井上修吉(薬局店主)。作品を発表したら直木三十五からハガキをもらった。と息子は語る。
こないだの令和6年/2024年2月23日、「南国忌」の催しがありました。
前回は令和2年/2020年ですから、ちょうど4年前のことです。それからコロナ感染拡大防止という名目で、3年ほど中止がつづき、今回はひさしぶりに墓前祭と講演会が復活しました。講演者は、うちのブログで何度も取り上げている元・文藝春秋の高橋一清さん。著書にかかれたエピソードなどを中心に、直木賞が決まるまでの過程とか、心にのこった受賞や選考の思い出を、穏やかな口調で話していました。じかに聞けてよかったです。
と、南国忌といえば、何といってもお楽しみは講演会です。だれが何のテーマで何を話すか。これまでも直木賞とか直木三十五とか、それとは関係ないこととかを演題として、(中止の年を除いて)毎年ひらかれています。じゃあ、過去にはどんな講演があったんだろうか。一覧化したものがあると便利だなと思って、うちのサイトに「南国忌について」のページをつくってみました。
今日はせっかくなので、この一覧に出てくる直木賞受賞者から、「親」にまつわるエピソードを取り上げたいと思います。
南国忌の講演は、そのたび実行委員の人ががんばってテープ起こしをして、南国忌の会の会報に掲載されます。それらをまとめた『南国忌の会のあゆみ』という冊子もこれまで2度出ているので、昔の講演を振り返ることができるんですが、そこで親のことを語った受賞者がいないかな。と思ってダラダラ読んでいたところ、ふっと目にとまったのが、第23回南国忌(平成17年/2005年)の講演録です。
演者は、第67回(昭和47年/1972年・上半期)受賞者の井上ひさしさん。当時は直木賞の選考委員もしていましたので、実行委員の人たちもなかなかの大物をひっぱり出してきたな、という感じです。
井上さんの両親は、父も母もよく知られています。……いや、井上さん自身が有名人になったおかげで、よく知られるようになりました。
たとえば母親のマスさんです。井上さんを育てた肝っ玉かあさんとして、メディアにもたびたび登場。『人生は、ガタゴト列車に乗って』(昭和58年/1983年3月・書苑刊)をはじめ、何冊か著書も出しました。明治40年/1907年2月15日生まれで、次男のひさしさんが直木賞をとったときには65歳。そこからマスさんは、第二なのか第三なのか、何度目かの青春を謳歌して、若いころから好きだった文章を書く、という世界でも活躍してしまいます。ひさしさんは直木賞の受賞によって、かなりの母親孝行を果たした、と言ってもいいでしょう。
いっぽう、ひさしさんの父親はどうかというと、若くして死んでいます。当然ひさしさんが直木賞をとるなんて、想像することもなくあの世に旅立ったんですが、南国忌の講演でひさしさんが語った親のハナシは、その父親のエピソードでした。
井上修吉。明治38年/1905年10月7日生まれ、昭和14年/1939年6月16日没。実家は山形県東置賜郡小松町、酒づくりの名家「井上酒造」の分家の分家。そこら辺りではけっこう裕福な地主の家でもありました。
修吉さんは山形中学から東京薬専を卒業。薬剤師となって新宿の病院で勤めていた頃に、看護婦見習いだったマスさんと出会って恋に落ちます。昭和2年/1927年、二人は周囲の反対を押し切っていっしょになると、修吉さんのふるさと小松町に移り住みますが、若い修吉さんは文学やら演劇やら、そちらの方面に興味があって、末は物書きになりたいと思っていたそうです。
小松町では薬局(の看板をかかげたよろず屋)を営みながら、米沢で劇団を立ち上げたり、農地解放の運動に邁進したり。地主だった父親とは折り合いが悪く、うちの修吉め、東京でアカになって帰ってきよった、と苦い顔をされ、治安維持法違反で留置場に入れられたりもします。ひさしさんの記述によると、留置場で拷問に近い暴力を受けて、修吉さんはからだを壊したんだとか。
その間も修吉さんの文学熱は収まらず、文学といえば芸術的な文学に進みそうなものを、なぜか大衆文芸にも興味を持ち、『サンデー毎日』の懸賞に何度か投稿を試みます。そのうち〈小松滋〉なる筆名で応募した「H丸伝奇」が首尾よく入選を果たしたのが昭和10年/1935年10月発表の第17回大衆文芸懸賞です。このとき井上靖さんが同じく入選をしていた、というのはひさしさんやマスさんが繰り返し語ったおかげで、チョー有名な逸話となりました。
実は修吉さんはそのとき(あるいは、その頃に)、直木三十五さんから直筆のハガキをもらっていた……ということが、ひさしさんの南国忌の講演で明かされています。
短い文章で修吉さんの作品に対する感想が書かれたハガキだった、それを母親のマスさんはずっと大切に持っていて、ひさしさんは何度も見せられた、それが自分が直木三十五という人を知ったきっかけだった、と言うのです。
「私が物心ついた頃に母親が「お前の死んだお父さんはこういう偉い人にほめられたのだよ」と聞かされましてそれがずっと頭に入っておりました。
(引用者中略)
直木三十五と私の関係は、もちろん直木賞を頂いたということはありますが、その前に母親が何かあるごとに見せてくれたちょっと黄ばんだ葉書ですね。「読みました。本当によかった」という三行くらいの短い感想でしたが今も目の奥に残っています。」(『南国忌の会会報』No.23[平成18年/2006年8月] 井上ひさし「特別講演 直木三十五と落語」より―文責・編集部)
感動的な(?)ハナシだとは思うんですけど、ほんとうにそんなハガキがあったのか、はっきりしたことはわかりません。
というのも、修吉さんが『サンデー毎日』大衆文芸で入選したのが昭和10年/1935年。直木さんが死んだのは昭和9年/1934年ですから、感想が送られてきたとすればその入選作に対するものではあり得ません。それより前、修吉さんは同誌昭和6年/1931年の懸賞実話「旅で拾つた話」に入選したことがあるそうですが、そんな実話の懸賞ものに直木さんがいちいち感想を送るだろうか、と思います。
ちなみに桐原良光さんは『井上ひさし伝』のなかで、こんなハナシを紹介しています。
「ひさしの弟、修佑は、母マスが宝物のように大事にしていたはがきがあったのを覚えている。吉川英治からのはがきで、作品は素晴らしい、すごい才能があるのだから上京して活躍しなさい、といった内容だったという。」(平成13年/2001年6月・白水社刊、桐原良光・著『井上ひさし伝』より)
たしかに吉川さんなら、そんなハガキを送りかねません。
要するに、ひさしさんの記憶が吉川さん→直木さんにすり替えられたか、あるいは講演の席ですから、ちょっとしたリップサービスで、吉川さんを直木さんに置き換えて話したか、そんなところではないか、という仮説が成り立ちます。
懸賞に入選した父親が、直木三十五さん本人からじきじきにハガキをもらった。その意志を継いだかっこうの息子が、のちのち直木三十五の名を冠した賞を受賞した。ちょっとハナシとしては出来すぎです。出来すぎではあるんですけど、マスさんが大事にしていたハガキの実物が、その場になかった以上、つくり話かどうかわからない。こういう小説家っぽい真偽不明なハナシが飛び出すのも、講演というものの一つの魅力です。
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