにはオモテ立っては言えない感情のギザギザがあった、というのは、どこの家庭でもそうだろうといえばそうでしょう。清泰さんの仕事のほうは、高度経済成長の波に乗って順調に推移し、東京から西宮、はてまた仙台と転勤をするうちに役職も徐々に上がっていったということです。

 その間も、清泰さんは文学にはなみなみならぬ関心を抱き、というか当時のサラリーマンの多くがそうだっただけかもしれませんが、家にはジッド、ヘッセ、トルストイ、その他さまざまな本が並んでいて、娘の真理子さんも父親の書斎に忍び込んではいろいろと手にとりながら育ちます。後年、清泰さんは盛んに短歌を詠み、「朝日歌壇」にも定期的に応募していくつか採用されたりしているのも、文学好きの情熱が年をとってもからだに残っていたせいでしょう。

 娘の真理子さんは大学を経て、出版社に入社、しかし1年半ほどで会社を辞め、フリー編集者になって、うんぬん、という『知的悪女のすすめ』(昭和53年/1978年6月・山手書房刊)での物書きデビューにいたるまでのハナシは、もう有名すぎるのでバッサリはしょります。このとき、父の清泰さんは55歳。可愛い娘がいよいよ念願の作家になるチャンスをつかんだ、と言って喜んでいたそうです。ただ、実際、小池さんのエッセイを読んだら、現代女性の生態や考えが赤裸々に描かれていて、まさか自分の娘が、とショックでふさぎ込んでしまった……と真理子さんは「父の遺品――『沈黙のひと』が生まれるまで」(『文藝春秋』平成25年/2013年5月号)で回想しています。

 とまあ、そんなエッセイも含めて、いまじゃネットで読めます。なのでここでは、真理子さんが直木賞を受賞したときに『オール讀物』に寄せた「自伝エッセイ」から、父のエピソードを一つだけ挙げるにとどめます。

「小学校六年になった年、父の書棚からたまたまヘッセの『デミアン』を持ち出して読んでいたら、父に見つかって叱られた。まだ早い、と言う。

何が早いのか、どうして叱られねばならないのか、理解できなかった。しばらく忘れていたのだが、中学三年のころだったか、再読してみた。『デミアン』にはホモセクシュアル的なニュアンスがこめられ、思春期の少年の淡い性衝動が描かれていた。なるほどね、と思った。」(『オール讀物』平成8年/1996年3月号 小池真理子「ひとりよがりの長い旅」より)

 いつなら早くないと思うのか、清泰さんの感覚はわかりませんけど、いつまでも自分の娘は何も知らない可愛い子供であってほしい、という父親ゴコロが炸裂しています。だからこそ、25歳の娘が『知的悪女のすすめ』で、男のことをバッシバッシと切り捨てる様子を見て、ショックを受けたんでしょう。

 それから18年後。真理子さんは『恋』で直木賞を受賞しました。文学があれほど好きだった清泰さんがどんな反応を示したのか。セックスの話題がこれでもかと出てくる耽美的な香りのする作品で、さすがに清泰さんもショックを受けたりはしなかった、とは思うんですけど、それからまもなくパーキンソン病に冒され、娘の受賞以後の活躍はわずかしか見ることができませんでした。10年近く闘病生活を送り、平成21年/2009年3月4日に亡くなりました。

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2024年3月24日 (日)

久世ナヲ(軍人の妻、高校教諭)。早くに亡くなった夫の分まで、息子の小説家としての活躍を見届ける。

 図書館に行くと、だいたいエッセイ・コーナーに立ち寄ります。小説だけじゃなくエッセイの類も、いろんな人たちがたくさん本を出していて、背表紙を見ているだけで一生が終わっちまいそうですが、こないだも近くの図書館に行って、つらつら眺めていたところ、あっ、この人をあまりブログで取り上げてこなかったな、と思い当たる名前に出会いました。久世光彦さんです。

 何をいまさら、という感じがあります。直木賞の候補になる前から、ある種の有名人、よく知られたドラマの演出家で、いまだって「久世光彦」のテーマで夜通し語り明かせる爺さん婆さん(もしくは、おっちゃんおばちゃん)は数多くいるでしょう。何をいまさら、です。

 その生涯についても(おそらく)調べ尽くされています。うちのブログが手を伸ばすのもおこがましい気がする著名な書き手のひとりです。でも、残念ながら……いや、残念ってことはないか、久世さんも第111回(平成6年/1994年上半期)と第120回(平成10年/1998年下半期)、二度ほど直木賞の候補になった人ですから、うちのブログで触れたところで、誰に文句を言われる筋合いもありません。今週は、久世さんと親のハナシで行くことにします。

 久世さんには父親と母親がいます。どちらも久世さんのエッセイには、ちょくちょく登場する人たちです。といってもワタクシだって、そんなに久世さんのエッセイを読み尽くしたわけじゃないので、まあ、いわゆる知ったかぶりです。ただ、どちらかといえば、直木賞との関係性でいえば母親のほうが取り上げやすそうな気がするので、今日のエントリーは久世ママのほうを中心にしようと思います。

 久世ナヲ。旧姓は置塩。明治33年/1900年4月、富山県生まれ。実家は魚津市御影だったので、たぶんそこで生まれ育ったんでしょう。もともとは裕福な家で、上のきょうだいたちはイイ学校に行かせてもらいますが、まもなく実家の事業が傾いたために、ナヲさんだけ師範学校に入り、教師の道を進むことになります。

 ところが、このときナヲさんがあまりに優秀な成績だったおかげで、よし、うちがお金を出してやるから東京で学べ、と言ってくれた篤志家がいたそうです。名前はわかりません。その人の期待を一心に背負い、ナヲさんは猛勉強して富山の女子師範から、無事に東京女子高等師範学校へと入学が許可されます。大正9年/1920年春のことでした。

 そこの家事科で学んだのち、富山に戻って富山県女子師範兼富山高女教諭になります。大正14年/1925年には、どんな縁があったものかこちらも富山県出身の陸軍歩兵、久世弥三吉(くぜ・やそきち)さんとめでたく結婚が成就。大正15年/1926年に福島県の会津高女で働いたものの、昭和3年/1928年に退職し、夫に付いて家を守る、いわゆる主婦の座に落ち着きます。

 子供は、大正15年/1926年に生まれた瓔子(えいこ)さんを皮切りに、公尭(きみたか)、伊尭(よしたか)、玲子(れいこ)とこの世に生み出しますが、そのうち伊尭さんは3歳で急性陽炎で死亡、玲子さんは生後40日で乳児脚気で死亡と、たてつづけに幼い命をうしなって、ナヲさんも悄然。そのため昭和10年/1935年、第五子として生まれた光彦(てるひこ)さんのことは、過保護なぐらいに大事に大事に育てた、ということです。

 当時、久世家は東京の杉並区阿佐ヶ谷に家を持ち、一家五人、安らかに(?)過ごしていましたが、昭和10年代を経験した日本の家族では当然のごとく、戦争によって運命が大きく変わります。昭和18年/1943年か昭和19年/1944年、弥三吉さんの転勤の都合で東京を離れて札幌へ、そして昭和20年/1945年ふたたび弥三吉さんが長崎の五島列島に行かされることになったのを機に、ナヲさん、瓔子さん、光彦さんは富山県に疎開というかたちで引っ越します。

 昭和20年/1945年、日本はガッツリ敗北を喫しました。軍人だった弥三吉さんはその日から、もう何をなすこともできない無職の徒です。落魄した、と子供の光彦さんの目から見ても明らかな様子で富山に引き揚げてくると、完全に無気力になってしまった弥三吉さんはそのまま立ち直ることもできず、昭和24年/1949年7月12日、胆嚢炎でこの世を去りました。53歳でした。

 となるともう、生活の面倒一切はナヲさんが見なければなりません。かつて教職にあったその技能を活かして再び高校教諭として職場に舞い戻ると、稼いだ給料を子供たちとの生活に宛てはじめます。細腕一本、おかあちゃん頑張ります。

 ナヲさんの喜びは、もちろん子供たちの成長です。ところが末っ子で甘やかしに甘やかした光彦さんは、勉強もそっちのけで遊びほうけ、高校時代には夜の街で酒をかっくらったとか何とか、その非行の様子が新聞にも取り上げられて、ナヲさんも冷や汗を流します。光彦さんの志望は天下の赤門、東京大学ということで、昭和29年/1954年、高校三年生で受験しますが、あえなく不合格。

 よし、と光彦さんは奮起したのかどうのか、気持ちを切り替えるために富山から東京に居を移し、予備校に通って二年目も東大に挑みますが、これもまた駄目。それでも東大ならそのくらいの浪人はいくらでもいるさ、と開き直ったか、さらに翌年もう一度光彦さんは東大を受けて、三度目でようやく入学を果たします。

 このときナヲさんは、どうしていたかというと、光彦さんが東京での予備校生活に入るのに合わせていっしょに上京し、東京で高校の先生を続けたそうです。甘やかしといえば甘やかしですけど、あるいは息子がきちんと勉強をするか、監視する意味もあったのかもしれません。

 当時のことを光彦さんが振り返っています。

「僕が東大受験を失敗したのをきっかけに予備校へ行くために母と上京。母は東京でも教師を続けた。

母はふた言目には「一番になれ」「一番を取るのが当たり前」と教えた。

(引用者中略)

ナーニ、不良をやっていても東大くらい一発で入ってみせる。腹の中では豪語していたが、どっこい世の中そうは問屋が卸さなかった。二度落ちて三度目に合格。

母がどんなに喜んでくれたか。あのときの笑顔を忘れられない。」(平成22年/2010年11月・青蛙房刊、木村隆・編『この母ありて』所収「東大合格の笑顔忘れられない」より ―初出『スポーツニッポン』平成17年/2005年3月23日)

 息子が語る母親の笑顔。いいハナシです。

 ……と、相変わらず全然直木賞のところまで行きませんね。すみません。

 もともと光彦さんは文学を志望していましたが、同世代で面識もあった大江健三郎さんが在学中に芥川賞なんかとっちゃったもんですから、ああ、おれには勝てん、とあきらめて演劇の道に。TBSに入ってドラマ制作で力を発揮して、芸能の世界でも、久世のドラマはいいぞ、と評判を呼ぶようになるんですけど、その間、ナヲさんのほうは埼玉県に住まいを移して、教師の仕事を続けました。

 そして教員を退職してからも、ナヲさんは元気バリバリ、口も達者に生き続け、息子の光彦さんが小説のほうでも評判となった1990年代にはまだ存命だった、というのですから、あの洟たれの甘えん坊が立派になった姿を、その目に焼き付けたことでしょう。少なくとも、平成6年/1994年に光彦さんが『一九三四年冬―乱歩』で山本周五郎賞を受賞した場面は目撃できたわけです。

 その光彦さんが、同作で直木賞を落選し、二度目の『逃げ水半次無用帖』もやっぱり駄目だった平成11年/1999年はじめ。ナヲさん、その落選のことも理解できていたんでしょうか。選考会があって半月後の2月2日、肺炎のため亡くなりました。

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2024年3月17日 (日)

三浦義武(コーヒー愛好家)。この親のことを書けば直木賞がとれるかも、と言われながら息子は断固拒否。

 こないだの第170回(令和5年/2023年・下半期)、村木嵐さんが候補になりました。

 村木さんといえば、福田みどりさんの個人秘書。司馬遼太郎さんの家の最後のお手伝いさん。ということから連想しまして、村木さんとは全然関係ないんですけど、今週はひっそりこの方のエピソードを差し挟みたいと思います。司馬・福田夫妻と同じ職場で働いていた三浦浩さんです。

 三浦さんについては、おそらくうちのブログでも何度か取り上げました。第76回(昭和51年/1976年・下半期)から第98回(昭和62年/1987年・下半期)までの4度の直木賞候補。前半2回の候補のときは、個人的にもよく知る産経新聞の先輩、司馬さんが選考委員を務めて激推しし、しかしそれでもやっぱりとれず、同郷島根の文春編集者、高橋一清さんが、これを書けばきっと直木賞をとれますよ、ととっておきのテーマを提案したのに断固拒否したという、気になる逸話が満載の候補者です。

 それで、高橋さんが差し出したテーマとは何だったのか。三浦さんのお父さんの生涯についてのことでした。なので、せっかく「直木賞と親のこと」でブログを書いているいまのうちに、改めて三浦さんとその父親のことに触れておこうと思ったわけです。

 三浦義武。明治32年/1899年7月18日、島根県那賀郡井野村生まれ。

 実家は伝えられるところによると、もともと桓武平氏を先祖に持ち、戦国時代には尼子氏に仕え、井野室谷に屋敷を構えたいわゆる旧家です。五代元兼のときに津和野藩の大庄屋になって500石をもらい、その辺りの土地では三浦さんちといえば知らぬ者はいないぐらいに大きな影響力をもったと言います。義武さんの父親、十六代政八郎さんも県会議員として石見地方の開発に尽力した人なんだとか。しかし義武さんが子供のときに、母と父が相次いで亡くなり、義武さんは叔父の慶太郎さんのところで育てられます。

 旧制浜田中学から東京の早稲田大学法科に進んだのが大正9年/1920年のこと。しかし東京に来てからは勉学に励むというより、お茶の道に興味を抱いて、徐々にそちらの研究に熱意を持ち出します。

 お茶にはどんな成分があり、人体にどんな影響を及ぼしているのか。いろいろと知るうちに、その流れでコーヒーという飲み物を知った義武さん。まだまだ日本ではコーヒーの研究が盛んとは言えない状況でしたが、凝り出すと他が見えなくなる性分だったようで、コーヒーにはどんな成分が含まれているか、うまく飲むためにはどうしたらいいか、とコーヒーの世界に傾倒していきます。昭和のはじめ、だいたい義武さん20代の頃です。

 ちょうどその頃、昭和5年/1930年に息子・浩さんが生まれています。なので浩さんのルーツは島根ですが、生まれは東京で、しばらくはこの大都会で育ちました。

 ちなみに義武さんのことなんですけど、神英雄さんがまとめた『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』(平成29年/2017年10月・松籟社刊)という一冊があります。その生涯を追った「缶コーヒー誕生」の章だけじゃなく、義武さんが発表したコーヒーに関する原稿とか、年譜とか、もう参考になることしか書いてありません。ほんとありがたいです。

 で、同書によると、昭和10年/1935年、白木屋の食品部長となった義武さんは、白木屋デパート食堂で「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」を昭和12年/1937年まで開催。片岡鉄兵さんとか小島政二郎さんとか、文壇の作家とも親しく交流があったと言われます。おお、ごぞんじのとおり、片岡さんも小島さんも往年の直木賞選考委員です。すでに浩さんは父親の代から直木賞とは縁の深いつながりがあったんですね。うれしいです。

 いや、うれしがっている場合じゃありません。日本の戦局は次第に広がっていくいっぽうで、義武さんも商売の核ともいえるコーヒー豆が満足に入手できなくなってしまい、昭和17年/1942年に島根の井野に帰郷。そこで日本の敗戦を迎えます。

 昭和20年/1945年に義武さんは井野村長になっていましたが、翌年、衆議院選挙で落選。この頃は相当すさんだ(?)生活に陥ったらしく、からだも壊して井野の屋敷で逼塞の時を送ります。その様子の一端は、浩さんがのちのち書いた『記憶の中の青春 小説・京大作家集団』(平成5年/1993年11月・朝日新聞社刊)にもちらっと出てくるんですが、胃潰瘍を患って大量に喀血、選挙に落選したあとにお金に苦労し、選挙違反容疑までかけられて警察の取り調べを受け、後援者の一人がそのことを苦にして自殺してしまう不幸に見舞われます。……大変だったらしいです。

 しかし、そんな苦しいなかでも、おれにはコーヒーだ、コーヒーしかないんだ、とその情熱はとどまるところを知らず、昭和26年/1951年、浜田市に「喫茶ヨシタケ」をオープンします。コーヒー牛乳を考案したり、大型焙煎機を導入してウキウキしたり、缶コーヒーの製品化に向けて研究を重ねて昭和40年/1965年、「ミラ・コーヒー」と名づけた缶コーヒーを発売したりと、コーヒー・ラバーの人生を邁進しました。

 いっぽう息子の浩さんですが、どこまで父親の狂信的なコーヒー愛を支持していたのか。よくわかりません。神さんの本によれば、産経新聞の社内留学制度でオックスフォード大学に留学していた昭和41年/1966年、父親がいろんな人たちの協力を得てミラ・コーヒー販売の会社を立ち上げて、そこに三浦さんの先輩である司馬さんも出資しますが、この会社は資金繰りが苦しくて経営難が続きます。留学から帰ってきてそのことを知った浩さんは、司馬さんにまで迷惑が及びそうだと怒り心頭。事業をやめるように父に強く迫った、とのことです。……いろいろと息子も大変です。

 後年、高橋一清さんが、お父さんのことを小説にしなさいよ、そしたら直木賞とれるかもしれませんよ、と勧めたとき、浩さんは、おれは私小説なんか絶対書かないと強固に断ったと言われます。それは私小説を書くのがイヤだった、ということもあるんでしょうが、父親のやってきたことにそこまでイイ感情を抱いていなかったのではないか。そう勘ぐりたくもなります。結局、『記憶の中の青春』みたいな私小説、書いてますし。浩さんの胸中はわかりません。

 それはそれとして直木賞です。義武さんが亡くなったのは昭和55年/1980年2月8日。ということは、義武さんは息子の浩さんが商業出版で小説を出し、直木賞の候補に一度、二度と挙がった頃はご存命でした。

 息子が直木賞候補になったこと。その選考を、息子を介して親しくなった司馬遼太郎さんが務めること。義武さんはどのように思い、どんなことを語っていたのか。興味がありますが、世のなかは不明なことだらけなので、その辺りのことは一切が闇の中です。

 三浦さんのつくるコーヒーが大好きだった小島政二郎さんは、三浦さんを評してこう書きました。

「最近島根県の浜田市から、三浦コーヒーの三浦義武君が上京して、私のところへ遊びに来た。

三浦君はコーヒーの話しかしない。コーヒーメニヤだ。だから、三浦君の入れたコーヒーは日本一うまい。」(昭和41年/1966年9月・鶴書房刊、小島政二郎著『明治の人間』所収「鼻の話」より ―初出『高砂香料時報』27号[昭和40年/1965年9月])

 コーヒーの話しかしない人だった、とあります。案外、最愛の息子・浩さんが直木賞候補になっても、とくに何も言わなかったかもしれません。

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2024年3月10日 (日)

白石小一郎(税理士)。まともに定職につけなかった息子が、筆一本で立つころには寿命が尽きる。

 直木賞史上、最も有名な親子、というと誰でしょうか。

 まあ、誰を有名と思うかは人それぞれです。最も有名なのかどうか、ワタクシもまったく自信はないんですが、やっぱり親子そろって直木賞を受賞したペアであれば、かなりの上位に挙がると思います。白石一郎さんと一文さんです。

 一文さんから見た「親と子のハナシ」は、一文さんが受賞した第142回(平成21年/2009年・下半期)の頃に、たくさんメディアに流れました。それらをまとめてここで取り上げるのでも、全然いいんですけど、多く知られたことをなぞるだけじゃ面白くありません。なので今週は、それとは違う白石親子のことを調べることにしました。

 一郎さんにとっての父親のことです。

 いや、これも知られたハナシかもしれません。ただ、一文さんの父親エピソードほどは一般的ではないだろうと信じまして、直木賞受賞者の父親のそのまた父親でもある、白石家のおじいちゃんのことを書いておくことにします。

 白石小一郎。詳しい生年も経歴もよくわかりません。とりあえずざっくりしたことだけまとめると、生まれたのは、だいたい明治25年/1892年ごろ。出身は、九州北部の玄界灘にある壱岐島で、父親は同島の箱崎村の初代村長を務めた白石保衛さん、だったと推測されます。

 そんな地元の名士の家で小一郎さんはすくすくと成長し、大正2年/1913年に朝鮮に渡って釜山郵便局の事務員になります。これは兄の槌夫さんが、長崎師範甲種講習を出たあとに朝鮮で学校の先生になっていて、それを頼ったためとも言われています。日本が韓国の領土をおれのもんだぜと吸収したのが明治43年/1910年の韓国併合からなので、槌夫さんや小一郎さんが朝鮮で生活しはじめたのも、その背景があったからだと言えるでしょう。

 小一郎さんはその後、大正8年/1919年に澤山商会という会社に転職を果たします。この会社は商品を船で運ぶいわゆる海運業者として大きな勢力を誇っていて、なかなかの大企業だったらしいですが、これといった学歴のない小一郎さんは自ら勉学に励み、経理事務の担当として懸命に働いて評価を得ます。人間、まじめに働くことは大事です。

 それからどういった縁で知り合ったものか、広島県尾道の商家で生まれ育った艶子さんと結ばれることになり、女の子を二人もうけたあと、昭和6年/1931年には待望の男の子が生まれて、小一郎さん大喜び。さあ何と名づけようかと悩んだあげく、漢文の教師でもあった兄の槌夫さんに相談したところ、うん、「一郎」がいいんじゃないかと言われて、将来白石家をしょって立つかわいい坊やに立派な(?)名前がつきました。

 ということで一郎さんは、姉二人にも可愛がられ、両親にも甘やかされて、朝鮮釜山の地で多感な少年時代を送ります。しかし、旧制中学二年のときに日本が戦争にボロ負け。父の小一郎さんは「馬鹿な! こんなことあるか」と半狂乱で叫んだと言います(平成12年/2000年2月『文藝春秋臨時増刊号 私たちが生きた20世紀』白石一郎「「内地」と「外地」」)。

 澤山汽船からの給料で羽振りのいい生活をしていた白石家でしたが、戦争に負けたあとは、がらりと状況が変わります。小一郎さんだけ釜山に残り、残りの家族はいったん福岡県の柳川に引き揚げて、翌年、どうにか目途をつけて小一郎さんが本土に戻ってくると、長崎県佐世保に落ち着きます。そこで小一郎さんは、経理事務という自分の専門を活かして、仕事先を開拓。家族を食わせることに懸命になりますが、つらいことは続くもので、昭和22年/1947年、妻の艶子さんを亡くします。悲嘆に暮れる白石小一郎。ああ、この世には神も仏もいないのか。

 望みは、ただ一人の男の子、一郎さんが自分の跡を継ぐなり、立派になってくれることでしたが、まあこの一郎さんが、数字を見てもちんぷんかんぷんの役立たず。大学は、思い切って東京の早稲田に行かせたものの、ろくに経済の勉強もせずに遊び呆ける日々で、ようやく就職したと思ったら、会社では遅刻ばかりして戦力外。税理士の資格をとらせるために、佐世保に帰ってこさせると、自分の税理士事務所で働かせてはみますが、仕事や勉強に身を入れる様子もなく、原稿用紙に文字を埋めては、おれは作家になるんだとか何だとか言っているニート状態です。

 この頃を回想して、一郎さんはこう書いています。

「小説を書いては懸賞に応募し、これも落選をつづけながら、ふしぎに気落ちせず、せっせと書いては送った。たぶん他に能がないので、小説を書くことにしか救いがなかったのだろう。二年ばかりのぶらぶら生活で両親には本当に迷惑をかけた。今でも心の中でお詫びをしている。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋/文春文庫『無名時代の私』所収 白石一郎「孫悟空」より)

 「両親」とあるので、おそらく小一郎さんは再婚したものと思われます。いずれにしても、かわいい息子がこの世のなかでどうやって身を立てるかもがいている。父親として心配しなかったわけがありません。

 昭和31年/1956年ごろに、小一郎さんは仕事の都合で、福岡に移り住みます。その頃には息子の一郎さんも、税理士になる目標を捨てて、親戚のやっている電気器具の卸し会社にコネ入社させてもらいます。さすがにおれもきちんと働かなくちゃ、とは思っていたようですが、しかしその会社でも迷惑のかけどおしで、親の心配はますますつのるばかりです。

 そんな一郎さんが講談倶楽部賞をとるのが昭和32年/1957年、はじめて直木賞の候補に挙がるのが、第63回(昭和45年/1970年・上半期)でした。小一郎さんが肺がんで亡くなったのは、70歳すぎの頃だそうなので、昭和37年/1962年前後だったと見ると、一郎さんが作家デビューした頃には存命だったでしょう。しかし、時悪しく一郎さんが寄稿先として頼みにしていた『講談倶楽部』が廃刊となった頃に、小一郎さんは世を去ります。

 息子の生活は、とうてい筆一本でやっていけると言えるほどの状況ではありません。どんな思いで死んでいったのか。心配は心配だったと思いますが、好きなことやっとるようだし、まあええか、ぐらいに思っていたかもしれません。親の気持ちは人それぞれ。こればっかりは、もうわかりません。

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2024年3月 3日 (日)

高野一郎・きぬ子(家具職人とその妻)。幼い娘を残して戦場に行った父、晩年まで娘と離れず暮らした母。

 直木賞を受賞した人の親には、履歴の知られた有名な人もいます。ただ、だいたいの親は一般には知られることのない普通の無名人です。

 そんな人たちのことを知ってどうするんだ。という気がしないではありませんが、いや、そんなこと言いはじめたら、世のなかのすべてが「知ってどうするんだ」ってことになっちゃいます。ここは自分の興味の向くままに、直木賞に関する「知っても何の役にも立たないこと」を調べつづけるしかありません。

 一般には知られることのない無名な人。だけども、子供である作家が書き残したことで、われわれ無関係な読者にも、ほお、こういう人がいたんだ、と知られるようになったケースは数多くあります。たとえば第109回(平成5年/1993年・上半期)直木賞を受賞した北原亞以子さんの場合も、そのひとつです。

 31歳で作家デビューしてから苦節20年。『深川澪通り木戸番小屋』で第17回泉鏡花文学賞を受賞し、その勢いで(?)4年後には『恋忘れ草』で直木賞の候補に初めて挙がり、そのままズバッととりました。そのあたりのアレコレは、昔、うちのブログでも触れたことがあるように記憶しています。

 直木賞をとった頃からは順調に原稿の注文が引くこともなく押し寄せて、数々の著作を残しましたが、そのなかで新潮社の『波』で連載したのが「父の戦地」(平成18年/2006年10月号~平成19年/2007年12月号)でした。平成20年/2008年7月に新潮社から単行本となり、平成23年/2011年8月には新潮文庫に入っています。

 タイトルのとおり、これは北原さんが自身の父親のことを書いたものです。と同時に、もちろん父親のまわりにいた母親や係累のことにも筆が及んでいます。

 父親は高野一郎。生まれはだいたい明治の末ごろ。明治45年とすれば西暦で1912年の時代です。実家は東京・芝で家具をつくっていた職人の家で、父にあたる銀次郎さんは椅子の製作を専門にしていたんだとか。もちろん息子の一郎さんに後を継がせて家具職人になってもらおうと思っていたらしいんですけど、一郎さんはそちらのほうにはからっきし興味がなく、イラストとか漫画を描くのが大好きな少年でした。

 11歳のとき、母の〈タマ〉さんが数え30歳で亡くなってしまい、やがて父の銀次郎さんは若い娘さんを後添いに迎えます。新しい継母は、一郎さんとは6歳しか違わない若さだったもので、二人は気安く口を聞き合う仲のいい親子になりますが、そのことが後年までズルズルと尾を引きます。

 尾を引くとはどういうことか。そこに登場するのが一郎さんと結婚することになる〈きぬ子〉さんです。一郎さんのお嫁さん候補を探していたとき、たまたまその継母の従妹にあたる〈きぬ子〉さんに白羽の矢が立てられて、昭和8年/1933年ごろに二人は首尾よく結ばれます。甘ーい甘ーい新婚生活のスタートです。

 ところが、家族関係というのはどこで問題を起こすかわかりません。一郎さんは継母とは軽口や冗談を叩き合って、キャッキャ、キャッキャと打ち解けあう。お嫁さんの〈きぬ子〉さんも二人といっしょに話したいと輪に入っていこうとするんですが、そこで継母が「あなたが来るとおもしろくなくなる」と憮然とした態度をとってくる。それには一郎さんもとくに反論することもなく、ただ黙っていて、〈きぬ子〉さんもしゅんとなってしまいます。ああ、かわいそうな〈きぬ子〉さん。

 結婚して5年め、昭和13年/1938年の正月に待望の第一子が誕生します。美枝(よしえ)と名づけられたこの女の子が、のちに作家となる筆名・北原亞以子さんです。

 その後、昭和16年/1941年に一郎さんは兵隊にとられ、高野一家も銀次郎さんが亡くなって家具づくりの仕事場も閉鎖、〈きぬ子〉さんと娘の北原さんは千葉県成田に疎開して、生活が苦しくなる戦争のあいだ、南方に派遣された一郎さんからぞくぞくと妻子のもとにイラスト入りのハガキが送られてくるんですが、昭和20年/1945年4月29日、一郎さんは従軍先のビルマ、サルウィン川の河口で敵機から銃弾を浴びて死亡。30代半ばの若さでした。

 ……といったあれこれの経緯の詳細は『父の戦地』を読んでいただくとしまして、終戦後、〈きぬ子〉さんは再婚を決意。北原さんも新しい父をもうけることになります。

 〈きぬ子〉さんは北原さんに対して、もとの夫の一郎さんのことはあまり語ることのないまま生活を送ったそうです。あるいは語るにしても、けっこう辛辣に一郎さんのことを悪く言う思い出ばなしが多かったようで、父に対して恋しさを募らせる北原さんは、そういう悪口を聞くのが嫌いでした。母親は、おそらく再婚相手に気を遣ってわざともとの夫をよくは言わなかったのではないか、それと新婚時代に継母と仲良くして言いなりだった夫に、軽く恨みをもっていたのではないか、というのが後年、北原さんが書いている憶測です。

 それで「直木賞と親のこと」のハナシなんですけど、当然、父・一郎さんは北原さんが受賞したときには、この世にいません。母・きぬ子さんも、北原さんが新潮新人賞と小説現代新人賞(佳作)を受けた昭和44年/1969年には存命でしたが、作家としてきちんと食っていけるようになる前には、あの世に旅立ってしまった模様。娘が直木賞を受ける姿を見ることはありませんでした。

 しかし、父のことをずっと恋しく思い、母については「自分はマザーコンプレックスだ」というほど人生の岐路では常に母親との生活を優先してきた北原さんです。きっちりと、直木賞を受賞したときのエッセイに二人のことを書き残しています。

(引用者注:「恋忘れ草」に出てくる)国芳は武者絵が有名だが、私は、わずかしかない彼の風景画に惹かれた。彼の風景画に出てくる人物が、何となく父を想像させたのだ。

(引用者中略)

苦労して育った母の口癖は、「もったいない」だった。私が捨てようとしたものも母は器用に再生し、古いブラウスもスカートも、一部が座布団カバーになったりした。(引用者中略)晩年はミシンを踏まず、針箱を引き寄せては着物を縫い返していたが、私には、その姿と、つましい暮らしをしていたにちがいない江戸の女達の姿が重なって見えるのである。」(『オール讀物』平成5年/1993年9月号 北原亞以子「木々の香」より)

 そして、父と母が、自分を決して丈夫ではなく幼少期から弱いからだで生んでくれたからこそ、自分は作家になったのだと思う、と書いています。名もなき二人の両親のことを、自分が受賞者になったということを活かして直木賞の歴史に刻んでくれた北原さん。心がしみじみします。

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