澤田ふじ子(作家)。権威に寄り添うな、と言い聞かせて育てた娘が何の因果か直木賞をとる。
直木賞が決まると、どうしても気になることがあります。受賞者や候補者の〈親〉のことです。
……というのはさすがに言いすぎですけど、直木賞のことなら何でもかんでも興味が沸く。そのことに嘘いつわりはありません。とくに、親のだれかが文章を売って生活している物書きだったりすると、候補者本人の作品はわきにおいて、その親が書いたものを漁ってしまう変な癖までつきました。まあ、悪性の直木賞病です。
最近でいうと、第165回(令和3年/2021年・上半期)を受賞した澤田瞳子さんの親御さんが、よく知られた物書きです。ワタクシも瞳子さんが受賞したと聞いたとき、「ああ、お母さんも作家だったか、名前は知ってるけど、いったいどんな人だったっけ」と急激に興味をもってしまって今に至ります。哀しき直木賞ファンのサガ、というやつでしょう。この病気は治りそうもありません。
それはともかく、澤田さんのお母さんのことです。
澤田ふじ子。昭和21年/1946年9月5日生まれ。ふるさとは愛知県半田市で、そこで「人はおのれの分を知らなきゃ駄目だぞ」と親に言われながら育ち、愛知県立女子大の文学部を卒業。高校の国語教師になります。
ところが、どうも自分は教師としては不適格だと思い始めたところ、岐阜県に伝統工芸を伝えるための民芸村をつくろうじゃないか、と夢を語る出版社の社長がいて、まあそれはいいわねと共感。そうか、じゃあ、ふじ子さんはそこで織物を担当してくれ、ということになって、26歳で教師を辞め、西陣のつづれ織を学ぶために京都に移ります。ちなみに、その民芸村の構想は途中で挫折して、話はアワと消えちゃいましたが、出版社の経営が立ち行かなくなったその男こそ、ふじ子さんといっしょになる旦那さんです。
せっかく民芸村のために織物を学んでいたのに、どうしたものかと次の一歩を決めかねますが、ふじ子さん、小説書きませんか、と勧めてきたのがその旦那さんでした。昭和50年/1975年、28歳のときに「石女(うまずめ)」で第24回小説現代新人賞を受賞。作家デビューを果たします。
それから2年後、夫にいろいろと教えてもらいながら小説を発表しているさなかに一人の子供を授かって、かわいいかわいい女の子が誕生します。瞳子さんです。
瞳子さんが自分の名前で本を出すのが平成16年/2004年、徳間文庫の『大江戸猫三昧 時代小説傑作選』の選者としてなので、生まれてから30年弱。幼少期、青春期、ものを書き始めるそれまでのあいだ、瞳子さんはどんなふうに生きてきたんでしょうか。
「直木賞をとるまでの歩み」というのは、直木賞に関するさまざまな記事のなかでも多くの人が興味をもつ人気コンテンツです(……た、たぶん)。本人が自分で語ったり語らされたりする回想も、もちろん大事なんですけど、親が物書きの人の場合は、その親がかつて子供のことを書いたエッセイやらがけっこう残されています。発表された当時は、なにげない身辺雑記だったものでも、のちに直木賞関連資料になったりするのですから油断できません。
たとえば、ふじ子さんが平成6年/1994年『読売新聞』に連載した「つれづれ草紙」というものがあります。平成7年/1995年に『京都 知の情景』(読売新聞社刊)となり、平成12年/2000年『京都 知恵に生きる』(中公文庫)として刊行されました。
そこには夫のことや娘さんのことが、ときどき出てくるんですが、こんなイカすエピソードが収められています。
「「小説がちっとも売れない――」
時代が悪い、本を読む人が少なくなったのだと、しきりに嘆いていた十年ほど前、稚拙な文字でわたし宛てに一通の封書がとどいた。
――私は澤田ふじ子さんの小説が大好きです。どんどん小説を読んでいます。もっともっとたくさんいい小説を書いてください。
封書の裏に住所はなく、つくりものめいた名前が書かれていた。
稚拙な文字にはっきり見覚えがあった。
それは娘がわたしの嘆きを心配するあまり、わたしをはげます気で書いた手紙だった。
(引用者中略)
いまでもわたしはこの封書を、〈心の宝石〉のつもりでもっている。」(澤田ふじ子・著『京都 知恵に生きる』所収「離俗の精神――あとがきをかねて――」より)
ちょっと長めに引用してすみません。こういう思いやりある関係性を家族どうしで築いてきた澤田家の教育は、やはりイカしていると思って紹介してみました。
その後、娘の瞳子さんはのびやかに成長します。昔の美術史にも異常にくわしい父親と、こつこつと歴史小説を書く母親。そういう家庭環境からおそらく影響を受けて、美術史を専門で学ぶ道に進み、ガチガチの研究者になるかと思いきや、やがて創作を公に発表するようになって小説家としてもデビュー。10年ほど書き続けたところで、令和3年/2021年に直木賞をとるわけです。
直木賞は一般には「権威」の権化と思われています。エラいもんだとみんなからチヤホヤされ、ゴマすり、追従、いろいろと誘惑の手も伸びてくる……かどうかはワタクシもわからないんですが、いまのところ澤田さんが悪い人たちにそそのかされて、堕落していく気配はないようです。
ふじ子さんがかつてエッセイに書いた、我が子に対する教育方針の一節に、こんなものがあります。
「私はわが子に、権威に寄り添うな、弱い立場の相手を決していじめてはならないといいきかせ、これまで育ててきた。
自分の強い立場をひけらかすほど、愚かで見苦しいものはないと、私は考えている。」(『潮』平成10年/1998年12月号、澤田ふじ子「へそまがり」より)
この教えが瞳子さんの心に植えつけられているかぎり、わたしは直木賞をとったんだ、そうじゃない連中は黙ってろ、とふんぞり返る未来は、おそらく今後もこないでしょう。
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