松井新七(割烹料理店主)。京都祇園に店を出し、40数年後、その店で娘の直木賞受賞を知る。
小説にはいろんなジャンルがあります。いろんなことが書いてあります。それでも直木賞の受賞作や候補作を読んでいると、何だかこんなハナシが多いな、と感じる系譜めいた流れがあります。たとえば、芸能人・芸術家を描いた小説です。
まあ、第1回(昭和10年/1935年・上半期)の川口松太郎さんからして、受賞作のひとつ「鶴八鶴次郎」は芸に生きる男女のおハナシです。直木賞はもともとそういう賞ともいえますし、いや、日本の小説史(大衆文芸史)は、芸ゴトを描く作品によって支えられてきた、と断言しちゃってもいいんでしょう。
摂津茂和「ローマ日本晴」、玉川一郎「人情サキソフォン」、瀧川駿「小堀遠州」、小泉譲「君が火の鳥」、長谷川幸延「桂春団治」、有吉佐和子「白い扇」、山崎豊子『花のれん』、戸板康二「團十郎切腹事件」、夏目千代「絃(いと)」、安藤鶴夫『巷談本牧亭』、田中穣『藤田嗣治』、三樹青生「終曲」、井上ひさし「手鎖心中」、長部日出雄「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」、藤本義一「鬼の詩」、井出孫六『アトラス伝説』、赤江瀑「金環食の影飾り」、宮尾登美子『一絃の琴』、中山千夏「子役の時間」、つかこうへい『蒲田行進曲』、加堂秀三『舞台女優』、高橋治『絢爛たる影絵』、難波利三『てんのじ村』、もりたなるお「画壇の月」、阿久悠「喝采」「隣のギャグはよく客食うギャグだ」、杉本章子『東京新大橋雨中図』、星川清司「小伝抄」、古川薫『漂泊者のアリア』、内海隆一郎『百面相』、なかにし礼『兄弟』、原田マハ『楽園のカンヴァス』『ジヴェルニーの食卓』『暗幕のゲルニカ』『美しき愚かものたちのタブロー』、安部龍太郎『等伯』、澤田瞳子『若冲』『星落ちて、なお』、藤崎彩織『ふたご』、大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』、永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』……。
これで全部かどうかもよくわかりませんが、ともかく昔からいままで、よりどりみどり。今後も芸ゴト小説は、直木賞の柱として、この賞をどんどん賑わせてくれるはずです。
とか言いながら、上記のリストをつくるときに(わざと)大切な作家を書き落としておきました。松井今朝子さんです。
幼い頃から小説を書くようになるまで、バリバリの歌舞伎ダイスキっ子。小説を書き始めて、直木賞の候補にあがった『非道、行ずべからず』(第127回・平成14年/2002年上半期)、『似せ者』(第128回・平成14年/2002年下半期)、『吉原手引草』(第137回・平成19年/2007年上半期)とも、もう江戸時代の芝居や役者が当たり前のように登場する芸ゴト小説です。
いったいどんな家庭環境で育つと、それほど歌舞伎にハマって、直木賞候補に上がるまでになれるのか。……受賞当時、いろいろとそんな記事が出ましたが、いちおう「直木賞と親のこと」という観点で、そこら辺をおさらいしておきたいと思います。
松井今朝子さんが生まれたのは京都市、四条大橋そばの日本料理店。お父さんは、その世界では相当名の知られた名物料理人でした。
松井新七。大正15年/1926年2月4日生まれ。実家は京都・聖護院の近くで古くから料亭「森桝楼」を営んでいた村井さんです。なので新七さんは、生まれたときは〈村井英夫〉さんだったわけですが、それが松井新七となるまでには、それはもう、丁寧に説明されてもよくわからないような複雑な(というほどでもないか)料亭界の事情があったらしいです。
それについては、今朝子さんも『師父の遺言』(平成26年/2014年3月・NHK出版刊)のはじめのほうで、詳しく書いてくれています。また、早瀬圭一さんの『奇人変人 料理人列伝』(平成22年/2010年5月・文藝春秋刊)でも一章を割かれ、新七さんご自身が語ったその来歴が紹介されています。それらをまとめて以下、書いてみますが、間違っていたらすみません。
村井家に生まれた英夫さんは、地元の桃山中学を出て立命館大学理工学部に進学します。しかし、時はちょうど日本の戦局がメタメタに激しくなる時代。理学系の学生ということで、英夫さんが戦地に行かされることはなかったそうですが、国内で窮乏の生活を強いられ、やがて終戦を迎えます。
戦後、大学に復学すると文学部に転じたそうです。そこで同人誌『楽久我記』というのをつくり、英夫さんもいくつか作品を発表したと言います。将来おれも作家か何かになりたいぜ、と夢を持っていたのかどうか、定かではありませんが、料理人の子は料理人。20歳なかばのときに、同じ市内で料亭「千本(ちもと)」をしていた松井家から、おたくの息子さん、養子にもらえませんか、と村井家に打診があり、それを承諾して英夫さんは松井家に入りました。
どうして松井家が村井家にハナシを持ってきたかというと、そもそも「千本」をやっていた松井新七(初代)さんの三男が、「森桝楼」の村井家に養子に入り、そこで生まれた二番目の男の子が英夫さんだった、という経緯があったからです。それで今度は逆に、村井家から松井家に養子に入ることになった、という。なかなか一般家庭にはなじみの薄い世界です。
養子に入るに当たって、だれかと結婚して夫婦で松井家に入ってほしい、と要望があり、英夫さんは大阪の老舗旅館「大野屋」の今井信子さんと見合いして、昭和26年/1951年にゴールイン。晴れて二人で「千本」に入ります。
ところが、そのまま「千本」を継ぐかと思いきや、親父さんに当たる松井新七(二代)さんが、妙に二人によそよそしくなってしまいます。どうやら二代目には外の女性に生ませた子供がいるらしく、せっかく養子に入った新七・信子さんペアは居場所がない。昭和28年/1953年には可愛い娘(今朝子さん)も生まれていましたが、ええい、もうこんなところ飛び出して、自分たちで一から店をやろうぜ・やりましょう、と手に手を取り合って、屋台のおでん屋を始めます。これが新七さん30歳のときでした。一大決心です。
屋台での商売は順調にお客さんも付き、やがて店を借り、昭和35年/1960年には京都・祇園に割烹「川上」をオープンさせます。
土地柄、その辺りは芝居や芸能の香りも漂い、近くには「南座」もあります。今朝子さんも両親に連れられて、小学生のころから芝居を観にいくようになり、とくに中村歌右衛門の歌舞伎に出会って、ぞっこんハートマーク。今朝子さんの歌舞伎ラブの人生がそこから始まりました。
ちなみに平成29年/2007年、父の新七さんは80歳を越してなおも元気いっぱい。直木賞をとった人の父親であり、京都で有名な(?)料理人として、喜びの声を多くの新聞に寄せています。
そのうち『京都新聞』の記事を引いてみます。
「松井今朝子さんの実家は、祇園(京都市東山区)の京料理店。祇園祭・神幸祭の十七日夜、店内で娘の受賞を聞いた父の新七さん(八一)は、知人や常連客から次々と祝福の電話を受けながら「ほんまにうれしい。三度目の正直ですわ」と喜んだ。
(引用者中略)
一番の今朝子ファンを自認し、作品をすべて読んでいるという新七さん。受賞作については「今までと違い、いろんな人が語る面白い書き方やった。言葉もいいし、そのまま芝居のセリフに使える」と熱い口調で語った。」(『京都新聞』平成19年/2007年7月18日「「三度目の正直ですわ」 松井さん 直木賞受賞 祇園 京料理店主の父に朗報」より)
親バカ爆発、といった感じです。
しかし、その日の夜もきちんと店に立ち、娘の受賞の報も自分の店で聞いた、というのがいいじゃないですか。今朝子さんの歌舞伎熱も、ひいては直木賞受賞も、すべては新七さんと信子さんが祇園に店を持ったことから始まった、と言ってもいいからです。
それからもしばらくは、新七さんは「川上」の顔として腕をふるいましたが、平成21年/2009年に現役を退き、そして令和3年/2021年5月13日、95歳で没しました。戒名は、早瀬圭一さんが『奇人変人 料理人列伝』を書いた平成22年/2010年の段階で、すでに友人の僧侶に頼んで決めてあったそうで、たぶんそれが付けられたんだと思います。
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