神崎ヤス(麻雀店女将)。息子が直木賞を受賞した作品名を、店の名前につけて経営する。
直木賞の歴史はムダに長いです。なので、親にまつわるエピソードもさまざまあります。
親のことを書いた小説で候補になる(ないしは受賞する)っていうのが、だいたいメインの親バナシなんですが、あとは、直木賞を受賞したときに親御さんが生きていれば、受賞者の親が子供の直木賞についてコメントを発したりする。そういうものが新聞を中心にたくさん残ります。みんな合わせて直木賞を取り巻く一大文献です。
と、そういうなかで、この人の親はなかなか珍しいな、と思うのが神崎武雄さんのお母さんです。長谷川伸門下の新鷹会のことを調べていると、ときどき目にします。
神崎さんのことは、4~5年まえに一回うちのブログでも取り上げました。そのときに触れたかどうか忘れちゃいましたが、神崎さんという人は直木賞の歴史でも一番の記録を持っている重要な人です。最も若くして亡くなった直木賞受賞者。それが神崎さんだからです。
ここで一つ触れておくと、「最年少」といえば直木賞では堤千代さんの名前は外せません。公式の記録では大正6年/1917年生まれ、昭和30年/1955年没、享年38……のはずなんですが、ワタクシの調べたところ、年齢のサバを読んでいたことはまず疑いがなく、亡くなったのはおそらく40歳を過ぎてからです。対して神崎さんは明治39年/1906年生まれ、昭和19年/1944年没。享年38。直木賞受賞者として太平洋戦争の犠牲になったただ一人の作家でもあります。
本人が若くして亡くなった。ということはどういうことでしょう。その親がその後長く存命だった可能性が高くなるわけで、神崎さんの場合も例にもれません。母親が亡くなったのは昭和44年/1969年ごろです。つまり子供より25年ほどこの世に生きていたことになります。
神崎ヤス。「靖子」と表記することもあるようです。明治22年/1889年頃、兵庫県淡路島の南にある沼島の生まれ。やがて両親たちに連れられて、ヤスさんを含めたきょうだい6人も大阪に移り住みますが、生活は窮乏の一途をたどります。そんななかでもヤスさん踊りや三味線を習いはじめて芸事の楽しみに目覚めます。親戚から声がかかって、博多のほうへ芸者になるための修業に出向いたところ、いったいどうした縁なのか、小倉で弁護士をやっている男と知り合って、一人の生命を孕みます。生まれてきたのが武雄さん。ヤスさん17歳のときでした。
ちなみにヤスさんに子ダネを残したその弁護士は、武雄さんの実の父親に当たるわけですが、のちのち判事になって千葉へ行った、ということのほか、詳細はわかりません(『真世界』昭和33年/1958年8月号、星野武男「母は生きている」)。ヤスさんは門司で芸者を勤めることになり、息子の武雄さんは、ふるさと沼島に居をもった祖母の〈かん〉さんのもとで育てられます。
やがてヤスさんは、新派の俳優だった後藤良介さんと結婚したのを機に、11歳になった武雄さんを呼び寄せて、家族3人で暮らし始めますが、後藤さんが鉛毒のせいで脳をやられ、大正9年/1920年に病没してしまいます。大正11年/1920年には母の〈かん〉さんも喪うという不幸が続き、ええい、こうなりゃ女手ひとつでやっていくしかないよ、とヤスさんは腹をくくって昭和のはじめに、門司で「竹の家」という料亭を開店させ、人生の荒波に立ち向かいます。
そのとき精神的な支えになったのが国柱会の教えだった。……ということで、神崎家では〈かん〉さんの代から、この仏教団体の強烈な信者で、ヤスさんも、息子の武雄さんも、みんなそろって日蓮聖人ラブな人たちでした。こうしてしがない直木賞オタクが、〈神崎武雄の母親〉なんちゅう、ほとんどの人が興味をもたない人物の生涯を追っていけるのも、国柱会の雑誌『真世界』にその来歴が書き残されているからです。ありがとう国柱会。
息子の武雄さんは優秀な生徒として、また祖母・母ゆずりの熱心な国柱会会員としてすくすくと成長しました。早稲田文科の学生だったときに、日蓮主義の田中澤二さんの講演で、立憲養生論をきいて感銘をうけ、早稲田をやめて奈良晋蔵さんとともにハルピンにロシヤ語の留学生として渡ります。そのうち、ううむやっぱり俺は政治家より文学の道が向いていそうだ、と決心して、新派の瀬戸英一さんの門を叩き、それから『都新聞』に勤めたりしながら小説修業に励んでいるうちに、昭和18年/1943年2月、第16回(昭和17年/1942年・下半期)直木賞を受賞しました。
そのおかげで武雄さんはちょっとした文士扱いされる立場になり、海軍の報道班員を拝命して南洋へ。そしてそこで命を落とした、といったようなことは、先のブログ記事に書いたとおりです。ここでは省きます。
母親のヤスさんが、直木賞と接点を持った、といえるのは、武雄さんが亡くなったあとのことです。
武雄さんと、妻の愛子(よしこ)さんも戦中に亡くなって、残された子供が5人。その苦境を見るに見かねた新鷹会の長谷川伸さんや村上元三さんが、相当骨を折って、ヤスさんの働き口として、東京・京橋の西八丁堀に麻雀荘を開くことになりました。店の名前が「寛容クラブ」。武雄さんが直木賞を受賞した作品名からとったわけです。
新鷹会の会員、山岡荘八さんも、句会の報告記でこう書いています。
「こゝ数年ずつとこの会の会場になつてゐる寛容クラブは、われ等の親友、故神崎武雄君の母堂の家である。
寛容クラブの「寛容」は、故人が直木賞をとつたときの作品名、それをそのまゝクラブの名にした徂春師の命名揮毫はいまも部屋にのこつてゐる。(引用者中略)
神崎君が戦死する少し前に、彼の夫人も産後の患ひで亡くなつて、おさない孫に取りまかれ、空襲下の東京に茫然と取残された当時の母堂の姿は、思ひ出すと今も胸がつまつて来る。」(『ゆく春』昭和28年/1953年11月号、山岡荘八「山の会漫語」より)
山岡さんも「われ等の親友」と言っていますが、村上元三さんも「親友」といった表現を使っていました。神崎さん、ずいぶん新鷹会では愛された人だったようです。明日をも知れぬヤスさんと5人の孫が、どうにか生き延びた一つの背景に、武雄さんと新鷹会の深い結びつきがあったのは、まず間違いありません。
その後、ヤスさんは国柱会の三田三郎さんに世話されて、昭和29年/1954年には料亭「芙蓉」を任されるようになり、昭和32年/1957年にはついに独立して人形町に北京料理「神崎」を開店。というふうに、直木賞からは離れていったので、もはやうちのブログで触れるような直木賞との関わりはありません。
気にかかるのは、ただ一つです。室積徂春さんが揮毫したという「寛容」の文字の入った看板は、その後どうなったんでしょうか。直木賞の歴史にひっそり現れた、しかし人と人との縁を感じさせる貴重な歴史遺産だと思うんですけど、まあ、どこにも残っていないでしょうね。この目で見ることができないのが残念です。
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