« 2024年1月 | トップページ | 2024年3月 »

2024年2月の4件の記事

2024年2月25日 (日)

井上修吉(薬局店主)。作品を発表したら直木三十五からハガキをもらった。と息子は語る。

 こないだの令和6年/2024年2月23日、「南国忌」の催しがありました。

 前回は令和2年/2020年ですから、ちょうど4年前のことです。それからコロナ感染拡大防止という名目で、3年ほど中止がつづき、今回はひさしぶりに墓前祭と講演会が復活しました。講演者は、うちのブログで何度も取り上げている元・文藝春秋の高橋一清さん。著書にかかれたエピソードなどを中心に、直木賞が決まるまでの過程とか、心にのこった受賞や選考の思い出を、穏やかな口調で話していました。じかに聞けてよかったです。

 と、南国忌といえば、何といってもお楽しみは講演会です。だれが何のテーマで何を話すか。これまでも直木賞とか直木三十五とか、それとは関係ないこととかを演題として、(中止の年を除いて)毎年ひらかれています。じゃあ、過去にはどんな講演があったんだろうか。一覧化したものがあると便利だなと思って、うちのサイトに「南国忌について」のページをつくってみました。

 今日はせっかくなので、この一覧に出てくる直木賞受賞者から、「親」にまつわるエピソードを取り上げたいと思います。

 南国忌の講演は、そのたび実行委員の人ががんばってテープ起こしをして、南国忌の会の会報に掲載されます。それらをまとめた『南国忌の会のあゆみ』という冊子もこれまで2度出ているので、昔の講演を振り返ることができるんですが、そこで親のことを語った受賞者がいないかな。と思ってダラダラ読んでいたところ、ふっと目にとまったのが、第23回南国忌(平成17年/2005年)の講演録です。

 演者は、第67回(昭和47年/1972年・上半期)受賞者の井上ひさしさん。当時は直木賞の選考委員もしていましたので、実行委員の人たちもなかなかの大物をひっぱり出してきたな、という感じです。

 井上さんの両親は、父も母もよく知られています。……いや、井上さん自身が有名人になったおかげで、よく知られるようになりました。

 たとえば母親のマスさんです。井上さんを育てた肝っ玉かあさんとして、メディアにもたびたび登場。『人生は、ガタゴト列車に乗って』(昭和58年/1983年3月・書苑刊)をはじめ、何冊か著書も出しました。明治40年/1907年2月15日生まれで、次男のひさしさんが直木賞をとったときには65歳。そこからマスさんは、第二なのか第三なのか、何度目かの青春を謳歌して、若いころから好きだった文章を書く、という世界でも活躍してしまいます。ひさしさんは直木賞の受賞によって、かなりの母親孝行を果たした、と言ってもいいでしょう。

 いっぽう、ひさしさんの父親はどうかというと、若くして死んでいます。当然ひさしさんが直木賞をとるなんて、想像することもなくあの世に旅立ったんですが、南国忌の講演でひさしさんが語った親のハナシは、その父親のエピソードでした。

 井上修吉。明治38年/1905年10月7日生まれ、昭和14年/1939年6月16日没。実家は山形県東置賜郡小松町、酒づくりの名家「井上酒造」の分家の分家。そこら辺りではけっこう裕福な地主の家でもありました。

 修吉さんは山形中学から東京薬専を卒業。薬剤師となって新宿の病院で勤めていた頃に、看護婦見習いだったマスさんと出会って恋に落ちます。昭和2年/1927年、二人は周囲の反対を押し切っていっしょになると、修吉さんのふるさと小松町に移り住みますが、若い修吉さんは文学やら演劇やら、そちらの方面に興味があって、末は物書きになりたいと思っていたそうです。

 小松町では薬局(の看板をかかげたよろず屋)を営みながら、米沢で劇団を立ち上げたり、農地解放の運動に邁進したり。地主だった父親とは折り合いが悪く、うちの修吉め、東京でアカになって帰ってきよった、と苦い顔をされ、治安維持法違反で留置場に入れられたりもします。ひさしさんの記述によると、留置場で拷問に近い暴力を受けて、修吉さんはからだを壊したんだとか。

 その間も修吉さんの文学熱は収まらず、文学といえば芸術的な文学に進みそうなものを、なぜか大衆文芸にも興味を持ち、『サンデー毎日』の懸賞に何度か投稿を試みます。そのうち〈小松滋〉なる筆名で応募した「H丸伝奇」が首尾よく入選を果たしたのが昭和10年/1935年10月発表の第17回大衆文芸懸賞です。このとき井上靖さんが同じく入選をしていた、というのはひさしさんやマスさんが繰り返し語ったおかげで、チョー有名な逸話となりました。

 実は修吉さんはそのとき(あるいは、その頃に)、直木三十五さんから直筆のハガキをもらっていた……ということが、ひさしさんの南国忌の講演で明かされています。

 短い文章で修吉さんの作品に対する感想が書かれたハガキだった、それを母親のマスさんはずっと大切に持っていて、ひさしさんは何度も見せられた、それが自分が直木三十五という人を知ったきっかけだった、と言うのです。

「私が物心ついた頃に母親が「お前の死んだお父さんはこういう偉い人にほめられたのだよ」と聞かされましてそれがずっと頭に入っておりました。

(引用者中略)

直木三十五と私の関係は、もちろん直木賞を頂いたということはありますが、その前に母親が何かあるごとに見せてくれたちょっと黄ばんだ葉書ですね。「読みました。本当によかった」という三行くらいの短い感想でしたが今も目の奥に残っています。」(『南国忌の会会報』No.23[平成18年/2006年8月] 井上ひさし「特別講演 直木三十五と落語」より―文責・編集部)

 感動的な(?)ハナシだとは思うんですけど、ほんとうにそんなハガキがあったのか、はっきりしたことはわかりません。

 というのも、修吉さんが『サンデー毎日』大衆文芸で入選したのが昭和10年/1935年。直木さんが死んだのは昭和9年/1934年ですから、感想が送られてきたとすればその入選作に対するものではあり得ません。それより前、修吉さんは同誌昭和6年/1931年の懸賞実話「旅で拾つた話」に入選したことがあるそうですが、そんな実話の懸賞ものに直木さんがいちいち感想を送るだろうか、と思います。

 ちなみに桐原良光さんは『井上ひさし伝』のなかで、こんなハナシを紹介しています。

「ひさしの弟、修佑は、母マスが宝物のように大事にしていたはがきがあったのを覚えている。吉川英治からのはがきで、作品は素晴らしい、すごい才能があるのだから上京して活躍しなさい、といった内容だったという。」(平成13年/2001年6月・白水社刊、桐原良光・著『井上ひさし伝』より)

 たしかに吉川さんなら、そんなハガキを送りかねません。

 要するに、ひさしさんの記憶が吉川さん→直木さんにすり替えられたか、あるいは講演の席ですから、ちょっとしたリップサービスで、吉川さんを直木さんに置き換えて話したか、そんなところではないか、という仮説が成り立ちます。

 懸賞に入選した父親が、直木三十五さん本人からじきじきにハガキをもらった。その意志を継いだかっこうの息子が、のちのち直木三十五の名を冠した賞を受賞した。ちょっとハナシとしては出来すぎです。出来すぎではあるんですけど、マスさんが大事にしていたハガキの実物が、その場になかった以上、つくり話かどうかわからない。こういう小説家っぽい真偽不明なハナシが飛び出すのも、講演というものの一つの魅力です。

| | コメント (0)

2024年2月18日 (日)

澤田ふじ子(作家)。権威に寄り添うな、と言い聞かせて育てた娘が何の因果か直木賞をとる。

 直木賞が決まると、どうしても気になることがあります。受賞者や候補者の〈親〉のことです。

 ……というのはさすがに言いすぎですけど、直木賞のことなら何でもかんでも興味が沸く。そのことに嘘いつわりはありません。とくに、親のだれかが文章を売って生活している物書きだったりすると、候補者本人の作品はわきにおいて、その親が書いたものを漁ってしまう変な癖までつきました。まあ、悪性の直木賞病です。

 最近でいうと、第165回(令和3年/2021年・上半期)を受賞した澤田瞳子さんの親御さんが、よく知られた物書きです。ワタクシも瞳子さんが受賞したと聞いたとき、「ああ、お母さんも作家だったか、名前は知ってるけど、いったいどんな人だったっけ」と急激に興味をもってしまって今に至ります。哀しき直木賞ファンのサガ、というやつでしょう。この病気は治りそうもありません。

 それはともかく、澤田さんのお母さんのことです。

 澤田ふじ子。昭和21年/1946年9月5日生まれ。ふるさとは愛知県半田市で、そこで「人はおのれの分を知らなきゃ駄目だぞ」と親に言われながら育ち、愛知県立女子大の文学部を卒業。高校の国語教師になります。

 ところが、どうも自分は教師としては不適格だと思い始めたところ、岐阜県に伝統工芸を伝えるための民芸村をつくろうじゃないか、と夢を語る出版社の社長がいて、まあそれはいいわねと共感。そうか、じゃあ、ふじ子さんはそこで織物を担当してくれ、ということになって、26歳で教師を辞め、西陣のつづれ織を学ぶために京都に移ります。ちなみに、その民芸村の構想は途中で挫折して、話はアワと消えちゃいましたが、出版社の経営が立ち行かなくなったその男こそ、ふじ子さんといっしょになる旦那さんです。

 せっかく民芸村のために織物を学んでいたのに、どうしたものかと次の一歩を決めかねますが、ふじ子さん、小説書きませんか、と勧めてきたのがその旦那さんでした。昭和50年/1975年、28歳のときに「石女(うまずめ)」で第24回小説現代新人賞を受賞。作家デビューを果たします。

 それから2年後、夫にいろいろと教えてもらいながら小説を発表しているさなかに一人の子供を授かって、かわいいかわいい女の子が誕生します。瞳子さんです。

 瞳子さんが自分の名前で本を出すのが平成16年/2004年、徳間文庫の『大江戸猫三昧 時代小説傑作選』の選者としてなので、生まれてから30年弱。幼少期、青春期、ものを書き始めるそれまでのあいだ、瞳子さんはどんなふうに生きてきたんでしょうか。

 「直木賞をとるまでの歩み」というのは、直木賞に関するさまざまな記事のなかでも多くの人が興味をもつ人気コンテンツです(……た、たぶん)。本人が自分で語ったり語らされたりする回想も、もちろん大事なんですけど、親が物書きの人の場合は、その親がかつて子供のことを書いたエッセイやらがけっこう残されています。発表された当時は、なにげない身辺雑記だったものでも、のちに直木賞関連資料になったりするのですから油断できません。

 たとえば、ふじ子さんが平成6年/1994年『読売新聞』に連載した「つれづれ草紙」というものがあります。平成7年/1995年に『京都 知の情景』(読売新聞社刊)となり、平成12年/2000年『京都 知恵に生きる』(中公文庫)として刊行されました。

 そこには夫のことや娘さんのことが、ときどき出てくるんですが、こんなイカすエピソードが収められています。

「「小説がちっとも売れない――」

時代が悪い、本を読む人が少なくなったのだと、しきりに嘆いていた十年ほど前、稚拙な文字でわたし宛てに一通の封書がとどいた。

――私は澤田ふじ子さんの小説が大好きです。どんどん小説を読んでいます。もっともっとたくさんいい小説を書いてください。

封書の裏に住所はなく、つくりものめいた名前が書かれていた。

稚拙な文字にはっきり見覚えがあった。

それは娘がわたしの嘆きを心配するあまり、わたしをはげます気で書いた手紙だった。

(引用者中略)

いまでもわたしはこの封書を、〈心の宝石〉のつもりでもっている。」(澤田ふじ子・著『京都 知恵に生きる』所収「離俗の精神――あとがきをかねて――」より)

 ちょっと長めに引用してすみません。こういう思いやりある関係性を家族どうしで築いてきた澤田家の教育は、やはりイカしていると思って紹介してみました。

 その後、娘の瞳子さんはのびやかに成長します。昔の美術史にも異常にくわしい父親と、こつこつと歴史小説を書く母親。そういう家庭環境からおそらく影響を受けて、美術史を専門で学ぶ道に進み、ガチガチの研究者になるかと思いきや、やがて創作を公に発表するようになって小説家としてもデビュー。10年ほど書き続けたところで、令和3年/2021年に直木賞をとるわけです。

 直木賞は一般には「権威」の権化と思われています。エラいもんだとみんなからチヤホヤされ、ゴマすり、追従、いろいろと誘惑の手も伸びてくる……かどうかはワタクシもわからないんですが、いまのところ澤田さんが悪い人たちにそそのかされて、堕落していく気配はないようです。

 ふじ子さんがかつてエッセイに書いた、我が子に対する教育方針の一節に、こんなものがあります。

「私はわが子に、権威に寄り添うな、弱い立場の相手を決していじめてはならないといいきかせ、これまで育ててきた。

自分の強い立場をひけらかすほど、愚かで見苦しいものはないと、私は考えている。」(『潮』平成10年/1998年12月号、澤田ふじ子「へそまがり」より)

 この教えが瞳子さんの心に植えつけられているかぎり、わたしは直木賞をとったんだ、そうじゃない連中は黙ってろ、とふんぞり返る未来は、おそらく今後もこないでしょう。

| | コメント (0)

2024年2月11日 (日)

神崎ヤス(麻雀店女将)。息子が直木賞を受賞した作品名を、店の名前につけて経営する。

 直木賞の歴史はムダに長いです。なので、親にまつわるエピソードもさまざまあります。

 親のことを書いた小説で候補になる(ないしは受賞する)っていうのが、だいたいメインの親バナシなんですが、あとは、直木賞を受賞したときに親御さんが生きていれば、受賞者の親が子供の直木賞についてコメントを発したりする。そういうものが新聞を中心にたくさん残ります。みんな合わせて直木賞を取り巻く一大文献です。

 と、そういうなかで、この人の親はなかなか珍しいな、と思うのが神崎武雄さんのお母さんです。長谷川伸門下の新鷹会のことを調べていると、ときどき目にします。

 神崎さんのことは、4~5年まえに一回うちのブログでも取り上げました。そのときに触れたかどうか忘れちゃいましたが、神崎さんという人は直木賞の歴史でも一番の記録を持っている重要な人です。最も若くして亡くなった直木賞受賞者。それが神崎さんだからです。

 ここで一つ触れておくと、「最年少」といえば直木賞では堤千代さんの名前は外せません。公式の記録では大正6年/1917年生まれ、昭和30年/1955年没、享年38……のはずなんですが、ワタクシの調べたところ、年齢のサバを読んでいたことはまず疑いがなく、亡くなったのはおそらく40歳を過ぎてからです。対して神崎さんは明治39年/1906年生まれ、昭和19年/1944年没。享年38。直木賞受賞者として太平洋戦争の犠牲になったただ一人の作家でもあります。

 本人が若くして亡くなった。ということはどういうことでしょう。その親がその後長く存命だった可能性が高くなるわけで、神崎さんの場合も例にもれません。母親が亡くなったのは昭和44年/1969年ごろです。つまり子供より25年ほどこの世に生きていたことになります。

 神崎ヤス。「靖子」と表記することもあるようです。明治22年/1889年頃、兵庫県淡路島の南にある沼島の生まれ。やがて両親たちに連れられて、ヤスさんを含めたきょうだい6人も大阪に移り住みますが、生活は窮乏の一途をたどります。そんななかでもヤスさん踊りや三味線を習いはじめて芸事の楽しみに目覚めます。親戚から声がかかって、博多のほうへ芸者になるための修業に出向いたところ、いったいどうした縁なのか、小倉で弁護士をやっている男と知り合って、一人の生命を孕みます。生まれてきたのが武雄さん。ヤスさん17歳のときでした。

 ちなみにヤスさんに子ダネを残したその弁護士は、武雄さんの実の父親に当たるわけですが、のちのち判事になって千葉へ行った、ということのほか、詳細はわかりません(『真世界』昭和33年/1958年8月号、星野武男「母は生きている」)。ヤスさんは門司で芸者を勤めることになり、息子の武雄さんは、ふるさと沼島に居をもった祖母の〈かん〉さんのもとで育てられます。

 やがてヤスさんは、新派の俳優だった後藤良介さんと結婚したのを機に、11歳になった武雄さんを呼び寄せて、家族3人で暮らし始めますが、後藤さんが鉛毒のせいで脳をやられ、大正9年/1920年に病没してしまいます。大正11年/1920年には母の〈かん〉さんも喪うという不幸が続き、ええい、こうなりゃ女手ひとつでやっていくしかないよ、とヤスさんは腹をくくって昭和のはじめに、門司で「竹の家」という料亭を開店させ、人生の荒波に立ち向かいます。

 そのとき精神的な支えになったのが国柱会の教えだった。……ということで、神崎家では〈かん〉さんの代から、この仏教団体の強烈な信者で、ヤスさんも、息子の武雄さんも、みんなそろって日蓮聖人ラブな人たちでした。こうしてしがない直木賞オタクが、〈神崎武雄の母親〉なんちゅう、ほとんどの人が興味をもたない人物の生涯を追っていけるのも、国柱会の雑誌『真世界』にその来歴が書き残されているからです。ありがとう国柱会。

 息子の武雄さんは優秀な生徒として、また祖母・母ゆずりの熱心な国柱会会員としてすくすくと成長しました。早稲田文科の学生だったときに、日蓮主義の田中澤二さんの講演で、立憲養生論をきいて感銘をうけ、早稲田をやめて奈良晋蔵さんとともにハルピンにロシヤ語の留学生として渡ります。そのうち、ううむやっぱり俺は政治家より文学の道が向いていそうだ、と決心して、新派の瀬戸英一さんの門を叩き、それから『都新聞』に勤めたりしながら小説修業に励んでいるうちに、昭和18年/1943年2月、第16回(昭和17年/1942年・下半期)直木賞を受賞しました。

 そのおかげで武雄さんはちょっとした文士扱いされる立場になり、海軍の報道班員を拝命して南洋へ。そしてそこで命を落とした、といったようなことは、先のブログ記事に書いたとおりです。ここでは省きます。

 母親のヤスさんが、直木賞と接点を持った、といえるのは、武雄さんが亡くなったあとのことです。

 武雄さんと、妻の愛子(よしこ)さんも戦中に亡くなって、残された子供が5人。その苦境を見るに見かねた新鷹会の長谷川伸さんや村上元三さんが、相当骨を折って、ヤスさんの働き口として、東京・京橋の西八丁堀に麻雀荘を開くことになりました。店の名前が「寛容クラブ」。武雄さんが直木賞を受賞した作品名からとったわけです。

 新鷹会の会員、山岡荘八さんも、句会の報告記でこう書いています。

「こゝ数年ずつとこの会の会場になつてゐる寛容クラブは、われ等の親友、故神崎武雄君の母堂の家である。

寛容クラブの「寛容」は、故人が直木賞をとつたときの作品名、それをそのまゝクラブの名にした徂春師の命名揮毫はいまも部屋にのこつてゐる。(引用者中略)

神崎君が戦死する少し前に、彼の夫人も産後の患ひで亡くなつて、おさない孫に取りまかれ、空襲下の東京に茫然と取残された当時の母堂の姿は、思ひ出すと今も胸がつまつて来る。」(『ゆく春』昭和28年/1953年11月号、山岡荘八「山の会漫語」より)

 山岡さんも「われ等の親友」と言っていますが、村上元三さんも「親友」といった表現を使っていました。神崎さん、ずいぶん新鷹会では愛された人だったようです。明日をも知れぬヤスさんと5人の孫が、どうにか生き延びた一つの背景に、武雄さんと新鷹会の深い結びつきがあったのは、まず間違いありません。

 その後、ヤスさんは国柱会の三田三郎さんに世話されて、昭和29年/1954年には料亭「芙蓉」を任されるようになり、昭和32年/1957年にはついに独立して人形町に北京料理「神崎」を開店。というふうに、直木賞からは離れていったので、もはやうちのブログで触れるような直木賞との関わりはありません。

 気にかかるのは、ただ一つです。室積徂春さんが揮毫したという「寛容」の文字の入った看板は、その後どうなったんでしょうか。直木賞の歴史にひっそり現れた、しかし人と人との縁を感じさせる貴重な歴史遺産だと思うんですけど、まあ、どこにも残っていないでしょうね。この目で見ることができないのが残念です。

| | コメント (0)

2024年2月 4日 (日)

松井新七(割烹料理店主)。京都祇園に店を出し、40数年後、その店で娘の直木賞受賞を知る。

 小説にはいろんなジャンルがあります。いろんなことが書いてあります。それでも直木賞の受賞作や候補作を読んでいると、何だかこんなハナシが多いな、と感じる系譜めいた流れがあります。たとえば、芸能人・芸術家を描いた小説です。

 まあ、第1回(昭和10年/1935年・上半期)の川口松太郎さんからして、受賞作のひとつ「鶴八鶴次郎」は芸に生きる男女のおハナシです。直木賞はもともとそういう賞ともいえますし、いや、日本の小説史(大衆文芸史)は、芸ゴトを描く作品によって支えられてきた、と断言しちゃってもいいんでしょう。

 摂津茂和「ローマ日本晴」、玉川一郎「人情サキソフォン」、瀧川駿「小堀遠州」、小泉譲「君が火の鳥」、長谷川幸延「桂春団治」、有吉佐和子「白い扇」、山崎豊子『花のれん』、戸板康二「團十郎切腹事件」、夏目千代「絃(いと)」、安藤鶴夫『巷談本牧亭』、田中穣『藤田嗣治』、三樹青生「終曲」、井上ひさし「手鎖心中」、長部日出雄「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」、藤本義一「鬼の詩」、井出孫六『アトラス伝説』、赤江瀑「金環食の影飾り」、宮尾登美子『一絃の琴』、中山千夏「子役の時間」、つかこうへい『蒲田行進曲』、加堂秀三『舞台女優』、高橋治『絢爛たる影絵』、難波利三『てんのじ村』、もりたなるお「画壇の月」、阿久悠「喝采」「隣のギャグはよく客食うギャグだ」、杉本章子『東京新大橋雨中図』、星川清司「小伝抄」、古川薫『漂泊者のアリア』、内海隆一郎『百面相』、なかにし礼『兄弟』、原田マハ『楽園のカンヴァス』『ジヴェルニーの食卓』『暗幕のゲルニカ』『美しき愚かものたちのタブロー』、安部龍太郎『等伯』、澤田瞳子『若冲』『星落ちて、なお』、藤崎彩織『ふたご』、大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』、永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』……。

 これで全部かどうかもよくわかりませんが、ともかく昔からいままで、よりどりみどり。今後も芸ゴト小説は、直木賞の柱として、この賞をどんどん賑わせてくれるはずです。

 とか言いながら、上記のリストをつくるときに(わざと)大切な作家を書き落としておきました。松井今朝子さんです。

 幼い頃から小説を書くようになるまで、バリバリの歌舞伎ダイスキっ子。小説を書き始めて、直木賞の候補にあがった『非道、行ずべからず』(第127回・平成14年/2002年上半期)、『似せ者』(第128回・平成14年/2002年下半期)、『吉原手引草』(第137回・平成19年/2007年上半期)とも、もう江戸時代の芝居や役者が当たり前のように登場する芸ゴト小説です。

 いったいどんな家庭環境で育つと、それほど歌舞伎にハマって、直木賞候補に上がるまでになれるのか。……受賞当時、いろいろとそんな記事が出ましたが、いちおう「直木賞と親のこと」という観点で、そこら辺をおさらいしておきたいと思います。

 松井今朝子さんが生まれたのは京都市、四条大橋そばの日本料理店。お父さんは、その世界では相当名の知られた名物料理人でした。

 松井新七。大正15年/1926年2月4日生まれ。実家は京都・聖護院の近くで古くから料亭「森桝楼」を営んでいた村井さんです。なので新七さんは、生まれたときは〈村井英夫〉さんだったわけですが、それが松井新七となるまでには、それはもう、丁寧に説明されてもよくわからないような複雑な(というほどでもないか)料亭界の事情があったらしいです。

 それについては、今朝子さんも『師父の遺言』(平成26年/2014年3月・NHK出版刊)のはじめのほうで、詳しく書いてくれています。また、早瀬圭一さんの『奇人変人 料理人列伝』(平成22年/2010年5月・文藝春秋刊)でも一章を割かれ、新七さんご自身が語ったその来歴が紹介されています。それらをまとめて以下、書いてみますが、間違っていたらすみません。

 村井家に生まれた英夫さんは、地元の桃山中学を出て立命館大学理工学部に進学します。しかし、時はちょうど日本の戦局がメタメタに激しくなる時代。理学系の学生ということで、英夫さんが戦地に行かされることはなかったそうですが、国内で窮乏の生活を強いられ、やがて終戦を迎えます。

 戦後、大学に復学すると文学部に転じたそうです。そこで同人誌『楽久我記』というのをつくり、英夫さんもいくつか作品を発表したと言います。将来おれも作家か何かになりたいぜ、と夢を持っていたのかどうか、定かではありませんが、料理人の子は料理人。20歳なかばのときに、同じ市内で料亭「千本(ちもと)」をしていた松井家から、おたくの息子さん、養子にもらえませんか、と村井家に打診があり、それを承諾して英夫さんは松井家に入りました。

 どうして松井家が村井家にハナシを持ってきたかというと、そもそも「千本」をやっていた松井新七(初代)さんの三男が、「森桝楼」の村井家に養子に入り、そこで生まれた二番目の男の子が英夫さんだった、という経緯があったからです。それで今度は逆に、村井家から松井家に養子に入ることになった、という。なかなか一般家庭にはなじみの薄い世界です。

 養子に入るに当たって、だれかと結婚して夫婦で松井家に入ってほしい、と要望があり、英夫さんは大阪の老舗旅館「大野屋」の今井信子さんと見合いして、昭和26年/1951年にゴールイン。晴れて二人で「千本」に入ります。

 ところが、そのまま「千本」を継ぐかと思いきや、親父さんに当たる松井新七(二代)さんが、妙に二人によそよそしくなってしまいます。どうやら二代目には外の女性に生ませた子供がいるらしく、せっかく養子に入った新七・信子さんペアは居場所がない。昭和28年/1953年には可愛い娘(今朝子さん)も生まれていましたが、ええい、もうこんなところ飛び出して、自分たちで一から店をやろうぜ・やりましょう、と手に手を取り合って、屋台のおでん屋を始めます。これが新七さん30歳のときでした。一大決心です。

 屋台での商売は順調にお客さんも付き、やがて店を借り、昭和35年/1960年には京都・祇園に割烹「川上」をオープンさせます。

 土地柄、その辺りは芝居や芸能の香りも漂い、近くには「南座」もあります。今朝子さんも両親に連れられて、小学生のころから芝居を観にいくようになり、とくに中村歌右衛門の歌舞伎に出会って、ぞっこんハートマーク。今朝子さんの歌舞伎ラブの人生がそこから始まりました。

 ちなみに平成29年/2007年、父の新七さんは80歳を越してなおも元気いっぱい。直木賞をとった人の父親であり、京都で有名な(?)料理人として、喜びの声を多くの新聞に寄せています。

 そのうち『京都新聞』の記事を引いてみます。

「松井今朝子さんの実家は、祇園(京都市東山区)の京料理店。祇園祭・神幸祭の十七日夜、店内で娘の受賞を聞いた父の新七さん(八一)は、知人や常連客から次々と祝福の電話を受けながら「ほんまにうれしい。三度目の正直ですわ」と喜んだ。

(引用者中略)

一番の今朝子ファンを自認し、作品をすべて読んでいるという新七さん。受賞作については「今までと違い、いろんな人が語る面白い書き方やった。言葉もいいし、そのまま芝居のセリフに使える」と熱い口調で語った。」(『京都新聞』平成19年/2007年7月18日「「三度目の正直ですわ」 松井さん 直木賞受賞 祇園 京料理店主の父に朗報」より)

 親バカ爆発、といった感じです。

 しかし、その日の夜もきちんと店に立ち、娘の受賞の報も自分の店で聞いた、というのがいいじゃないですか。今朝子さんの歌舞伎熱も、ひいては直木賞受賞も、すべては新七さんと信子さんが祇園に店を持ったことから始まった、と言ってもいいからです。

 それからもしばらくは、新七さんは「川上」の顔として腕をふるいましたが、平成21年/2009年に現役を退き、そして令和3年/2021年5月13日、95歳で没しました。戒名は、早瀬圭一さんが『奇人変人 料理人列伝』を書いた平成22年/2010年の段階で、すでに友人の僧侶に頼んで決めてあったそうで、たぶんそれが付けられたんだと思います。

| | コメント (0)

« 2024年1月 | トップページ | 2024年3月 »